皇室典範は憲法か?4(天皇制変遷の歴史1)

18年1月7日まで書いていた元のテーマに戻ります。
現憲法制定によって、日本の「国体」が変わったのでしょうか?
GHQ背後の米国自身、天皇制の廃止または民意による存続を決めていたことを1月6日に紹介しました。
またマッカーサーは信長や家康同様に国民鎮撫するために天皇の威信を利用する統治方針であったことを18年1月10日のコラムでマッカーサーからアイゼンハワー宛書簡で紹介しました。
国体とは何か?私自身良くわかっていませんが、ここでは明治憲法下で実質的憲法であった皇室典範が、実質的憲法から外れたか否かがテーマですから、敗戦〜新憲法制定でどの程度天皇制の実質・天皇に対する国民意識が変わったのかがテーマになります。
天皇制について大雑把な歴史を素描すると、蘇我氏の朝廷支配(専横)〜天智天皇〜天武持統両朝〜藤原氏の権力浸透〜摂関政治が始まるまでの天皇権力と摂関政治〜院政期〜鎌倉幕府成立後明治維新までの期間、明治維新後敗戦までの期間と戦後に分けてみますと、鎌倉幕府成立までは藤原氏との一種の連立政権ですが、鎌倉以降で見ると天皇家を中心とする朝廷が政治に関与できたのは、後醍醐帝の建武中興のほんのちょっとの例外しかありません。
しかもその政治は拙劣すぎてすぐ頓挫しています。
ただし、次の足利政権でも観応の擾乱になったように当時は平安貴族.寺社の保有する荘園経営権と新興武士団とのせめぎ合いの最中で(承久の乱で一定の決着がついたかのようですがその揺り戻しが建武の中興の動乱でしょう)この最終決着は応仁の乱を経た戦国大名に入れ替わるまで誰がやっても無理があったことが分かります
鎌倉以前の天皇の裁可といっても摂関政治等を追認していただけですし、鎌倉幕府成立後は直接の政治は、幕府に移り天皇の裁可すら不要(これが幕末「大政奉還」の前提です)になっていました。
朝廷にはせいぜい形式的な叙任(〇〇の守)称号を与える権限程度しか残っていませんでしたが、これさえも、義経が頼朝の許可なく判官に叙任されたことを咎められたことが有名なように、武家の場合幕府の推薦が必須でしたし、家康の禁中並公家諸法度(1615年)以降は、朝廷に残っていた公卿や僧侶に対する叙任権さえも(幕府の同意が必要)取り上げられました。
これに違反した大事件がいわゆる紫衣事件でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6からの禁中並公家諸法度の引用です。

法条 主な内容 原文・現代語訳[5]
第1条 天皇の主務 一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
(天子が修めるべきものの第一は学問である。[6]以下略。)

上記の通り、不學則不明古道(いにしへの道学ばざればすなわち明らかならず)と宣言し、王道を学ぶために「貞觀政要」寛平遺誡(有職故実)を学び、光孝天皇以来の和歌の道を例に挙げ、「雖爲綺語(綺語ナスといえども)、我國習俗也。不可棄置」と奨励しています。
この時から最低でも和歌を嗜む義務が生じ以下連綿として王朝時代から続く新年歌会合わせなどの(幕府公認)文化行事が続いてきたし、今でも「今年のお題」としてニュースになっている所以です。
それまでは武士が、将軍家の推薦なしに一本釣りで叙任されれば武家政権内の処罰・冷遇でしかなく、源判官九郎義経のように叙任の効果は残っていましたが、幕府によって叙任そのものを取り消されたのですから一大事件でした。
面目を失った後水尾天皇が、やってられないとばかりに、当てつけに退任してしまったのがせめてもの抵抗ですが、以後抵抗すらありません。
末期の病人が高熱さえ出せなくなったような状態で幕末を迎えたのです。
幕府は後水尾天皇の退位程度の抗議では驚きませんから、以来朝廷の権威がその程度に下がったまま幕末になりました。
蘇我氏以来天皇家の権威・実力が徐々に下がっていた実態相応だったのです。
ちなみに現憲法においても、総理大臣の任命は国会の指名により、その他国務大臣等の任命や国会の召集等は天皇の名において行いますが、憲法の明文で内閣の助言と承認(連署)がないと憲法上無効です。
憲法

三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
4 以下省略
第七十四条 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。

これを「象徴天皇制、君臨すれども統治せず」と習うのですが、以下紹介する禁中並公家諸法度以降の天皇制とほぼおなじです
明治憲法はどうでしょうか?
大日本帝国憲法

第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

天皇家の衰微に戻しますと、荘園の発達租税収入の空洞化・・国衙収入の途絶えた朝廷にとっては叙任料は貴重な収入源でしたので、幕府は勝手な叙任を禁止する代わりに朝廷に対して1万石を「寄進?」して経済保障しています。
一見すると「わずか1万石では、公称800万石といわれる徳川家から見れば、末端の家来(企業で言えば課長クラス?)みたいな扱い・朝廷が可哀想!という方向に目が行きますが、現在の天皇家の内廷費と比べて見ればどうでしょうか?
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan.htmlによれば以下の通りです。

天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められ,平成30年度は,3億2,400万円です。
内廷費として支出されたものは,御手元金となり,宮内庁の経理する公金ではありません(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)。

わずか3億円あまりでは、ちょっとした大手企業のサラリーマン社長給与と同様ですから大変です。
皇后皇太子妃等の女性が毎日のように予定されている各種行事出席に必要な衣装代にも足りないので、皇后陛下美智子さまの場合には、ご実家の正田家の負担になっていると世上言われていますし、皇太子妃の場合には実家が高級官僚・サラリーマンですから、この実家の支えがないために大変な状態と言われています。
天皇家自体に収入源がなくなったことこそが、権力凋落の原因です。

憲法論と具体論の重要性(韓独など憲法裁判所の観念)2

昨日紹介した最高裁判決中の寺田治郎裁判官の補足意見は多数意見とは違い争訟性があるが、宗教教義に立ち入れないので、結局原告は錯誤内容を主張できない・許されない?ことを理由に棄却すべき・だが被告が控訴していないので高裁に差し戻しても棄却できないので、結局的に却下という結論を同じくするというもののようです。
(勉強不足の私にとっては、補足意見の処理の方がわかり良いように見えますが、ちょっと技巧的にすぎるということでしょうか?)
日弁連では、ある単位弁護士会で懲戒処分したことに対して対象弁護士が弁明を聞く手続違反があるとして異議申し立てしていたところ、日弁連がこの手続き違背を理由に破棄して単位会に差し戻した事例があります。
ところが、その事件では対象弁護士が単位会の懲戒処分後他の弁護士会に移籍していたために原単位会に差し戻されても原単位会では(対象弁護士はもはやその単位会の会員ではないのですが・懲戒処分後日弁連に継続した後に事件が原単位会に戻った場合には、その手続きの範囲内でその間に他の会に移籍していてもなお原単位弁護士会で処分できるような規定が整備されていなかった・今も同様です)再審査できない状態だったので、日弁連で自判しないと事件が宙に浮いてしまう事例であったのに、日弁連が差し戻してしまったことがあります。
上記最判の運用を見れば、こういう場合差し戻さず「自判」すべきだったことになりそうです。
憲法論といっても、具体的当てはめが重要という意味で正当防衛の議論などで紹介しましたが、争訟性が必要・・具体的事件になって「事件に即して考えるべき」という仕組みを18年1月22日までに私が書いてきましたが、これが結果的に正しいことを証明しているように見えます。
具体性のない段階で決めると原理論で決めるしかない・・観念論では先のことは何もわからないのに、「英断」してしまう・・政治的立場による「乱暴」な意見になりがちです。
憲法判断だけ別に行うシステムの国では、憲法裁判所構成員が裁判官だけではなく、ドイツのように議会の政党比で選出したり一定数しか元裁判官を要件にしていない国が多いので、これを憲法「裁判所」と言ったり言わなかったり(フランスは憲法「評議会」)するのは、この点の違いでしょう。
ウイキペデイアによれば、韓国の場合は以下の通りです。

韓国はドイツ型と考えられる。韓国では1987年改正の現行憲法によって、通常の最上級裁判所である大法院とは別に憲法裁判所が設置された。憲法裁判所の裁判官は、大法官となる資格を有する者(その具体的内容は下記の表を参照)の中から、大統領・国会・大法院が3名ずつを指名する。憲法裁判所の権限は、ドイツ型の制度を敷いている諸国と同様、憲法解釈のほか大統領の弾劾、政党の解散、機関争訟(行政機関相互間、たとえば国と自治体との間で発生した対立の処理)といった重要な職責を与えられている。

朴槿恵大統領の弾劾・罷免をした例を見てもわかるように 、ほとんど時の政治動向・世論そのままで動く政治機関です。

フランスの憲法評議会
他国の憲法裁判所の多くが、その裁判官の資格として、通常の裁判所の裁判官の経験や法曹資格を定めるのに対して、憲法評議会の委員(9名)には、特に任命資格などが定められず、その構成も大統領・国民議会議長・元老院議長からそれぞれ3名ずつ任命すると定めるなど、政治的機関としての色彩が強い・・・。

憲法論と具体論の重要性(韓独など憲法裁判所の観念性1)

理念の言い合いでは最後は罵り合い・解決になりませんが、私の地元自治会婦人部では「生を受けた以上全うせてやりたい」ということから、「公園に罠を仕掛けて捕獲すると避妊手術して放してやり、避妊手術済みの猫には責任を持って毎日一定の場所で餌やり」しています。
それでも「避妊手術すること自体許されない」という人がいますので、自治会でやるのではなく「有志」が寄付でやっているようです。
避妊手術費用や毎日の餌代等一定の費用がかかるので有志の寄付(私も寄付しています)によっていますが、動物愛護という掛け声だけで野良猫の繁殖放置でも困る矛盾解決努力の結果、避妊していない猫を無くしていく努力がある程度効果を奏しているようです。
近所の野良猫は毎日餌もくれるし目の敵のよう追い回されなくなったからか?入れ替わり立ち替わり来ては(みんな顔見知りばかりで知らない猫はいなくなりました)我が家の庭で安閑と昼寝をしています。
冬には、日の当たる場所に落ち葉をある程度掃き集めると、その上に座って私が残りの落ち葉を掃き集めるのを じっと見ている猫もいます。
佛教〜儒教〜実学(御定書の編集などによる判例重視)への流れについては、03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
この意見の延長で、儒学の深遠な哲理では、赤穂浪士を裁く基準にならず困ってしまった例を引いて「非理法権天と野党1」December 25, 2016でも書きました。
なお、そこでは最近盛んになっている近代立憲主義の萌芽について、「非理法権天」の法理主張が始まった流れ・公儀に対する政策批判道具として用いられた経緯も少し紹介しています。
18年1月27日日経新聞土曜夕刊10p(最終裏)には、「法廷劇が問う撃墜の是非」の題名で面白い記事が載っています。
以下は私の要約です。

満員のサッカー場に突入予定のテロ犯によるハイジャック機を、空軍少佐が独断で急発進してこれを撃墜し乗客等合計164人の命が奪われ、他方7万観衆の生命が救われた。
少佐は英雄なのか殺人罪で処罰すべきかの判断を観客が、芝居が終わるまでに一人一人回答する・一種の陪審劇です。
ドイツで実際に10年ほど前に起きた航空安全法の議論を下敷きにしたものだそうです。
この法案は連邦憲法裁判所によって違憲とされたらしいのですが、2015年の公演開始以来世界各地の「評決」では、無罪にすべき・合憲論が圧倒的多数で、ロンドンやウイーンでは全公演で無罪だったと出ています。
ちなみに作者のシーラッハは、違憲判断支持らしいですが、作者の思惑・意図とは逆の結果になっているようです。
ちなみに日本公演結果は、(現在も進行中らしいですが)上記新聞記事記載まで12回の公演では6対6で欧州と違いどっちつかずになっている・・・テロの脅威実感の低さがこの結果になっているとの記事の解説です。

ドイツや韓国では、具体的事件に関係なく観念論で成否を判定する憲法裁判所があるようですが、具体的事件に関係なく判定するのでは、裁判所というよりは学問所みたいな仕組みです。
慰安婦騒動や徴用工問題がこじれる原因になったのも、韓国の憲法裁判所が政府が日韓条約で権利放棄しても国民を拘束できないと観念論で判決したことが始まりです。
国政の重要事項を現実に即して考えるか、観念論で決めるのが良いかは国によって違いますが、わが国や英米法のように「争訟性」具体的事件の当事者が訴訟提起できる・・現実に即して考えるのが正しいと言えるでしょうか?
具体的事件が起きる前からある法律が憲法違反かどうかを決めるのでは、例えば現亜pつ訴訟やその他多くの裁判は政治効果の大きなものがありますが・特に憲法判断は政治効果に直結する高度な政治行為です。
このように政治に直結するので実務(商売人ほどその商売)に詳しくないとはいえ、裁判実務に精通した裁判官が判断するし、詳細事実認定をした上で判定するものです。
憲法裁判制度は、具体的事象が起きない内に判定するものですから、原則として抽象論で決着しがちです。
集団自衛権論でいえば、具体的事件が起きて政府の他国援助が自衛権の範囲を超えているかどうかで具体的に判定する必要がある・事案が発生しない段階で「こういう違憲の場合しかない」と前もって言えないはず」という意見を書いてきました。
憲法裁判所制度は、神様のようにあらゆる事象を前もって見通す能力を前提に「違憲」になるという断定するものですから、そもそも無理があります。
民族性として「一般人とエリートでは格段の能力差がある」→エリートの指導に従って行動すべきという思想を前提にした制度です。
我が国では憲法裁判所制度ではなく具体的事件があって初めて・前提となる法律が憲法に違反しているかどうかを判断する仕組みです。
これは、ボトムアップ社会に適合した議院内閣制などと共通した制度設計というべきでしょう。
以下に紹介するように、憲法81条では「最高裁判所は一切の・・終審裁判所」となっているので最高裁判所以外の憲法裁判所の設置は予定されていません。

憲法
第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

次に抽象的に憲法判断を求めらるか?というと、76条で「すべて司法権は・・」となっています。
司法権とは具体的事件を法に基づいて裁くものですから、争訟性がないと末端裁判所に訴え提起しても却下される仕組みです。

裁判所法(昭和22・4・16・法律 59号)
3条 裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。

いわゆる「板マンダラ事件」に関する最高裁判例です。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/84-3.html

寄附金返還請求事件
最高裁判所 昭和51年(オ)49号
昭和56年4月7日 第3小法廷 判決
[1] 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる(最高裁昭和39年(行ツ)第61号同41年2月8日第3小法廷判決・民集20巻2号196頁参照)。したがつて、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であつても、法令の適用により解決するのに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない、というべきである。
[2] これを本件についてみるのに・・・以下略
・・・・本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
[3] そうすると・・論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。・・被上告人らの本件訴は不適法として却下すべきである・・・」
※寺田治郎裁判官の補足意見は多数意見とは違い争訟性があるが、宗教教義に立ち入れないので、結局原告は錯誤内容を主張できない・許されない?ことを理由に棄却すべき・だが被告が控訴していないので高裁に差し戻しても棄却できないので、結局的に却下という結論を同じくするというもののようです。
(勉強不足の私にとっては、補足意見の処理の方がわかり良いように見えますが、ちょっと技巧的にすぎるということでしょうか?)
日弁連の事例では、ある単位弁護士会で懲戒処分したことに対して対象弁護士が弁明を聞く手続違反があるとして異議申し立てしていたところ、日弁連がこの手続き違背を理由に破棄して単位会に差し戻した事例があります。
ところが、その事件では対象弁護士が単位会の懲戒処分後他の弁護士会に移籍していたために原単位会に差し戻されても原単位会では(対象弁護士はもはやその単位会の会員ではないのですが・懲戒処分後日弁連に継続した後に事件が原単位会に戻った場合には、その手続きの範囲内でその間に移籍していてもなお原単位会で処分できるような規定が整備されていなかった・今も同様です)再審査できない状態だったので、日弁連で自判しないと事件が宙に浮いてしまう事例であったのに、日弁連が差し戻してしまったことがあります。
上記最判の運用を見れば、こういう場合差し戻さずに「自判」すべきだったことになります。

ヘイトスピーチ16(我が国の憲法論議3)

ウイキペデイア引用の続きです。

麗澤大学教授の八木秀次(法学)は、左派メディアが保守運動や保守政治家に対し、
「ヘイト団体」との関係をこじつけ「悪」のレッテル貼りをする行為は「欺瞞」であるとし、「ヘイト団体」の行為は日本人の美徳に反しており許すべきではないが、一方それを「正義面で保守批判に利用」し、「イカサマ」であると批判している[42]。
矢幡洋(臨床心理士)は、
ヘイトデモを行っている団体と、それに対抗して暴言を吐いている団体同士の感情的な対立について、「集団同士のこういった対立は、互いに自分は正しく相手は百パーセント悪いと思うようになり、攻撃性を強めることに力を注ぐ傾向にある。どちらも自己批判を伴う『悩む』という力を失う。世界には真っ白と真っ黒しかなく、自分たちは正しいと非現実的なとらえ方をしてしまう。
自己批判や自己吟味を回避できるため、非常に楽なのだが、現実が見えなくなってしまい危険だ。このスパイラルに入ると、なかなか和解の道は見つけられなくなる。
話し合う余地のある相手と見ていないから、さらに攻撃して絶滅させるべき相手でしかないという見方になる。自分たちの主張もするが、自己批判も同時にできる心理的強さをもった人がリーダーシップを取るのが唯一期待できる解決への道だ。
現実をちゃんと見られる現実主義者が団体の中でかじを取ってくれれば変わってくるのではないか」と分析した[151]。
2015年6月6日、兵庫県宝塚市に元朝日新聞記者の植村隆が招かれ、植村による講演が行われた。
講演会の告知チラシにはいわゆる従軍慰安婦の「強制連行」を否定する風潮が今日のヘイトスピーチを生み出しているといった主張が記されていた。
会場で植村の講演内容を聞いた宝塚市議の大河内茂太は
「植村氏の主張は『強制連行された慰安婦』の存在に疑問を抱くことは一切許されないというものに思えた」
と語った。
主催団体が求めるヘイトスピーチの法規制のとらえ方についても
「人種・民族差別に対する批判というよりも、むしろ、形を変えた〝反日闘争〟とすら言える」
と、違和を感じたという[257]。

道徳律を強制するために法制定によって強引な解決を目指すと、これが相互不信を助長し傷を深くするリスクを感じないのか?
保守派を刺激することに快感を覚えている国内人権グループやこれの過激化を求める応援団の政治能力に危惧を覚えます。

言論禁止政策は争いが内向化し却って過激化していくので、双方に救いがない・日本社会にとって不幸なことになるように思えますが・・「絆が自慢の日本社会」を亀裂社会化することを喜びとする政治勢力もあるのでしょう。
日本国内の相互不信激化、日本社会をどんなに困った状態にしてしまおうと、何を画策しようとも「自己実現」することは褒められこそすれ、「憲法上批判されない」という憲法学者の考えそうなことです。
後進国等でテロ等に発展するのは、不満があると妥協する高度な能力がないからですが、このような紛争形態を日本に持ち込みたい勢力もいるのでしょう。
双方合理的話し合いのテーブルにつくようにお膳立てするのが政治の役割であって、これを規制によって怒りを潜行させるのは政策的には愚の骨頂です。
上記引用の矢幡洋(臨床心理士)の見解

「・・世界には真っ白と真っ黒しかなく、自分たちは正しいと非現実的なとらえ方をしてしまう。自己批判や自己吟味を回避できるため、非常に楽なのだが、現実が見えなくなってしまい危険だ。このスパイラルに入ると、なかなか和解の道は見つけられなくなる。話し合う余地のある相手と見ていないから、さらに攻撃して絶滅させるべき相手でしかないという見方になる。」

上記意見は示唆に富むように思われますが・・・。
ヘイトスピーチ禁止で反韓言論を表面上撃退できても、それがどんな効果があるか?
個々人で言えば、近所でおかしな人がいれば相手にしませんが、一定限度を超えれば警察や精神病院に通報するのが普通です。
これをヘイトという方が言葉の濫用です。
韓国が反日感情をいくら煽っていても(個々の在日がなにか悪いことをしている訳はないので)在日に反韓感情をぶつけるのは相手が違いますが、相手が違うと非難する・・単純に言い切るだけで「ことが治まる」ものではありません。
成人の息子が近所の人を殺傷した場合、親には法的責任がないと澄ましていられないのと同様に、その違いや共通項についてきっちりした吟味が必要でしょう。
ヘイトスピーチ規取り組み法(通称)が成立しましたが、反日を煽る中韓の政策が修正されないまま反中韓感情表明だけ規制される(反中韓感情表明は自由だが関係のない在日批判は弱い者イジメだというのは確かに正論ですが、感情というのは理性だけで割りきれないから感情というのです)と反中韓感情が却って強く潜行していくだけで、本らいの解決にはなりません。
例えば精神病者や不良が大事件を起こすとその保護者もその地域にいたたまれなくなってどこかへ、転居する例が多いですが、それを人権侵害と言っても言わなくとも、結果は同じです。
自分の子供が隣人の子供に殺された場合、加害者の親に責任がないと言って隣にそのまま住み続けられる人がいるか?ということです。
大阪の池田中学だったかの大量殺傷事件の保護者・家族がどうなったか知りませんが、開き直るよりはどこへ転居するのが普通です。
宇宙や地球論では、理論では未解明部分が多すぎることを書いている途中ですが、親の責任をいうのは感情論というものの、将来的に理論的根拠があることがわかってくる可能性もあります。
庶民の根強い感情論は、実は今説明できないだけで後になると合理的根拠が分かることが多いので、感情論を無視すべきではありません。
実際革新系文化人.人道主義者自身の慰安婦騒動を例にとれば、彼らは慰安婦を性奴隷だったとした上で、我々の親世代の行為について孫世代の責任追及をしているのですが、パク大統領の言によれば、「千年間でもゆるせない→子々孫々まで責任をとるべき」という変な理屈です。
同じ「文化人」が、対中韓の日本民族の責任論になると先祖の責任を子々孫々まで負担すべきといい、中韓の日本攻撃(現在の日本人の行為が対象ではないので、事件に関与していないが、同一民族構成員ということによる攻撃に他なりません)に対する日本の対中韓民族に対する反感表明になると、民族間の争いと個人は別だとなるのですから、御都合主義(どこの国のための意見か?)の主張というしかありません。
自国や自分の民族のためになろうがなるまいが(自民族が他民族の支配下に入る方が良いと思えば)言いたいことを言える人が「自己実現]」していて「ご立派」となるのでしょうか?
そのような思考背景には、国家と人民の「二項対立」を推し進めた占領施策の影響下にまだ染まっているのではないかという疑い?を私は持っています。

ヘイトスピーチ15(我が国の憲法論議2)

昨日引用論文は司法書士連合会の機関紙?寄稿論文(普通は寄稿を頼まれてから執筆するものでしょう)だったのに、論文が完成し校正も終わった段階で引用データ削除を求められたが折り合いがつかず(これこそ執筆者にとっては学問自由の領域です)に、掲載拒否されたので、これを大学機関紙?での発表に切り替えたというのですから、このやり取りの方が驚きです。
弁護士会同様に司法書士会もまずはいろんな意見を聞いてから会員が会の方向性を決めるのではなく、会員に情報サービスする前に幹部間で一定方向の結論が決まっていてその方向への結論に資する論文を求めて、これを会員に周知する傾向が強まっているのでしょうか?
上記論者のいうとおり、特定思想立場で意見表明するかは組織の自由ですが、もともと特定政治立場に共鳴して参加している訳ではない弁護士会や司法書士会は・価値中立・どういう意見があるかを会員に広報した上で会員の意向によって行動指針を決めるべきではないでしょうか?
ヘイトに関する学会の意見状況の紹介を続けます。
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/11/blog-post_8.html

前田朗Blog『統一評論』563号(2012年9月)
Thursday, November 08, 2012
差別表現の自由はあるか(4)
今回は、そうした理論状況の特徴を見るのに有益と思われる二つの文献を検討することにしたい。
一つは市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)であり、もう一つは内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)である。

表現の自由に関してはこれ以外にも多くの重要な研究業績が存在するが、ここでは旧内野説から新内野説への転換を見て行くことが主たる関心事であり、そのためには上記二冊を見ることで足りると考えられる。
表現の自由に関する研究の第一人者である奥平康弘にも『表現の自由を求めて』(岩波書店、一九九九年)などの重要著作があるが、ヘイト・クライム処罰は主題とされていない。
二 市川説による到達点
市川はまず、「アメリカにおける差別的表現の規制」について、①アメリカ合州国最高裁のR.A.V.判決を検討し、②次に批判的人種理論の挑戦によって始まった差別的表現禁止をめぐる論争を検討する。そのうえで、市川は、③日本における差別表現規制をめぐる論争、すなわち旧内野説とそれへの批判を整理して、差別表現規制法の可否を論じ、人権擁護法案について検討を加えている。
① R.A.V.判決とその評価
「「差別的表現禁止法を人種などに関するけんか言葉の禁止として正当化する手法は、これまでの判例の流れからして最も自然な手法であるが、本判決はこの手法を否定したのである。また、本判決は、差別的表現の禁止を、少数者の人権擁護のためのやむにやまれざる政府目的を達成するために必要不可欠な規制と構成する手法をも否定した。/本判決が差別的表現禁止法に対してこのような厳しい姿勢をとったのは、差別的表現禁止法に対し、特定の争点につき非寛容の思想ないし偏見をもつ側にのみ負担を課す(見解差別的効果を有する)ものであるとの否定的な評価を加えているからであろう。・・」
市川の評価の前提、そしてアメリカ最高裁判例の前提には「思想の自由市場」の論理があることがよくわかる。あくまでも「思想」であり、「表現」であるという位置づけである。この思考と、表現の自由の優越的地位とがセットになることによって、ほとんど無制約の表現の自由論が構築されることになる。
② 批判的人種理論の挑戦
市川は、次に批判的人種理論の挑戦について検討している。批判的人種理論とは、一九八〇年代末頃からアメリカに登場した理論であり、この文脈では、差別表現禁止を唱える見解として位置づけられる。

日本のヘイトスピーチ・表現の自由の優越的地位と関連法理に関するウイキペデイアの記事からです。

韓国籍在日朝鮮人で政治活動家の李信恵は、自身のTwitterに「路上が国会に繋がった。ヘイトスピーチ対策法は、路上に立ってたみんなが作った法律だと思う。嬉しくて、涙が止まらない。」などと書き込み、ヘイトスピーチのデモに対する抗議行動など、差別反対の運動が法案整備につながったと評価した。
弁護士の堀内恭彦は、「外国人に対する差別的言動は許されないが日本人に対する差別的言動については問題にしないというおかしな法律である」と評している。また、このような理念法が成立すれば、その後の個別具体的な法律が作りやすくなるため、今後、必ず禁止や罰則が付き「ヘイトスピーチ審議会」に特定の人種、利害関係者を入れ込むという法律制定の動きが出てくると危惧している。
さらに、法律の成立過程を見る限り、自民党を初めとした多くの国会議員に「表現の自由」が侵害されることへの危機意識が感じられないと主張している[7]。
憲法学者の八木秀次は、具体的にどのような行為がヘイトスピーチに当たるのか不明確であり、自治体や教育現場が法律を拡大解釈し過激化する恐れがあると懸念を示している。
例えば、外国人参政権が無いのも、朝鮮人学校に補助金を出さないのも、戦時中の朝鮮人強制連行が歴史的事実として誤りだと主張するのも、在日韓国・朝鮮人に対する「侮辱」「差別」だと訴えられる可能性も否定できないとしている。
そのため、政府は「どこまでが不当な差別的言動で、どこまでが許される表現なのか」を示す具体的なガイドラインを作るべきであると述べている[8]。

ヘイト問題は、まだ途上的議論(の筈)ですから、自己流に纏めずに煩を厭わずいろんな意見を羅列的ですが引用しておきます。
ウイキペデイアの7月19日の記事からです。

岩田温(政治学)は「民族、宗教、性別、性的指向等によって区別されたある集団に属する全ての成員を同一視し、スティグマを押しつけ、偏見に基いた差別的な発言をすること」と定義している[148]。
九州大学准教授の施光恒(政治学)は「ヘイトスピーチ」という英語(カタカナ語)を使うのでなく、「何が不当なのか」という問題の本質に目を向けるためにも、日本語で正確に表現したほうがいいと主張している。[149]。
青山学院大学特任教授の猪木武徳(経済学)は、

「ヘイトスピーチは「人種、宗教、性などに関する「少数派」への差別的言説一般を指すと大ざっぱに理解されている」
とし、デモのような大勢の「匿名性は公的なメディアで発言する者への悪意ある批判を誘発する」が、逆に、
「少数の暴力的な集団が多数の普通の社会生活を送る人々を脅す例もある」
ため、
「国家による言論統制」や「感情の問題に感情的に対抗し、単純な極論だけが大手を振ること」だけは避けな

ければならないとしている[150]。

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