区制2(中学)

元々江戸時代までの集落は、集落構成員が生存に必要な限度で営む水田灌漑設備の共同維持管理に必要な規模・・自然発生的な集落に過ぎず、何らかの政府の施策を貫徹する・行政に必要な単位ではなかったので、古代からの血縁中心集落のままで江戸時代まで変化せずに苦労がなかったのです。
近代国家になって政府が学校や上下水道・保険・医療その他政策実現に必要な行政単位としてこれを見ると、血縁を基本にした古代からの小規模集落では、対応しきれなくなることは明らかです。
行政単位としての市町村では対応しきれない分野に関しては、広域市町村連合や組合を構成しているのは今でも同じですが、(消防組合や広域上下水道組合や医療機関など)明治始めの集落は今の行政単位とは比べ物にならない小規模なものでしたから、行政単位を大きくして行くのは時間がかかるのと・戦国時代の豪族や国人層の連合みたいになって効率的ではない・明治政府の目指す中央集権国家向きではないので、先ず行政
目的別の区を作って行ったと思われます。
現在でも行政単位とは別の選挙区制や学区制その他が残っていますが、学区制を例としてみておきましょう。
元は江戸時代までの集落を基本にすると行政単位が小さすぎて(10数戸から数十戸の集落単位では)小学校を集落ごとに作れなかったから集落単位を超えて、おおむね500戸を基本として一つの小学校を作ったことから始まったことでした。
選挙区制も今では小選挙区ですが、それまではいくつかの市町村がまとまって一つの選挙区でした。
小選挙区制の今でも千葉市の例で言えば、千葉市の若葉区が佐倉市と同じ選挙区になっていて、緑区が市原市と同じ選挙区になるなど行政区域と選挙区は一致していません。
明治五年壬申七月太政官布告第214号で漢字仮名混じり文の優しい形で学問の必要なことを解き明かした珍しい布告がありますので、煩を顧みずそのあらましを紹介し、これを受けた明治5年8月の別冊の学区制を紹介しておきましょう。
勉強は自分のために必要なことであることを縷々述べた最後は自分でお金を出すべきである・政府に頼るなと言う諭しです。
「人々自(みづか)ら其身を立て其産(さん・しんだい)を治(をさ)め其業(げふ・とせい)を昌(さかん)にして以て其生(せい・いっしょう)を遂(とぐ)るゆゑんのものは他(た)なし身を脩(をさ)め智(ち・ちえ)を開(ひら)才芸(さいげい・きりょうわざ)を長(ちょう・まず)ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学(がく・がくもん)にあらざれば能(あた)はず是れ学校(がくかう・がくもんじょ)の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算(にちようじやうこうげんぎょしょさん・ひびのみのおこないことばづかいてならいそろばん)を初(はじ)め仕官(しくわん・やくにん)農(のう・ひゃくしやう)商(しよう・あきんど)百工(ひやくこう・しよくにん)技芸(ぎげい・げいにん)及び法律(ほうりつ・おきて)政治(せいぢ)天文(てんもん)医療(いれう・やまひいやす)等にあきんどしよくにんげいにん    おぎて至る迄凡人の営(いとな)むところの事学(がくもん)あらさるはなし人能く其才のあるところに応(おう・まかせ)じ勉励(べんれい・つとめはげみ)して之に従事(じゆうじ・よりしたがひ)ししかして後初で生を治め産を興(おこ)し業を昌にするを得ベしされば学問(がくもん)は身を立るの財本(ざいほん・もとで)ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫(か)の道路(どうろ・みち)に迷(まよ)ひ飢餓(きが・くひものなき)に陥(おちひ)り家を破り身を喪(うしなふ・なくする)の徒(と・ともがら)の如きは畢竟(ひつきやう・つまり)不学(ふがく・がくもんせぬ)よりしてかゝる過(あやま)ちを生ずるなり従来(じうらい・もとから)学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向(はふこう・めあて)を誤(あやま・まちがい)り学問は士人(しじん・さむらい)以上の事とし農工商及婦女子(ふじょし・をんなこども)に至っては之を度外(どぐわい・のけもの)におき学問の何者(なにもの)たるを辨(べん)ぜず又士人以上の稀(まれ)に学ぶものも動(やや)もすれば国家(こくか・くに)の為にすと唱(たな)へ身を立るの基(もとゐ)たるを知(しら)ずして或は詞章(ししょう・ことばのあや)記誦(きしよう・そらよみ)の末に趨(はし)り空理虚談(くうりきよだん・むだりくつそらばなし)の途に陥(おちい・はまり)り其論(らん)高尚(かうしよう・りつぱ)に似たりといへども之を身に行(おこな)ひ事に施(ほどこ)すこと能(あたわ)ざるもの少からず是すなはち沿襲(えんしう・しきたり)の習弊(しうへい・わるきくせ)にして文明(ぶんめい・ひらけかた)普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏(びんぼう・まずし)破産(はさん・しんだいくずし)喪家(そうか・いへをなくす)の徒(と・ともがら)多きゆゑんなり・・・・中略・・・・・・・
但従来(じうらい・これまで)沿襲(えんしう・しきたり)の弊(へい・くせ)学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費(がくひ・けいこりよう)及其衣食(いしよく・きものくみひも)の用に至る迄多く官(くわん・やくしよ)に依頼し之を給(きふ・くださる)するに非ざれば学(まなば)ざる事と思ひ一生を自棄(じき・じぶんからすて)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今以後(いまからのち)此等の弊(へい)を改め一般(いちどう)の人民他事(たじ・ほかのこと)を抛(なげう・すてをき)ち自ら奮(ふるつ・はげみ)て必ず学(がくもん)に従事(じゆうじ・よりしたがい)せしむべき様心得べき事

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月
太政官
地方官において便宜解釈を加えて小民に至るまでで漏れなく申し諭し、文部省規則に従い学問普及致し候様・・・として、以下文部省布達第13号の別冊になるのです。
別冊
第五章 一大学区ヲ分テ三十二中区トシ之ヲ中学区ト称ス区毎ニ中学校一所ヲ置ク全国八大区ニテ其数二百五十六所トス
第六章 一中学区ヲ分テ二百十小区トシ之ヲ小学区ト称ス区毎ニ小学校一所ヲ置ク一大区ニテ其数六千七百二十所全国ニテ五万三千七百六十所トス
第七章 中学区以下ノ区分ハ地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計り便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ

上記のとおり、中区に一つの中学その中区に210の小区=小学校を置く仕組みでしたから、明治の初めには中学はかなりのエリートだけ・・・中学と小学のⅠ学年の生徒数が仮に同じ規模とすれば、小学卒業生の内210人に一人の進学率を計画していたことになります。
ちなみに現在の学制・・大学中学小学の分類は「変なものだなあ」と子供の頃から思っていましたが、生徒身体の大中小の意味ではなく元は学区が大中小に別れていてその大区に一つ作るのが大学(帝国大学)中区に一つ作るのが中学と言うのが語源であったとすれば意味が分かります。
この呼称がそのまま戦後の新制中学に引き継がれたと言う次第です。
地域の実情を無視した機械的な区割り制度は後に教育令で変更されますが、学校制度の構想が最初はこんなものだったことが分ります。
私の子供の頃・・すなわち戦後の新制中学発足後ですから、一つの村に一つの小学校校・中学校が普通でしたが、まだ高校はいくつかの村に一つでしたし警察署もそうでした。
これが行政単位の合併の繰り返しによって、今では行政単位の規模の方が学区の規模を追い越してしまい、一つの市町村にいくつも学区が出来ている状態です。
子供の進学のときに頭を悩ませる(越境入学など)ご存知の学区制・・は、このときから始まっているのです。

末端行政組織の整備(区制1)

寄留者を管理するための明治初期頃の末端行政組織がどのようなものであったかですが、村役人制度は定住者の多い地方では機能していましたが、住所まで行かないで不安定な生活をしている人の多い都会地では彼らよそ者を担当する組織がどうなっていたかです。
3月6日に引用して紹介した説明では明治2年に東京だけの戸籍整備実施にあたって市中の旧名主制をやめて入札制(今の投票制?)で年寄り・50区制を採用したと書かれていましたが、これによるとその以前から名主制が存在していたことが分ります。
明治2年の戸籍整備は脱藩浪人等不安定居住者の把握を目的で始まったとすれば、名主から発展した年寄りらは、戸籍編成時に寄留者も同時に記録するようになって行ったことになります。
そうとすれば、定住まで行かない人の現況把握にはお寺や神社の協力を必要としていなかったことになります。
ところで、3月5日に紹介した神社にお札を貰いに行くように命じた明治4年の太政官布告322では「戸長」を通じて(戸長の証書を持って)お札を貰いに行くことになっています。
この布告自体で既に戸長の人民管理が神社へのお参りに先行していることが分ります。
戸長とは何かですが、これは法的には、明治5年の太政官布告17号で、従来の莊屋、名主の制度を改めて、戸長にした結果生まれた名称であることが、この太政官布告で分ります。
法令全書のコピーがネットで見られるのですが、写真しか載っていないのでコピー出来ないので、明治5年分の法令全書から莊屋等から戸長に名称変更された布告を手写しで載せておきます。
第117号(4月9日)
「1 莊屋名主年寄等都テ相癈止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱來リ候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事
 1 大莊屋ト称シ候類モ相癈止可申事
 1  以下省略

(漢文では「都テ」は「すべて」と読むことを09/15/09「都市から都会へ」のコラムで説明しております。)
上記のとおり、明治5年4月からそれまでの莊屋名主等はなくなって戸長副戸長制度が出来たのですから、明治4年には戸長の呼称がなかったかのように見えます。
莊屋名主等から戸長への名称変更の布告前の明治4年の布告の中に既に「戸長」が出てくるのは、その頃には戸長と言うものが(全国一律ではないまでもあちこちに)事実上出来ていたからでしょう。
すなわち明治4年の壬申戸籍布告の時に同時に従来の小さな村(10戸前後?)を7〜8ケ村集めて一つの区として、区ごとに戸籍編成をして行ったようですから、このときから同時に区制が行われていたことになります。
この区長を戸長と言うようになっていたのです。
区は地域の区割りのことですし、その長=区長を戸=居住の単位・・普通は建物を現す戸長と何故言ったのか今のところ私には不明です。
上記の通り従来のムラや町の集落とは別に、明治4年当時から区制が行われつつあり、莊屋名主に変わって戸長が既に一般化していたので、明治4年の太政官布告第322では戸長の証明書添付が義務づけられるようになったのかもしれません。
小さな自然発生的集落では、国家としての中央政権の施策を貫徹出来ないので、施策実行に適した人工的な区割り・区制を施行し始めていたのですが、太政官布告と言う統一的布告によらずに実施していた結果一般化していた戸長と言う呼称を明治5年4月に初めて上記太政官布告で明らかにし、国家規模の法的根拠を与えたに過ぎないと言えます。
但し、明治5年4月の布告では単に莊屋等を戸長と呼ぶと公認しただけでその前提たる区制と町村制の関係を明らかにしておらず、混乱が生じていたようです。
これは以下に書いて行くように元々、区制は、今で言うプロジェクトチームのようなもので当初は目的別にいろいろ区を作っていたようですから、まだカッチリした地方行政組織の構想が出来ていなかったので、戸長の名称だけ全国統一にしたものの地方行政組織制度まではまだ布告出来なかったことによるように思えます。
同じ年の明治5年の11月には旧来(江戸時代の)の郡町村制を廃止して大区小区制がしかれ、大区の長が戸長となり小区の長が副戸長になりましたが、地方によってはいろいろだったようです。
後に学区制も紹介しますが、小学校も従来のムラごとに作ったのでは経済的に維持出来ないし構成員も少なすぎるので、もっと広域化して・・500戸単位くらいで一つの学区を作ったようですから、この頃は近代化に追いついていない小規模な従来の単位をいろんな制度ごとに「区」と言うものを作って行った時代でした。
学区制を定めた学制(明治五年八月三日文部省布達第十三)は明治5年8月ですから、着々と「区」を基準にして政策を実現して行く思想を基礎にして実践が始まりつつあったのです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC