戸籍制度6と家の制度4

 

こう着状態に陥った(と言えば小康状態のイメージですがそうではなく、より危険な方向に進んでいる様子ですが、直ぐに慣れてしまうのが不思議です・・)原発問題を一旦休憩して、いつものコラムMarch 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」の続きに戻ります。
親の家から出て行っても無宿者(死んでようが生きていようが数のうちに入れない無責任放逐制度)にするのをやめて、等しく国民として管理し、制度的に待遇するには効果から考えれば住民登録制度が合理的です。
戦前でも徴兵や配給制度などは、現況を把握している寄留簿から行っていた筈です。
本籍を基準に編成・登録する戸籍制度が出来上がったのは、明治の初めは現地で登録するシステムがなく個々人の登録は血縁による戸籍簿しかなかったので、東京等大都会に出て行っても出身地での登録に残しておくか無宿者になるかしかない二者択一制であった過渡期の産物として始まったことが分ります。
ただ、戸籍登録の始まりは、当然のことながら住所地の戸口(当時は地番制度がありませんでした)ごとに編成したのですが、安定した住所地ではない寄留の場合にその人の特定のために本籍(出身の家や親の氏名)を書き込む必要があって、言わば本籍と現住所登録が未分化の時代だったことによります。
これが観念的な本籍と現住所とに分離して来た(住所のウエートが高まって来た)のは、明治20〜30年代になって郷里から離れた都市住民が増加してそこで結婚して所帯を構えて根を生やして来たし、現住所登録の技術・方法も定着して来たのですから、実は旧民法・現行制定のときから現住所登録を基準にして、出身地別登録を廃止すれば良かったことになります。
元々これまで書いている通り、戸籍制度の始まりはその時に存在した一家・所帯持ちの所在地登録から始まったもので(遠い先祖の出身地を問いませんでした)すから、明治2〜30年頃に新たに都市住民として定着した(・・少なくとも夫婦になって所帯を持った場合)場所を基本に更に登録し直しても何も変わらなかった筈です。
明治2〜30年代には、結婚すればその時に住んでいた場所を新本籍を決めることが出来る現在同様の制度採用のチャンスでもあったのです。
これを採用していれば、今の住民登録制度だけで間に合っていた筈です。
ところがこの頃には,維新以来息もつかないでやって来た急激な社会変革反発する反動思想が渦巻いていて、民法典延期論争が起きたくらいですから,いわゆる「醇風美俗」を守れの運動と妥協するしかなくなって、家の制度を逆に強化するしかなくなったのが,明治20年代だった思われます。
(旧民法も結構家の制度に気を使って妥協した条文にしていたらしく、結果的に現行民法が出来てみるとそれほど変わらなかったらしいので,言わば反対のための反対だったとも言えます。)
ここまで進めば、壬申戸籍で書いてあった身分・・士族か否かなどは個人特定には意味がないように、「出身地を現す本籍って何故必要なの?」と言う、疑問がわいてくるのが普通の思考回路でしょう。
(今では、初対面の誰かと会った時に出身地や本籍を説明されても意味がないし、それどころか兄弟姉妹の名前を言われても、その人の特定にあまり関係がないでしょう。)
それなのに、戸籍制度がせっかく充実して来たことから勿体ないと思ったのか、元の出身地を基本にした制度そのまま更に精密化する方向に進んでしまったのがその後の日本だったと思えます。
とは言え、現況把握の必要性も無視出来ず、既に紹介したとおり大正3年には寄留法が制定されたので、以後国民管理制度は現況把握とそれ以外(・・何の目的か不明ですが・・・先祖のルーツ探しには役立つでしょうから国営の系図業務みたいなもの)の二本立てになって現在に至っています。

戸籍と住所の分離3

 明治4年の2つの太政官布告で戸籍簿と寄留簿の二本立てで始まった国民管理制度の内、時代の流れに合致していた寄留簿の方が発達して肥大化して行き、戸籍簿の方は逆説的ですが肥大化し過ぎた結果空洞化が進み、その結果が明治31年式戸籍だったことになります。
前回紹介した本では「社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなった・・」と書かれていますが、私が21日まで推測を逞しくして書いて来たように、律令制下で農地配給のために生まれた戸籍制度は国民の頻繁な移動に適応出来ない制度であったのに、明治維新以降近代化が進み住所移動が激しくなったことから、制度に内包する無理が生じて来たからです。
農民が数年あるいは五年に一回移住していたのでは耕地の前提たる土造りも出来ないので農民にとっては定住が原則です。
しょっ中移動していたのでは食べて行けないので移動する人は農民以外の商人等稀な事例(商人も安定して店を構えないと信用されない社会)になりますが、近代化進行=経済活動の活発化・農業から商工業社会への変化ですから、人の移動が激しくなる一方・・未だに地方から大都会への移動が現在進行中です。
戸籍の空洞化が何時頃から進み始めて何時完成したかですが、大正3年成立の寄留法では既に住所寄留と言う区分が出来ていることから見れば、そのずっと前からこうした運用に変わっていたことになります。
前回紹介した本の意見によれば、明治31年式戸籍法(明治31年民法施行による家の制度にあわせて改正されたものです)では、住所記載がそぎ落とされて身分登録だけに純化していますので、この時点までに、戸籍と住所が切り離されている運用・・寄留届けが一般化し・寄留簿が事実上住民登録簿に変わっていたことが分ります。
ではそのどのくらい前から戸籍が(現住所を現さなくなって)空洞化していたかと言う疑問ですが、前回紹介した本では明治19年式戸籍では、まだ戸籍には住所を記載していて、本籍記載欄がなかったのですから、大分普及していたとしてもまだまだ戸籍制度に反映するまでは行ってなかったのでしょう。
明治20年代には普通になっていたとすれば、いわゆる旧民法成立(明治23年)の前後ではどうだったでしょう?
旧民法は、保守反動層の猛反対で施行されないうちに、明治25年に施行延期決議が議決されて明治29年に新たな(現行)民法が成立してしまうのですが、この時に新たになったのは主として親族相続編でした。
19日にも少し書きましたが「住所」は、フランス法やドイツ、スイス法などの学説を参照して作ったものであって、我が国の保守革新の抗争・・醇風美俗論争とは関係がありませんでした。
ただし隣国との往来の盛んな欧州諸国では、住所概念は対外的な裁判管轄を決める・・主に国際私法上必要な概念であって、民法と言う基本法に書くものではなかったようですから、我が国だけが突如民法の、しかも総則に書いたのは戸籍関係で、特に住所の意味が重要になっていた事情があったからかもしれません。
後にも書きますが、民法の実質主義によりながらも選挙権では選挙法で、税は税法でそれぞれの住所概念が必要・・民法で一律に決めるのではなく、と言うのが現在の通説のようです。
最近では武富士創業者の息子の住所が香港にあったのか日本にあるのかに関する最高裁の判断によって、2000億円前後の税還付が決まったことが報道されています。
民法の総則で住所一般の原則を書いたのは、古代から定住民族の我が国では人の定義として住所による特定の意義が重視されていて、これに基づき戸籍を整備したものの、戸籍の記載場所と本当に住んでいる場所とが乖離し始めたので住所=本籍とする形式理解ではすまなくなりました。
そこで「住所とは何か」を決める必要性の意識が高まっていたので、民法に定義規定が置かれたと思われます。
壬申戸籍では戸籍と寄留しかなく住所概念がなかったのですが、戸籍をそのままにした移住が多くなると住所とは何かが問題になって来るのが必然で、戸籍記載場所と(本来の)住所・寄留(居所)の3カ所の概念が出来て来たのです。

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