立憲主義2と憲法改正1

12月23日の続きに戻ります。
基本的人権であれば、法で規制できないかのような刷り込みもおかしなものです。
証券取引法や独禁法の規制が自由主義経済を死滅させたでしょうか?
道路交通法や自動車の規格規制が車産業を死滅させたでしょうか?
サッカーや野球その他ルールが整備されてこそ、そのゲームが発達するのです。
表現の自由が重要であるならばこそ、本来必要な表現の自由を守りながらの規制努力が可能でありそれをすべきです。
アメリカ大統領選挙介入のロシアゲートに限らず外国政府が国内政治に簡単に介入できている現状に鑑みて言論の自由.信用を守るために、少なくともメデイアその他一定の公的機関で発言発表する前に、外国政府・機関とどういう関係があるかあるいは資金関係の開示義務その他の説明義務みたいなものから入っていくなどやる気になれば、いくらでも規制を進める方法があるはずです。
日本人が国外での日本批判を強める傾向についての問題点は(慰安婦問題でいえば、中国や韓国政府の代弁とはっきりさせるならば、「中国や韓国の意見はそうなのね!」と思って聞いているので正当な評価が可能ですが、日本人として、「慰安婦を性奴隷」であった「現実にあった」と主張すれば、中立の国の人々の受け止め方としては、「日本人でさえ認めているのだから・・」という影響力の大きさ・「客観事実の検証をするまでもない」という方向へ議論が流れてしまう・問答無用形式に流れる効果は半端ではありません。
まして政府から中立を装うメデイアや弁護士が主張すると大きな影響力があります。
これが事実検証もないまま、日本の大手新聞がいうのだから] と国連決議やアメリカ議会決議の流れを作っていった成功例?のように見えます。
「性奴隷」という主張は日弁連公式認定もなく特定弁護士グループがやっていることですが、いかにも日本の弁護士の総意であるかのようにイメージ・誤解させる効果が大きいでしょう。
誤解する方が悪いのではなく、発言者が自己の立ち位置をはっきりさせないと聞き手の多くが誤解する場合には、自己の立場をはっきりせない方に問題があります。
この場合、いわば肩書きを偽って意見表明しているのと似た効果があります。
サッカーその他のスポーツの試合で相手チームから金をもらっている選手が重要場面で失策するようなものです。
このような場合、直前あるいは継続的に大金をもらっていることが発覚すれば、本当の失策か八百長か?という問題が起きます。
所属チーム以外からのお金をもらっている場合、所属チームに届け出る義務を定めておけば問題がほとんど解決します。
メディアや弁護士が外国資金を得ているようなことは滅多にないでしょうが、いろんな意見が何故か特定国の利益に直結しそうな場合には、よほど立ち位置を慎重にする必要があるでしょう。
集団自衛権論でも憲法学者の意見と現実政策論とは次元の違いがありますが、その説明を省略.すり変えをして世論を誤導しようとしているように見えます。
憲法学をストレートに政治論にする意見は、以下に批判されるような偏りが見られます。
立憲主義とは、まずは立法府が必要な法を制定し、行政府がそれを執行した上で、それが違憲か否かの判断を最終的に最高裁判所で決めるものであって、学者が前もって決める権利ではありません。
政治評論家や経済評論家が前もって「〇〇の決断をするのが正しい」というのは自由ですが、政治家や経営者がどのような決断するかはそれぞれの分野のトップあるいは合議体構成員が決めることであり、決断者は有名学者の意見や世論調査の結果に従ったからと言って免責されるものではなく政治責任を問われます。金利政策で日銀総裁が消費税増税で多くの政治家が痛い目に遭っています。
どんな立派な学者の言う通りにしたのであろうと、景気が悪くなれば政治家はおしまいですし、憲法を守っていても外的に侵略を許して責任を免れることはできません。
以下に紹介するように戦後学問世界では自衛隊違憲論一色だったのですが今ではこれにこだわっている人は変わり者扱いですが、学者の誰が責任を取ったでしょうか?
政治家や経営者は結果責任を負うのが社会のあり方です。
実務と学問とは違うからこそ、経済運営であれ公共政策であれ教育政策であれ何であれ、各種専門家は専門分野の見地からみればどうかの意見具申するだけあって、・我々法律家も相談に際して「法的意見はこうですが、あとは経営判断です」というだけです・・最終判断は各種の意見を勘案して国民の負託を受けた政治の場で総合判断して決めるようになっています。
高校時代には学校の教えることしか知らないことから、先生が褒めちぎるプラトンやソクラテスが最高であるかのようなイメージがすり込まれた結果、その頃に習った「哲人政治」をすごい・何故そうならないのか?と単純に思ったものでしたが、大人になってくると専門家というのは、習った視野の狭い分野だけやっと理解できる・・2〜3流の人材がなるものだということが分かってきました。
ファジーな無限の可能性を総合判断する能力にかけては政治家・これもその道の専門家ですが・・に叶いません。
http://www.huffingtonpost.jp/akihisa-nagashima/right-of-collective-self-defense_b_9755976.htmlによれば以下の通りです。

「政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。
これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。
しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。
なぜでしょうか。
要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。
(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)
・・・・「要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。
これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。
もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。」

上記解説の通り私の勉強した当時の憲法学では、自衛隊合憲論は、「烏を鷺(サギ)というようなものだ」という意見が、(司法試験の基本書になっていた)権威ある学説でした。
このコラムは自宅で暇つぶしに書いているので(その本は事務所にあって)そのままコピペ引用ができませんが、その比喩にインパクトがあったのでよく記憶していますが・・。
自衛隊違憲判断の推移は、厳然たる歴史事実(今では「自衛隊は違憲であるから解体すべき」という意見の人はごく少数でしょう)ですが、学者の言う通り自衛隊違憲論を選択した方が正しかった・・結果が良かったとは、国民のほとんどが認めていないでしょう。
無防備の時に韓国が李承晩ラインを設定し竹島が占領したのですが、もしもそのまま無防備を続けていれば、今頃中国は尖閣諸島を簡単に占拠していたでしょう。

立憲主義とは?1(共産党と憲法1)

日弁連が、実態無視で「窮乏を極め」と一方的言いっ放しで自己満足している(のか、その後の変化で意見を修正したのか 修正の動き中かが、ネット検索では不明ですが)のを見ると昭和40年代に流行った全学連のタテカンの延長みたいなイメージで「一人よがり」のイメージしか一般に与えないように思えますが・・。
もしかして、全共闘世代の生き残りに憧れている人たちが、日弁連の政治関連分野の委員会を牛耳っているのかもしれません。
すべて、この世の中に格差のない関係がない・・病人と健常人の違いもなければ、20歳〜40歳〜60歳の体力差もない、身長体重の差もない、足の早い人と遅い人との差もない・・究極の無格差社会など論理的に想定不可能です。
人間に限らず動植物どころか富士山のように秀麗な山もあれば、奇岩怪石・風光明媚な場所や目を背けたくなる様な景色や、レアアースもあればただの土塊もあるなどすべてに違いがあります。
何事にもいろんな品質差があるのを認めながら、それによって生じる格差(特に人間に限って)をどうするかが人類の知恵の出しどころでしょう。
商品の場合、品質差が5%しかなくとも精密部品ではゼロと100の利用価値差が生じることが多いですが、人間の場合そうは行きません。
5%の能力差が80〜100%の差にならないように、(足が弱くて展望台に登れない人がエレベータのおかげで展望台に登れるように)機械その他で弱点を補充するのが人間社会の知恵です。
格差社会反対と唱えていれば何かの解決に資するものではないし、枕詞に格差社会という流行語さえ使えば主張が正しいかのように振るまって合理的議論が止まってしまうような形式に持ち込むのは合理的対話や対策阻害・社会の停滞を招く論法です。
革新系に多い、憲法9条を守れとか平和主義・戦争反対論も同じで「戦争反対」と叫んでいれば平和を守れるものではないし、犯罪撲滅といえば犯罪がなくなるわけでないことは、中高校生でもわかる論理ですが、いい大人になってもわからない人もいます・・・これこそが能力格差社会の象徴でしょうか?
特定秘密保護法案や共謀罪法案をきっかけに?「近代法の法理を守れ」とか、「護憲」からいつの間にか「立憲主義」という新たな観念論の宣伝が広がり始めました。
一つには「国民大多数の反対を押し切って・」という常套文句が自民党政権の総選挙連続圧勝によって成り立たなくなったので得票数多数でもレベルの低い庶民の票にすぎない、「本当のありがたい価値観を教えてやる」必要が出てきたので、憲法違反主張が出てきたのですが、肝心の「憲法改悪」の動きが出てきてその支持者が着実に増えて来たので、憲法違反とか、憲法を守れというだけではまにあわなくなってきた・・「憲法を守れ」では頼りなくなってきた(はっきり言えないが憲法改正阻止が必要になった)からでしょうか?
このような標語が法律家内でさえも特定集団以外に支持が拡がらないらしく、1〜2ヶ月ほど前に判例時報の臨時増刊号として「法曹実務にとっての近代立憲主義」という本を送ってきました。
(タダでなく定価が着いています)
立憲主義運動にピンとこない法律実務家が多いので、教育が必要というイメージです。
(私も理解の遅れているグループです)
9条を守る会等の護憲運動系の弁護士によると「最近お金にならない委員会や集会に若者が集まらない」という嘆き節が聞かれますが・思想・意見が合わない若手が多くなったからではないでしょうか?
上記本の最後の方に立憲主義の流れの素描があり、「知識階級」が立憲主義を正面から言わなかったのは、以下のような歴史的経緯によるようです。
同書262pによると

「戦後立憲民主主義という言葉が消え、それは『民主主議』で代用されてきた。・・終戦後・・民主主義は万能薬のようになった。知識階級で影響力を強めたマルクス主義が、民主集中制や前衛党独裁を許容する『民主』を好み、ブルジョア的代議制と親和的な『立憲』を嫌った面もあろう・・」

なんとなく「知識階級」にとっては、ソ連の隆盛な時には、「立憲主義」の重要性などとても言えた状況ではなかったイメージが伝わってきます。
そもそもソ連や中国では憲法がどういう扱いになっていたのでしょうか?
中国現憲法についてのウイキペデイアの解説です。

現行82年憲法においては、75年憲法や78年憲法と異なり、憲法の具体的条項の中に「共産党」という言葉は登場せず、それが登場するのは、前文においてのみである[27]。憲法は一方で、前文第13段および第5条第4項において、すべての国家機関、武装力、各政党、各社会団体、各企業・事業組織は憲法および法律を順守しなければならない、と規定している。中国の憲法学者の多くは、この「各政党」の中には当然、共産党も含まれると解釈しており、一見、共産党は憲法体制の枠内にあるかのようである[27]。しかし他方、憲法前文に、「4つの基本原則」が規定されており、しかもこの原則の中核が「共産党の指導」の堅持であるがゆえに、共産党は、実質的に超憲法的存在となっている

http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v4/wtr/china.htmlによれば以下の通りです。
中国の国家制度の憲法的枠組み
弁護士 森川伸吾

中国においては天賦人権思想は否定されているが、これも「独裁の客体には権利を認めない」という思想と理論的に整合するものである。
・・人民民主独裁の「民主」と対応して、中国においては「民主集中制」が採用されている。・・・中国においては「反体制活動をする自由」は否定されているため、中国でいう「民主」は「多数決原理により意思決定を行なう」点に重点がおかれたものになっている。
中国においては権力分立制は民主集中制に矛盾する制度として否定されている。このように、中国における「民主」の概念は、市民の高度の政治的自由及び権力分立制を前提とした西側諸国における「自由主義的民主」の概念とは異なるものであり、「社会主義的民主」と呼ばれている。米中間で「民主」についての議論がかみ合わないのも、このような「民主」概念の差違に一因がある。
政党制度に関し、憲法前文においては中国共産党の政治面での指導的地位が明記されている。 共産党は政治に対する支配的影響力を事実上有するが国家機関ではなく、法的な意味での国家権力を行使するものではない。なお、共産党以外にも「民主党派」と呼ばれる八つの政党があるが、これらは「共産党の指導を受け入れて共産党に協力する」という存在であり、共産党と対立するものではない。
ところで、1999年憲法改正においては「社会主義法治国家」という概念が強調された。これは「人治」から「法治」への流れを憲法上確認するものである。但し、この「法治」は,国家は国家権力が定めた法に従って統治されるという概念であり,国家権力を制限する「法」の存在を認める「法の支配」の概念とは別のものである。また、法の制定主体である国家権力は共産党により指導される存在である。したがって、この「法治」と「党治」(共産党による支配)は両立する概念である。

上記の通り憲法があっても共産党が超法規的になんでも出来る仕組みのようです・党規律委員会が警察の上位機関として好き勝手に拉致していける・これが外から見て日常的に独裁/恐怖政治が簡単に実行されているように見える根源でしょう。
ソ連もいわゆるスターリン憲法が制定されていましたが、大同小異だったのでしょうか?
このように見ていくと日本の立憲主義とは共産党万能の中国型をいうのか、西欧型をいうのかの定義から入っていく必要がありそうです。
この本で初めて知ったのですが、それまで革新系の弁護士は何かというと憲法違反を主張する総本山みたいに思っていましたが、それは政府批判の方便として利用していただけであって本気の憲法重視論ではなかったようです。
どんな立派なことを憲法に書いていてもその上位の共産党がなんでも出来るのでは、憲法がないに等しいでしょう。
テロリストがテロの現場まで行く途中、交通信号やルールを守っているのと同じです。
原水禁反対、公害反対と運動しながら、中ソの公害や原水爆実験・軍事威嚇には何も言わない二重基準が不思議だと常々思っていたのですが、自分たちが政権を取れば言論弾圧や公害垂れ流しの批判を許さない予定だったからでしょうか。

非武装論と受益者1

自衛権がない・・憲法に書いてあるから内容の是非を問わない・・護憲派の集団自衛権論争も内容の是非よりは憲法違反かどうかだけをテーマにしています。
非武装しかないと主張しながら、そのとおりすると民族自立はどうするのかと言う議論には応じない・・。
兎も角(内容の議論など応じる必要がない・・)立憲国家である以上は憲法に従うべきだと言うだけです。
「憲法に書いているとおりだと良くない結果になる」と言うならば、「憲法改正を提案したら良いでしょう」そこで「国民判定を待ち、勝負しましょう」と言うならば普通の議論ですが、彼らは憲法改正を論じること自体に反対しています。
この意味で護憲派と言うのでしょうが、改正論を議論すること自体が憲法違反のような勢いです。
護憲勢力が、「憲法9条を守れ」と主張し運動していますが、例えば日弁連などが憲法を守る義務あることと改正自体に反対することは別・・どう言う憲法が良いかの意見や運動は、純粋な政治運動になるのではないでしょうか?
政治活動ならば、非武装のママでしかも相互防衛条約がなくて一国だけで防衛出来るのかなどの当否を正面から議論すべきです。
相互防衛条約を結べば相互に応援しあうのは当然のことになります。
非武装論者と護憲勢力が概ね一致しているので、内容の議論に入ると「憲法に書いている以上は守るべき」で議論する必要がないという循環論ですから,普通の人が聞いていると頭がおかしくなりそうで「偉い人の言うことはよく分らない」と言う形で(日本人は相手をバカにしません)議論から遠ざかります。
非武装論者はこれが狙いで論破したつもりでしょうが、国民の多くは納得していないので、選挙になるとおかしな議論をしている方の支持が少ない結果になります。
憲法改正の当否に関する運動は、革命騒動を見れば分るように国家の基本を変えるかどうかの尖鋭な政治そのものですから、これに反対するのは憲法遵守義務と関係のない政治主張です。
日弁連が直截9条を守る会を運営していないのは、「弁護士会が政治活動すべきではない」と言う縛りに関する配慮でしょうが、地方単位会では9条を守る会に堂々と便宜を図って会館を利用した集会などが行なわれている印象→何気なく見ている印象しかなく、正確に見れば、単位会これらの文書配布に関係しないよう・・関係者が勝手に会員のメーボックスに投函しているので、事務員が持ち帰っているだけでかもしれず、会としては慎重に区別しているのかも知れないと言う意味です。
非武装論者は「憲法改正絶対阻止」と言う立場で改正論を議論すること自体に反対ですから、要は外国支配を受けても非武装論の貫徹をすべしと言う立場を護憲運動と言い換えているに過ぎないことが分ります。
護憲=国民は憲法を守りましょうと言う運動は、正に立憲主義の元にある弁護士会の正当な運動ですが、護憲に名をカリテ憲法改正反対運動をするのは純粋な政治活動です。
米ソ対立時の非武装論は、一方に加担しない・紛争に巻き込まれない消極的効果がありましたが、(全て本来の中立などあり得ない・・苛めているときに黙って見ている・・意見を言わないこと自体が強い方の味方であると言う意見を大分前に書いてきました・・)アメリカ支配下にありながらアメリカの応援をしないこと自体が、アメリカの敵方の消極的支援になります。
それでも他人間の戦争・紛争に巻き込まれるのはイヤと言うのは、(個人で考えれば分らないが友人が殴られているときに傍観しているようなこと(・・そんな自分勝手で世間に通用するかの問題意識が必要ですが、)一応の説得力があり戦争に懲り懲りした民意にもあっていました。
米ソ対立がなくなった後・・他人間・・アメリカとどこかの争いではなく、日本が当事者である日中、日韓の対立になっても「巻き込まれるのはイヤ!・非武装論貫徹論」は?どう言う意味があるのでしょうか?
日本国益を守ることに加担しない=日本人がにっぽんと外国との争いに中立であることなど論理的にあり得ません。
自分と友人との争いに自分が中立だと言っているようなもので、・・右手で戦っているときに左手は、中立と言うような意見で、言わば狂人の論理です。
日本人でありながら,相手に何をされても抵抗するな!と言うのは、外敵を利する行為ですから、あいつは簡単だと言う気持ちにさせる・・外敵誘致するための政治運動になります。
2者・隣国と一触即発状態で争っているときに一方だけ非武装のママが良い・・「軍備増強して戦争に備えることを許さない」・・と言う国是ってあり得るでしょうか?
戦略的にここは引いた方が良いから、外交交渉で・・と言うこともありますが、選択肢ではなく、頭から「どんな条件でも言うことを聞きます:」と決めている国がどこにあるかと言うことです。
戦前で言えば一方の国は無制限に海軍力を増強出来て日本だけ軍備生産を増強禁止されているような片手落ちの競争条件が正しいと主張している関係です。
民事事件で言えば一方だけ弁護士相談を禁じるべきだと言う意見は、どちらの利益のために主張しているのかと言う明白な事実です。
戦略的に・・弁護士相談したがその上で「ここは弁護士を表に出さない方が良い」言う選択は勿論ありますが・・相談自体をしてはいけないという意見を批判しています。
あるいは武士が喧嘩相手から呼び出されて村はずれの場所に行けば、斬りあいになることが予想されるときに一方にだけ刀を持って行くのを禁じる・・丸腰で行かざるを得ない不公平な条件です。
これは法律論ではなく、特定勢力に有利にするための単なる政治運動であり、極めて尖鋭な政治運動そのものです。
政治運動でしかないのに、法律論のように見せかけて憲法学者が如何にも国民よりも優越的識見があるかのように声明を出す事自体がおこがましい・・ここでも政治論を法律論にすり替える誤摩化し・・僭称する図式が見られます。

憲法の本籍(国民主権)3と護憲運動1

国内政治論争は、日本国内問題解決にどうしたら良いかの議論であるべきなのに、護憲勢力は憲法内容の合理性如何に関わらず,内容の議論から逃げて護憲、護憲と言う形式論に固執し、しかも正当性の裏付けを海外・・国連での意見採択などに求める傾向があるのは、元々の成り立ちが背後のアメリカの意向を「イヤらしく」利用しようとする勢力だからです。
最近の例では集団自衛権必要性の議論を一切せずに「憲法違反を許さない」と言う合唱ばかりです。
彼らのよって立つ戦略は、「日本がアメリカの残した憲法を骨抜きにしょうとしていますよ!」とアメリカを中心とする外国勢力にアッピールすれば、アメリカを中心とする国際社会の支援を受けられる・日本人がヘコムしかないだろうという高度なイヤらしい意図が見え見えです。
この延長線上で、アメリカの支援に関係なく純粋国内問題でも、国内政治テーマにすべきことまで国内議論をしないまま先に国際問題に広げて国連でこういっていると言う動きが慰安婦騒動以来発達してきました。
慰安婦騒動のぱあい、朝日新聞の大誤報に端を発して国民的議論がないまま国連報告書が出されてしまい、こう言う報告があるから仕方が無いじゃないかと言う決め付けから始まっています。
NGOヒューマンライツナウに関して 年末に書きかけて先送りになっていますが、最近では、NGOと言うものを作って、児童保護など純粋の国内政治論を、国連へ出掛けて行ってロビー活動する・・その挙げ句に国連調査官と言う人物の招聘に成功して,実態調査もしないでNGO関係者からの聞き取りだけを元に、日本の性道徳の退廃は酷いものだと言う印象の記者会見をやらせるまで発展したのはこの一例です。
最近左翼が運動している憲法9条に対するノーベル平和賞運動もその一例でしょうか?
海外で日本の悪評・・ほめ殺しを広げてこれを利用する政治運動のあり方に関しては、後で上記NGO問題のシリーズの続きでもう一度書きます。
話がそれましたが、憲法論に戻ります。
新商品の例で言えば、事前にどんなに綿密なテストをしても・・実際に顧客が使い込む過程で想定外のトラブルが生じるのが普通で、使ってもらいながら商品の改良をして行くのが一般的です。
いろんな法律も・・日本国憲法も、運用して行くと、不都合が起きて来る点では、あらゆる商品と本質は同じです。
最近では、運用実績を見てから修正することを織り込んで施行後3〜5年経過後に見直す規定をおく法律が増えています。
李承晩ライン・竹島問題や朝鮮戦争が起きてみると理想論ではうまく行かない・・周囲には強盗国家がいるのにどう対処すべきか、非武装のままでは民族を守れないと言う問題意識が定着してきました。
これまで書いて来たようにソモソモ「国民主権に基づく憲法」としては自民族の生命を守るための自主防衛すら出来ない建て付けには無理があったことが、明白になったのです。
しかし、アメリカのメンツを潰さずに済ますための智恵として、特定条文が国民のためになる内容かどうか・・文字どおり読むと自民族のためにならないときには現憲法を生かしておくための智恵として「国民のためになるように」解釈して行く智恵が生まれました。
実はアメリカ自身、朝鮮戦争勃発以来日本を対共産圏向け軍事同盟国・・補完勢力として利用する必要が生じたのですが、憲法9条が矛盾するので重荷になっているのですが、自分の作った憲法が民族自立を妨害する・人道に反するもので無効だとは言えません。
ですから,護憲勢力・9条論者とは、実はアメリカによる日本に対する脅しを利用しているのではなく、アメリカが正面から反対出来ないことを悪用してアメリカの対日政策の変更を妨害している「イヤらしい」勢力になります。
集団自衛権論争も同じで、「日本がアメリカの作った憲法に違反しようとしている・アメリカの主導する戦後秩序を破壊しようとしている」とアメリカに訴えるのは一見アメリカに忠実なように見えて,実質はアジア安保維持のために日本のよりいっそうの協力を求めるアメリカの足を引っ張るためのイヤらしい行動になっています。
幕末に幕府に忠誠心を持たない薩長が、神君(家康)以来の「祖法」を守れ・・攘夷決行を主張→・・やれば欧米列強に対して勝ち目がないのが明らかで、結果的に欧米の植民地になってしまうリスクがあって幕府が実行出来ないことを知りながら、攘夷決行を幕府に迫ったのと同様の手法です。
これが狡い便法に過ぎなかったことは、自分たちが政権を取ったら,欧米に迎合して直ぐに開放政策に転じたことを見ても分ります。

憲法の本籍(国民主権)2

占領下で制定され、何をされても交戦権・・戦う権利がない・・無抵抗でしか対応出来ない憲法など、世界のどこの民族にもありませんから、内容から見て近隣国の奴隷民族になれと言うに等しい内容です。
時には無抵抗主義も選択肢の1つですが、飽くまで選択肢であって何をされても一切抵抗してはいけないというのでは、選択肢ではありませんから相手にバカにされるだけです。
非武装・・何をされても抵抗出来ないと決めた場合の効果を考えてみましょう。
牛が屠殺場に引かれて行くような結果が待っています。
子孫にとてつもない不利益を強制している憲法となれば、民族のための憲法としての効力を持っていないことは間違いがないでしょう。
現在社会では異民族支配を受けている場合でも、その国の法律は平等に適用されます。
例えばアメリカで言えば、今では黒人も公民権が認められ、同じように違法行為があれば正当防衛する権利があるし、裁判を受ける権利があります。
運用上の差別があるかどうかは別として法律上は平等です。
日本国憲法の場合、「交戦権を認めない」と言うのですから文字どおりに読めば、異民族が個人で強盗や殺人をすれば犯罪処罰出来ますが、戦争と言う名目で多くの日本人を殺したり略奪すれば、「国際紛争」ですから、日本政府は「解決する手段」としての「交戦権」・・正当防衛が許されない・・抵抗権がない→犯罪にもならないことになります。
憲法
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

犯罪でない以上は、殺されそうな日本人は個々人としても、正当防衛する権利もない・・黙って無抵抗で殺されたり略奪されたりするのを見ているしかないと言う制度設計です。
実際に敗戦直後に行なわれた李承晩ライン設定による漁民に対する大量殺害は、(竹島占領を伴っていますし・・)日本侵略の戦争行為だったとすれば、自衛権がないと言うことで、犯罪として処罰することも出来ず、日本はナスがママにされていました。
最近の尖閣諸島での領海侵犯行為も戦争・・国際紛争そのものですから、憲法を字義どおりに読むと領海侵犯して来た船を「紛争解決手段として」「武力では」どうすることも出来ないことになります。
日本政府は中国人の不法侵入者や漁船体当たり行為=器物損壊や公務執行妨害行為を武力行使としての検挙が出来ません・・民主党政権はこう言う解釈で釈放したのでしょうか?
ソ連の千島占領も、韓国の李承晩ラインも勘ぐればアメリカは将来の日韓や日ソに火種を残すために裏で唆し,黙認した可能性があります。
(・・ダレス長官だったかが蒋介石に沖縄をやっても良いと言い、蒋介石は将来日本との紛争のタネになるので、いらないと断ったと言うやりとりが知られています。)
そこで、憲法全体が無効かどうか以前に自主憲法制定論が、占領終了と同時に当然起きてきました。
異民族支配を脱した場合歴史上多分100%の国(世界中を調べていないので分りませんが)では真っ先に占領・支配道具として作られたルール・憲法を廃止して新憲法を作るものです。
米軍内で日本国憲法草案造りに参画した人に後にインタビュー・・強制があったかどうかと言う愚にもつかない質問をするために?行くと、まだそのまま残っていると聞いて絶句したと言われています。
条文を考えて作っている人達自体,どこの国でも占領軍が帰れば自分の憲法を作るので、占領期間だけの法制度と思って作っていたと言うのです。
占領軍に忠誠を誓った学者・官僚が占領が終わった後も律儀にそのまま守っていること自体が驚きだったようです。
千年、万年単位で欧米より進んでいる日本人の智恵としては相手がいなくなると直ぐに敝履のごとく廃棄するのはカドが立つと言う智恵だったのでしょう。
日本人の古来からの智恵・・波風を立てないと言う意識を利用して、いなくなった占領軍に代わる監視役のように憲法・・アメリカの作った戦後秩序を守れと言う勢力が幅を利かす状態が戦後70年も続いて来たことになります。
根気の良いことですが、護憲勢力は日本人が何故後生大事に憲法をそのまま使っているかの真意を知らないで、(あるいは知っていても)何かあると「憲法違反と息巻けば良い」騒げばアメリカが黙っていないだろう・・アメリカの鼻息を窺わざるを得ない日本政府・・ひいては日本人が黙ってしまうと言う読みで、良い気になっていたように見えます。

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