自殺と美意識

高齢者介護や未熟児の育児ノイローゼ関係が(子育て支援センター等の充実で)解決に向かう中で、中高年男性向け精神ケアーが遅れている感じです。
我が国では、成人を含めて精神疾患が増える一方ですが、生産手段の合理化・・共同作業の縮小と比例して日常生活の場で共同体意識も同時進行で縮小して行った結果が大きな原因の1つでしょう。
生産手段の分離化と消費生活協同の必要性は場面が違うのですが、これも近代化の更なる進展で重工業等の発展に遅れて家庭用電化製品あるいはレトルトフードや離乳食等が普及して、独身のままでもあるいは若い母子が年長者の手助けなくとも物理的側面では生活が出来るような外見が整ってきました。
家庭での電子機器化や個食その他のサービス環境が進んでも、心の共有化のない生活に耐えられないので今や疑似共有・ペットブームになっているのでしょう。
ヒトは何故心の共有が必要なのかと言えば、一人では生きられなかった何万年の歴史がそういう心情をDNAに刻み込んでいるからだと思われます。
男性よりは女性の方が心情共有に優れているし、より必要としているのは、男性は食料調達・生産手段(ひいては戦闘防衛)のための共同作業で足りるのに対して、女性の方は、生活手段を男性に頼る外にその先の子育て・日常生活にまで助け合いが必須だったことによります。
男性が近代工業化に組み込まれて行くと職場の共同作業はなお必要ですので必死に赤提灯を含めておつきあいに励みますが、その分家庭維持・地域の連帯から外れて行きます。
農作業や都市でも一定規模以上の一戸建ての場合家庭内の男性の仕事が多いので、それなりの家庭内共同作業を通じての触れ合いがありますが、マンションやアパートあるいは4〜50坪以下の戸建ての場合、家庭内で家事育児の共同以外には男性にはすることがありませんから、家事に参加しない限り男性は家庭内で孤立する傾向になります。
平成に入ってから家事育児に参加する男性が増えて来たのは、家庭を顧みない猛烈型社員の弊害(家庭内孤立)を見てのことでしょう。
ただ男性も二極化して来て、仕事や趣味等で外部で仲間が沢山いれば、重たい家庭は要らないと言う外向きの男性は独身のままでいる男性が増えてきます。
独身に限らずある程度心の共有化に成功している「筈」の結婚している男性や、子供のいる男でもうつ病罹患やその他の理由による中年での自殺が後を絶ちません。
夫婦・家族があると言っても、心の共有化までは進んでいない家庭内孤立している人だけが押しつぶされてしまうのでしょうか?
自殺者の増加を防ぐには、男女の心情共有化・・・家庭がその一般的形態でしょうが、これに限らない男女関係の強化を図るのが有効かも知れません。
心の共有がない孤独な独身者や家庭内孤立に限らない・・それまで普通の家庭人だった筈の男性がいきなり自殺する例もありますので、実際にはもっと別の要因があるように思われます。
自殺者の心理は前途を悲観して・・と言うのが一般的な理解の相場ですが、不治の病その他助からないからと言って、命を縮めても助からないことには代わりがありません。
とすると論理的ではないのですが、別の角度から考えると蒸発者の心理に似ているようです。
蒸発者とはこれまでの浮き世のしがらみを一切断ってしまう現実からの逃避ですが、これはあの世に逃げる自殺との中間に留まる身の処し方に過ぎず自殺者と気の持ちようが変わらないと思えます。
出世競争に敗れて惨めな生活をするよりはやめて別の会社に行った方がまし、一定の地位にあった人が格下げされて惨めに生きて行くよりは、蒸発して誰も知らない世界でもっと格下の仕事(仮に日雇い労務者・路上生活者であっても)をした方がマシだと言う人が多いものです。
大関までやった人は、大関から陥落したら潔く隠退すべきだとか、スター選手の力量が落ちて来るとまだ並みの選手程度の打率を維持していても隠退するべきだとする美意識があるのも同じです。
このルーツを探れば、戦時中の「生きて虜囚の辱めを受けず」や古くは切腹の美学に通じるのでしょうか。
この美意識も小説などで読んでいる限りなかなか迫力がありますが、考えてみれば、自分中心にどちらが良いかを考えた結果であって、残された家族の嘆きに思い至らない面があるようです。
(ごく最近では「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」(校長メッセージ)と題する檄文?が反響を呼んでいますが、・・・これなども同じ美意識の系列でしょう)
この点では、家庭内の心情共有のレベルが高ければ防げるのかも知れません。
我が国の(世界に誇る?)男の美意識には、この限度で、家族愛の欠如があるのかも知れません・・・。
我が国で自殺者が多いのは、家庭不和や相談相手がいない・心情共有者が少ないからだけではなく、蒸発者心理に共通のところがあるからではないでしょうか?
ここ10〜15年ばかり大関陥落後も居座り続ける関脇が多くなりましたし、(伝統的美意識こそ大相撲のよって立つ基盤でしたが、これの喪失も大相撲人気の退潮に関係があるでしょう)相撲界に限らずいろんな分野で結構しぶとい人が多くなって来ている印象です。
菅総理もやめると言って不信任決議の危機を逃れながら、その場を凌げるといくらでも居座れるだけ居座ろうとする姿勢・・・「騙しても何でも勝ち残った方が勝ち」と言う美意識も何も頓着しない姿勢は、今までの美学から言えば「みっともない」の一言です。
(鳩山前総理はペテン師と罵っていましたが・・・)
菅総理を支えて来た執行部さえも「辞めると言った以上は潔く辞めるべきだ」と言う姿勢(政策に反対しているのではなく・・)で対立関係になっているのですが、世の中・美意識が変わりつつあるのに気がつかない・・気がついていても気がつかない振りをしている方が今のところ、得策だと計算してのことかも知れません。
我が国特有の美学・「潔さ」に価値を置く美意識が廃れれつつあるとすれば、行く行くは中高年男性の自殺率も諸外国並みになり、長寿化がもっと進む(目出たいのかな?)かも知れません。
菅さんは、せいぜいお遍路に行って来るくらいで直ぐに復帰するつもりで、恥の文化など気にしないのでしょうから、長生き出来るでしょう?

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