投資効率2(量から質へ)

そば屋その他個人事業主で言えば、儲かった資金で支店を次々と出していると更に総売上が増えますがその段階を過ぎると、そろそろ自宅を綺麗に建て替える、建て替えたら内装を綺麗にし、(妻や娘に着物を買ってやる)美術品を楽しむなどの需要中心に変わって行きます。
「衣食足りて礼節を知る」と昔から言いますが、経済収入が一定水準に達すると礼節・文化度の向上に向かうのが普通の人間です。
最初は1週間に1回しか酒場で飲めなかった人が数日に1回、2日に1回と回数が増える段階があっても、そのまま続けて行く人は滅多にいなくて、その内もう少し高級なところへ飲みに行く、あるいは飲むことを卒業してもう少しレベルの高い消費に転換して行くものです。
消費の内容が高級化して行く方へ投資・支出が向かう時代になると、投資が投資を呼ぶような拡大再生産を余り期待で来ません。
インフラが充実した後でも既存施設の維持管理工事・橋梁の架け替え工事などの公共工事がこれからもありますが、これらも新たな道や橋を作るのと違って、産業効率が向上することはありません。(効率低下を防ぐ後ろ向き投資です)
エコノミスト(コンクリートから人へ)は我が国が過ぎ去った時代に必要としていた基準で投資効率が悪いと評論していることになります。
民主党は民生充実こそ党是である以上、投資効率を言うならば、民生向上に資する効果があったか否かの判定こそが重要ですから、評価の基準を変更すべきです。
ところが民主党は経済学者・公共政策学者等の時代遅れの論理を鵜呑みにして公共工事は投資効率が悪いと主張して事業仕分けを実施しています。
自民党と同じ価値基準で政治をするなら、経験がないだけ政治手法がお粗末なだけですから、政権交代の意味がありません。
いつも書きますが秀才(学者)の陥り易い罠で 何十年前に学校で習った既存基準(価値基準)で判断するから、却って世界最先端で進んでいる我が国実務から言えば、数十年遅れの意見を述べていることになります。
国民個人はこれ以上の儲け・量の拡大を求める方向から、生活水準向上・精神性の高さに向かっているので、量的拡大を基準とする国民総生産伸び率が下がるのは当然です。
精神文化、・・江戸時代で言えば、俳句その他の文芸が発達しましたが、それが国内総生産を引き上げる効果が殆どなかったでしょう。
国内総生産はそれほど伸びなくとも、我が国ではGDPに占める家計消費比率が次第に大きくなっていることは顕著ですし、その分国民が豊かな生活を出来るようになっています。
GDPという量重視の指標は新興国向け、あるいやいくら豊かになってもよりうまいものの味が分らないアングロサクソン向け指標に過ぎません。
ところで個人生活が如何に豊かになっても、個人で使うのは自宅改修や個人個人がオシャレしたり美術館巡りや文芸/精神文化のレベルアップを楽しむくらいが関の山です。
道路や駅前を綺麗にし、美術館、公園を整備するなどのインフラ(ハード)分のコストまで個人で負担する人は滅多にいません。
東京の庭園巡りをすると三菱創始者の岩崎弥太郎邸の跡や旧財閥系屋敷、庭園が散在するのですが、今では個人が公園を寄付することはあり得ないでしょう。
今は財閥がないので、一人からのまとまった寄付に頼れないのですが、一口馬主あるいは小分けした株式の集合の結果、巨額資金導入を図るのと同様に、国債は一口寄付の一変容(大勢から少しずつ集めて大きな資金にする)としてみることが可能です。
こうしたインフラ整備資金は今では大口寄付に頼れないので、広く薄く集める税金か国債でやるしかないのですが、(産業効率化投資のように目に見えるものではないので)増税が難しいので、国債に頼って来たのが現在の財政赤字累積問題になっているのです。
生活水準向上のために都市部の各種都市改造だけではなく地方においても立派な公民館等の建設、山奥の僻地まで道路を綺麗に舗装して快適なドライブが出来るようにして来たのですが、それでも使い切れなかった余った分について年間約20兆円も国際収支の黒字が続いていたことになります。
黒字の期間が長いので蓄積が巨大ですが、これを(法人で言えば本社社屋の建て替え・工場を綺麗なものに改良)自宅改装等をしても使い切れないので、余った資金(国際収支黒字分)は銀行預金等金融資産を積み上げて行くばかりでした。
余剰資金・・年間約20兆円を使い切れなくて預金が積み上がっている・・多くの人が使い切れない状態ですから、この状態でいくら金利を下げても健全な借り手がいないのが普通です。
国全体が資金不足の時代・・高度成長期には能力があっても資金不足の人や組織が一杯あって借金してでも学校へ行けば何とかなるとか、借金してでも起業すれば何とかなる時代では、健全な借り手がいくらでもいました。
(育英資金は文字どおり貧しくて教育を受けられない英才に教育を受けさせる資金でしたから、進学さえ出来れば社会の中堅以上になれる人材が利用していました)
現在の資金需要は、国民生活レベルアップに自力ではついて行けない階層による・不足分の穴埋め資金(サラ金や無理な住宅ローン設定)需要中心になっています。
奨学金も秀才なのにお金がなくて進学出来ない子供が需要の中心ではなく、中学のときからマトモに授業について行けない子供でも、高校や大学だけは?はせめて人並みに出してやりたいという親心が需要の中心です。
バラマキ等が必要になったのは、豊かになった「人並みに」について行けなかった階層の願望を満たすためですから、投資効率と言う基準では効率が悪いものの国民の階層的分裂を防止する意味があったことになります。
結果として政治がうまく機能して来たことになります。

投資効率1(量から質へ)

我が国は高度成長の当初・・儲かり始めた最初はまだ各種家電製品等不足の(と言うよりは出来初めのころで普及していない)時代でしたから、収入が増えれば嬉しくてドンドン買いました。
今ではすべての分野で飽食で手持ち品が溢れていて少しくらい収入が増えても既存商品については、多くの国民が渇望していない・・急いで買わねばならない物品がない状態です。
より良い物・サービスが出れば消費出動する状態ですので、この間国内製造品・サービスがもの凄くレベルアップしました。
衰退産業の代表のように言われる農業でも、各種果物や畜産物、野菜を約20年前と比べると分りますが、品質が2倍以上良くなっていると思います。
(標準価格米が中心の頃に比べればお米もうまくなっています)
各種サービス業・・美容院や商店街のしつらえを見ても(代表例として、東京駅周辺・・旧丸ビルがあったころと今の丸の内界隈の変貌・・)20年前に比べれば隔世の感があることは誰でも認めるところでしょう。
このように日本は余った資金をつぎ込んで国内生活水準レベルアップに取り組んで来た結果、今や世界一快適な社会生活が送れる国になっていると思います。
国民個々人が余剰資金を生活水準引き上げに使う・・良いもの・サービスを消費するだけでは社会インフラ整備と整合しません。
「掃き溜めの鶴」で満足する人は少なく、自宅周辺の町並みを綺麗にしたい・・あるいはそう言うところに住みたくなるのが普通ですし、出掛けて行っても汚いところでも味さえ良ければよいのではなく、丸の内の新ビル街のようにオシャレな空間で買い物や食事をしたいものですので、公共工事・インフラ投資も平行しないとバランスの取れた生活水準引き上げにはなりません。
良い美術品を見た後で併設されたオシャレなレストランで、食事した方が満足感が高いものです。
卑近な例では、新しくなった東洋文庫を今年の5月に訪問して康熙字典などの所蔵品に圧倒されましたが、見学後併設されていたオシャレなレストランで食事を楽しみました。
バブル崩壊後の公共投資は投資効率が悪いと批判されていますが、平成以降は国民の生活水準上昇目的の公共投資に切り替わっているのであって、この辺を理解しない時代遅れの論説です。
August 7, 2012「財政健全化路線1(無借金経営論と知能レベル)」で財政赤字論は教育投資や公園、ロケット投資などの支出をプラス評価しないで支出面だけで見ている変な議論だと書いたことがあります。
現在マスコミを覆う議論は、投資の内容が質に変化している点を故意に無視した議論です。
すなわち曲がりくねった未舗装道で移動するのに1時間かかっていたのを直線道路にして10分で行けるようになる・・砂浜を浚渫して港湾設備を整えるような後進国型公共工事は投資効率・産業へ効果が大きく上がるのは当然です。
平成以降の公共投資は更なる儲け・産業効率化を図るよりは、歩道を石畳に変えたり電柱の地中化を進める、並木の植木を良いものに換える・道路の縁石を立派な物に換えるなど街路のたたずまいを綺麗にする・・老朽化していた美術館を建て替えて快適にし所蔵品の充実を図るような生活水準向上型・精神性の高さを求める時代になりました。
大震災時における国民の対応力の素晴らしさ、津々浦々まで行き渡っている我が国の精神性の高さ・・長年磨き抜かれた我が国国民性の精華が世界的に証明されました。(国粋主義的表現かな?)
生活水準・精神性など引き上げても何の役に立つのだと批判する・・そこまで考えた上の公共投資の効率性低下批判ならば立場の違いですから話は別です。
投資目的が変化していることに気づかずに、投資による目先の経済効果が低いことばかり議論して「公共工事は」無駄だと言う議論は、時代変化を理解していないので論理がかみ合っていません。
老人ホームや病院を作っても産業活性化率が低い・・乗数効果が少ないと議論しているとお笑いになるでしょうが、これらは元々産業活性化・効率化のための公共工事ではないことを誰でも知っています。

投資収益の回収2(生活保護との違い?)

高齢化による貯蓄取り崩しの場合は、20年遊んだ後にもう一度働こうという場面は想定されていないから、蓄積が20年分よりも30年分と長くある方が良いに決まっていますが、国の場合は違ってきます。
貿易赤字国が過去の投資分の回収で穴埋めを続けているうちに更に円高が進むので国内産業が衰退する一方になり、その内回収すべき投資残もなくなって行き、いつかは裸の貿易収支だけで円相場が決まる時期が来ます。
そのときまでに仮に20〜30年もかかると、その間に(赤字でも円は上がり続けているので)衰退してしまった産業の復活は容易ではありません。
国の場合は、高齢者のように貯蓄のなくなる頃には死んでしまえば良いという逃げ方はなく、投資の回収に頼っていて回収すべき資金がなくなれば、そのときの国民は再び働かなくてはなりません。
貿易赤字になってから数年で円相場が下がって行けば、負けかけていた産業が息を吹き返すので技術者も残っていますが、20〜30年も負け続け・貯蓄の取り崩しでの生活が基本になっているといろんな業界が縮小どころかなくなってしまい、円相場が有利になったくらいではとても産業が復活出来ません。
以上のとおり考えて行くとイザというときのための蓄積として価値があるのは技術の蓄積・・人で言えば、お金を10年分貯めるよりは10年以上元気に働ける方が良いことになります。
海外からの投資収益の回収による生活と言えば聞こえが良いですが、そのときの自分の働き以上の生活をしている結果から見れば、自分の先輩・親世代が蓄えていた資金かどうかは別として他国・自分以外の働きによる収入で生活している点では、他国からの援助と結果は変わりません。
20年も30年も生活保護で生活しているとイザ働こうにも技術がなくなっていることが多いのですが、同じ期間預貯金の回収で生活していたのとは、生活力の喪失という点では同じです。
為替相場の王道・産業の国際競争力を反映する市場の需給原理を大事にして、貯蓄の回収に頼らない国の経済運営が必要です。
イザとなっても海外収益を回収しないでそっくり海外投資して行くばかりとなれば何のための海外投資か分らなくなります。
海外投資の内金融投資はもしもこれを回収しない前提とすれば、経済援助と変わらず余り意味がないですが、トヨタなど生産会社の海外投資・進出の場合には、進出先の会社向けの基幹部品の輸出産業が残るなどメリットが生じますので、投資収益の現金回収をしなくとも投資すること自体に意味があります。
国際競争力がなくなり貿易赤字になれば、(穴埋めのために投資金の回収に走らずに・・個人で言えば貯蓄に手を付けずに減った収入で生活する)その能力の範囲で生きて行く覚悟が必要です。
・・裏返せば周辺諸国よりも高い人件費でもやって行けるように製品価格の国際競争力を維持するために製品や技術の高度化に邁進する→際限なき円高の連続と際限なき産業高度化努力の繰り返しで頑張るのが最も正しい道でしょう。
この努力は尊いもので、しかもこの努力・成果に比例して際限なく日本の国際的地位が高まっていく・・一人当たりの人件費が高まる=日本人の価値が高まることで目出たいことです。
アメリカの場合、1980年ころまでは生産性上昇と賃金上昇率が一致していたらしいのですが、ここ30年ばかり生産性の上昇に比例して賃金が上がらずほぼ横ばいのままらしいです。
(労働分配率が下がっているらしいのです)
この結果賃金の総体的下落が起きて貧困率が上昇して来たので我慢出来なくなった民衆のオキュパイウオールのデモに発展したことになります。
昨年の統計では人口の約15%にあたる4500万人あまりがフードスタンプを受給しているというのですから驚きです。
(失業者だけではなく現役の労働者まで食事券の配給を受けているとすれば大変な事態です)
GMの復活がはやされていますが、これは、破産によって高負担の年金等の負担を切り離してしまって人件費の負担を軽く出来たことが大きな要因と言われている(倒産前にくらべて人件費負担がなんと4分の1になったと報道されています)のがその象徴と言えるでしょう。
最近アメリカの復活・・ドルの持ち直しについては、アメリカの労賃が下落しているので、国内生産に回帰しても、中国に単価的に負けなくなったことによると言う報道が散見されますが、上記データ・労働者の貧困化がその裏付け・原因として理解出来ます。
アメリカのように中国に負けないように賃金下落・ドル下落で対抗するのではなく、日本は企業さえ儲ければ良いのではなく国民が大切ですから(人件費を出来るだけ下げないで)苦しいけれども製品高度化努力で対応して行くべきです。

経常収支の均衡3(投資収益の回収1)

貿易黒字を続けながら、為替相場の上昇を回避するには、経常収支黒字分そっくりを海外投資して放出するのが合理的ですし、日本の国力が衰退して来たときに海外投資分の収益送金が日本を救うことになります。
病気などで一定期間収入が減少したときに過去の蓄積の取り崩しで生活出来るのと似ています。
このためには貿易黒字分に見合った海外投資によって、円の上昇を抑えつつ徐々に技術力を上げて行くのが合理的です。
ところで、海外投資収益が還流を始めると貿易収支が均衡していてもなお経常収支黒字になって行くマイナスをJanuary 12, 2012「貿易赤字下の円高3」で書いたことがあります。
我が国の昨年12月今年の1月の収支で言えば、貿易赤字なのに海外からの収益が多いために経常収支はなお黒字です。
こういう状態ですと、貿易赤字=生産品等の国際競争力がなくなって来れば円が下がって競争力が回復出来る為替理論にもかかかわらず、投資収益の還流の結果なお円高が進むことになってしまいます。
長年貿易黒字を続けながら海外投資・外債を買うことによって、円高を防いで良い思いをしていた咎めが逆流して来るような感じです。
イザ赤字になっても海外投資しておけばその利息や収益で食えると思っていたのに、そうすると赤字・国際競争力がなくなっているのに更に円高が進むので国内企業はいよいよ参ってしまいます。
経常収支黒字になるまでの還流をした場合、その黒字分だけ海外再投資して行けば円は上がりませんが、それでも還流して国内で使った分だけ本来ならば下がるべき円相場が下がらない結果になります。
例えば3兆円の貿易赤字で還流資金ゼロで経常収支も3兆円の赤字ならば、理論上は3兆円分だけ円相場が下がることになりますが、5兆円の海外からの還流があると2兆円分だけ逆に円が上がる展開です。
この場合、環流した資金のうち2兆円を海外再投資すれば収支トントンで円相場は現状維持ですが、この場合本来3兆円分円相場が下がって国内産業の競争力復活すべきところを阻害してしまいます。
投資収益回収分をそのまま国内にとどめると円が上がって余計国内産業が苦しむ・・衰退して行きますし、一部でも使えば使った分だけ円相場の下落抑制になってしまうので、これを防ぐためには利子配当所得は1円も使わず還流分そっくり海外再投資して行く必要があります。
貿易収支を為替相場に反映させるには、海外投資収益の還流以上に海外投資しないと貿易赤字なのに円が上がってしまうのですが、このことは、自分の働き以上の収入があってもそれを再投資に使うしかない・・働き以上の収入を得るとロクな結果にならないという原理を表しています。
個人で言えば収入が下がっても、安易に貯蓄に手を付けないようにするのが健全なのと同じです。

貿易収支の均衡2(資源投資)

海外投資にも、商工業関連の投資だけではなく、資源採掘権などへの投資もあるのですが、この分野では我が国ではまだ始まったばかりです。
投資とはまさにこうした超長期の採掘に投資して、リスクを分担することですが、資源関連は((試掘であれ・・)採掘を始めるには巨額資金がかかりますが、「山師」というほどで掘ってみないと中るかどうか分らないすごいリスクのある投資です。
日本で世上言われている投資家とは殆ど株の上下に期待して投機している人を言うので、本当の投資家が育っていなかったのです。
機関投資家などと言っても、寝ている間のニューヨークの相場の動きを調べて今朝の売り買いを決めているような人を一般に言っています。
彼らは投機屋と言うべきでしょう。
日本で資源関連に積極的に投資して来たのは、機関投資家ではなく、三菱商事、三井物産など商事会社でした。
繊維系企業の変身成功の例として東レやクラレを正月に紹介しましたが、商事会社も従来のように口利き料(口銭)で生き残るのが難しくなったことによる大変身の1つの例です。
商事系企業は資源に限らずいろんなプロジェクトのまとめ役として世界中で活躍しています。
勿論変身成功せずに消えて行った商事会社も、有名な安宅産業倒産(石油精製業への進出失敗)だけでなく一杯あります。
今のところ資源関連投資は日本の黒字蓄積による円高解消に資する上に、無資源国の弱みを緩和出来るなど今のところ良いところだらけです。
ただ、資源採掘権はナショナリズムの影響を受け易いので、余り深入りするのは危険ですので、当面は合弁ないし一部の株式取得から入って行くのが安全でしょう。
過半数・支配権を持つようになるとイキナリ採掘禁止・あるいは上納金の引き上げ外国人株式保有の制限などで嫌がらせされてしまうとどうにもなりません。
資源だけというよりは商事会社のようにいろんな分野の開発プロジェクトの取りまとめをしているうちに、投資技術・腕が磨かれて行った結果とも言えますので、 世界に例のない我が国独自の業態である商事会社の発展は我が国の救世主になる可能性があります。
英米のようにあるいは古くはベネチア共和国のように金融で生きて行くのは危険です。
英米は産業革命後覇権を握ったものの、製造業の衰退後はベネチアの金融立国の真似をしているだけで、独自性がなくて行く詰まっていると言えます。
金融に頼ると弱くなる・・ベネチアが最後は駄目になったのは、相手が踏み倒せば、貸している方もおしまい・・借り手に運命を左右されてしまうからです。
この点は我が国も心しておくべきことです。
製造業→金融が駄目ならば観光と、日本の識者は直ぐに何でも西洋の真似をしたがりますが、こういう虚業では国が持たないことはベネチアの歴史が物語っているとおりです。
ベニスに観光客が多いことは確かですが、観光客からのおこぼれで食べているイタリア人はイタリア人の中で底辺層になっている筈です。
我が国でもどこでもそうですが観光地の入口で土産物を売ったり食堂で働く人、切符を売る人が観光客よりも裕福であることはありません。
観光にシフトすることは国民を外国人のサーバントにしてしまう政策です。

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