各団体の長の役割1

話題を各種団体のリーダーに戻しますと、佐倉義民伝の佐倉惣五郎だってそうですが、みんなの意見で代表・責任者に推されただけであって特に特定の意見を押し付けたりする指導者とか号令するような役割ではなく・・我が国のトップの実質は責任者に過ぎません。
明治までは組織の責任を取るだけで、いろんな団体や組織の責任者の名称として莊屋とか名主などがあっただけでした。
明治以降、区長や戸長、市町村長、校長・学長・塾長・寮長・級長すべての分野で指揮者の号令一下、動くような「長」と言う漢字を持って来た事自体、違和感があったでしょう。
元々「長」の語源は年長者や長老・・年功によって相応の智恵のあるものですから、組織や団体にはご意見番として知恵者が何人かいるのは当然ですが、近代軍隊制度が発達した以降、組織の長となると突撃隊長をイメージする指揮命令権者をイメージするように変化しています。
明治政府の指導に従っていろんな組織では、すべて責任者の名称に「長」をつけることになっていますが、(小は小さな家の「家長」に始まり町内会長、村長、町長、市長があり、対等な仲間で作る筈の各種協同組合まで、組合長や理事長があります。
しかし、長の名称ばかりが広がり過ぎて学校長、裁判所所長、工場長,営業所長などは,具体的に何をして良いのか分らない感じです。
校長はすることがないので朝礼で訓示したり草むしりをしていますし、平均以上の規模の裁判所所長はあちこちの会議に出て挨拶をする仕事が中心です。
営業所や店長も同じで毎朝ミーテイングと言う朝礼をして格好付けていますが,営業マンの先輩としてのアドバイスなどの仕事がたまにはあるでしょうが,それ以外に長として何を指揮命令するのかが見えません。
工場長だって同じで各部門は部門ごとで動いているので、工場長自身も職人や部門長を兼ねない限り自分で何かする仕事がありません。
私が修習生をしていた当時の宇都宮地裁では裁判官が所長を含めて全部で6人程度でしたので、所長も事件を担当して自分で裁判をしていましたし、それ以外の所長としての仕事は(何年に一回あるかないかの営繕関係を除いて)まるでありません。
刑務所所長も各部門別にやっていて、部門長の会議を所長が主催しているだけでしょうし、校長も職員会議の議長でしかなく、裁判所長も裁判官会議の議長に過ぎません。
このようにわが国の組織では必ず長を置くことになっていますが、実際には合議の議長役として機能しているのが普通です。
古代の国司の仕事は司会役・・議長役程度だったのではないかと May 6, 2011「州の刺使と国司」May 20, 2011「郡司6と国司」等で書いてきましたが、この習慣が今でもいろんな組織で続いているのです。
ただし、営利団体の会社の場合、平安中期以降勃興した武士団の「長」と同じで、社長はまさに陣頭指揮命令権者であって、社長を選任し監視すべき取締役は(以下に述べるように法的には違いますが実際上)指揮命令を受ける部下(部門長)に過ぎません。
この違いは何かと言うと,対外的に一団として行動することが日々求められる集団(会社や武士団)と存在そのものが安定していて内部処理だけの組織(国司は隣国との国対抗戦争をしません)の違いとも言えます。
会社の場合、戦国大名同様に日々食うか食われるかの競合他社との戦いの連続ですから、社長は各部門の報告を聞いたり、司会したり、訓示を垂れたりだけでその他の時間はのんびり草むしりしている訳には行きません。
日々指揮命令する会社では社「長」と言う名称はぴったりして来る反面、社長の指揮命令を受ける取締役が法律上社長の行動を監視する役目にあると言われても実態に合わずにピンと来ない人が多いでしょう。
会社制度はリーダーシップを求められる社会であるアメリカがリードして現在の法制度が造られているのですが、リーダーシップの強い筈のアメリカで逆に社長の権限牽制システムが理念とされているのに対し、合議制社会の我が国で逆に取締役の監督機能が弱いのは不思議です。
アメリカでは,大統領の権限が強い代わりに議会や裁判所がしっかり監視する仕組みになっているのと同じで、社長権限が強いからこそ監視機能が必要だと言う割り切り方(企業統治にも3権分立の精神が貫徹されています)があるからでしょうか?
わが国の場合、原則として合議制運用で来たのでトップは暴走出来ない前提があって、暴走に対する外部的歯止めが歴史的に用意されていないところに問題があるようです。
あまりにもひどい君主が出た場合に時々行われていた家臣団による君主押し込めのような、一種のクーデターに頼る形式と言えるでしょうか?
そういえば三越百貨店の岡田事件の決着も家臣団的な取締役によるクーデター形式でした。
わが国の会社の場合、実際に社長の権限は強化される一方ですから、我が国でも突発的なクーデター形式に頼る是正しかないのでは法的安定性が害されますので、今後は暴走を阻止するための担保制度が遅ればせながら必要になって来ています。

原発事故防止と自衛隊・警察の役割

昨日の原発問題では警察の高圧ホースによる放水と自衛隊の空中からの冷却水の投下が報じられていました。
驚いたのは警察のホースの水は届かないほど遠くからだったので何の役にも立たなかったことと、自衛隊も高空からおそるおそるの行動でたった4回でやめてしまいました。
自衛隊はその後地上からの放水を試みたそうです。
警察も軍隊も(自衛隊は軍ではないと言う主張もありますが・・・)少しでも危険のあるものには近づかないと言う姿勢で徹底している報道に驚いているのですが、自衛隊がこれで良いのでしょうか?
国家の命運がかかっているような時に決死隊・・というか自分の生命の危険を顧みずに飛び込むのが軍の任務ではないのでしょうか?
自衛隊員が20万人近くいると思うのですが、その中でヘリコプターを操縦する人と水を落とす人の合計5人〜10人・・命を捨ててでも戦える人が5人〜10人もいないと言うことでしょうか?
あるいは「ここは国家の安全を守る瀬戸際だ、国家のために命を捨ててでも頑張ってくれ」と部下に言える上官が一人もいないし、部下の方も「俺に任せてくれ必ず期待に応えます」と言う兵が一人もないと言うことでしょう。
今時そんな浪花節みたいなことがある訳がないと言うのが世間相場でしょうが・・・。
そうすると、敵の鉄砲玉の届くリスクのあるところへの出動は命じられない・・少しでも危険のあるところへは行きたくない軍や兵士は、存在意義がないように思えます。
極端な意見かもしれませんが、危険な場所に身を捨てて飛び込んで行ってでも1億の国民のためにネジを締めてくる・・爆発物を処理してくるなどの行動をする・決死の行動を出来る人が一人もいない軍隊・・そういう思想教育で良いのでしょうか?
水を放水する距離を少しでも近づけば成功率が高まるのに、一般人が避難している程度の放射能プラスアルファを浴びるのさえいやがって遠くからおそるおそる放水して「届きませんでした」では驚くばかりです。
もっと近づけば健康に害があると言うだけで、死ぬ訳でもないのですから(原爆の直接被害者・・防護服などないですよ・・でさえ何十年後に白血病やガンになる確率が上がったと言うだけです)、死をすら恐れない軍隊のイメージとは大分かけ離れていませんか?
昨日は自らの危険を顧みずに頑張っている(だろうと想像して)現場の努力をたたえたコラムを書いたばかりですが、こんな報道を見ていると誰も決死の覚悟でやっていないことが明らかになりました。
直ちに命に危険があると言うのではなく、健康に僅かの影響がある・それも可能性がある程度のことすら命じられない軍の上官、命じられても「怖いよ〜」とへっぴり腰で戦うような軍隊や警察の存在意義について驚いているのですが、今では驚く方が異常でしょうか?
多くの国民の生命健康を守るためにちょっとしたリスクも拒否するような兵士・・あるいは僅かな危険にさらすことすらを命じられないような上官・軍隊など存在意義があるのでしょうか?
今回冷却用の海水注入をどうしてもっと早くからやらないのか、爆発するまで何故手を拱いていたのかの疑問を持っている人が多い筈です。
爆発してからだから危険が多く、しかも効果が限られていて、ついには注入自体ができなくなってしまったのす。
海水注入をすれば良いのが分っていたが、注入すると原発は永久に使えなくなるのを恐れていたのでしょうが、時間の経過で爆発するのが分っているのに爆発する前に「オレがその批判を受ける」と思い切って注入を決断出来る人材がいないので爆発まで放置していたのです。
少しでもリスクのある決断を出来る人材がいない・・・・停電事故の発生段階で冷却出来ないで放置していれば過熱するのが分っていたのに爆発するまで海水注入を決断することが出来ない決断力のなさ・・次の大きな事態発生までリスクのある対処方法をとれないで対処方法を繰り返し小出しにして行くことが次々と事故を大きくして行った原因です。
3月15〜16日に書いたように計画停電による大混乱も関係者がすべての分野で少しのリスクも取りたがらない体質が大混乱を招いているのです。
自衛隊の存在意義に戻しますと軍隊・兵士は、国民を守るために自分の命を的にして戦うためにあるんだとばかり思っていました。(考えが古いかな?)
日本の軍隊は、自分が安全なときだけ戦う・・少しでも怪我をするリスクがある時には戦わない・・自分よりも相手が圧倒的に弱いときだけ戦うために存在しているのでしょうか?
あるいは、相手をやっつける快感のあるときは自分の命の危険を顧みないが、相手をやっつけるのではなく、危険な場所に飛び込んで行って揺るんだネジを締めて大爆発を直前で食い止めることや、あるいは今回のように普通の人よりも多くの放射能を浴びてでも、大事故を防いで国家や背後の国民の危険を除去するようなことには僅かなリスクも負いたくないと言う価値観の違いでしょうか?
自衛隊・国防軍と言うのは、誰から何を守る団体だったかの疑問です。
敵の軍隊と戦うだけで国民の敵全部に対応するのではない・・放射能や地震から国民を守る義務まではないと言えばそれまでかもしれません。
目的別だと言うのでしょうが、今時外国の軍隊がマトモに攻めてくることは滅多にないのですから、今回のように原子力の危機・・ひいては多くの国民の生命安全が脅かされている時に決死の覚悟で防衛する別の軍隊が必要です。
本来背後の家族や国民を守るために自分の生命の危険を顧みないと言う点では共通な筈ですが、今回の行動を見ていると、相手をやっつける可能性のあるときは快感があるので危険を恐れないが、放射能と言う大敵を鎮圧するために命を落とすどころかちょっとした放射能を浴びるのもいやと言うことになります。
そうなると軍隊に入る人・・職業軍人は、やっつける相手・・人間がいないとリスクを負えないと言うことですから、単に喧嘩好き・乱暴な素質を利用して愛国心のためと美化して税金で食っているだけになります。
仙石前官房長官が自衛隊を「暴力装置」と国会で発言して物議をかもしましたが、国民を守るためなら命を惜しまないのではなく、単に人間を相手にするときだけ・・平たく言えば喧嘩するなら命を惜しまないと言うだけでは、暴力団あるいは暴力団の用心棒と変わりません。

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