屈辱と中華(光復)思想2

中華思想・・自己が世界の中心であると言う思想自体は、世界中でどこにもある夜郎自大思想で、中国地域の漢民族特有の自意識ではありません。
個人で言えば赤ちゃんは無限大の能力を持っている自信・これが現実の限界に遭遇して徐々にしぼんで行くのが大人になることであると言うのが心理学の説明です。
青年が天下国家を簡単に論じるのは、その発展途上と言えます。
たとえばhttp://matome.naver.jp/odai/
「赤ちゃんの“万能感”を理解しよう。
乳幼児には「自分は何でもできる」という“万能感”を持っています。
しかし、パパママのように何かをしたいと思っても、思うように手足は動いてくれません。
そのことが泣いたりわめいたりといた事にもつながっているので、まずは、そうした赤ちゃんの「万能感」を前提にすれば、心を落ち着かせて赤ちゃんの観察ができそうですね。」
こう言う乳児的意味の中華思想の萌芽は古くは詩経に出て来るらしい・・古くからあることを自慢しているようですが、文字化していなくともどこにでもある赤ちゃんの万能感ですから、中国特有の思想・・自慢するようなことではありません。
「オラがムラは1番」と言う原始的幼児的自意識はどこの民族・地方にもあり、大人になっても自慢し続けるのは素朴で微笑ましい面がありますが、ちょっと気恥ずかしいことです。
ここで関心を持っているのは心理学で言うところの赤ちゃんの万能感に当たる「中華」の単語使用例がいつから始まったか?です。
れっきとした成人大人が乳幼児的単語を公式用語・・「中華」民国として使用するようになった背景が気になります。
19日に書いたように、現在の中国地域で興亡した王朝の歴史から見て、「中華」の栄光・栄華の歴史自体が存在しないのですから、復活すべき「中華」の意味自体が、全く不明です。
習近平が「中華の栄光・栄華復活」と言い出したのは、対外的こけ脅しをすればするほど国民の実際生活とのギャップが大きくなって来たこととの関係が窺われます。
統計数字を誤摩化してGDP世界2位・・日本を追い越したと言い出してすぐに日本を軍事威嚇を始めたのですが、国内で自慢すればするほど実際生活とのギャップ・・政治不満が高まります。
GDP数字では却って生活実態と合わないことから不満が広がるので「栄華」の復活と言うスローガンで抽象化すると共に民族感情に訴える策に出たものと思われます。
「わが民族は大したものだ」宣伝するのは国威発揚の一種ですから(本当は大したことがないとすれば噓の上塗り?で却ってギャップが広がり)何の解決にもなりません。
政治の本筋で言えば、「自分たちは未だ〇〇の水準に追いついていないのでさらに頑張りましょう」という方が合理的ですがあまりにも早くから無理して虚偽統計で威張り過ぎたので後に引けなくなったのです。
企業が業績不振を隠蔽するために一時のつもりで粉飾に手を染めると実態との誤差が広がるばかりで収拾のつかない事態に陥るのと同じです。
ソ連がこの繰り返し・・・軍事力強化や人工衛星打ち上げ競争やオリンピック選手強化など・国威発揚でごまかしていたのですが遂に崩壊しました。
ソモソモ「中華」民国・人民共和国と言う国名を称するようになったのは、西欧列強に侵蝕された国民のフラストレーション・・反作用として生まれて来た言わば惨めな精神状態を補償する言語でしかありません。
中華思想とは、栄華の復活を夢見る・・栄光の歴史ではなく惨めな現実の裏返し表現です。
いつから「中華」と言う語が使われるようになったかの関心で、清朝崩壊後中華民国を名乗るようになった孫文を見ておきます。
孫文は日本に亡命していて日本で食客生活していたものですが、日本人は優しいので日本を頼って清朝支配下から逃げて来た多くの革命運動家に「自信を持ちなさいよ、元々立派な国なんだから・・」と励まし続けたであろうことは容易に想像されます。
スイス亡命中で元気のないレーニンに対して「アジア人も自信を持つべきだ」と勇気づけてロマノフ王朝打倒をけしかけた?日本人明石元二郎が知られています。
以下は小説による以上は一定の潤色があるでしょうが、そのつもりでお読み下さい。
日本はその頃帝政ロシアが最大の脅威でしたから西欧でもいろんな画策をしていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E
「明石の著した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』においては、次のような粗筋がベースになっており、明石の工作は成功したものとして描かれ、著名な外国人(日本人から見て)が登場している。」
「明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
※レーニンは中央アジア系の出自を持っているとのうろ覚えの記憶ですので、ウイキペデイアで履歴を見ると以下のとおりです。「・・曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった」
清朝から逃げて来た日本亡命中の多くの若者・・不安の中で生きている以上は時には自信をなくすこともあったでしょう・・こうした場合、優しい日本人の勇気づけに触発されて「そうだ我々も自信を持つべきだ」となって「中華」を使い始めたのかも知れません。

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