表現の自由市場論8(補助対象審査の矛盾1)

愛知トリエンナーレ「不自由展」の場合、市場評価されない不満を通り越して「公的補助せよ!」というもので、内部自治侵害に対する抗議ではなく市場で評価されないことに対する逆ギレです。
ゴッホだって生前は現在ほど評価が高くないというだけであって、公的支援なくとも現在に作品が残っているのは彼の理解者や友人も盟友もいたからです。
ゴッホの真実については、以下に詳しく紹介されています。
https://www.asuka-g.co.jp/column/1903/010913.html
要は、ゴッホの才能を見抜いた辣腕の画商であった辣腕の弟テオが月極固定額(生活供給)で作品を買い受け、毎月送金していた・弟が面倒見ていたのではないらしいのです。

ゴッホは描いた絵をテオに送る代償に、毎月150フランを受け取り始めました。これは現在のお金で言うと毎月15万~23万円の報酬を得ていたとみることができます。
この援助というには決して少なくはない金額から、もうひとつ深い関係性が見えてきます。兄弟はただの家族愛だけでつながっていたわけではなかったのです。

テオはこのころパリでは名うての画商でした。兄のただならぬ画才を見抜いていました。そして、ゴッホの生活を支援する代わりに、ゴッホの作品を独占的に扱う契約をした‐それが真相だと、この本では説明しています。
以下省略

独占供給契約で名画を囲い込み、名をあげてから、売り出そうとしていた矢先にゴッホが自殺しいざ儲けようとしていた肝心の画商の弟も半年後死んでしまったので生前市場に出るとがなかったに過ぎないようです。
学問の自由とか創作の自由というのは、権力による迫害さえなければ、ベストセラーにならなくとも一部の支援者や気に入って買ってくれる友人がつくものです。
細々とした創作で良いことではないでしょうか。
千葉市美術館関係で言えば、田村一村の作品を収集していますが、見ると千葉在住時の作品には素人の私から見れば普通の絵描き程度のようでしたが、奄美諸島に移住してからは別人のような作品に変化しています。
千葉在住時高く評価されなかったのは、(素人目には)当然のように見えますが、それでもこれを支持する人 (彼の場合千葉在住の姉だったかな?)もいて画家専業で(ある程度売れたのでしょう・個人蔵の作品も出品されている)生きていけたのです。
千葉在住時に自分をもっと高評価しないのはけしからん!と抗議行動したり、補助金を出すべきと政治運動して世論が支持したでしょうか?
日本が民主国家か文化国家かの問題ではないでしょう。
愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」は、(市場評価の低い作品制作への現在補助金要求である点で)現時点自由市場評価主義と矛盾し対立するものですが、ゴッホ作品死後の評価を引き合いに出す論評は、(ゴッホの場合約50〜百年後?)時間差ズレを無視した意見です。
すなわち出品審査基準は現役プロ・現在自由市場で高評価を得ている者(審査員)の価値観によるので、現役が時間差を克服できるわけがない以上は、結果的に時間差審査専門家と言えないはずです。
現役売れっ子・時流に乗っている美術界大物・審査委員が将来を見通すプロでないことがゴッホを例にして証明されている以上、ゴッホのような大物が評価されないことがあることから「芸術の分からない素人は黙ってろ」と言う主張が成り立つでしょうか?
自分が特別な「目利き」という証明をしない限り現役界の大物というだけでは、俺たち「現役のプロに任せろ!」という資格がないでしょう。
不自由展で審査委員らが評価しているのは作品の現在評価であり、専門グループ内では高評価しているが自由市場で評価されない不満を社会にぶっつけたものと理解すれば一貫性がありそうです。
ネット報道で知る限りですが、内容を見ると日韓対立の原点ともいうべき慰安婦像の設置や昭和天皇写真の拡大パネル?を燃やすなど過激な?政治主張であり、これが「自由市場」では芸術でないとして評価されないのを専門家が「芸術作品」というのだから「公費負担で行え」という点の根拠としているのは、ゴッホの比喩とは何の関係もない筈です。
芸術家や学者等は思想の自由市場論を基本としながら、内容審査は自分らに任せろという主張は内部序列をどうするかの範囲内なら一理ありますが、公費補助対象を決める基準になると、「審査員の評価の方が市場より確かだ!」という主張にすり替わっているようになります。
この矛盾をぼかすために市場評価されない作品に補助金を出すために生前市場評価されなかったゴッホを持ち出しているように見えます。
ゴッホに関して一般に流布している美談は、ゴッホを美化するために作り上げられた美談・・もしかしたら自由市場評価もトキには間違うから目利きの審査が必要という二重基準を設けるための深謀遠慮と結合した虚構だったのかもしれません。
日本では有能な人材は最後まで埋もれっ放しの事例は考えにくい社会と8月16日に書きましたが、西欧だって本当は自由市場が賢いのですが、その上をいく目の利く商人である弟が独占的巨利を貪るために公開売出し時期を待っていたに過ぎないようです。

思わせぶり報道と信用失墜1(自由度ランキングの怪)

見出しに大きく軍関与の資料発見(正確な表現は忘れました)と書いていて、内容をよく読むとどうでもいいような資料・連行と何の関係もなさそうな資料しか書いていない・・よく読めばメデイアは中立ですというつもりでしょう。
軍による強制連行があったかどうかが国民の大関心事になっている最中にこういう誘導的見出しの記事が1面に出ると多くの国民が強制連行の証拠書類が出たのかと第一印象を抱きます。
昨日最後に書いたように多くの人は内容をじっくり読む暇がないのが普通です。
互いに他報道機関の憶測に過ぎない記事を検証することなく「他社が書いているから」という理由で?既成事実としてその上に自社でさらに少しずつ憶測を螺旋状に積み上げていく繰り返しで、戸塚弁護士やメデイア界は役割分担しながら憶測を世界に広めていたように見えます。
今回の森かけ関連報道でも顕著ですが、見出しと内容記事が違う報道をすると、誤解を与えるリスクが高いのですが、なぜか裁判所は「内容をよく読めばわかるはず」というトリックで名誉毀損訴訟の多くを退けてきました。
名誉毀損事件の被告・・加害者の多くは報道可能な媒体を持つメデイアですから、裁判所のこのような姿勢は、メデイア界による思わせぶりな事実上の虚偽(フェイク)報道を助長してきたことになります。
こうした報道態度はフェイク報道に近いので、思想表現の自由の保護を受けない・・公正取引分野での規制対象にすべきかもしれません。
商品の見出し広告と内容説明が違うのは消費者の誤認を招くので(大きな効能の見出しを買いておいて隅っこに小さな文字100人にひとりしか効きませんとか、大特売と書きながら特売品一個だけですとかいておく)公正取引法で許されないのが常識的運用です。
メデイアに限って古典的基準・常識人が内容まできっちり読めば反対意見も書いていて自分で判断できるはずということで、上記の通り名誉毀損に当たらないとして多くのどぎつい見出し広告が許容されてきました。
裁判所の基準は「通常人」が誤読するかという基準ですが、憲法学者の言う「言論の自由市場」という市場論は、その道のプロ論壇参加者や週刊誌で言えば、お金を出して買う購入層の読解力を基準に判断しているのですが、政治判断は電車内の吊り広告や新聞等にある週刊誌の表紙広告や新聞やテレビの見出しテーマによって影響を受ける比率の方が大きい実態があります。
見出しで多くの人が影響を受けているのですが、その場合その道の専門家も部外者(エコノミストその他の専門家も専門外の見出しに関しては)やレストラン店員も労働者も洗脳的に受ける影響力は似たようなものでしょう。
要はその内容吟味する時間も暇もない点では情報「消費者」なのです。
消費者保護が必要なのは、消費者の知的レベルが低いからではなく、消費のたびに内容チェックする時間も暇もないということです。
食品専門家でも表示品質通りの食品かどうかは、購入現場で判断できない・検査機関に持ち込まない限り店頭で品質チェック能力がないので、表示を信用して買うしかありません。
野菜果物では、見ただけでうまそうかどうかの判断がある程度つきますが、それでも食べて見てマズ過ぎれば「おかしい」となりますが、見ただけでは産地偽装をその場で見抜けません。
板倉社長の時だったか、三越事件があって信用がガタガタになってしまいましたが、顧客は鑑識能力がないから三越は偽物をつかまさないだろうという信用で高額品を買っていたのです。
日本では報道機関等の報道では「言論の自由」「報道の自由」と称してこれが許されていたのは、報道機関は実態調査裏づけを取ってからの発表だろうという信用が高かったのですが、裏付け調査どころか信用を悪用して、自分自身がヤラセ報道(サンゴ礁事件/捏造報道)するようなことが頻発するようになったこと自体、三越事件(三越も偽物を知らずに仕入れたのではなく三越が意図的にガラクタを高級宝石と売って事件でした)同様で、この頃から「情報も商品」として「消費者保護対象」にする必要が出てきていたことになります。
ところが言論に限っていまだにこのような「羊頭狗肉」報道がまかり通っているのが不思議です。
ただ彼らのいう報道の自由市場論は、彼ら大手メデイアが牛耳っている限りの自由市場論のように見えます。
裁判所とメデイア界合作のこのような変なルールが、ネット批判が可能になったことで「見出しと内容が違う、あるいは「言葉の(一方的)すり変え」にはすぐさま厳しい反論が出るようになりました。
ネットの発達によって、報道界が独占支配する「言論の自由市場」が終わったことがわかります。
メデイアの偏ったイメージ報道がすぐ批判に曝されるようになったので、彼らにとって「日本には言論の自由がない」ということになったらしく、国連特別報告者が訪日調査して(多分そういう不満分子が招請したのでしょうから、そういう人たちから聞き回った)特別報告が採択されたとかで、1昨年頃に大さわぎなりましたが、要は国内言論市場の独占支配が崩れて困っている実態が丸見えです。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/02/post-7031.php
日本が低迷する「報道の自由度ランキング」への違和感
2017年2月22日(水)12時09分

佐藤卓己(京都大学大学院教育学研究科教授)
<61位(2015年度)、72位(2016年度)と、日本は世界報道自由ランキングの順位を年々下げている。果たして安倍政権のメディアに対する姿勢に原因があるのか、それとも内閣支持率で空気を読むメディアの自己規制に問題があるのか――。「この順位に驚かない」という佐藤卓己・京都大学大学院教育学研究科教授による論考

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パリに本部を置くNGO「国境なき記者団」Reporters Without Bordersが二〇〇二年以降、二〇一一年をのぞいて毎年発行している。すでに述べたように、二〇一六年度版で日本の「報道の自由度」は一八〇国中、七二位に下落した
二〇一六年五月四日付『朝日新聞』の「天声人語」も、このランキングで中国政府が言論弾圧を行っている香港(六九位)よりも日本の方が低いことに「驚いた」といい、「西欧中心の見方ではないかと思う」と疑念を呈している。だが、このコラムは次のように結ばれている。
それにしても、昨今の自民党議員らによる居丈高な物言いは、やはり常軌を逸している。担当相が放送局に電波停止をちらつかせ、議員が報道機関を懲らしめる策を勉強会で披露する。あの種のふるまいがなければ、日本がここまで評判を落とすことはなかっただろう。

(稲垣注・朝日は「自分らが告げ口したのではない」という表向き弁解ですが、本音はこの部分でしょう)

個人責任と組織の関係1

日弁連や単位弁護士会が政治活動するのはどうか?と言う意見に対して、人権擁護活動だと言う議論がすり替えっぽい疑念がつきまといます。
世の中何事でも、尖鋭な政治対立も人権擁護に関係すると言えば言えますが、結局は一般人が法律解釈運動と許される政治運動の限界をどのように考えるかと言う国民判断によることになると思われます。
マスコミの中立違反・偏向しているかどうかの判断も、最終的には国民常識・・市場で淘汰して行くしかないのと同様です。
個人ならば何をしても組織の評判に関係がないのでしょうか?
年末から児童売買春の規制に関するNGOの国連(海外)での活動の怪しさを書き始めていましたが、児童の人権は正に弁護士の関心事であるべきことには相違ないですが、それと国連に出て行って日本の酷い?現状を過大にアッピールする必要性があるかは、別途の国内政治判断です。
弁護士個人の政治活動は、日弁連などの組織の政治運動とは違って民主国家において自由ですが、国連男女差別撤廃委員会(日本弁護士が委員長)皇室批判の勧告案が日本政府に示されたことがタマタマ大ニュース・・になっていますので個人と組織の関係に触れておきます。
野球や芸能人の業界や一般企業組織等で、組織内の個々人が業務を離れて何をしようと何を言おうと本来組織に関係のないことです。
それでも組織の一員が不祥事を起こすと組織として対応し記者会見などで大騒ぎしています。
物造りやスポーツなど社会道徳意識の合致と無関係に構成されている組織でさえそうです。
もっと広く言えば何の関係ない筈のムラや街から立派な人が出ると、その地域の誇り・・立派かどうか分りませんが、甲子園やオリンピックで活躍するとその地域が盛り上がります・・・逆に言えば、おかしな人が出てもその地域の評価に関係している筈です。
血縁の多いムラ社会ではなくなっても、地域の評判を気にするのは単なる名残か、あるいは犯罪者が出るとその近くに住むのが不安になる・・偉い人がいると周辺人がいい方向へ薫陶を受ける・・メリットとデメリットとがあるからでしょうか?
今は地域社会よりも企業や組織社会での生活時間が長いので、組織内の人格的影響は地域社会よりも何倍も大きい時代です。
従業員が何万人といる大企業の末端で不祥事があったり暴言を博と組織トップが謝罪の記者会見を開いたりするし、トップ次第で企業のあり方が大きな影響を受けると言われています。
従業員が何をしようと暴言を吐こうと企業に関係がないと開き直っていると、社会の支持を得られない・・売上減や優秀な人材獲得競争に負けるので企業が対応に追われるのです。
芸能界・野球や相撲の場合タレントや選手は独立事業者としても、不祥事があると業界全体のイメージ低下になるので業界が必死です。
政治家も何を言おうと勝手ですが、評価・支持率の上下作用があるので、無茶な独りよがりは次の選挙に影響します。
政治家全体が社会から見ておかしいと思われると優秀な人材が政治に行かなくなりますので、「政治業界」全体としての利害もあります。
大金がかかってスポンサーの言いなりになるしかない・・アメリカの大統領になり手がいない・・変な人しか立候補しないと言われるようになっているのは世界全体の不幸です。
こうして見ると民主国家においては個々人の行為や発言を国家が発言を規制したり(違法でない限り)処罰出来ない代わりに、市場評価で自ずから規制されて行くことが分ります。
業界員全体が市場評価に曝される仕組みこそが正に民主政治の基本です。
裁判官や弁護士のように直接的な市場評価のない分野で暴走があった場合、どうすべきかが最近の関心になっています。
超長期的には優秀な人材が行かなくなる点では政治家その他と同じですが、短期・中期的弊害をどうするかの問題です。
裁判の暴走リスクに関しては市場評価による修正が間に合わないので上訴制度があってその間に効力が出ないようになっていますが、仮処分の場合即時に効力が出てしまい、異議申し立てがあっても異議審で取り消されない限りその間に効果が出たまま(異議審の決定が出るまでには数年かかるのが普通)になってしまうのが大問題です。
今朝の日経新聞では高浜原発稼働禁止仮処分命令が出たと言うニュースが出ていますが、一旦仮処分が出ると仮に明白に行き過ぎで違法である場合でもこれを覆すには数年単位の時間が必要ですからその間巨大な原発設備が停止したままになってしまう・・一企業の損失に留まらない国益喪失は巨大なものになります。
弁護士が個人で国連で活動を続ける(とは言っても日弁連の推薦があったのではないか?)・・あるいは一裁判官が原発停止を命じる・・・等の行為が、もしも国論の割れる問題である場合、反対論者からの彼らを推薦したり任用している組織全体に対する批判になりませんか?

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