憲法9条は押し付けか?(自衛隊違憲?)

ここでは自衛隊違憲合憲や改正の是非はテーマではありませんが、これまで見てきた資料の中に文民条項が入った時の経緯が出ていますのでついでに紹介しておきます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.html
日本の自衛権保持問題

4-11 極東委員会と文民条項
極東委員会が1946(昭和21)年7月2日に採択した「日本の新憲法についての基本原則」には、国務大臣は文民(civilian)、すなわち非軍人でなければならないとする原則が盛り込まれており、8月19日にはマッカーサーもこのことについて吉田首相に申し入れた。しかし日本側は、第9条第2項が軍隊保持を禁じている以上、軍人の存在を前提とした規定を置くのは無意味であると主張し、文民条項は置かないことでGHQ側の了解を得た。
ところが、いわゆる「芦田修正」により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」という語句が加えられていたことに極東委員会が注目したため、文民条項問題は再浮上することとなった。すなわち9月21日の会議で、中国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊をもつ可能性があると指摘した。そのため、検討の結果、同委員会は文民条項の規定を改めて要求することになった(同月25日決定)。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された。
なお、「文民」とは、このとき貴族院小委員会でcivilianの訳語として考案された造語である。

上記の通りの経緯で文民条項が復活しましたが、連合国の前提には平和国家でも当然自衛権があり、そのための国防軍を保持できる前提だったので文民条項が必須だったのですが、上記経緯で一旦これが消えそうになっていたものです。
この経緯・・軍自組織がなければ、文民条項不要なので、憲法に文民条項が置かれた経緯から見ても関係国みんなが自衛軍を持てる前提で議論していたことがわかります。
13日に紹介したSWNCC228の「天皇は軍に関する全ての権威を剥奪されるべき」と言う根本原則・・「(4) The Emperor shall be deprived of all military authority」も、軍の存在を前提にしています。
SWNCC228は秘密にされていたので、日本側は米国の真意・落としどころ不明のまま過剰反応で、GHR草案をそのまま受け入れてしまった印象があります。
旧態然とした天皇制度維持にこだわってしまったことから、1946年2月13日にそんな改正案しかないのならば、天皇の身の安全を保障出来ないとGHQに脅されて腰を抜かした関係者が、米国が本音ではこだわっていない分野まで過剰妥協してしまった・交渉ミスだったとも読めます。
2月13日に日本側に手交されたGHQ草案を見ておきましょう。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

 CHAPTER I
The Emperor
Article I. The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.
Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.
中略

  CHAPTER II
Renunciation of War

Article VIII. War as a sovereign right of nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.
日本国憲法

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

政府は上記のとおり、GHQの勢いに飲まれた担当者が唯々諾々・まともな交渉にも何もならなかった腰砕け状態日本側の憲法改正案になった印象ですが、いわゆる芦田修正「前項の目的を達するため」が徳俵で一本残した印象です。
これがなくとも法理論上自衛権を持てるという考えが普通かもしれませんが、あった方がなお一歩自衛のための戦力保持に近づく印象は否定出来ないでしょう。
今になれば、自衛隊合憲(国民世論)が多いので、芦田修正の意味は大したことがないという人が多いかもしれませんが、戦後10〜20年間くらいは自衛隊違憲論が強く、砂川事件など憲法訴訟がしょっちゅう起きていたことを考えるとやはり芦田修正の影響力が大きかったと思われます。
http://www.sankei.com/life/news/131109/lif1311090026-n2.html

2013.11.9 07:38更新
【中高生のための国民の憲法講座】
第19講  憲法9条 芦田修正が行われた理由 西修先生
芦田氏は、昭和32(1957)年12月5日、内閣に設けられた憲法調査会で、以下のように証言しています。
◆自衛の戦力保持可能
「私は一つの含蓄をもってこの修正を提案したのであります。『前項の目的を達するため』を挿入することによって原案では無条件に戦力を保持しないとあったものが一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。そうするとこの修正によって原案は本質的に影響されるのであって、したがって、この修正があっても第9条の内容には変化がないという議論は明らかに誤りであります」

皇室典範は憲法か?2(天皇観の根本変化の有無6)

46年2月13日以降の動きは以下引用紹介の通り、最後はGHQ案で押し切られる展開です。
ポツダム宣言受諾交渉で国体護持を条件に引き延ばしていた結果、原爆投下によって最後に無条件降伏になったのとおなじ・無駄な抵抗のパターンですが、GHQがこのままだと「天皇の身体の保障ができない」と先に教えてくれたので原爆投下やソ連参戦のような悲惨な結果にならずにすみました。
結果がわかっていても国内政治力学上、(国益よりも自己保身が先に立つ?・・ポツダム宣言受諾引き伸ばしの結果、ソ連参戦と原爆の惨禍に遇いました)このようなパフオーマンス・手順が必要だったのでしょうか?
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html国会図書館資料引用の続きです。

3-15 GHQ草案 1946年2月13日
民政局内で書き上げられた憲法草案は、2月10日夜、マッカーサーのもとに提出された。マッカーサーは、局内で対立のあった、基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定の削除を指示した上で、この草案を基本的に了承した。
その後、最終的な調整作業を経て、GHQ草案は12日に完成し、マッカーサーの承認を経て、翌13日、日本政府に提示されることになった。日本政府は、22日の閣議においてGHQ草案の事実上の受け入れを決定し、26日の閣議においてGHQ草案に沿った新しい憲法草案を起草することを決定した。なお、GHQ草案全文の仮訳が閣僚に配布されたのは、25日の臨時閣議の席であった。
3-17 「ジープ・ウェイ・レター」往復書簡
1946(昭和21)年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与えたことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。白洲は、「松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にするだけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対して、GHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。
この書簡に対して、ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡によってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。
3-18 松本国務相「憲法改正案説明補充」 1946年2月18日
1946(昭和21)年2月13日、外務大臣官邸においてGHQ草案を手交された後、松本烝治国務大臣は、ただちに幣原喜重郎首相に報告・協議を行った結果、再説明書を提出して、GHQの再考を促すこととなった。
再説明書は、「憲法改正案説明補充」という表題を付し、英訳され、2月18日、白洲次郎終戦連絡事務局参与によりGHQに送達された。
しかし、ホイットニー民政局長は、「松本案」については考慮の余地はなく、GHQ草案を受け入れ、その原則を盛り込んだ改正案を作成するかどうかを20日中に回答せよと述べた。
1946(昭和21)年2月19日の閣議で、初めてGHQとの交渉の経緯とGHQ草案の内容説明が行われた結果、21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーを訪問し、GHQ側の最終的な意思確認を行うこととなった。
翌22日午前の閣議で、首相から会見内容が報告され、協議の結果、GHQ草案を基本に、可能な限り日本側の意向を取り込んだものを起案することで一致し、同日午後に、松本烝治国務大臣が吉田茂外務大臣及び白洲次郎終戦連絡事務局参与とともにGHQに行き、GHQ草案のうち、GHQが日本側に対し変更してはならないとする部分の範囲について問いただすこととなった。
「会見記」は、22日午後の会見内容について松本自身が作成したメモである。また、ハッシー文書中の資料は、この会見についてのGHQ側の記録である。
松本等は、GHQ草案は一体をなすものであり、字句の変更等は可能だが、その基本原則についての変更を認めないとのGHQの返事を得た。
松本は、首相官邸に戻り、首相に報告するとともに、GHQ草案に従って日本案の作成に着手した。
3-20 日本国憲法「3月2日案」の起草と提出
1946(昭和21)年2月26日の閣議で、GHQ草案に基づいて日本政府側の案を起草し、3月11日を期限としてGHQに提出することが決定された。松本烝治国務大臣は、佐藤達夫法制局第一部長を助手に指名し、入江俊郎法制局次長にも参画を求めるとともに、自ら第1章(天皇)、第2章(戦争ノ廃止)、第4章(国会)、第5章(内閣)の「モデル案」を執筆した。
以下略
3-21 GHQとの交渉と「3月5日案」の作成
1946(昭和21)年3月4日午前10時、松本烝治国務大臣は、ホイットニーに対し、日本案(3月2日案)を提出した。GHQは、日本側の係官と手分けして、直ちに、日本案及び説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれて、GHQ側は、GHQ草案と日本案の相違点に気づき、松本とケーディスとの間で激しい口論となった。
松本は、午後になって、経済閣僚懇談会への出席を理由に、GHQを退出した。
日本案の英訳作業が一段落した夕刻、GHQは、引き続いて、確定案を作成する方針を示し、午後8時半頃から、佐藤達夫法制局第一部長ら日本側と、徹夜の逐条審議が開始された。審議済みの案文は、次々に総理官邸に届けられ、5日の閣議に付議された。同日午後4時頃、司令部での作業はすべて終了し、3月5日案が確定した。
閣議は、この案に従うことに決し、午後5時頃、幣原首相と松本国務大臣が参内して奏上した。
「3月4・5両日司令部ニ於ケル顛末」は、4日から5日にかけてのGHQにおける協議の顛末を佐藤が克明に記録したものである。上から二番目の資料は、総理官邸に逐次届けられた審議済みの案文を取りまとめたもので、閣議で配布された資料の原稿となったものである。

上記についてはそれぞれ当時の担当者のメモその他の資料原文が出ていますので関心のある方は資料を直接お読みください。
上記の通り、日本政府は白州次郎を立てて抵抗を試みたが一蹴されてGHQ案通りに日本語の法律用語に書き換えて完成したのが現憲法です。
現憲法と、2月13日のGHQ草案を読み比べれば、9条関係で芦田修正などが入りますが天皇関連骨子はほぼ同旨であることがわかります。

天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

天皇観が根本変化したか3(憲法草案要綱・民間案)

憲法草案要綱に関する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1の記事からです。

戦前からマルクス主義者の立場から自由民権運動を中心に憲法史研究を続けていた鈴木安蔵が起草し、それに対して憲法研究会で出された意見等により修正を重ねて3案まで作られたもので、全58条からなる[1]。小西豊治によれば、憲法研究会の中心人物は鈴木であり、第三次案を執筆したのも鈴木である[2]。
「要綱」は、
「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」
など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。
このほか、詳細については以下の通りである。
議会については、二院制を採用しており(GHQ草案は一院制)、全国1区による大選挙区制による一院と職能代表による二院とで構成するかたちをとっている。また内閣については、議会に対して責任を負う議院内閣制を採用している。
司法については、大審院院長・行政裁判所長・検事総長を公選とし、冤罪に対する刑事補償規定がある。
憲法公布後10年以内に国民投票による新憲法の制定をおこなうことが規定されており、憲法の位置づけを暫定的なものとしている。
鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。
「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。」

国民主権の宣言の歴史と「要綱」の作成経緯
1945年11月21日、憲法研究会第三回会合が開かれる。第一次案として国民主権と立憲君主国の規定を含む案が鈴木から示される[18]。 会合において、室伏は「…天皇は…儀礼的代表としてのみ残る。…」と発言し、森戸は「天皇は…君臨すれども統治せずの原則により…国家の元首として国家を代表し…」と発言する[1
1945年11月29日、鈴木が第二次案をまとめる。天皇が元首と宣言されている[1
1945年12月11日、鈴木が第三次案を作成する。元首の規定は含まれず、天皇は国家的儀礼を司る、とされる
1945年12月16日、近衛文麿が自決する[22]。
1945年12月26日、憲法草案要綱が首相秘書官に渡され、GHQにも渡された[
1946年1月11日、ラウエルはGHQに「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」を提出する。その中で、国民主権を評価し、一方で修正する点として、憲法改正には国民投票が必要である等を挙げる[30]。
1946年2月3日、マッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。
1946年2月12日、マッカーサー草案が作成される。
1946年 春から夏、GHQと日本政府の駆け引きにおいて、GHQは、天皇が儀礼的形式的機能をもつような表現とするように要求する。
小西によれば、GHQの要求はこの草案に基づく
小西によれば、国民主権の規定は、アメリカが見逃していた、日本国憲法の核心部分である

上記は小西氏の自画自賛的でにわかに賛同できません
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

1-12 SWNCC極東小委員会「日本の統治体制の改革」 1945年10月8日
1945(昭和20)年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年1月7日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成される。本文書は、日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。

上記のとおり占領政策の基本はもともと国民が決めればそれで良いという「民意重視」でしたので、国民主権論は憲法要綱案作成者の手柄でも何でもありません・・。
研究会草案は、在野の気楽さでアメリカの本音をその通り成案にしてお先某担ぎ出来ただけかもしれません。
戦後すべての分野で、(昨日憲法学者を紹介しましたが)アメリカの動向先取り発表がエリートへの道でした。
商工業医薬等の実務すべての分野でアメリカが進んでいて、これを実習して帰ると日本では10数年には日本の商工業・証券や金融取引その他のルールになるのですから、やむを得ないでしょう。
上記民間発表だけではなく、46年元旦には(敗戦の詔勅につぐ初めてのお言葉でしょう。)いわゆる天皇の人間宣言が出ています。
これによれば天皇自身が天皇の地位は
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、・・」
とあって、民意によることを自ら表明しているのです。
人間宣言が歴史的に重要なのでそればかり取り上げられますが、この時点で天皇自身が自分の地位は民意による点をすでに打ち出していた点を重視すべきでしょう。
ここまで天皇が踏み込んでいるのに、周辺はそこに触れられなかったのです。
この辺は、マッカーサーとこ会談で天皇自身が「自分の命でどうでもなるならば国民の困窮を救って欲しい」と述べた肝心の部分をあまりにもおそれ多いということで公式記録から削除されてしまった経緯と同じです。

皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)

年末から関心の続き・今日から17年12月30日の続きに入っていきます。
我が国の実質的意味の憲法とは何でしょうか?
12月30日に紹介したhttps://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。

*日本国憲法は、それ自体形式的意味の憲法であるとともに、憲法附属法も含めて実質的意味の憲法をも成している。
*学者さんによっては、ここで実質的意味の憲法として説明したものを、固有の意味の憲法とよび、固有の意味の憲法と「憲法 第2回」で触れる立憲的意味の憲法とを合わせて、実質的意味の憲法とされます。

http://houritu-info.com/constitution/souron/bunrui.htmlによると実質的意味の憲法の例として明治憲法下の皇室典範が入っています。

実質的意味の憲法とは、憲法の存在形式は問わず、内容に着目した場合の概念です。
実質的意味の憲法には、さらに「固有の意味の憲法」と「立憲的意味の憲法」に分類されます。
明治憲法下の皇室典範は実質的意味の憲法には当たりますが、形式的には憲法ではないため、上記の形式的意味の憲法には当たりません。

上記意見では「明治憲法下」と限定していますが、では現憲法下での皇室典範の位置付けはどうなるでしょうか?
実質的意味の憲法にも「固有の意味の憲法」と、「立憲的意味の憲法」があるようです。
「立憲的意味の憲法」論では権力抑止機能重視ですから、明治憲法下でも実質的意味の憲法に入っていなかったことになるのでしょうか?
皇室典範は現憲法下では形式上法律の格付けに入っていますが、実質的憲法か否かを論じるには法形式は本来関係のないことです。
日本国憲法

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

憲法自体に皇位の世襲制を書いてあって、憲法全体の平等主義に反する他「両性の平等原則」に反する男系承継の原則も皇室典範には明記されています。
国会の議決によるとしても皇室典範という特別名称を指定しているなど、憲法上別格扱いであることは明らかです。
もしも現憲法成立あるいはポツダム宣言受諾によって、実質的意味の憲法から除外されたか否かについては、天皇制のあり方が敗戦を期に国家・民族の基本骨格に関わらなくなったか否かでしょう。
ポツダム宣言受諾が長引いたのは、いわゆる国体の護持条件が受け入れられるか?であったのですが、結果的に「無条件降伏」になったと言われています。
ただし正確には国会図書館資料では以下の通りの経緯です。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html

日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。

形式的な天皇大権と象徴の違い・・あるいは「天皇の地位は国民の総意に基づく」となったのをどう見るかです。
私は摂関政治以来天皇の地位は名誉職・今風に言えば、象徴天皇である実態は何も変わらなかった・明治憲法で統治権・大権があるとしていても実態は同じであったし、その地位は神代の昔から国民の総意による支持が裏付けであったと言う立ち場(私個人の素人意見)でこのシリーズを書いています。
「神の意思とは今の民意の表現である」とたまたま1月2日に書いてきたところです。
ただし、改正された現憲法体制では、「国体が変更された」と見るべきというのが宮澤俊義教授・多分憲法学会の通説的意見でした。
(私は宮沢憲法の中の人権分野しかを基本書にしていなかったので、統治機構分野での宮沢説を直接読んだことがなくわかっていません。)
上記同資料によると以下の通りです。

憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。

上記意見が通らずに後記の通りGHQの強硬意見に押されて全面改正になったから、理屈でもなんでもない力によって変わった以上は「国体は変わった」と言う意見になったのでしょうか?
天皇制は神代からの神の意によるものではなく、「国民総意にもとずく」ようになった点を捉えたもののようですが、天下の碩学が塾慮の末の意見でしょう。
このシリーズでは、天皇の地位はもともと古来から、象徴権能を核とするものであり、国民総意の支持があってこそ信長も家康もマッカーサーも無視できなかったし神代の時代から天皇への尊崇が永続してきたのではないか?とすれば天皇観は全く変わっていないという私固有の視点で書いています。
宮澤教授に関する1月5日現在のウイキペデアイアによれば以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9

日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」[1]は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。
学説は時期とともに変節を繰り返した。

以下は上記変節の説明文を要約するために番号を付し→で示しました。

① 天皇機関説事件→「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」(1番弟子が恩師を批判・・稲垣)
② ファシズムの理論に基づいて結成された大政翼賛会の一党支配方式→大賛成
③ 終戦直後は、帝国憲法の立憲主義的要素を一転して擁護、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」「大日本帝国憲法の部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能」という今でいう押し付け憲法論の立場に立っていた[要出典]。外務省に対して、憲法草案については、当初は新憲法は必要なしとアドバイスした。
④ その後、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。
⑤ 天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」と述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。

今では宮澤説を継承している芦部説が支配的らしいですから、上記思想が戦後学会〜現在に至る憲法学を支配していたことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9Cnによれば以下の通りです。

芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 – 1999年6月12日)は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学会における議論をリードし、その発展に寄与した。
・・・日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[3]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

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