憲法改正の時間軸

多くの国では国家の基礎軸を変えるような憲法改正は、革命的騒乱状態の結果新憲法が制定されています。
フランスでは憲法の大幅な改正の都度第4〜5共和制などと、新国名が出来ていますし、タイでもクーデターの後に新憲法制定ですし、エジプトなども新憲法制定は大騒乱の後です。
騒乱まではないとしても、憲法は重みが違いますので普通の法律改正のように毎年のように簡単に改正が決まるような性質のものではありません。
目の前の緊急事態への対応を問われているときに、5〜10年以上かかる「憲法改正してから考えましょう」と言うのでは、「現実対応するな」と言うのと同じです。
まして非武装平和論者の多くが護憲論者でもあり、憲法改正に必要な手続き法の整備に着手することさえ強硬な反対論者であることが普通ですから、なおさら不可能です。
集団自衛権必要説に表向き賛意を示しながら「憲法改正が先だ」閣議決定変更反対・・(前自民幹事長石破氏のような)意見は、結果的に何も出来ない、何もしないで相手のナスがママに傍観しているのが正しいと言う結果を求めていることになります。
結局本音では「中国の好きにやらせておけば良い」と言う意見を持っていることになります。
政治家は学者ではないので、その言うことのもたらす結果に責任を持つべきですから、石破氏は憲法改正まで何もしない方が良いと言うのは、集団自衛権反対論者と同じ結果を求めていることになります。
彼が集団自衛権の具体化をになう新設の安保法制閣僚就任を辞退したのは、正解と言うか、もしも受諾していれば実質反対論者が政策遂行責任者になって矛盾するところでした。
イラクやアフガンへの派兵について考えれば分りますが、「派兵協力するのに賛成だが先に憲法改正が必要」と言えば、実際にはその間に派兵の必要な時期が終わってしまうことは誰の目にも明らかでした。
だから、憲法改正が先だと言うと間に合わないのが分っているので「日本は非協力だ」とアメリカが怒ってしまうので、憲法改正しないでイラク特別措置法が成立したのです。
現に直ぐに解決しなければならないことが起きているときに、本気で効果的な行動をしようとすれば、憲法改正論では間に合わないことは誰でも分っていることです。
今回の尖閣諸島有事に際して、「憲法改正があるまで対応するな」「議論もするな」と言えば、日本はその間何も出来ないし、いろんな準備すら出来ないので、事実上「中国のやりたいようにやらせろ」と言う意見と同じになります。
非武装平和論=護憲論者・・内容如何にかかわらず憲法改正に反対であると言う勢力が「憲法改正が先に必要」と言うのもおかしな意見ですが、「憲法改正が先に必要」と言いながら「自分たちは内容にかかわらず常に反対ですよ!」となれば、集団自衛権反対論者による集団自衛権議論・必要か否かの議論先送り論・思考停止要求と同じです。
こうした批判・思考停止論が日本を支配するので、中国が戦端を開いても日本は殆ど無抵抗なのですぐに占領出来ると言う意見が、親中韓派文化人を通して中韓に伝っていたようです。
日本が防衛するか否かの議論すらして良いのかと言う入り口段階で小田原評定を続けていれば、思考停止状態に陥っている合間に「迅速に占領してしまえば勝負あり」と中国の方針が決まっていたようです。
まさか集団自衛権閣議決定変更にまで進むとは思わなかったようで、中韓では慌てて判で押したように日本の軍国主義精神の復活化がアジア世界に不信感を呼び起こしていると言う紋切り型の日本批判論を展開していました。
日本のマスコミは、これを大規模に引用して(アジアで孤立したら大変じゃないかと言わんばかりに)援護報道していました。
肝腎の東南アジア諸国が中国の強引な軍事行動に恐怖感を抱いて日本の助けを求めている状態ですから、そう言う国々に対して日本の軍備強化が危険だと言う報道を臆面もなくすること自体が、日本マスコミや中韓の非常識さの世界発露となって恥をかいている状態です。
朝日のでっち上げ慰安婦報道や南京虐殺報道に中韓が便乗していた結果、今になって恥をかきつつあるのと同じです。

戦後憲法とユダヤ人(言論・宗教の不可侵性1)

現行憲法の起草は、GHQ主導であったことは周知のとおりですが、このGHQ案起草に際して憲法学関係の経歴のない単なる通訳の若い女性・・ユダヤ人がイキナリ出て来て起草していたとも言われています。
何か手記みたいなものを読んだように思いますが、本当に憲法のケの字知らなかったと書いていますが、うがち過ぎかも知れませんが、裏で動いた人物・組織があって・・この種のことは記録に残りません・・・ユダヤ系の思想を入れるために抜擢されたのかも知れません。
以下は2014年8月31日現在のウイキペデイアからの引用です。

「ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日 – 2012年12月30日)は、ウィーン生まれでウクライナ系ユダヤ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った米国国籍の舞台芸術監督、フェミニスト。1946年の日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草で人権条項作成に関与した。」

勿論ペアテはユダヤ系・コミンテルンの関心で起草したなどとは公式にはどこにも出ていませんが、戦後憲法で不可侵的特権を与えられた宗教と言論の自由(マスメデイアを操る自由)は、まさにユダヤ人に最も利害のある分野です。
戦後は、宗教組織や報道機関と名がつけば天下御免ですから、ヤクザや総会屋が◯◯新聞と称して一流企業を回って、購読料を要求していましたし、今でも頻りに宗教法人を作っては、隠れ蓑にしています。
思想表現の自由と言えば、直ぐポルノの氾濫になりますし、モノゴトは濫用するものの方が多いので難しいものです。
ポルノ系・猥褻以外はどんなことを書いて言っても簡単には取り締まれませんし、名誉毀損にならない限り何を言っても書いても自由です。
俗に「100人を殺せば英雄で一人殺せば殺人罪」と言われるように、民族全般を誹謗中傷し、民族間の反感を助長して民族抗争を引き起こす卑劣な言論に対しては何の責任も問わないと言う変な法原理です。
信教の自由と言論の自由は一見関係がないように見えますが、ほぼ重なっていることが分ります。
我が国の宗教は佛教の個人的解脱・諦観や悟りが主目的ですから、社会批判や他民族攻撃は殆どありませんし、日本では、八百万の神と言うように、多くの神は併存しますし、人は行く先々で神が居ませば手を合わせて拝むばかりで出身地の神と出先の神と喧嘩させようと思う人はいません。
その意味では明治までの神仏習合の形態は日本列島での縄文人と弥生人の円満同居可能ならしめた民族精神の体現です。
西欧その他の国の宗教は1神教が原則ですから、他宗教排撃=異民族非難攻撃がその主たるものになり勝ちでした。
日本以外の宗教は基本的に特定個人批判ではなく、社会や他民族=宗教をちくちくと非難する傾向が強い・・反社会性が強いことから・・オーム真理教など見ても分りますが・・古代から規制を受けて来たのは合理的でした。
これをユダヤ系の目から見て、今では色をつけて本来正当な規制を弾圧や迫害を受けたと言うようになったのは、韓国の売春婦を従軍慰安婦と言うようになったのと同じです。
信教の自由とは言うものの対外活動しないで、自分が黙って祈っていること自体を昔から殆ど迫害したり妨害しません。
黙って自宅で祈っているだけでは宗派の維持拡大が出来ずジリ貧ですから、どこの宗派でも絶えざる布教宣伝活動に力を入れています。
客観的なテレビパソコン等の規格商品販売と違い、性能表示が目に見えない布教活動は自然に他宗派批判の言論活動になるので、これを野放しにすると行き着くところ、凄惨な・終わりのない宗教戦争を招いたので、相対的価値観・異宗教併存を打ち出したのが民主主義思想ですが、西洋やアラブの宗教は元々本質的に他民族を攻撃する性質です。
反社会性の強い組織でも、宗教さえ名乗ている限り放置しておいて(オーム真理教のように個別の暴力・犯罪行為等を起こさない限りどんなに民族対立を煽っても)誰も断罪できない・・社会も規制しないとなれば、これに反対するには対抗宗教を組織して宗教で対抗するしかない・・宗教・民族紛争の原因になって行きます。
テロを厳しく取り締まらないとカウンターテロ発生を防げなくなるのと同じです。
幕末に井伊大老の暗殺に始まって反駁勢力のテロが横行すると、権力側でも見回り組や新撰組などのでテロ組織を作らざるを得なくなったことがあります。
悪質な行為に対し、悪質性に応じた処罰制度(刑法処罰に限らず社会システム上の制裁)がないと、制度外の力(天誅)を行使しようとするネルギーが溜まって行くのは歴史が教えるところです。
正当な言論や行為を権力や社会システム上で抑圧し、実質違法な悪質行為が社会で正当化されると、法律外のエネルギーが溜まり社会混乱のもとになります。
アラブ世界に漲る生命を惜しまない反欧米のエネルギーは、まさに欧米の不当な押しつけ=実質不正に対する反発がエネルギーになっていると言うべきでしょう。

平和憲法と国の安全2

政治運動には相応の政治目的(実現すべき利益)がある筈ですが、現時点で非武装国家論死守によって誰が損をしどこが利益を受けるのかという視点が必要です。
正確に言えば、日本の平和を守ることはどの勢力にとっても日本の利益ですが、平和を守る方法論の違いがあるだけです。
自衛をすることによる外部からの侵略を守るべしという意見と、自衛力の必要がないと言う意見との違いですからどちらも平和国家論です。
平和を守るための方法論の違いに過ぎないのに、非武装論者だけが平和論者であって、自衛力充実論者を反平和主義者と勝手に決めつけているのは論理飛躍があります。
非武装論・・国家秘密をなくして情報筒抜けが良いという各種反対運動家は自己の主張が、如何にも平和擁護と同義・イコールであるかのようにすり替えた上で、自衛力充実論・戸締まり必要論者を反平和主義者・・侵略主義者/暗黒社会実現論者であるかのようにすり替えて宣伝しています。
平和憲法死守論者の論法に従えば、世界中で軍備を擁する国や相互防衛条約を締結している国は侵略国家となってしまいますし、個人で言えば警備保障会社と契約している人は、犯罪者予備軍?ということになり兼ねません。
彼らの論法に従えば、国内に警察官が要らないか、必要としても拳銃等の武装を禁止しなければ、拳銃発砲事件が絶えず発生して却って事件が多発することになります。
彼らも(警察不要論を聞いたことがありませんので)警察力の充実不要論ではないとすれば、国内・・国民同士は信用できないので武装警察官が必要であるが、異民族に対しては公正と信義を信頼して・国際的警察官役は不要だし自衛する必要がないと言う二重基準を用いていることになります。
身内には家のカギを預けて出入り自由で良いが、他人には家のカギを預けたくない人が普通ですが、彼らは逆の主張をしています。
隣人〜世界中の人を信頼しあう社会が理想かも知れませんが、そうは言っても世界中の人に対して自宅に自由に出入りしても良いとは言えないものです。
「最近用心が悪いのでカギをつけたい・ガードマンを頼みたい」と言うと、平和憲法死守派から「お前は反社会的・反平和主義者だ、喧嘩を好むのか?」と言われているようなものです。
彼らの独りよがりな論法を、殆どの国民が相手にしなくなっているのを、彼らはまだ理解していないようです。
勿論いつも多数派の赴くところに従うのも沽券にかかわることですから、孤高を守るのも1つの生き方です。
「家にカギをかけるな、ガードマンもいらない、家の秘密を近隣・海外に解放しろ」と言う彼らは誰・どこの利益を守りたい・・推進したいのでしょうか?
この種の主張者は外国人の参政権を認めろという勢力とも重なるようですし、彼らの意見が通る社会になれば、外国人が自由に入って来て日本の大事な秘密を自由に手に入れたい勢力の利益が守られることは間違いがないでしょう。
人権という視点から見れば外国人も日本にいる限り、基礎的人権を守ってやる必要があります。
(日本人の子供と差別するのは継子イジメしているみたいで可哀相です・・差別しなくとも基礎的学力等で差があるのは可哀相ですので、これを引き上げるにはかなりの資金負担が生じます・・だからこそ、むやみに外国人を入れない方が良いと言う意見をこのコラムでは書いています)
しかし、「居住して税を納めている以上は、参政権まで認めろ」となると、中国人や韓国人が大量に押し掛けて来て日本の国益に反する主張をするリスクがありますから、基礎的人権を認めるべきだという人道的対応とは1線を超えた主張になります。
アメリカの地方都市で慰安婦増が設置されて行く経緯を見ると韓国系アメリカ人が有権者の仮に5%〜1割しかいなくとも、政治家にとっては、その1割のまとまった票を敵に回したくないという政治行動に駆り立てるのです。
今のところ在日韓国人には公式には参政権がありませんが、在日系信者が多いと言われる(真否は分りません)創価学会を母体にする公明党が参政権付与に積極的と言われていることからも分るように、直接の参政権がなくとも一定の政治権力?を行使するような実態が既に生じています。

平和憲法と国の安全1

西洋仕込みの彼ら知識人は?国民は愚昧であり宣伝次第でどうにもなるという思想が骨の髄までしみ込んでいる様子です。
日本は庶民に至るまで知的レベルが高いので、根拠が非合理であれば、どんなに偉い人の意見でも、盲目的に信じて着いて行く社会はありません。
彼らは、欧米流価値観のお勉強には秀でているのかも知れませんが、日本社会に対する実態観察力が欠如してるように思われます。
集団自衛権に関しては、「中国が何も悪いことしていないから平和憲法の精神(・・諸国民の公正と信義を信頼して・・)で信用して行きましょう」という程度の繰り返しで、国民が納得すると思っているのと同じ思考法です。
集団自衛権反対や秘密保護法反対の構成層はまた非武装を基礎にする平和憲法が如何に素晴らしいか、これを死守すべきだと主張する集団とも構成員が共通しているように思えます。
天安門事件25周年を警戒して中国では、軍や武装警官が厳重な警備をしている様子が報道されていますが、中国式軍のあり方・・人民を抑圧し政府を人民から守るためにある軍や武装警察ならば確かにない方が良いかも知れません。
彼らは外国と日本の政府の成り立ちが違うのに、政府は人民を抑圧するもの・企業は労働者を搾取するものという教条的思想に凝り固まっていて現実の日本社会を理解しようとしないグループのように見えます。
平和憲法死守派にとっては、その主張の前提事実として周辺国は「公正と信義」を守る立派な国ばかりだと信用するしかないので、(中韓の動きはないことにして・具体的議論を回避して)世界に悪い国はないよ・・安心していれば良いと言うしかないのでしょう。
政治制度の妥当性はそのときどきの状況によるのであって、状況変化にかかわらず正しいことがらは存在しません。
すでに書いているように、平和憲法・戦力放棄は超大国アメリカが守ってくれるから非武装で成り立つと誤解?していたに過ぎません。
朝鮮戦争が始まるとすぐにこれが夢想に過ぎないことがわかり、警察予備隊→自衛隊創設へとアメリカの政策方針(日本の武装解除を進めていたアメリカ自身が方針を変えて行くしかなかったのです)が変わって行った実態からも理解できます。
その後も徐々にアメリカの存在感が薄まるに連れて、日本の自力対応能力向上が求められて徐々に戦力の充実化を進めて現在に至っているのです。
今では日本の防衛だけはなく周辺国の警備すらも思うようにならなくなって来たので、アメリカにすれば日本によるいろんな分野での肩代わり・・兵器供与などの協力を求めたいというように変わって来ています。
アメリカの防衛能力低下によって、従来アメリカが防衛を担って来た日本と周辺諸国に対する隙を狙って公然と侵略を開始している国が近くにいる以上・・外部状況が変われば戸締まり状況も変えて行くしかありません。
家の前でおまわりさんが常時警備しているならば、戸締まりらしい戸締まりをしないで寝ていても安心ですが、おまわりさんが1ヶ月に1回巡回するだけになって、代わりに変な浮浪者が毎日にうろつくようになれば誰でも戸締まりに気をつけるようになります。
夏から冬に変わっても、夏服が気持ちよかったからと言って冬になっても夏服のママが良いと言う人は、頭がおかしいと言われかねません。
あるいは今まで着ていたオーバーがなくなれば、代わりの防寒具が必要になります。
このようにどのようにして平和を守るか、健康・身の安全を守るかについては、状況変化によるべきです。
何のために具体的な世界の動きを見ないことにして(具体的議論・・比喩的に言えば浮浪者がうろついているかどうかの議論をしないで)まで、平和憲法を死守したい勢力がいるのでしょうか?
平和憲法死守と言えば、これに反対する勢力はあたかも反平和主義者であるかのような巧妙な仕組み・レトリック?になっています。
しかし、平和憲法死守を標榜する論者の実態は、周辺環境変化を無視すべきだと主張するグループが自己を正当化するために無断借用・冒用しているに過ぎません。

学問の自由と社会の利益

「原発をやめたら大変なことになる」というムード的宣伝ばかりで、誰一人具体的な積算をしない・しているかもしれないが、(何かが怖くて?)発表しない現状では、原発の方が安いという宣伝を信じる人の方が少ない筈です。
裸の王様の話みたいで、すべての学者あるいはマスコミ・政治家が東電あるいは電気業界・・あるいはそこに納入している関連業界・・膨大な裾野業界から献金され、研究費・広告費をもらったり何らかの恩恵を受けているとすれば、みんな沈黙するしかありません。
どこからも声の掛からない研究者というのでは食べて行けないので(どこからも声のかからない若手研究者も彼の属している研究所・研究室のボスが大手企業からたんまり研究費をもらっていると勝手な発表が出来ません)声のかからない研究者が今では独立して存在しないのです。
今後の出世名声には関心のなくなった一定年齢の研究者以外(・・安定した給与がもらえるようになった人・・中部大学教授の武田氏くらいか?)支配層に不都合な意見発表が出来ないのでは、独裁国家とそれほど変わりません。
しかし、電力業界にとっても、本当のコストを知るのは自分たちの経営ためにも必要な筈ですし、原発の方がコストが高くて損な事業なら原子力業界自体がやめたくなっても良い筈ですから、業界自身が正確なコスト研究結果を知りたい立場なのではないでしょうか?
本当のことが明らかになると真実のコストを隠蔽して「これはコストが安いぞ」と推進して来た立場の人にとっては困ったことでしょうが、真実を知ることは結果的に企業や組織自体の利益になることですから、トキの権力者・実力者に不都合なことでも研究したり発表したりする学問の自由・思想表現の自由が憲法で保障されているのです。

憲法

第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

学問の自由・大学の自治などはこの思想良心の自由から派生して認められるようになったカテゴリーでしょう。
ところで「自由」とは言っても妨害さえしなければ良いという消極的な自由ではなく、昨日書いたように研究費が出ないと研究者が調査出来ない・研究室全体の方向に反した意見では研究機関に居づらくなると食べて行けないのです。
昔は領地・恒産のある貴族階層またはその子弟などが研究していたので、生活や昇進保障しなくとも思想良心の自由などや裁判官の身分保障などだけ決めて、積極的な迫害禁止だけを問題にすれば良かったのです。
今は誰もが自給自足出来ませんから、研究費や生活費の元になる研究室などでクビにならない、あるいは出世出来ない・具体的な研究調査費が出ないなどが現在的問題です。
裁判官の独立に関して、転勤拒否出来る・減給されないという憲法の規定では、戦後物価上昇が普通であった時期にはまるで地位の保障にならなかったし、年齢によって昇級昇格して行くのが普通の我が国では、降格されないという地位の保障だけではどうにもならないという意見を、07/04/03「法曹一元 3(判事の行政庁出向1)(政権の巻き返し1)」その他で書いたことがありますが、学問・研究の自由にも当てはまることです。
現在の研究者は親の遺産で生活しているのではなく、どこかに所属しないと生活費も入りません。
仮に武田薬品や富士通の研究所に就職すれば、その会社というよりはその支配層からこのテーマの研究をしてくれと言われたらやるしかないでしょう。
逆に支配層の嫌がるテーマをあえて研究調査したいと申し出る勇気のある人は滅多にいないでしょう。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC