今では年金・選挙権等すべてが住民登録(国勢調査など人口調査もそうです)を基準にしているので、超高齢者が戸籍に残っていても今のところ何の実害もないのですが、仮に住民登録制度が完備してくると戸籍制度を廃止してしまえば、超高齢者がそのままになることはありません。
超高齢者の問題で明らかになったことは、政府は戸籍の記載を基準にして政治をしていない・・何のために戸籍制度が今でも存在しているかの疑問です。
住民登録制度では、生死に係らずその所帯構成員でなくなれば(しかも届け出を待たずに随時調査していて)職権で消除する仕組みですから超高齢者が登録されたままにはなりません。
江戸時代の宗門人別帳で、江戸等へ出たものを除籍していたのと同じですが、江戸時代家族の申し出によって除籍していたのが、今では市の職権調査で消して除籍もやっている違いです。
江戸時代までには、民には義務やリスクのみあったのが、今では人民ニは権利が多くなって・・市の義務が多くなったことから、届け出のない中間的な場合も積極的に抹消して行く仕組みになっているのです。
現在(このコラムは昨年秋頃に書いていたものですが・・・)社会問題になっている年金受給者が死亡後も死亡者の名義で誰かが受給し続けている問題は、戸籍記載の問題ではなく住民登録の問題です。
その住居に現実に住んでいるか否かが住民登録の基準ですから、行方不明者は生死に関わらず直ちに住民登録からは職権消除される仕組みですし、年金や社会保障関係ではこれを基準にして支給しています。
公園で寝ている人やドヤ街での住人は、元の家族から見れば行方不明で住民登録は抹消されているものの、戸籍はそのままに残ってしまうのは、これまで書いているように戸籍制度は現況把握制度ではない以上、当然の結果です。
生死不明の場合、一定年齢で自動的に抹消し生きている証拠のある人だけ登録更新して行く仕組みにするのか、逆に死亡の証拠がない限り消せないのかの制度設計の問題です。
明治以来(国民を目一杯管理したくなって)安易な除籍を防止するために死亡の証拠がいるとする逆転制度にした以上は、証拠のない中間・灰色の人が残って行くのは制度上当然に起きて来る問題です。
死亡したかどうか不明の人が残るのは制度上「仕方がないでしょう」と言えば、如何にも何か害悪がありそうな感じですが今では戸籍を基準に政治をしていないので必要悪でもないし、何の害悪もありません。
あるいは海外移住した息子の場合、その親が死亡してもまだ兄弟の生存中は相互に時々の連絡もありますが、その兄弟世代が死んでしまうと最早日常的連絡も途絶えるので、死亡したか否か誰も分らなくなるのが普通です。
だからと言って誰も戸籍抹消までは出来ませんし、お金をかけて中南米やその他の国に出かけて行って調査する必要性もありません。
「100歳上の人は調査の上抹消しろ・・していないのは政府の怠慢だ」と言う主張を良く見かけますが、そんなことのために膨大な役人が戸籍を眺める手間をかけるのは国費の無駄遣いです。
中間灰色の人・・死亡したか否か不明の人を戸籍に残したくないならば、上記のように制度設計を逆転し、例えば一定年齢以上は毎年本人出頭して更新しない限り自動抹消して行く制度にすれば良いのです。
ただし、今でも戸籍簿に残っていても住民登録さえなければその人に年金支給する心配もないし、勿論生活保護も選挙権もありませんし各種受益がありません。
今では戸籍を基に何の政治もしていないので、戸籍制度自体存在意義がなくなっているので戸籍制度の制度設計を議論する事自体無駄な行為になっています。
現在戸籍簿が利用されているのはここ数日書いて来たように相続に関連した時だけですが、除籍に関する立証責任同様の考え方で、次回以降に書いて行きますが相続の基準・原則をどこにおくかの制度設計次第で戸籍簿を不要に出来ます。