情報公開3(千葉県での人権擁護大会)

要綱を見るとオリンピック組織委員会ではなく「独立行政法人 日本スポーツ振興センター」となっていて、平成24年8月と言えば民主党政権時代であったことが分ります。
安倍政権はその年の暮れの総選挙からです。
国立競技場の工事費の不手際やデザイン問題へとこれだけ国際的な恥かきに発展する大問題になっているにも拘らず、野党の追及(普通は野党得意の「税金の無駄遣い」と言う大合唱があってしかるべきですが・・)が一切ないのが不思議だなと思っていましたが、コンペの条件設計と審査決定は民主党政権によるものだったことによるのかも知れません。
ザルみたいにお金を使う民主党政権時代のやり方を改めるために、自民党政権になってから元財務省次官の武藤氏が送り込まれたとすれば辻褄が合います。
どんな能吏を任用しても、元々がザルの決め方(契約条件に縛られるので)であればどうにもなりませんから、政権内で検討の結果世論に訴えるしかないとなって、意図的に内情をリークしたのかも知れません。
民主党政権で無責任に決めた契約をひっくり返すために革命的・超法規的世論喚起が必要であったと言うことでしょうか?
自民党政権はこれは民主党政権が決めたやり方だったと言う言い訳を一切していませんが、ガーガーと相手を批判しないでじんわり効果を狙うのが我が国宣伝方法です。
これだけの大問題・・不手際・国際的にも大恥をかく自体にに対して野党やマスコミが当初安倍意見の失策を見つけたと勢い込んでマスコミが報道しかけたのに、その後が何故か続かなくなって直ぐ時引っ込めてしまったのは、こう言う背景があったようです。
森元総理や武藤氏は最近就任したばかりで、今回の騒動の基礎は民主党政権時代にあって、当時のお膳立てのデタラメさが今になって実害を表して来たようです。
オリンピック国立競技場新設問題の超小型版ですが、千葉の弁護士会では今年の10月1〜2日に開催する日弁連人権大会を数年前に千葉県で引き受けて、そのころから準備を進めています。
日弁連主宰の各種大会や出張委員会は日弁連主宰なので、一定額資金が日弁連から出るものの、それ以上の費用は地元の創意工夫によることから、地元負担と言う慣例です。
この地元負担部分について担当会としての予算(政府同様に単年度会計主義のため、オリンピック同様数年前の受諾段階で正式予算に上がることはありませんが、正式には予定額)を決めないで動いていたらしく、今年度の予算に正式計上する段階になって国立競技場を小型にしたような問題が会員からの問題提起で明らかになりました。
ちなみに国家予算同様に弁護士会予算も正式予算は単年度主義の結果、人権大会は今年秋ですので、印刷その他各種実際の出費は今年の夏ころから始まるので、今年度予算として5月総会で決まる仕組みです。
5月総会に出すべき予算案が事実上確定する段階で、予算枠を数年前に事実上決めないで「これが必要だから・・」と言う項目別に積み上げて行ってホテルなどドンドン予約していた結果、今年始めころになって日弁連から来る予算が少な過ぎる(・・・毎年やっていることですから、日弁連が負担する一定の相場は予め決まっていることです)・・ホテル等の支払額に大幅に足りない→地元千葉県負担分を今年の5月総会に予算計上したことから問題が明るみに出たようです。
今更準備が進んでしまっているし・・と言うことで、問題提起があったものの、今年度予算に必要経費を計上していたのが総会で承認されて決着になっています。
国立競技場の失態が民主党政権の失態によるのと同様で、千葉県も今年度執行部の責任と言うよりは前年度、前々年度執行部が必要費の大枠を決めていなかったことが原因ですから現執行部が責任をとりようもない問題です。
千葉県弁護士会は、まだ顔の見える団体ですので問題提起だけでこれと言った議論もなくウヤムヤに終わっていますが、多分今回の教訓によって、今後大事業を行なうにはどの程度の資金が必要かのおおよその必要額を公開してから、その事業を引き受けるか、引き受けるとしてどの程度の額まで地元負担で(より豪華に?)やるかなどを予め決めて行くことになるでしょう。
今までは自分達の決めた代表なのだから、ある程度まではお任せ気分で総てまにあって来たのですが、今後会員数が増えて行くのでそうは行かなくなる時代が始まっているのでしょう。
オリンピックであれ、人権大会であれ、地元で事業を引き受けるにあたっては、本部から交付金に加える地元負担の予算枠を先に決め、各分野ごとに予算を割り振ってその枠内の計画書を出して下さいと言うように行動して行くのが合理的だと言う教訓になったと思います・・。
そのときには、4〜5ヶ月後により規模の大きなオリンピック工事費問題田舎の顔見知り同士でまあまあで運営している弁護士会みたいなことが起きているとは夢にも思っていませんでしたが、実はその大分前から内部では収拾のつかない問題に直面していたことが今になると分ります。

近代法理の変容8(社会防衛と人権擁護2)

浅野内匠頭の殿中での刃傷行為が仮に乱心した結果とされていても、それは故意にルール破った=幕府の掟破りをしたのではない・・その結果、お家取りつぶしを免れる可能性があると言うだけで、個人責任を全く取らないことまでは予定されていません。
この点は私の推測ですので、タマタマ自宅にある牧英正・藤原明久編著「日本法制史」227pを見てみると、公事方御定書では乱心の場合も殺人は死刑が原則ですが、被害者の宥免願いが考慮され(今でいう示談解決)、また連座・縁坐責任が免除されると書いてあります。
浅野内匠頭でいえば、犯人である彼自身が処刑(切腹を命じ)されても連座・縁坐・・累が及ばない可能性があったと言うことです。
意思能力のないものは責任能力がないから犯罪不成立と言う観念的なルール・・西欧で半可通的に発達した近代刑法の「理念」に従うと行為者も誰も責任を取らなくて良いことになって不都合ですから、我が国の江戸時代に成立していた刑事法制の方が合理的でした。
明治以降西欧の近代?法原理を導入した結果、俗にいう気違い・狂人・意思能力のない場合、すべて無罪放免→誰も責任を取らないで放置して来たのですが、これでは社会の安全が保てません。
政治責任者は相手・原因者が、悪意でやったか・気違いだったかは別として兎も角、(意思に関係のない天災であれ何であれ、)一定の被害から社会を守る必要があります。
為政者にとって、意思に基づくか天災によるかに関わらず結果としての国民の安全確保が最重要課題です。
マスコミ・文化人は、西洋伝来の意思主義にこだわるから、天災が起きてもこれに今後どのように対応するかの議論よりは、何でも人災に結びつけ・責任者探しに走りたがります。
個人責任主義の思想に毒されているので、何でも誰か個人の責任にしないと前に進まないと思っているのです。
日本政府・民族の分裂弱体化を狙うアメリカの置き土産に合致し、その後を狙う中韓両国の思惑に合致するからでしょう。
近代法の仕組みも同じで、何かあると無理に意思責任主義にこじつけるために雇用主や上司の監督責任にしていますが、(未成年者の起こした不法行為事件について親の責任を問うために、判例も親の監督責任を(擬制)認定していますが、実はその基準は恣意的です・・夜遊びを知らなかったと言っては親の監督責任を問い、知っていて何度も注意しても聞かないので困っていたと言うと、知っていながら注意するばかりでそれ以上何もしないで放置していた責任を問うなど、不良息子が外で何かした場合、親が結果的になんやかやと責任を問われる印象です。
責任感のある親の方が、こんな息子では知らない都会に追い出すと(そこで何をしても離れたところにいる親には責任がなく)やって行けなくなって世間に迷惑をかけるのではないかと心配して手元に置くと、却って監督責任を問われてしまうしくみです。
秋葉原事件で言えばもしも親と同居していれば、親は大変な社会非難を受けたでしょう・・どちらが良いか分りませんが、この大きな違いは個人の意思責任に還元して監督責任と言うフィクションを用いているところによると思われます。
こんな無茶苦茶なこじつけ裁判結果・・兎も角親に責任を問う結果になっても親が不服を言わないのは、監督責任と言う意思主義以前に「子供の行為は、親が責任を取るべき」と言う国民精神・・意思責任ではないと言う暗黙の合意があるからです。
交通事故があると、運転手のハンドル操作のミスや子供の飛び出しに気づくのが遅かったことに会社・経営者がどう言う監督責任があるか意味不明です・・。
裁判では、充分な教育が足りなかったと言うフィクションや、・・飲酒運転事件では、運転開始時のチェック体制が緩かったとか・・何でも責任を負わせる理由は付けられます。
このように何でも個人意思に責任を求める考え方や論理が、素朴な国民感情に合致していない・・あちこちで無理が来ています。
西洋近代の誤った個人の意思責任論にこだわる結果、交通事故が起きたり子供がいじめっ子になったりすると会社や親の監督責任と言う図式を作り上げてフィクション化しているのですが、国民はこのフィクション自体を納得して受入れているのではなく、古来からの団体責任思想を受入れているので、その基準をはみ出していない限り不満を言わない・・別の日本の法理で納得していることになります。

証拠法則と科学技術5(自白重視5)

実際には、人は弱い者で、いろんな状況下で刑事に迎合してやってもいないことを言えば、刑が軽くなるかと思ったりして妥協してしまう傾向があります。
平成26年12月6日の日経朝刊第一面の春秋欄には、この機微を書いています。
曰く、江戸時代、辣腕の吟味与力がある日、自分の下男に言いがかりで罪をなすり付けて試してみたところ、下男は最初否認していたがその内に罪を認めてしまったのにショックを受けて、辞職し隠居したと言う話が書かれています。
(国立公文書館で開催中の「罪と罰展」で「知った」と書いていますが、何を読んだのか出典を書いていないので、どう言う公式記録にあったのか、誰かのフィクション・・解説だったのか明らかではありません。)
良く知られているところでは、痴漢疑いで逮捕されたサラリーマンが半年近く拘束されて裁判で争っていると会社に知られてクビになってしまうことから、認めれば罰金程度ですぐに出られると言われると刑事に迎合して認めてしまうリスクがあります。
多くのえん罪事件は「素直に認めれば大した結果にならないから・・」と言う刑事の誘導に負けてしまい、やってもいない自白(刑事の描くストーリーにあわせて述べる・・自白をしてしまうことが圧倒的に多いのです。
補強証拠さえあれば良いと言う近代法の証拠法則では、この種のえん罪を防げません。
歴史と同様に事実はいろんな矛盾証拠(事実)その他で成り立っていますから、論者に都合の良い事実だけ拾い出せば一応一貫した筋立てにあう証拠もそろっています。
刑事の想定するスジ建てにあう事実・証拠だけ開示し提出すれば、矛盾はなくなりますし、裁判所は「自白が一貫していて補強証拠とも合うし自白が信用出来るとなってしまいます。
問題は大阪地検の証拠改ざん事件は、矛盾・両立しない証拠があったことから、検事がデータを改ざんしたい誘惑に駆られた結果の事件です。
パソコンなどを駆使した事件の場合、自分の作った物ですから、ここにこう言う記録をしてあった筈などと覚えています・・これが検事による改ざんがバレる原因となり、検事の命取りになりました。
従来型型実務では、矛盾証拠が滅多にある訳がありません。
満員電車内での痴漢事件のように、被害者の背後にいた5〜6人が全員痴漢する可能性があって、誰もが矛盾証拠を出せない場合が殆どです。
ところが残り全員がその場を離れていて最早特定出来ない状態で、タマタマ一人だけ標的にされてアリバイや絶対出来なかった位置関係など矛盾証拠を出せと言われても偶然背が高過ぎたり・・右手不自由だったりなどの特殊事情がない限り・・中肉中背の平均的な人の場合、反論しようがないのが普通です。
こう言う場合、裁判所は補強証拠がないと言うのではなく、(被害者が「この人に違いない」と断言する程度で?)被害者があえて噓を言う必要性がないなどと言う変な論理で有罪と認めてしまうのですから怖いものです。
こう言う運用が「やっていなくとも早く認めて罰金にして貰おう」とする自白者が輩出する土壌です。
話を戻しますと、数年前に発生した大阪地検特捜部の記録改ざん事件以来、捜査手続改革に関して流行になっている取り調べ可視化問題は、証拠としての自白の重要性を前提に自白取得過程を録音録画しよう(「しゃべらないといつまでも出られないようにしてやるからな!」とかの脅しや拷問がなかった証拠のために)と言うだけです。
全面可視化は望ましい事は確かですが、何人もの刑事が交代で調べた延べ何百時間に及ぶ取り調べ過程全般を仮に録画しているとした場合、その同じ時間弁護士は録画をチェックしなければならない、1回見るだけでも取り調べに要したのと同じ時間かかります。
ビデオ録画は書物のように斜め読みのように早送りしていたのでは、ビデオが警察に都合良く編集しているのかどうかを見破ることは出来ません。
まして気になるところを巻き戻して(他の供述や帳簿等と付き合わせてみるには)何回も見直したりすれば、取り調べ時間の何倍も時間を取られます。
録画を見たり聞いたするのが、弁護業務の全てではなく、その他膨大な資料の読み込み証拠のチェックや面会に行っての打ち合わせ時間などを考えれば、天文学的時間を要することになります。

近代法理の変容1

日弁連や専門家の共謀罪反対論は、国際条約の決め方・議論経過にどう言う問題があったかすら明らかにしないで、(私の理解不足もあるでしょうが・・)理由もなく(近代刑法に反すると言っていますが、これまで書いているように合理的な理由になっていません)実行阻止の主張をしているだけのように見えます。
近代刑法の理念と言っても、国民の利益のために理念が決まって来たのですから中2階の概念を振り回すよりは、共謀罪新設が国民にどう言う利害があるのかを具体的に分析解説して行く方が合理的です。
近代刑法の理念と言う中2階の概念を振り回しているだけでは、素人は何も分らなくて良いから「・・専門家の言うことを信用して!」と言うスタンスに帰するようです。
高度な医療でさえ、インフォームドコンセントが重要と言われているように、今では、「あなたは無知蒙昧だから分らなくていいのだよ・・・・」と言われて、専門家の言うとおりで満足している国民は少ないのではないでしょうか?
医療の場合、いろいろ説明されてから、「よく分らないのでお任せしますのでよろしくお願いします」と言うのが普通ですが、だから何の説明もいらない・・無駄と言う解釈は社会的に容認されていません。
「近代刑法の精神違反」と言う抽象論だけでは今や何も解決出来ない時代・・具体的な効果分析が重要なことを、10月20〜21日ころから書いてきました。
それだけではなく、近代法の理念・・抽象論自体も20世紀に入ってから大幅に変容されて来ています。
たとえば、近代精神は自由な意思活動とそのもたらした結果に責任を負う・・法律効果が生じる意思責任主義が基本です。
近代法理の権化であるナポレオン法典の系譜を引く我が国の民法では、意思表示を法律行為と言い、意思表示に法律効果が生じる原理を採用しています。

民法

(任意規定と異なる意思表示)
第九十一条  法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。

上記のように意思責任主義を原則にして、意思表示すれば法律効果がそのまま生じる仕組みです。
難しい言葉を日常用語・・卑近な例で言えば、1個100円で売っているパンを見て、「このパンを下さい」と意思表示すれば100円でそのパンを買う意思表示したことになり、そのとおりの法律効果が生じる・・パンを受け取れる代わりに100円支払う法律義務が生じると言う意味です。
充分な意思能力のない未成年者や被後見人等が自由に意思表示すると貴重な財産を安売りしてしまうかもしれないので、資産保全のために、一律に法律行為無能力者として法定代理人が代わって意思表示する制度設計になっています。
未成年者・子供が家屋敷を売る契約をしても法定代理人がこれを取り消せることになっています。
 民法
 第二節 行為能力

(成年)
第四条  年齢二十歳をもって、成年とする。
(未成年者の法律行為)
第五条  未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない。
2  前項の規定に反する法律行為は、取り消すことができる。
3  第一項の規定にかかわらず、法定代理人が目的を定めて処分を許した財産は、その目的の範囲内において、未成年者が自由に処分することができる。目的を定めないで処分を許した財産を処分するときも、同様とする。

 社会防衛と人権擁護1

オレオレ詐欺等では、預金払い戻しの時間場所が払い戻し機のデータで特定されるようになっていて、しかも、その時間帯の現場写真があって犯人割り出しに威力を発揮しています。
モノゴトは社会の安全装置としての役割とプライバシー侵害との兼ね合いでしょうし、公道や大規模商店内での写真撮影から守られねばならないプライバシー性はそんなに高いとは思えません。
立ち小便しているのを写されるのが恥ずかしいと言うような人・・あるいは何か後ろめたいことをしている人の秘密を保護するために防犯・社会の安全と引き換えにするべき議論でしょうか?
防犯カメラ反対論者は、誰のどう言うグループの利益を求めて反対運動しているのでしょうか?
「近代刑法の精神」はまさに19世紀=「近代の精神」であって、20〜21世紀に生きる現在の精神ではありません。
現在には近代とは違う現在の精神が生まれていることを知らない訳がない筈ですが、その説明が必要でしょう。
現在進行中の民法改正の方向性では、過失責任主義から行為時の標準取引基準に変容する予定になっています。
即ち意思責任主義が変容しつつあって民法もこれにあわせて改正しようとする動きになっています。
これは法律が変わることによって社会意識が変わるのではなく、社会意識変化にあわせて法も変わって行くべきことを表しています。
例えば医療事故で言えば、当時の医学水準でどうだったかが問われるのが前世紀以来・・普通になっていte,
担当医の内心を探求して過失や故意を議論しても始まりません・・。」
民法改正の動きはこうした前聖域以来の実態追認のための改正でしかありません。
刑法分野でも重大結果を引き起こしたのに意思責任を問えない場合でも、結果が重大な事件に限って医療観察法が制定されていることは09/08/06「保安処分13と心神喪失者等医療観察法8(入院通プログラムの重要性)」等で連載して紹介しました。
この法律によって医療とは言うものの、行為者・危険な人に対する事実上の社会隔離が進んでいます。
この医療観察法による強制医療は医療とは言うものの、重大結果に限るところが、結果責任を問うような仕組みになっていることや再犯の恐れの条項もあるので、本質的に医療と相容れないと言う批判・・、弁護士会や法学者からこの法律制定時に(・・近代刑法の確立した原理に反すると言う)厳しい批判が出ていました。
当時医療観察法は社会防衛思想・保安処分の焼き直しだと言う批判だったと思いますし、私も同じ懸念を持っていましたが、いま考えると社会防衛思想の行き過ぎで人権侵害になるかどうかこそが問題であって、人権侵害にさえならなければ良いのであって、その兼ね合いを考えながらの社会防衛自体は必要です。
車は危険ですが、ブレーキ等安全装置や運転の仕方次第で有用な道具になっているのと同じです。
殺人事件を次々と起こしても精神疾患等で行為時に意思能力がない以上は無罪だからとして、その都度釈放・・野放しで良いのか?と言う社会の現実がありました。
犬は人間同様の能力がないから咬んでも仕方がないと言わないで、かまないように放し飼いにしないとか相応のルールが生まれています。
意思責任主義を近代法の基本と言う意見が多いですが、我が国では忠臣蔵で有名な浅野内匠頭による松の廊下の刃傷事件が元禄14年3月14日(1701年4月21日)ですから、フランス革命よりも約100年近く前でも、取り調べに際して「乱心致したのだな!」と助けるために問いただす場面が有名です。
吉祥寺の放火事件・・八百屋お七の場面も同じです。
ただし我が国では以前から繰り返し書いているように、庶民の実情からいろんな制度が発達していて、西欧のようにローマペルシャから輸入した観念論から発達したものではありません。

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