18年1月7日まで書いていた元のテーマに戻ります。
現憲法制定によって、日本の「国体」が変わったのでしょうか?
GHQ背後の米国自身、天皇制の廃止または民意による存続を決めていたことを1月6日に紹介しました。
またマッカーサーは信長や家康同様に国民鎮撫するために天皇の威信を利用する統治方針であったことを18年1月10日のコラムでマッカーサーからアイゼンハワー宛書簡で紹介しました。
国体とは何か?私自身良くわかっていませんが、ここでは明治憲法下で実質的憲法であった皇室典範が、実質的憲法から外れたか否かがテーマですから、敗戦〜新憲法制定でどの程度天皇制の実質・天皇に対する国民意識が変わったのかがテーマになります。
天皇制について大雑把な歴史を素描すると、蘇我氏の朝廷支配(専横)〜天智天皇〜天武持統両朝〜藤原氏の権力浸透〜摂関政治が始まるまでの天皇権力と摂関政治〜院政期〜鎌倉幕府成立後明治維新までの期間、明治維新後敗戦までの期間と戦後に分けてみますと、鎌倉幕府成立までは藤原氏との一種の連立政権ですが、鎌倉以降で見ると天皇家を中心とする朝廷が政治に関与できたのは、後醍醐帝の建武中興のほんのちょっとの例外しかありません。
しかもその政治は拙劣すぎてすぐ頓挫しています。
ただし、次の足利政権でも観応の擾乱になったように当時は平安貴族.寺社の保有する荘園経営権と新興武士団とのせめぎ合いの最中で(承久の乱で一定の決着がついたかのようですがその揺り戻しが建武の中興の動乱でしょう)この最終決着は応仁の乱を経た戦国大名に入れ替わるまで誰がやっても無理があったことが分かります
鎌倉以前の天皇の裁可といっても摂関政治等を追認していただけですし、鎌倉幕府成立後は直接の政治は、幕府に移り天皇の裁可すら不要(これが幕末「大政奉還」の前提です)になっていました。
朝廷にはせいぜい形式的な叙任(〇〇の守)称号を与える権限程度しか残っていませんでしたが、これさえも、義経が頼朝の許可なく判官に叙任されたことを咎められたことが有名なように、武家の場合幕府の推薦が必須でしたし、家康の禁中並公家諸法度(1615年)以降は、朝廷に残っていた公卿や僧侶に対する叙任権さえも(幕府の同意が必要)取り上げられました。
これに違反した大事件がいわゆる紫衣事件でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6からの禁中並公家諸法度の引用です。
法条 主な内容 原文・現代語訳[5]
第1条 天皇の主務 一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
(天子が修めるべきものの第一は学問である。[6]以下略。)
上記の通り、不學則不明古道(いにしへの道学ばざればすなわち明らかならず)と宣言し、王道を学ぶために「貞觀政要」寛平遺誡(有職故実)を学び、光孝天皇以来の和歌の道を例に挙げ、「雖爲綺語(綺語ナスといえども)、我國習俗也。不可棄置」と奨励しています。
この時から最低でも和歌を嗜む義務が生じ以下連綿として王朝時代から続く新年歌会合わせなどの(幕府公認)文化行事が続いてきたし、今でも「今年のお題」としてニュースになっている所以です。
それまでは武士が、将軍家の推薦なしに一本釣りで叙任されれば武家政権内の処罰・冷遇でしかなく、源判官九郎義経のように叙任の効果は残っていましたが、幕府によって叙任そのものを取り消されたのですから一大事件でした。
面目を失った後水尾天皇が、やってられないとばかりに、当てつけに退任してしまったのがせめてもの抵抗ですが、以後抵抗すらありません。
末期の病人が高熱さえ出せなくなったような状態で幕末を迎えたのです。
幕府は後水尾天皇の退位程度の抗議では驚きませんから、以来朝廷の権威がその程度に下がったまま幕末になりました。
蘇我氏以来天皇家の権威・実力が徐々に下がっていた実態相応だったのです。
ちなみに現憲法においても、総理大臣の任命は国会の指名により、その他国務大臣等の任命や国会の召集等は天皇の名において行いますが、憲法の明文で内閣の助言と承認(連署)がないと憲法上無効です。
憲法
三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
4 以下省略
第七十四条 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
これを「象徴天皇制、君臨すれども統治せず」と習うのですが、以下紹介する禁中並公家諸法度以降の天皇制とほぼおなじです
明治憲法はどうでしょうか?
大日本帝国憲法
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
天皇家の衰微に戻しますと、荘園の発達租税収入の空洞化・・国衙収入の途絶えた朝廷にとっては叙任料は貴重な収入源でしたので、幕府は勝手な叙任を禁止する代わりに朝廷に対して1万石を「寄進?」して経済保障しています。
一見すると「わずか1万石では、公称800万石といわれる徳川家から見れば、末端の家来(企業で言えば課長クラス?)みたいな扱い・朝廷が可哀想!という方向に目が行きますが、現在の天皇家の内廷費と比べて見ればどうでしょうか?
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan.htmlによれば以下の通りです。
天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められ,平成30年度は,3億2,400万円です。
内廷費として支出されたものは,御手元金となり,宮内庁の経理する公金ではありません(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)。
わずか3億円あまりでは、ちょっとした大手企業のサラリーマン社長給与と同様ですから大変です。
皇后皇太子妃等の女性が毎日のように予定されている各種行事出席に必要な衣装代にも足りないので、皇后陛下美智子さまの場合には、ご実家の正田家の負担になっていると世上言われていますし、皇太子妃の場合には実家が高級官僚・サラリーマンですから、この実家の支えがないために大変な状態と言われています。
天皇家自体に収入源がなくなったことこそが、権力凋落の原因です。