占領政策の変化(レッドパージ・日本戦前思想弾圧とは?1)

左翼系再生産の仕組みは、占領時に大学やマスコミ等で地位を確保したこの種グループに属さないと大学教授・研究職に採用されないし・・マスコミも採用しません。
大学の指導的グループに気に入られないと採用されず安定収入を失うし、個人が勇気を出して独自の研究をして民間で発言・発表してもマスコミは全く取り上げず出版も出来ない・・発表の機会がないことになります。
収入源・・生きて行くには大学の主流やマスコミ迎合するしかないと言う繰り返しで、学者のマスコミ迎合意見が洪水的に報道されて来た原因です。
戦後70年の間にマスコミ界は、マスコミが選別報道すれば米中韓露に都合の良い噓の歴史教育も出来る・・政治誘導出来ること(まさにユダヤ的価値観浸透成功?)に味を占めてしまいました。
これに味を占めた人材・・これを利用したい勢力がマスコミ界にドンドン浸透して行く・・昇進して行くシステムになっていく・・承継再生産して現在に至っているように見えます。
ただ4〜5年前から、マスコミとは別のネット空間が影響力を持ち始めたのでさすがにアメリカ(コミンテルンとの合作)によるマスコミ支配の遺産・・今は中韓ベースのマスコミ界の影響力が色あせてきました。
これが昨今の欧米覇権衰退に繋がっていることが確かでしょうが、この問題はネット発達とマスコミの弱体化や「欧米覇権終焉」等のテーマで16年9月に別に書いて来ました。
アメリカの日本占領政策は、共産主義に親和性を持っていたルーズベルト→トルーマン政府下で始まり、実務を担ったGHQの民政局(GS)は、共産主義者で知られる民政局長「ホイットニー」が中枢を担って日本共産党などを合法化して行った歴史です。
その後中共政権成立・朝鮮戦争などを経て冷戦時代に突入すると、アメリかも容共政策ばかりでは済まなくなってきます。
アメリカは日本を叩き潰すために共産主義者を利用して来ただけ・・お互い相手の利用が終われば本来の喧嘩が始まったと言うことでしょうか?アメリカ本国では1950年から赤狩り・マッカ−シー旋風が起こり、これに歩を合わせてそれまで共産主義伸長援助関係にあった日本占領軍もレッドパージに大転換します。
占領直後の勅令では、https://ja.wikipedia.org/wikiによれば、
「聯合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令(昭和21年勅令第311号)として1946年6月12日に公布され、同7月15日より施行され」ています。
「占領目的に有害な行為」を「連合国最高司令官の日本帝国政府に対する指令の趣旨に反する行為」「その指令を施行するために、連合国占領軍の軍、軍 団又は師団の各司令官の発する命令の趣旨に反する行為」「その指令を履行するために、日本帝国政府の発する法令に違反する行為」と定義していた。
占領目的に有害な行為をした者は10年以下の懲役若しくは罰金又は拘留若しくは科料に処すると規定された。」
「軍国主義破壊」と言う意味不明の占領目的で占領した結果、これを具体化するには「占領目的に有害行為」と言う漠然とした定義で処罰するしかなかったのでしょう。
https://kotobank.jp/word・・団体等規正令が施行されます。
「昭和 24年政令 64号で,いわゆるポツダム政令の代表例。「平和主義及び民主主義の健全な育成発達を期するため,政治団体の内容を一般に公開し,秘密的,軍国主義的,極端な国家主義的,暴力主義的及び反民主主義的な団体の結成及び指導並びに団体及び個人のそのような行為を禁止することを目的」 (1条1項) として制定された。」
以下レッドパージに関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の記事です。
「GHQの主導権がGSから彼と対立関係にあった参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。」
1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放し、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。
こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告及び、9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放 (解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放が殆ど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)」
上記のとおり、レッドパージと言っても主義主張だけで区別するのは無理があるので、米軍指令に従って型通り(やったことに)しただけで、よほどの筋金入りだけ・それ以外のいわゆる左翼系思想家は何ら問題になっていません。
もともと日本は戦前から思想信条の自由がかなり保証されていた・具体的国家転覆行為に関与しない限り処罰される仕組みではなかったことに由来します。
ありもしない戦犯でっち上げの東京裁判や慰安婦騒動同様で、戦前の思想圧迫がひどかったという米軍政に都合のよい宣伝が行われ、これに便乗・誇大表現する意見が多すぎることを検証し直すべき時期が来ています。
弾圧と言うほどのものか・企業でもどこの組織でも派閥類似のものから外れたり敵対グループに属すると出世から外れたり子会社に出向させられたりしますが、これを弾圧とまでは言いません。
非常事態下で一定の行き過ぎがなかったとは言えないでしょうが、行き過ぎた面がどのくらいあったか、あったとした場合、その程度が戦争直前〜戦時中の諸外国の国内締め付けに比べて日本の方が厳しかったかどうだったかを検証しないと本当の歴史がわかりません。
20世紀の大思想家と言われるハイデガーでさえ、ナチス迎合があったと言われますが・ナチスと比較して日本の規制がゆるいと言っても仕方ないとしても、その100前の時代のヘーゲルだって、ドイツ君主制に気兼ねした論文になっていたと言われます。
どこの文献で読んだか探せないので、ウイキペデイアによると結論だけですが、以下の通り解説されています。
ヘーゲルの立場と影響
・・かれの哲学思想は、全体としてドイツの市民革命の前夜の動向を反映しながら、他方で現実の君主国家に妥協する面も写しだしていた。

南原繁氏が戦時中の1942年に発表した全体主義批判の論文(「国家と宗教」を中心に彼の思想を紹介してきましたが、同氏は価値平行論でナチスの全体主義を批判しただけでなく、ナチス思想を日本的応用?主張する便乗的思想家に対する批判も書いているのですが、当時の内務省はこれを問題にしないままにしていました。
暗黒時代というものの思想発表だけでは獄につながれるような過酷なものではなかったのです。
何か政権維持に不都合な発言等を問題視してメデイアによる集中砲火的的批判を浴びて国務大臣を罷免されることがありますが、これを弾圧と言うならば、「靖国神社参拝批判その他の発言を理由に弾圧された政治家が数知れず・暗黒の戦後」となります。
南原論文を問題・発禁処分しない理由とするところは「学術論文に過ぎないから」(難解すぎてレベルの低い右翼やメデイアには理解できないだろう・・社会問題にならないだろう)と言うものだったようです。
治安維持法によるの暗黒時代といいますが、「弾圧」を叫んで煽ったのはメデイアだったのでメデイアに問題視されなければ良いというのが内務省の立場でした。

南原繁氏の超国家・普遍思想6

ニクソンショック〜1985年のプラザ合意に至る過程で欧米による対日経済圧力・・攻勢が強まり窮地に陥っていた日本の大蔵省が、経済面での国の顔である紙幣の顔として米国で人気のある新渡戸稲造を急遽登用した理由でもあったのでしょうか。
敗戦時に米国受けの良い南原氏厚遇で占領軍政を上手くこなした経験を活かすべく、あんちょこに紙幣の表紙を変えたのではないかとのうがった見方も可能です。
紙幣表紙は日本の(恭順の)気持ちを表すだけでしかなく、今後真摯に貿易黒字削減〜内需拡大に取り組む意思表示としての意味があってもいきなり国全体の構造改革は無理ですから、欧米が求めていた「結果」を出せない以上、自主的改革が無理ならば外圧による強制ショック療法・為替自由化=経済力に応じた為替相場→円高しかないとなり、結果的にプラザ合意を阻止できませんでした。
メデイアはしきりに失われた20年と言いますが、この結果日本国民は貧弱な生活のもとで金儲けばかりに精出さずに生活水準を高める方向に方向転換できたので良き時代であったという基本主張を繰り返し書いてきました。
中国が、対中経済制裁を免れるためにアメリカで好感度の高い人物を仮に外相や駐米大使に起用しても、鉄鋼等のダンピング輸出やサイバー攻撃をやめない限り報復を止められないのと同じです。
国内構造改革・輸出より内需拡大・豊かな生活が必要とわかっていても、国民にその準備ががないので当初5〜6年間は手近な不動産バブル・・ブランド品や高額な絵画などに狂奔するしかなかった点は、今の中国と同じです。
2000年代初頭から5000円札表紙が樋口一葉に変わり、数年前から十和田市で新渡戸稲造記念館の存廃問題が起きてきたのは、小手先の目くらましには意味がないことに気がついた・・特需の恩恵が静かになくなってきた時代の流れでしょうか?
南原氏とは何者か?どう言う基本思想の人物かの関心で、西田氏の意見を2月19日頃から23日頃まで断続的引用してきましたが、哲学用語で難解でしたが、南原氏の宗教面の研究があって、これと合わせて読むとが少し理解しやすい印象ですので、関心のある方のために以下引用先と目次と結びのみ紹介しておきます。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/74750/1/08Kato.pdf
Kyoto University
南原繁の宗教論 : 国家論の枠組みの中で
加藤,喜之
キリスト教思想と国家・政治論 (2009), 2008: 27-42
キリスト教思想と国家・政治論 近代/ポスト近代とキリスト教研究会
2009年3月27~42頁
南原繁の宗教論 1
―国家論の枠組みの中で―
加藤喜之(yoshiyuki.kato@ptsem.edu)

本論
一.価値並行論と宗教
二.民族論と宗教
三.日本的キリスト教
結び
南原宗教論の現代的意義

概観して来たように、南原の宗教論は、西南学派の価値哲学とフィヒテの民族論の哲学的枠組みが、無教会的福音主義信仰と交差しあうことによって成り立っている。
その根底に流れる価値と歴史、理想と実在といった問題は、哲学史において未だ解決されていない重要問題であるゆえ、この結びで取り扱うことは出来ない。
つまり、現代の主たるアカデミアで取り扱われることは少ないにしろ、新カント学派の超越論的論考がはたして、哲学的に超克された問題なのかは、未だ結論が出ていない。
ただ、ポスト・ハイデガー的現代思想の枠組みの中で、価値や理想論の復興はあくまでも、間主観的に執り行われるゆえ、短絡的に、南原の思索の根底にある価値並行論を、現代に適応することは出来ない。
しかし、今日においても、間主観的に取り扱われる様々な道徳の問題の彼岸に、
「赦し」と「絶対者」の問題が現れてくることも理解されなくてはならない。
このような枠組みの中での南原の宗教論には、現代思想が再読しなければならないものが残されているかもしれない。キリスト教思想と国家・政治論40なるのであった。
日本文化の中に生きつつ、その精神文化によって道徳的価値や「絶対者」・「聖なるもの」の可能性を見いだしながらも、結局は得ることの出来なかった根源悪からの救済を、十字架のイエスの上に見いだすことが出来る。
この非合理的な十字架は、罪の赦しとしての新しいいのちを与え、そして、そのいのちによって、日本精神を刷新することが出来、それゆえに日本的キリスト教を構築していくことが出来るものであった。
    かとう・よしゆき (プリンストン神学大学博士課程)
上記筆者は神学者のようですから、政治哲学側面よりは神学・哲学的研究が中心ですが、これを読むと西田氏の(批判的)研究に出てくる哲学的言及に対する側面理解に有益です。
上記論文中の価値並行論を読むと哲学用語が満載ですが、高齢者特有の(難しい論証を省いて「要するに・・」と言う読み方をすれば、)南原氏が現実政治での解決・・国家を超越した神の「赦し」を基礎におく以上、19日頃に引用した西田氏が批判するようにそこから先に理論進化がなかったとしても(浅学菲才の私がいうのはおこがましいですが)当然の結果だったような気がします。
ただし、この後に書くように南原氏は、民族精神・共同体について日本に当てはめて象徴天皇制を基軸とする独自意見を展開していてその通りの戦後ニッポンを形作って行った実績がありますがプロから見れば哲学的深化がなかったということでしょうか?
神の領域と現実政治・国家の分離を主張する価値並行論は、神道の影響を排撃したい占領軍政治方針とも合致していて、好都合だったでしょう。

南原繁氏の超国家・普遍思想5→福音派・米政府との人脈

ちょっとのつもりでだいぶ横にそれましたが、南原元東大総長の全面講和論に戻ります。
February 23, 2018,「超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)」の続きです。
実務というものは、100%思う通りに行かないネクスト〜サードの妥協で成り立っているのが普通ですが、思うように行かないからと完全反対していた場合、その結果どうなるかの視点が必要です。
全面講的には現実政治的には無理・・いつまででも米軍に占領されている方が良いのか?となります。
(南原氏にとっては異民族占領支配が続いた方が居心地がよかったのでしょうか?)
日本民族の独立が正しい選択とした場合・・当時の国際状況を客観的に見れば全面講和以外の講和条反対・・結果的に米軍占領政治がその後約40年以上も続いた方が良いと言う主張は、無い物ねだりの主張・現実無視論でした。
南原氏や革新系野党の全面講和論者の言う通りしていたら、日本は米ソ対立が続く限り独立できず、国連にも加入できず日本に利害のある各種の国際政治に独立の当事者としての参加資格がないまま・・自己主張する権利もないままに据え置かれていたことになります。
李承晩ライン設定や竹島占領と言う白昼公然の強盗行為にだって独立していなかったからなんら有効な対応できなかったのです。
歴史は後世の人が裁くものですが、ソ連崩壊時ですぐ独立できたとしても戦後約50年経過ですから、それまで日本は何をされても何らの当事者能力もないまま戦後50年間やられ放題で放置されていたことになります。
現在に至っても日露平和条約を結べないことから明らかなように、ソ連崩壊した時に(独立するためにはかなりの見返りを要求される)無償で全面講和できたと思う人はいないでしょう。
日中国交回復だって、日本が独立国として日本が中国を承認する方でしたが、これがもしも逆であれば大変な代償を要求されていた可能性が高かったでしょう。
日韓国交交渉も同様です。
これが「曲学阿世の徒」という批判を受けた原因でしょうか。
この機会に南原氏の9条論を紹介しておきます。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51954443.html
憲法制定議会で野坂参三と並んで2人だけ第9条に反対した南原繁の証言は貴重だ。彼は当時をこう回想している。
戦争放棄はもちろん当然なさるべきことですけれども、一兵ももたない完全な武装放棄ということは日本が本当に考えたことか、ということを私は質問したわけです。つまり私の考えでは、国家としては自衛権をもたなければならない。ことに国際連合に入った場合のことを考えるならば、加入国の義務として必ずある程度の武力を寄与する義務が将来、生じるのではないか(p.350)。
つまり南原は一国平和主義をとなえたのではなく、国連中心主義の立場で第9条に反対したのだ。したがって彼は、吉田茂がなし崩しに進めた再軍備には、強硬に反対した。それには憲法の改正が不可欠だと考えたからだ。
南原が理想としたのは、カントの提唱した常備軍の廃止だった。
彼はその代わり、国際機関による警察機能を考えた。将来も戦争が起こることは変わらないが、今のような主権国家の枠組ではなく、それを超える国連の警察機能で国際秩序を守ろうと考えたのだ。
南原氏の戦後教育に与えた影響力の強さに今更ながら驚きますが、私自身そういう教育方針にどっぷり浸かって感化されて育ったように思えます。
国連第一主義を教え込まれて育ちましたが、いつまでたっても国連が日本国内の警察のような役割を果たせない現実があります。
国際司法裁判所があっても独立国でないと訴える資格もないでしょうし、フィリッピンのように中国を訴えてせっかく完勝しても中国から「そんなのは紙切れだ」とと豪語されて逆に中国のごきげん伺いするしかない現実があります。
尖閣諸島に石油資源があるとなれば、いきなり自国領土と言い始め、実力行使に出てくる国があります。
そうなると日本も自衛手段が必要ではないかという現実論が起きてきます。
自衛が必要となれば、1国だけでは無理なので友好国が必要となり友好国であればいざという時には助け合いましょうとなるのが普通・・安保条約・集団自衛行動の必要性に繋がっていきます。
非武装論者は軍備より相手から攻撃されないようにする外交が重要というのですが、それは周辺諸国との友好善隣構築が基本です。
友好国に災害があったり、不当な攻撃を受けているときに黙って見ているのでは友好関係になり得ません。
ここでのテーマとズレますが、戦後思想教育の翁影響を与えた南原氏の論文はネットに出てこないので、ネットであんちょこ・直接読めませんが、南原氏の論文に対する研究論文がネットに出るようになったので、批判と擁護両面の論文を読むと当時の南原氏の思想・立ち位置が浮き彫りになる面があります。
南原氏はプロテスタントとは言っても福音派ですが、たまたま22日の日経新聞夕刊3pには、福音派が今でも政治中枢に絶大な影響力を持っている記事が出ていましたので紹介しておきます。
ネットでも大々的ニュースになっていたので以下引用しておきます。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018022200006&g=int
米国のキリスト教福音派伝道師で、保守派を中心に政界にも強い影響力を持ったビリー・グラハム師が21日、ノースカロライナ州モントリートの自宅で死去した。99歳だった
1949年にロサンゼルスで催した伝道集会に多数の信者が集結したことで、その影響力が注目を浴び、50年にBGEAを設立。同協会によれば、185以上の国・地域の計2億1500万人近くに福音を伝えた。
トルーマン政権(45~53年)以降、歴代大統領の多くと親交を持ち、ニクソン、レーガン、ブッシュ(父)、クリントンの各大統領の就任式で祈とうを行うなど「精神的導師」を務めた。米メディアによれば、冷戦期に当時のソ連や東欧諸国にも足を運んだほか、92年と94年には北朝鮮を訪れ、金日成主席とも会った。
トランプ大統領は声明で「(グラハム師は)その人生と指導力で真の『神の大使』の称号を手にした米国の英雄だ」と追悼。同師の埋葬の日には、ホワイトハウスなど国内外の連邦施設に半旗を掲げるよう命じた。オバマ前大統領、ブッシュ元大統領親子、カーター元大統領らも、それぞれ声明などで死を悼んだ。(2018/02/22-10:17)
過去の指導層からはみ出たイメージの強いトランプ氏までこのメンバーになっているのには驚きました。(日経夕刊にはトランプ氏との写真も出ています)
敗戦特需(を受けた人々?)という言葉がありますが、一般的に知られているキリスト教系人材が特需を受けただけでなく、キリスト教徒の中でも南原氏など敗戦時の日本の福音派思想家がいかに米政府からの恩恵を受けていたかが分かろうというものです。
南原氏らが恩師と仰ぐ新渡戸稲造氏(熱心なクエーカー教徒?)が特大的評価を受けて従来の5000円札・聖徳太子像に変わる表紙になった理由もわかります。
彼がアメリカで発行した「武士道」の本はアメリカで人気を博してから日本語版が出た程度であって、日本国内の国民的人気としてはマイナーな彼がいきなり昭和58年に紙幣の表紙になるのは唐突な印象です。
アメリカ人にとっては武士道精神は衝撃でも、日本人にとっては何の目新しさもありません。
国民文化の向上に何の役割があったかという視点では、評価がほぼゼロではないでしょうか。
ミスユニバースになっても、日本国内でほとんど評価も受けないのと同じです。
ミスユニバースやアメリカ受けの良い芸人を外交に利用するようなものでしょうか。

「チンはたらふく食ってるぞ!」「日本死ね」の背景

「チンはたらふく食ってるぞ!」「日本死ね」の背景

敗戦の混乱・米軍の民族分断の煽りに乗じて日本軍が如何にひどかったかを批判すれば、米軍政下で重宝され、講和後は米軍の置き土産で運営されているメデイアで賞賛される状態が続いていました。
これに便乗し作品発表する進歩的文化人・一般受けする評論家・・それ以外にメデイアに露出する余地がありません・・が多かったようです。
米国の影響力がハゲてきてしかも寡占市場であった言論発表の場がネットに崩されてくると、軍部が如何に酷かったか、あるいは民族内対立を煽る文書発表でメデイアに重宝されてきた進歩的文化人?がようやく批判されるようになってきましたが・・。
占領軍にいち早く媚を売った国民は一部でもいたのは事実であって、全国民が占領軍による内部対立を煽る政策に反感を示していたという意味ではありません。
戦後直後の食糧難の時に「チンはたらふく食ってるぞ!なんじ臣民飢えて死ね」という心ないプラカードを押し立てて皇居前広場に押しかけて歴史に名を残した人もいます。
これが民族の代表意見だったというのでしょうか?
27日現在のウイキペデイアによる記事です。

プラカード事件(プラカードじけん)は、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業[2]社員・松島松太郎が掲げた
「ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)
のプラカードが不敬罪に問われた事件[3]。

プラカード事件のような調子にのる不心得者(不心得者かどうかは歴史が証明するでしょう。
少なくとも上記松島松太郎の子孫が名言を吐いた一族の誉れとして自慢の親または祖父として名乗り出ているのでしょうか?
これだけ有名なキャッチコピーを自慢して誰も名乗り出ないとすれば、身内としても親または祖父の行為を自慢できるとは思っていないからではないでしょうか?
慰安婦騒動の起爆剤になった・・・メデイアにより慰安婦扇動に調子を合わせた吉田調書著者の長男が、亡くなった父に代わって贖罪行為に努めている姿が普通のイメージでしょう。
最近でいえば、「保育所落ちた日本死ね」の標語を16年流行語大賞?に選ぶ心理とつながっているように思えます。
選考者の説明では、政治を動かす言葉のインパクトがあったと言う釈明らしいですが、これによって政治が動くようになったのではなく、政治の方はすでに動いていたのですから言い訳に過ぎません。
https://www.komazaki.net/activity/2016/02/004774/によると以下の通りです。

じゃあ、政府は何もしていないのか?
【実は保育所数は劇的に増えてるけど、待機児童は減ってない】

ということもあって、平成25年度あたりからグンと保育の拡大量が伸びました。
しかし、認可保育所に申し込む人が増えたこともあり、待機児童は減らせず、むしろ若干増えている、という状況なのです。

安倍政権になったのは2012(平成24)年暮れからですから、その後急激に保育所を増やしている状況が見えます。
平成25年から急角度で増えていることを見れば、16(平成28)年の「日本死ね」のインパクトによる世論喚起効果プラス山尾志桜里議員発言で政府が重い腰を上げてようやく動き出した関係ではありません。
被災があって仮設住宅着工したが、まだ完成しない・・あと10日〜20日かかるのを待てない、あるいは次々と増設しないと間に合わない状態に待ち切れない人々が駄々をこねるのにコトかいて!必死に頑張っている工事職人に八つ当たりしているようなものです。
八つ当たりしたからといって現場工事が進むものではありません。
しかも政府が保育所数増加必要性を認めても、住宅街や便利なところに作る必要性や保育士手当(定員)の必要があるから、いきなりできない・・用地買収などの手順・時間がかかる作業です。
「日本死ね」というな発想になる自分について、本当に国民支持を受けている自信があるならば、なぜ「この意見を書いたのは自分です」名乗り出て自分が流行語大賞を受賞しないのでしょうか?
初めから国民のゴク一部からしか支持されない発想・思考形態と自覚しているからではないでしょうか?
こういう発想を信奉する国民も一定数いますが、戦後日本人大方がそうではなかったと私は思っています。
流行語大賞になったことが示すように「日本死ね」に対してメデイアはこぞって高評価しているようですが、メデイアと世論は違います・・歴史が審判を下すでしょう。

超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)

昨日紹介したウイキペデイアの清水幾太郎の記事を読む限りでは、彼は左翼思考から転向したのではなく、反米という一点で節を曲げずに頑張っていたように見えます。
丸山眞男氏ら「進歩的文化人」主流は、ソ連寄りの主張では戦えない・国民支持がないのを知っていたので「反安保」(ソ連支持)よりは「議決方法が民主的でない」と論点をずらしていくことにしたのでしょうが、清水氏はこのずるいやり方が気に入らなかったようです。
米ソどちらの側についた方が良いかの綱引きで社会主義に夢を持つ純粋な人が国民支持を受けずに論争負けた場合、自己主張が日本のためになると信じているならば支持者を増やすために自己主張の説得力を増やすためにさらに努力するのが本来です。
論戦に破れたからと言って例えば「相手の声が悪いとか聞き取りにくい」とか揚げ足取りの非難しても始まりません。
「日本のための思想信条の自由」であるならば、国民に受け入れられず挽回の余地がないとわかった時点でその思想の優劣が決まったのですから、潔く結果を受け入れるべきです。
討論で負けたのに土俵外の争いに持ち込むような卑怯な真似は日本社会では許されません。
敗戦時に日本の堅固な社会組織解体を目指すGHQの威力を背景に「過去の仕組み解体主張すれば何でも良い」という左右双方が共同歩調できた良き時代に勢いを増した観念論者・進歩的文化人?の限界が最初に出たのが、サンフランシスコ講和条約の股裂事件であったでしょう。
以後いわゆる(敗戦後米ソ双方から支援されてきた)進歩的文化人?はあくまで共産主義が良いと頑張る(確かな野党)勢力と議決方法に矮小化する(日本国家を超越した背後の支配権力に擦り寄りたい)勢力に別れていったように見えます。
そのトドメになった最後の大団円になったのがいわゆる60年安保騒動だったことになります。
左翼系ではこの騒動の大規模さとその高揚感を懐かしむ(続く大騒動を期待する)高齢者が多いですが、最後の大決戦が大きな争いになるのは歴史上普通で、豊臣家が滅亡した大坂の陣が大きな合戦であったことを理由にもっと大きな合戦が起きるの期待しているようなものです。
「進歩的文化人?」と言う変な種族が60年安保以降、土俵上の勝負で負けてしまったので正々堂々の議論をする能力・自信を失い、アメリカの民主的手続き重視の論理を借用して政府の足を引っ張ることを主たる運動に変えていったのですから、姑息な争い方に反対する清水氏の方が王道というべきでしょう。
政敵の足を引っ張ることに精出すことになった勢力の方こそ、自己批判すべきだったと思われます。
これが潔くない行動として批判したら、報道界で干され、従来の仲間から仲間はずれにされてもくじけなかった清水氏こそ侠客・男の生き方です。
日本人は「難しいことはよく分からない」と言いながらも、実はしっかりと正邪を見極める能力が高いので、邪道を続ける限り野党や「進歩的文化人」支持がジリ貧になるしかなかったのです。
安保騒動・・40年前の清水幾太郎の孤立化の経緯を(ウイキペデイアの紹介記事しか知りませんが・・)見ると、ここ数年顕著になっている国会の議論・集団安保法案などで法案の中身よりは議論の時間が少ないとか議決方法が民主的でないとかばかり主張したり、経済政策その他重要法案の審議そっちのけで、森友、加計学園問題等に何年も同じテーマで堂々巡りしている、(この数日では日銀人事案について事前報道があったことを理由に難色を示すなど(・・野党の関心は人材・能力の適性に関する賛否意見であるべきでしょう)近年の野党の国会戦術・揚げ足取りばかり煽る報道界の体質の源流を見る気がします。
国会ではちょっとした政府答弁のミス等があるとその責任をはっきりしない限り、審議に応じないなど議論が全て中断する慣習になっているのは、60年安保以来の悪しき伝統になっている様子が見えます。
昨日22日の日経新聞朝刊3pにも働き方改革の1年延期方針に対して「政争している場合か」という大きな見出しがあって、見出しで見る限り批判記事が出ています。
題名しか見ていませんが、政府提出データが間違っていたことで紛糾しているようですが、内容についての議論がなく入り口でこんな資料ではどうの・・・という議論ばかりでは国会が何ためにあるかわかりません。
政権のよりどころになっているデータが違うならば、自分の主張を裏付けるデータの方が正しいと主張すればいいことです。
我々の訴訟でいえば、相手が有利に展開するために出した資料に不備があった場合、その不備を補正出来ないうちに結審した方が有利です。
例えば訴訟で大量の署名簿を提出した時に中の1名の署名に不備があってもその他数万名の署名に影響しないならば一人くらいの署名文字が読めなくともその補充調査するよりは、その分だけ撤回するかは提出者の自由です。
証拠価値を(反対尋問等で)減殺された方が、その証拠がないと負けそうな重要証拠の時には新たな証拠提出に必要な期間を待ってくださいと頼むのが普通です。
国会で野党が政府新たな資料を出すまで審議に応じないというのは、この逆をやっていることになります。
これを論理的に見れば、政府はその資料がなくとも法案の結論が左右されない・あってもなくともいいおまけの余計な発言(大臣失言)や資料に対する揚げ足取りでしかなかったという前提・・野党が問題にしている資料ミスや大臣発言は法案審議の帰趨に関係ない無駄な資料であることを野党が自己証明していることになります。
野党は政党として独自意見があればその主張をすればいいのですから、政府提出資料の一部にミスがあれば、それがなかった時にその法案の決定にどういう影響があるか、あるいは大臣の「問題』発言がその法案とどういう関係があるかを論じれば良いことです。
担当大臣が法案を十分理解していないことが時々問題になりますが、法律というのは(実務運用して見ないとどういう不都合があるか分からないのが原則で)運用するのは法ができてから一定期間経過後の現場ですので、半年〜1年で交代していくのが原則になっている担当大臣が数年先の運用を即座に想定して答えられないのは当たり前のことです。
これを前提に最近の法律では、施行数年後に実務運用を見ての見直し規定を置いている法律が増えてきました。
物理的な車や洗濯機等の機械類でも実験の繰り返しだけではわからないので、販売後実際にユーザーが使ってみてその使い勝手によって、さらに修正・磨きをかけて行くのが普通です。
「まして生身の人間相手の法律においておや!」と言うことです。

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