最近の事例で言えば、新潟コシヒカリの味が落ちて戦前頃まではとても稲作適地ではないと思われていた寒冷地の北海道で(品種改良の結果と思っていましたが・・)温暖化北上の結果?米が作れるようになった上に、北海道産のコシヒカリが新潟コシヒカリよりうまくなった?と言われていますが、この程度の変化は悪いことではありません。
同質のものが北海道でもつくれるならば広大な北海道で取れる方が合理的です。
1℃や2℃くらい上がってもタイやベトナム等の東南アジアでコメやフルーツが取れなくなるとは思えませんが・・農産物生産地の北上が進んで仮にその分置き去りにされる地域があっても、戦後農業従事者の比率が減る一方・・50年〜100年後にはもっと減っているでしょうから、失業者が増えるとか人類全体で食糧難に直結するとは限りません。
銘柄価値が下がりコメの単価が下がる新潟で言えば得意のコシヒカリの値段が仮に1割下がるとすれば大変でしょうが、次の得意商品を育てる努力が必要なのは当然のことです。
どんな商売でも同じヒット商品が十年続く方が珍しい時代ですから(今年に入ってスマホブームも収束し、次の芽を企業は探っています)で適応努力成功を前提にしない気象学者の意見がおかしいのです。
まして新潟県全体で農業所得に頼る比率が今よりも下がっていれば(他産業従事者が増えていれば)そのマイナス効果が低くなりますし、仮に現地求人が少なければ就職等で県外に出るように適応していくのが普通で・農業生産減少よりも、地域内外の他産業の動向(景気動向)の方が重要です。
農業内で見ても新潟の気候変化に合わせて別のトロピカルフルーツなどの作物栽培が可能になったりする適応力次第でもあります。
南太平洋の島嶼では産業がないから心配と言えますが、日本でも離島には近代産業がない結果、(魚が取れなくなったからではなく)若者世代から順次本州等に移転していく・・過疎化が進んでいます。
気温1℃程度の気温差がどこの国に立地するかの企業判断に与える影響は微々たるものでしょう。
地球規模の気候変化は民族の枠組みを超えての移動だから大変という点もあるでしょうが、現在でも気温変化に関係なく国際的に出稼ぎと称する下層労働人口移動の激しい時代です。
気候変動を理由にするよりは、より良い職場を求めて世界規模での労働人口の移動がどんどん進む時代(南欧や中東方面からドイツ等への移動・国際移動自由化がどの程度進むかについての予測が必要です)がきているので、100年単位で温度がちょっと変わる程では元々の人口移動傾向に対する寄与度は微々たるものではないでしょうか?
学者は過去のデータが得意ですが、過去数千年〜数万年単位では、農漁業の比重が高くひいては気候変動の影響が大きかったのですが、今や産業の主力が農漁業から遠く離れている現実・移動手段も高度化し冷暖房完備してきたので、暑いか寒いかよりはIT産業に象徴されるように職場のあるところに移動する時代です。
人口問題は気候変化よりも(今でも寒冷地〜乾燥地帯、湿潤地帯などいろんな気候向けにコマツなどのメーカーも工夫しています)産業構造の変化見通しの方が重要です。
1℃上昇の影響が個別地域変化でなく世界全体の食糧生産がどうなるかコソに興味ありますが、その辺については何十度も上がれば別ですが、百年で1℃や2℃上がるくらいならば、全体として植物系が増えるメリットの方が大きいのではないでしょうか?
こういう多角多層的見通しについて、専門外の気象学者が専門的意見であるかのように温度上昇の「リスク」について発言し産業構造のあり方に口出しし、特定産業・再生エネルギー業を補助金を出して優遇し、特定産業・火力発電を抑圧するのに精出すのは・越権性が激しすぎませんか?という疑問です。
億単位や数千年単位で見れば、地球は寒冷期、温暖期の繰り返しが知られていますが、その原因はまだ不明(せいぜい憶測程度・隕石がぶつかってチリが地球を覆ったために氷河期が来たというような俗説が一般的ですが、専門家にはわかっているのかな?)ですし、その巨大な気候変動のリズムをちょっと化石燃料を燃やしたり減らす程度で変えられるのかの説明が全く(これも素人の私が知らないだけかも?)ありません。
「何かを食べている人にはこういう病気が多い」という程度であれば、そいう意見を言い、それに従う人がいてもいなくとも各人の勝手ですが、それを法で禁じたり摂取しなければならないと強制するようになると次元が別になります。
私のような疑問を持つ素人が多いからか?以下のとおり、過去のデータで温暖化と炭酸ガスの増加が連動しているとしても、温暖化したから炭酸ガスが増えたのかどちらが先かの検証が出来ていないという意見が出ています。
ある人がたまたま東京駅についたらお腹がすいたことが数回あったとしても、「東京駅ではなぜかお腹すく」という論理が成立しないのと同じで、どちらが「先だった」とわかってもその先の論理を解明しないとあまり意味のない論争をしている印象です。
というのはそもそも、明日紹介する論文?解説を読むと温暖化や冷却化の原因のほとんどは水蒸気の有無・量であって、炭酸ガスその他の指標は取るに足りない?ようです。
曇った夜は冷え込み(放射冷却)が少ないことを素人でも知っています・この論理で4〜50年ほど前には炭酸ガスが増えると曇りがちになる→直射日光がへって「地球が冷える」という危機感を煽っていたのです。
私は寒さに弱い体質なのでこの煽りには長年ビビっていましたので、もしも本当に温暖化すれば、「暖かくなっていいじゃないか!というのが本心ですが、今更180度真逆の「温暖化する」と言われると「?????」と不信感を持ってしまいます。
予言・・天気予報程度の予想や学問発表は自由ですが、この主張を直接の前提として法で特定産業を禁じたり、国民負担を強制するようになると学問の自由の範囲(原発訴訟の紹介でもこれに権威を認めすぎていることを批判して来ました)を超えてきます。
温暖化に関する予測では気象学者が専門家かもしれませんが、それでも数学のような確かさがなく、手探りでしない点は考古学的あるいは地震学〜火山学的予測同様に50歩100歩のイメージを持つ人方が多いのではないでしょうか?そもそも学問というものは、まだ分からないことが大多数でわかっていることの方が少ないという謙虚さが必要でしょう。
温度が年平均1℃上がれば(上がるとした場合の仮定・・太古から続く氷河期等の繰り返しとどう違うかも私には不明ですが)生態系がどうなるか?
人類移動の傾向はどうか?トータルどのくらい生産が増えるか減るかなどの総合予測に関しては、(気候変動で滅びる種がある代わり未知の種が増えるなど)植物学者や農学者や産業構造の変化・・人口移動などの総合判断です。
専門外の気象学者があらゆる分野の専門家であるかのような推測意見を学問として発表し、これを元に特定産業の抑圧を求める「政治に関与する」のは行き過ぎではないでしょうか。
原発訴訟に関する海渡氏の論文に対する感想の連載中ですが、そこでは、考古学者や地震学者の想像論でも単位発表している限り(そういう意見もあるのかと)害がないのですが、地震や火山学等を金科玉条にしてその学問で未解明=原発停止すべきというのは飛躍がありすぎるというスタンスで書いてきたとおりです。
いろんな学問は経済予測同様に「あてにならないのはあたり前」とした上で、いろんな意見は一応学問の発展に資するから育成しましょうという程度にすべきです。
いろんな意見があって面白いな!という程度、「その意見が気に入らなければそれまで」という気楽さ・・強制力がなく害がないから政治が口を出す必要もない・良い意見か悪い意見かは国民の受け入れ程度・・自由市場によって決まる・・学問の自由の基礎になっています。
子供が無茶言っても寛大に見ていられるのは、影響力が皆無だからです。