USA=領土拡張の歴史3(独立戦争の本音)

州兵だけ残してもルールオブローの思想のもと、司法権の優越の結果?連邦最高裁の判断が州の決定も覆せるので、徐々に中央政府の権限が強くなり、今や統一国家の体裁を取っていますが、中央政府の基礎たるべき州内の住民同士の一体感すらないので、州連合の一体感はなおさら希薄です。
これまで見てきたように一体感の希薄な国民で成り立っているにもかかわらず、これが分裂せずになんとかなってきたのは、独立戦争自体が領土拡張エネルギーの一環であり、その後絶え間ない領土・支配地拡張が続いていたことによります。
独立戦争というと抑圧からの独立のように見えますが、アジア・アフリカのように異民族が西洋人に支配され搾取され家畜扱いされていたのとは本質が違います。
日本で言えば幕末北辺を守るために北海道に植民して資本をつぎ込んできましたが、北海道の強化のためにどんどん資本をつぎ込んでいるうちに北海道が自立できるようになると今度は本国の干渉・・国際戦略の都合でここは我慢してくれと言われるのが邪魔になってきた・北海道や沖縄が本国から独立して自分たちで自由にやっていこうや!となったようなものでした。
(現在も北海道は本土からの公共事業投資中心でなりたっていてこれといった自立木産業が育っていませんし、仮に産業が育っても北海道民はそういうことを言わないでしょうが・・)
開墾の場合、すぐに食糧生産ができないので自分らが自活できるまでは本国政府や出身地の親族の経済援助が必要ですし、耕作地や生存を守ってもらうために本国の軍事援助・当初は現地人との戦いその後は西欧人同士の戦いに用心棒が必要でしたが、フランスやオランダとのせり合いで英国が完全勝利をおさめると本国に守ってもらう必要がなくなったのが第一の要因です。
その結果昨日まで英本国軍にフランス系移民とのテリトリー争いから守ってもらっていた植民地の人たちが、正面の競争相手がいなくなり、一方で自立できるようにな経済力がつくと本国の干渉が邪魔になって今までの敵だったフランスの応援で独立戦争はじめたことになります。
子供が成長すると親の干渉がうるさく感じるようになる身勝手さですし、英仏7年戦争で完敗したフランスにとってはこれに干渉するることは雪辱・影響力回復のチャンスでした。
米国独立戦争は、沖縄が日本から援助で自立できるようになった場合、中国の対日攻撃の最前線陣地に寝返ったようなものです。
この寝返りの直接の端緒は移民同士のテリトリー拡張争いでフランス系移民との競争に勝ち、邪魔がなくなったイギリス系移民がこの勢いでさらなる生活圏膨張を求めてインデアン領域にまで進出しようとしたところ、英本国が道義上?先住民配慮からOKしないことに不満を持った現地人集団がこれまで敵であったフランス応援で独立運動に進んだものでした。
フランスの応援で本国に対する独立戦を勝ち抜き、いわば自分らの生活領域をイギリス本国支配から奪取したこと自体が一種の主権簒奪行為ですし、海外子会社の社員が根こそぎ本国本社に背き海外子会社を乗っ取ったようなものでしょうか?
どこで読んだか記憶ありませんが、イギリス本国では異民族植民地支配の在り方に関する人道的立場による批判意見が国内で発達していて、異民族に対する過酷支配が正当化され難くなっていたようです。
同族または対等な西欧諸国民中心の北米大陸の植民地においてはアジア〜アフリカ等での植民地支配のような人種差別意識を基礎とする隷属はなかったとしても、内地と外地の経済格差や政治格差に不満があった人たちにとっては、有力なよりどころでもあったでしょう。
アメリカ植民地内の独立意見は本国内の良識は意見に触発されていた面もあったでしょう。
ただ、不平分子が反抗道具に使った場合、自分の人権意識が高いわけではありません。
人権人権と主張する日本の革新系知識人が、日常的行動様式では驚くほど女性軽視なのに驚くことが多いとだいぶ前に書いたことがありますし・・社内不平分子が課長部長の職に就けば、もっと能力がない・気配りに欠けるのが一般的なのと同じです。
北米大陸乗り植民地は、英本国の犯罪者等の流刑地でもあったことから、ならず者の天国でした。
(この点は後に大陸横断鉄道敷設工事や西部開拓時の事例紹介します)
米国独立後この流刑地がオーストラリアに変更されているので、一般的には、米国の都合で隠蔽されオーストラリアが流刑地であったことが知られているだけですが、本当はそういう成り立ちで、これを美化するためにメイフラワー号伝説・一種の建国神話が語り継がれるのではないでしょうか。
当時もその後も世界無比の過酷な黒人奴隷制度を内包していたし、その後先住民インデイアンに対する過酷なジェノサイド行為や黒人奴隷に対する仕打ちなどは周知のとおりであって、ならず者中心の移民らが、本国の人権思想家の意見を本国反抗道具に使ったと見るべきです。
この後に合衆国の歴史で引用する予定ですが、米国人はメデイアを通じて正義のイメージを巧妙に宣伝して国民を戦争に煽り立てることが常套手段になっていきますが、この第一歩・・独立戦争の「代表なくして課税なし」のスローガンが見事に成功して(インでデイアンを殲滅したい国民の)本音を隠すのに成功してきました。
南北戦争でのリンカーンのゲテイスバーグ演説、米西戦争〜真珠湾攻撃〜大量破壊兵器言いがかりでのイラク侵攻・・皆そうです。
後世歴史の真実が暴かれる時が来るのを見越して、批判されれば「国民は当時の指導者の巧妙な宣伝工作に騙された」という逃げ道を作ってきたように見えます。
独立戦争の契機になったのは、植民地側のインデアン居留地への植民拡大に英本国が応じなかったこと・先住民を追い出す支配拡張行動を遠慮なくやりたい衝動が紛争の端緒でしたのでその後の先住民・インデアンに対する侵略→ジェノサイド傾向が露骨になっていきました。
戦後日本学校教育では、米国は理想の国として教育されるので増税反対が独立運動の始まりのように習いますが、それは教育宣伝がそうなっていただけ?・日米開戦は真珠湾奇襲攻撃を受けたから日本が悪いと米国に都合よく説明されているのと同じようです。
親が暴走族で暴れまわっている息子を世間体を気にして説教したら、家を飛び出してヤクザの応援でやりたい放題を始めたのを親の抑圧から独立したと説明しているようなものです。

日露戦争以降の政治とメデイア2

 自分で原文を書き上げ、グラフその他資料を作るとなると、いろんなパターンがあってその中から取捨選択していく作業があり試行錯誤し完成までには多角的検討を経ている上に同輩らの検討も経ています。
その結果が会議資料に出てくるのですから、日常別の業務を持っている外部委員がいきなり読む・・会議が始まっていろんな人の発言を聞きそれに一々反応しながら、同時に資料作成者が完成させる前に削ぎ落としてきた点検項目=これは配布資料に出ていません・・をその場で自分なりに想定して質問するのは容易ではありません。
ちょっと気になる点を質問する程度がやっとですが質問してみると、
「その点は資料ナンバーの何ページの10何行目以下にありますので読みあげさせていただきます・・〇〇委員のご質問はここで書いていない部分のご質問かと思われますが・・ABCのシュミレーションをしたところこのような結果になりました・・ご説明不足で申し訳ありませんでした・・」となって10分程後に別の議題の頃に追加資料がコピーして配布されることがあります。
部外者ががちょっと思い付きそうなことは、課長への説明の時に指摘されて修正し、部長説明でも補充し局長や担当役員決裁でもこれをやった結果が議題に出ているのですから、多くの目を経るうちに検討済みのことが多いものです。
部長や役員決裁段階で指摘されて再調査し直すのでは、担当者の能力不足・・あいつは役に立たないとなるので、意見の割れそうなテーマでは2〜3種類の調査結果を用意しておいて、どちらを執行部提案にするかについては部長や役員の判断とするのが普通です。
こういう経過を経るので、一般的に企業や官庁のしごとで本当によくわかっているのは課長直前の若手人材と言われています。
その企業実務慣行などに精通しない部外者(外部取締役や審議委員)はせいぜい「私の会社ではこういう調査を入れるのですが、御社はどういうやり方でやっているのですか?」「この点に問題がないか」という質問をする程度がやっとでしょう。
同じ部門出身の専務や社長が決裁する場合でもほぼ同じでしょう。
まして同業他社ではない・異業種経験しかない社外取締役や、有名ジャーナリストなど部外者の目で考えた経験しかない人が、(事前検討会議に参加しないので)いきなり膨大な資料を積み上げられて各部門から上がったいくつもの議題を次々と流れ作業的に議論して行くのでは、ほとんど機能していないのではないかと思われます。
最近社外取締役が、いくつもの企業で名を連ねているのが問題視されているのは、本業の他にそんなに多くの社外取締役になっていて、片手間で何をできるのか?という疑問にあるようにも思われます。
審議会委員や外部委員で具体的に関与している場合には、会議の場では気になったがその時の話題進行の流れから発言し損なってしまったが気にかかったテーマについて、(事前配布の資料が手持ちの場合)後日読み直して見て気になる部分の資料を担当者に補充してもらうなど個人的に聞くことは可能です。
こうした資料を直接見たこともないし議論の経過も知らない全くの部外者であるメデイアの受け売り(多くは審議会で自分の意見が通らなかった不満分子のリークでしょう)程度の意見などをメデイアが取り上げると民意・・国民多数意見であるかのような報道になるマジックです。
最近では、熊本地震のときに「みのもんた」氏がこれといった根拠なしに?自衛隊批判して大ブーイングを受けましたが、これまでこの種の根拠ない一方的決め付けをする役割をコメンテーターと言うわけのわからない芸人が担当しては、一刀両断=根拠ない断言をメデイア筋書き通りに濫発させていたことに対する健全な不満が漸く出たところです。
テレビ座談会等ではこの場面で誰がこういう発言して次にだれがこう言うと大方決めておいてどこで誰が締め括って下さいとセオリーが決まっているのが普通です。
この長年の役割分担で一見気の利いた発言をする役割をもらって来ただけのことでしょう。
ですから「みのもんた」個人の責任というよりは、こういう根拠ない極論・・無責任発言がテレビ界ウケしてきたことが、彼の個人ツイッターでも許されると増長させたのです。
熊本地震から考えると日露戦争は100年以上前のことですから、聞きカジリ程度の人でも帝大教授という肩書き利用の知ったかぶりの意見で運動すると庶民に対する影響力が大きかったのでしょう。
この頃から根拠のないメデイア意見に箔をつける役割を学者が果たす二人三脚が一般化して、メデイア意見=世論(民意)となって戦後は(CHQのプロパガンダ機関化していたこともあって)第4の政治権力と言われるように横柄になっていったと思われます。
正確には権力などない・西欧の第三身分の次に出てきた勢力という意味で第4階級というべきらしいですが、これを誤解して?権力があるかのように振舞っている点が問題です。
今では、権力を持っているかのようにのさばっているのが嫌われる意味で権力?という意味で使われるようになったので、第4の権力といってメデイア批判するのは語源を知らない間違いだと言う逆批判も行われているようです。
語源の問題ではなく、そもそもマイクさえ突きつければ政治家や経営者に平身低頭で謝罪を繰り返させる・うっかり何かを言うと「国民に向かってそんなことを言って良いのか」と嵩にかかって責め立てるやり方の本質をごまかすものです。
神威を伝える古代天皇〜時代が下ってからの将軍御側用人が将軍家の意向を伝える場面で諸大名が平服して承るのが普通になる・・・ひいては側用人の権威がいや増して行ったのと同じです。
メデイアが法律上の権力を持っていなくとも事実上民意を代表するかのように巧妙に民意を装う弊害..神威を標榜して南都北嶺の僧兵が横暴を重ねるのが政治をゆがめるのとどういう違いがあるかと言うことです。
メデイアが勝手に作り上げた「民意」を背景にした傲慢な態度はまさに政治効果でいえば現在的権力者そのものです。
メデイアは立法司法行政の3権のように「法で認められた権力を持っていない」ので、翻訳ミスだと形式論を言ってメデイア批判を封じようとする意見が流布していますが、側用人や中国歴代の宦官批判を宦官や側用人は制度上何の権力も持っていないのに、「制度を知らない無知な議論」だといって封じようとするのと同じです。
公式権力を持たないメデイアが情報拡散手段を独占するようになって、メデイアの特定方向への煽りが民意を決めるようになった弊害を書いています。
私の憶測では日露開戦是非論段階では政府の慎重論が優っていましたが、これといった見識に裏打ちされないメデイア関係者意見が政治を決めていくきっかけになったのが、日露講和会議後の日比谷焼き打ち事件でした。
本来言論で勝負すべきメデイアが暴動行為を煽り・・・講和条約が正しいと主張した(徳富蘇峰の主催する)国民新聞社も同時に襲撃されていますが、言論機関が対立する言論機関襲撃を煽るのは論理矛盾です。
その後の滝川事件〜天皇機関説事件〜軍部のテロ頻発や満州での戦線拡大を見ると、言論の自由を基本とする言論界が軍部内の総合判断力のない偏った無謀な意向をバックに報道していたことがわかります。
現在の森加計騒動でも野党が勢いづいているのは、メデイアによって国家としてやるべき多くの政治課題をそっちのけにしてでも、(あるいは国政を停滞させられる材料があれば何でも騒ぐ?)先行究明するほど重要であるかのように大規模模報道が続いているからです・・。
今や情報源が大手メデイア連合が情報発信を独占できた時代が終わり、ネット経由で多様な情報発信者が現れたことから、国民世論がメデイアの方向性ばかりではなくなっていますので、メデイアが「笛吹けども踊らず」で昨年の総選挙ではメデイア主張による世論誘導はほとんど効果がありませんでしたが・・。

日露戦争以降の政治とメデイア1

昨日韓国の激情型民主主義?を紹介しましたが、冷静判断する国民が少ない社会で民主主義の外形だけ取り入れ、聞き齧った人が騒ぐとそうなるのが普通です。
戦前日本も、言論の自由がなかったから軍国主義に走ったのではなく、浅知恵で極論を庶民に煽る言論界の影響が強すぎたから、世界孤立化→無謀な戦争に突き進んで行くしかなくなってしまったと見るべきです。
戦前国際孤立化を 軍部だけの責任にして軍部隊等を煽るメデイアや政治運動して来た学者らが自己責任を棚上げにして被害者であったかのように振舞っている現状では、将来同じ轍を踏まないとはいえません。
政治(の実態を分かりもしないのに半可通の知識で)に国民を煽る学者やメデイア界の猛省こそ必要です。
彼らが猛省しなくとも、国民の成熟に連れてメデイアや文化人?の扇動に乗せられる国民が減ってきて今や60年安保やこれに続く全共闘時代の論客?の影響を受ける国民が減ってきました。
昨日のコラムに書きましたが、今や現役若者が耳を傾けず4〜50年前の若者が郷愁で集まっているだけになった印象です。
世代が入れ替わらない限り、民度は変わりようがないということでしょう。
民度が変わればメデイア界がいつまでも空理空論を煽ってもダメとなりますから、煽り系メデイアや学者の露出が減っていくでしょう。
ただし、実態無視の煽り報道に国民一人も共鳴しなくなったというのではなく、民度が上がって新規共鳴率が大幅に減っているという程度の意味ですから、新国民(若者)の1〜2%くらいはまだ間違って?共鳴する人がいてもおかしくないことを前提にしています。
慰安婦騒動が朝日の誤報?創作?であったとわかった頃から、革新系政党が若者の支持を受けていると言う宣伝のためにか?でシールズとかいう若者支持層を組織化して大宣伝していましたが、これは文字通り支持基盤空洞化に対する危機感の現れだったのでしょう。
(今の森かけ問題特化の野党が国民支持を受けている→自民党支持率が下がっていると宣伝しているのと似た宣伝です)
ところが、短期間に彼らの活動は急速に目立たなくなってしまいました。
自然発生的に若者の支持が広がったのではなく、既成政党による期間限定ヤラセをメデイアが大々的に取り上げただけだったから維持しきれず、急速にしぼんだのでないか?の疑いがあります。
シールズに対する産経新聞の記事が詳しいので関心のある方は以下を読みください。
http://www.sankei.com/premium/news/160604/prm1606040010-n7.html
2016.6.30 10:00

「俺たちの声を聞け!」「政治家の背中押したの俺たちっすよ」 SEALDsと共産党は独善性も瓜二つだった…
・・・・・結局、この日の集会は、安倍政権が何やらとんでもない悪さをしており、このままでは明日にでも戦争が始まるのではないか、という嫌なムードを周囲に伝播させるには十分なイベントだったかもしれない。
いくら野党といえども、公党が、これほどめちゃくちゃなデマゴーグを不特定多数の有権者の前で述べるわけにはいかないだろう。だからこそ「彼ら」が叫んでくれる無責任な誹謗と中傷が必要であり、多少の行儀の悪さには目をつぶってでも、利用価値は十分過ぎるほど高いのだ。・・・・・

上記によると左翼系政党も大手メデイアも品のない空疎なアジ演説の羅列ではもはやプラスどころかマイナス効果しかない時代が来ている・・民度が上がっていること認めるようになったようですが、それでもその種のアジ演説をしたくて仕方がない本性を捨てきれない古さがあって、その思いを年端のいかない若者に代行させている構図が浮き彫りです。
しかもシールズは裏暴力組織?・・しばき隊との関係も取りざたされていました。

CatNA‏ @CatNewsAgency 2016年5月14日
しばき隊リンチ事件が発覚したら、シールズ奥田が「無関係宣言」。まるで政治家の「秘書がやりました」的な逃げ足の速さ。「あざらし」と称して共闘していた連中は何だったのかな?Tシャツもコールも全て、しばき隊のものでしたね。
CatNA‏ @CatNewsAgency
シールズ奥田クンは、しばき隊リンチ事件関係者と一緒にお酒を飲んでましたね。「一緒に何かやってるわけじゃない」と言い切れるの?「一切関係ない」とシラを切れるの?彼らの暴力性は知っていたでしょ?汝、嘘をつくことなかれ。

一緒に酒飲んでいたり談笑していたからといって、政治家の場合、行った先でいきなり引き合わされても拒否できず握手に応じたり笑顔で応じたところを写真に取られても大した意味がないでしょう・・同志とは限らないでしょうが・・・。
左翼系政党は空疎なアジ演説や暴力的性向(スターリンに始まり日本の浅間山荘事件につながる敵対者粛清が基本です)への郷愁捨てがたく時代遅れ行為の代理者として彼ら若者を利用していたのでしょうか?
世論の受けが思ったほど良くない(公党としてできない・・恥ずかしいことをやらせて良い結果があるはずがない)ので、民主や共産は距離を起き始めましたが、社民党だけは遅くまでしばき隊との関係を維持していたことはヘリパット反対運動でしばき隊幹部と福島瑞穂氏が何かしているかのような報道をネットで見た(一緒に写っている写真程度だったか?)ことがあります・いつも書くように私は受け売りですので真偽不明です。
一方で自分らの意見が支持されていない理由を直視したくないから?「日本には言論の自由がない」という海外宣伝活動が起きる・・いまはそういう移行期間のようです。
戦前メデイアが煽った過ちも「戦前は情報開示がなかったからだ」という決まり切った反論があるでしょうが、 いかに開示しても現実に進行中の情報を全面開示しても、その職務にあたる人でなければ、片手間で見ている程度の人が、詳細を正確に把握できるものではありません。
日露開戦の是非でいえば、最重要な軍資金調達交渉・・戦争準備にどの程度の資金が必要になり日本がどの程度自前でまかなえるかの税収見込みに始まり、欧米列強の支持取り付け交渉・・・・「応援するよ」と言ってくれた場合、どの程度まで協力してくれそうか(たとえばバルチック艦隊のスエズ運河通過の承認)途中寄港地のサービス提供諾否(サボタージュ協力)、戦後満州への利権にどの程度参加させるかなどの極秘交渉が多角的同時進行的に行われている一方で、日本の兵員増強訓練の進捗具合や兵站線の構築状況などの機微をリアルタイムで外野の人が知る余地がありません。
伊藤博文の学者先生の御卓見よりは「大砲の数に関心ある」と実態重視の発言はこれを意味していますが、実態を知らない学者の意見など歯牙にも掛けなかった態度が象徴的です。
民意は重要ですが、前提事実・実務を知らない付和雷同型意見が広がるのは百害あって1利なし・・意味がないと言うことであり、現在の企業経営でもなんでも同じです。
審議会や外部委員社外取締役が大流行りですが、会議場に行くと案件ごとに山のような資料を机の上に積み上げられているのですが、(事前配布されている場合でも)せいぜい違った角度から根拠ないヒント(思いつき)的意見をいうのがやっとです。
その道でじっくり実務をやってきた官僚や社内事業部門担当者が練り上げてきた意見を部外者の思い付きで覆せるような合理的(「〇〇天皇」と言われるような権力者の場合、「ダメなものはダメ」と言い切って、会議の流れをひっくり返すようなこともありますが)能力発揮できることは滅多にありえません。

メデイアと学者の煽り5(日露戦争と帝大7博士意見書2)

ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

影響
「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。
しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[20]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。
しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである
条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[11][20]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。
ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。
清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。
大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[19]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。
この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[21]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[22]
上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。

上記最後の3行は突然の結論記事ですが、重要な指摘です。
文献の引用もあるので相応の論説を背景にしていると思われますが、紙媒体の引用文献自体にこのコラムでは入れない(このために引用されている本を買って読む暇はない)ので直接確認できません。
しかし幕末から、明治維新以降、欧米列強の植民地にされてしまわないかの恐怖心で凝り固まっていた国民意識・その恐怖心をバネに富国強兵に邁進していた当面の目標喪失はよくわかりそうな気がします。
幕末〜開国後西欧列強の餌食にならないように「頑張ろう」と言う暗黙合意で日本人民が必死に頑張ってきた・・いわば強迫神経症に陥っていたのが明治初年から日露戦争までの日本人でしたし、その代表的心情を表していたのが、夏目漱石ではないかというのが私の個人感想です。
その最後に最凶暴国ロシアとの対決になったのですから、国民あげて立ち向かったのですが、ようやく危機をしのいで世界の強国の一角を占めるようになると目標がなくなったことを言うのでしょうか?
目標喪失と一緒に戦費負担のマイナス(巨額戦費を賄うために国際金融資本からの借款取り付けに成功したことが勝因の一つとして知られています・この返済負担をどうするか)や使い切った武器弾薬.人員の補填に始まり、戦死者遺族や傷病兵の生活保障資金不足など国内経済矛盾を抱え込むようになりました。
ロシアに勝って満洲地域の利権を手に入れたと言っても目先の経済効果では、すぐに経済メリットがあったどころか中期的に見れば先行投資が必要になる関係です。
当面の効果は脅威を追い払っただけですから蒙古襲来後の北条政権崩壊原因を彷彿とさせる状態でした。
蒙古軍と戦った御家人に恩賞を与えられなかったと習いますが、恩賞というよりは防壁を築くためのコスト負担・・兵を集めて出陣すること自体で膨大なコストを負担させていました。
今風に言えば、大手ゼネコンの下請けで地元工務店が大規模受注用に機械設備を購入し人も増やしたが、施工後ゼネコン・幕府が代金を払ってくれないので地元工務店が下請けや大工職人・設備等納入業者に払えないという事態です。
モンゴル襲来時も多くの死傷者が出る=兵士=働き盛りの喪失=地域内生産力が下がる・・税収減の中での遺族や傷病兵の生活保障等がのしかかってきます。
個人間の喧嘩で言えば小競り合いの喧嘩でも怪我した方はその後全治何ヶ月かの治療で痛い思いをし、治療費がかかりその間思うように仕事ができず収入が減ります。
双方死力を尽くしての喧嘩の場合、そこへ受傷前の自分より半分以下の闘争能力しかない相手にも負けてしまう弱い立場になります。
だからこそ野生動物は滅多に喧嘩しないし、リーダーを決めるために勝負する必要がある時にもお互いに怪我しない程度で勝敗を決めて負けた方はスゴスゴと引き下がるルールになっています。
ライオンで言えば、相手を倒して勝ったとしても、ビッコになったのでは、うさぎ一匹も捕まえられませんので、10日もすれば空腹でフラフラでしょうし、他の猛獣の餌食になってしまいます。
だから猛獣といっても、死闘を挑んでくる相手と戦ったりちょっと自分より弱い程度の動物相手に日常的狩りの対象にすることができないのです。
平和を維持するには、無防備なウサギになるよりも適度な抵抗力が必要という軍事的常識はここから生まれてきます。
日本としては日清戦争の時のように領土と賠償金を欲しかったし必要だったのは確かですが、本来ヤクザの恐喝や強盗のように金を取るのを目的に戦争をするのはそもそも邪道です。
7博士の煽っていた講和条約論は「日清戦争と比べてその何倍を取るべき」という道義も何もあったものじゃない・・バナナの叩き売りのような道義を弁えないものでした。
そもそも、日本はこれ以上の継戦能力がなかったという能力限界があったかどうかよりも、(そんなことを知らないアメリカ国民が)ロシア大使ウイッテが、日本が金目的の戦争を仕掛けているかのようにアメリカ世論に訴えると、アメリカ国民の同情引きつけに成功していた経緯も出ています。

メデイアと学者の煽り4(日露戦争と帝大7博士意見書)

帝大7博士意見書に関するウイキペデイアの意見は著者不明ですが、上記7博士意見書に対する3月31に日現在では以下の通りです。

「七博士意見書」は戸水が主導した跳ね返り大学教授が、せいぜい新聞情報程度で書き上げたとしか思えない。その証拠として、次のような政府関係者ではまずしない誤りを犯している。
遼東還付条約について?であるが、日本は干渉と下関条約批准を分離したことを忘れてはならない。すなわち、三国干渉があった段階で下関条約で認められた割地を取り下げる約束を三国にしていたのである。この段階で、新たに遼東半島不割譲を清国に認めさせることは、下関条約を否定することであって、日本の行動としては自家撞着なのである。
ドイツが膠州湾を租借したとき、その弱小な海軍力に乗じ?開戦しろとの意見である。これは空論であろう。というのは、まだ2年ほどしか経過しておらず、ロシアがドイツに共同して参戦する可能性について否定できないのである。そのうえ当時、ジョセフ・チェンバレンがドイツと英独同盟をめぐり交渉中であり、イギリスの助力を得られたか疑わしい。
北清事変北京議定書評定の段階では、中国と和平について条件をつめていた。ロシア兵も北京の保障占領を実行して圧力をかけており、日本とロシアは同じ地平にたっていたのである。この段階で、ロシア兵の北京撤退を要求できない以上、満州撤兵?について圧力をかけるなどできる話ではない。
軍事力において日本が有利との指摘?であるが、間違いないことはロシア人はそうはみていなかったことである。さもなければ、開戦までの交渉においてロシアがいかなる譲歩もしなかったことについて説明がつかない。さらに、日本有利とする根拠は極東だけの比較であって、陸にせよ海にせよ、ヨーロッパからの援兵が即時あれば、不利は免れない。すなわち日本有利とするには、援兵の時間を考慮せねばならず、これは多年の研究をもってしても学徒に出来ることではない。
日英同盟条約第1条で、条約発動用件は列国の朝鮮への侵略的行動と中国における騒乱と限定しており、七博士のいうように、?単純にロシアに攻めかかっては、イギリスは局外中立を守る必要は生じない。軍事同盟は締結することによって戦争の抑止を図るが、それには日英同盟は失敗しているのである。
?はロシアの満州進出阻止を戦争の目的とせよというが、日英同盟はそれを許していなかった。さらに日本政府要路は、満韓交換論で日露が妥協できるとみていた。七博士は、そのときの外交交渉についてまったく無知であり、こういった議論するにあたっての十分な情報を欠いていたのである。
?清国の法は未だかつて露国兵の鉄道を保護することを認めず、というが、清国はロシア兵の鉄道保護のための駐兵を、李鴻章・カシニー密約で認めており、条約が国内法に優先するのは当然である。李鴻章・カシニー密約について知らないことはともかく、現状でロシア兵がいることをもって、想像をつけねばならないことと思われる。

七博士は十分な情報がなく、また日本政府の妥協案「満韓交換論」をロシアは拒否し、あくまでも朝鮮半島全域にこだわったことについて無知であった。そのうえ当時の学問レベルでも法理を十分に理解していたとはいえない。
ジャーナリストも同様であるが、学者が基本的情報を与えられずに外交方針を論じることは危険なのである。

政治外交を論じるのは勝手としても、それは聞きかじりを前提とするに過ぎない以上は、素人の憶測と変わらないものであって「学問発表とは言えない」し、帝大教授の権威を誇ると世論を間違った方向へ誘導する危険があるということです。
まして学問研究の成果発表ではないのですから、「学問の自由」とはなんらの関係もありません。
ここで学問の自由を標榜したこと自体、その後の学問おかちおを知恵む方向の始まりになっていったでしょうし、現在もメデイアが自己主張を通すために学者意見や声明を動員するる悪習に結びついています。
信長秀吉以来宗教界が政治に口出しする悪習を完全に断ち切って来た(徳川に入って最後の事件として紫衣事件を紹介しました)のですが、今は「学問の自由」を錦の御旗にして政治に介入する悪習を断ち切る必要のある時代に入っているように見えます。
信教の自由・宗教弾圧が起きるのは宗教が政治に介入するから起きることであり、日本では「宗教家は宗教そのものしかりやれ」という信長以来その心配がなくなっています。
・・・・ここで、再び客観事実紹介に戻ります。
ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。
ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国の世論を巧みに味方につけていった[10][11]。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求するきびしいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心をもつようになるだろうと考えたのである[10]。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では、日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた[10]。
それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、なかには激怒した記者もいたという[10]。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった[10][注釈 7]。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった
講和会議
8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった[11]。 交渉が難航し、これ以上の譲歩は不可能と判断した小村は、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。
全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同衝撃を受けたという[1
8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。
これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた[19]。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている[11]。アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した[18]。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった[19]。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。
1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した

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