民主主義の退化と強権期待の高まり

民主主義の行き着くところ少数意見重視が進む一方ですが、この数十年では社会全体秩序とのバランス軽視に傾きすぎているように見えます。
何故このようなアンバランスな風潮が長年放置されて来たのか?です。
中国が先進国での思想の自由を利用して日米等の国内で好きなように中国に都合の良い主張を押し広げ人脈形成し(今回のコロナ対応ではWHOが事実上中国に牛耳られていると言われるように日本では思想界や大手メデイアが中国に乗っ取られているという主張が右翼系によってされています)デモなどしている1方で自国内で思想統制している・相互関係のない一方的関係になっている点が最近国際問題化しています。
長年日本国内でも中ソ系思想浸透活動が自由自在でしたので(長野オリンピック時に中国政府がチャーターした大量の観光バスでデモ隊を送り込んでチベット族の弾圧反対のデモを行いチベット系デモを数で圧倒していました。
そもそも多数の米軍基地をABCD〜Nをどこにするかについて日米安保条約で直接決めるべきレベルではないでしょうから、法的根拠としては安保条約内の条文で別に定めることになっていて、日米地位協定に基づく個別協議が法的根拠ということになるのでしょうか?
法源としては先ずは日米安保条約があって、そこに具体的な基地設置場所については別に定めるとあって、それを受けて別の条約・・日米地位協定(1960年(昭和35年)6月23日条約第7号)ができているようです。
正式条約であれば国内法に優先しますので、日米安保条約に社会党が反対していたとはいえ、党首を2回も務める事実上のオーナー的トップの福島瑞穂氏が直接反対運動をするのは国法無視にならないのでしょうか?
いわゆるリベラルは、(特に日本では万年野党傾向もあり)少数意見尊重傾向が強い結果自治体の権限強化に熱心ですしデモ等に対しては過大評価する傾向があります。
社共両党の推薦あるいは支持で都知事になった美濃部都知事時代にエゴそのままの主張で全国民を唖然とさせた杉並ゴミ戦争はこういう状況下で起きたものです。
美濃部都知事は打つ手がなく困るばかりだったので全国ニュースになったのですが、今年だったかの米国のミネソタ州黒人死亡に関する騒乱では、シアトルのデモ隊が警察署周辺を占拠したのは、市長自身がリベラル系で、規制に消極的だから起きた事件のようです。
正当に選出されていない群衆が市街地を実力支配するのまで歓迎あるいは容認するようでは、民主主義制度のはき違いも甚だしいものがあります。
ついに警察突入で解散になったのかな?
福島原発事故によって千葉県内で降下した放射性物質の廃棄(埋め立て)場所として圏内では広大な東京電力敷地のある湾岸埋立地に埋め立てるのが最適とした結論があっても、「柏市に集積した放射性物質を千葉市がなぜ引き受けねばならないか?」という地元論理でくると反対論が圧倒的になります。
放射性廃棄物受け入れ問題は千葉市が断ったからといって福島県や柏市が千葉市のゴミ受け入れをしていないのでこれを拒否できる関係がないので、宙に浮いたままになります。
自衛隊基地設置問題を住民投票で決めた与那国島村では地元住民・選挙権者は数千人規模だったかな?(日本国民総意に関係なく)その意見で尖閣諸島付近の防衛ラインが決まっていく仕組みになっています。
自衛隊基地であれリニアーモーターカーの工事であれ、一自治体・地元が反対すると何も進まない変な社会になってきました。
全体秩序に収斂することを前提にしない言いっ放しで反対運動に特化する政治集団が、全国各地で火をつけて歩く・・結果的に何も決まらない利害調整できない混沌・秩序破壊を目指す集団存在を許すのは社会にとって矛盾です。
言いたい放題が常態化すると上からの断固たる命令・独裁権力体制に対する魅力度期待感が高まります。
民主主義・自由主義国の総本山を自負する米国大統領自体が、自由.民主主義の存在意義を根底から覆すポピュリズムの権化みたいな言動が頻発すると、よほど成熟した社会以外では避けられない病理現象か?もと言う疑問が起きてきます。
こんな混乱した社会より軍政でもなんでも良い・・先ずは秩序が欲しい気持ち・・エジプト、タイの軍政までいかないものの、トルコのエルドアンその他各地での強権支配が広がり始まりました。
強権支配の総本山ロシア、中国の独裁権力の傘下に集まる国が増える傾向です。

利害調整不全6→(地域エゴ野放し1)

民主主義社会・・自由な言論が際限ない対立を前提にするのではなく冷静な議論を経て結論が決まると挙国一致(企業で言えば企業)の方針が決まり、反対した方(一つの政策決定が自己利害に反する集団も決まればそれに従う)も実行に協力する社会を前提にしています。
経済活動場面・自由主義経済の場合→(見えざる神の手)市場による淘汰が行われ選ばれた企業が成長し、勝ち残った製品サービスが社会に行き渡る仕組みです。
商品の場合には市場規模が大きい場合順位1番から50〜100番までの多様な商品サービス並存可能ですし、多様なサービスが並存している方が消費者には便利です。
だから都会に人が集まるのです。
国家社会のルールや政策決定の場合、社会秩序そのものの決定ですので、商品のように並存可能というわけにはいかない・・・道路交通法でいえば、AB両地点のいずれに信号機設置すべきかどうかの議論でA地点だけと決まった場合、B地点派がA地点の信号設置に反対したんだからと信号無視して良いとなれば社会が混乱します。
制限速度や一方通行、駐車違反場所でも同じで、反対派だった人も決まった以上はそのルールを守るべきですので、集団別ルールが並存するのは不可能です。
民主主義とは統治の原理・統治ルール決定手続きに関するルールであり、自由な言論活動は一定期間内に一つの結論に収斂するための言論の自由です。
一定手続きで決まったこと(法)には反対派も従うことを予定していることになります。一旦決まったことを実行してみる不都合があるなどの修正変更の必要があるので、多数意見が決まったのちにも、少数意見者も「やはりこの方法の方が良い」と言い続ける言論の自由は残りますが、多数で決まったルールに従わない自由はありません。
すなわち民主主義とは意見・利害調整による意見一致を前提にした決定手続きをいうのであって、利害調整・意見一致できないで意見対立のまま終わることを予定していません。
民主主義であろうと、絶対主義であろうと自由主義であろうと一党独裁であろうとすべて社会は生命体同様の統一秩序を求めています。
一つの体で左足は横へ動く右足は前に動くというバラバラ行動は許されません。
幼児や小中学生レベルの場合、完全な自治運営が困難なように、言いたい意見を話し合いの結果合理的に収斂させる能力があってこそ自由な意見交換が成立します。
意見を言うなら議論の結果によっては相手の主張に従う度量が必要です。
年齢基準は年齢に応じてその比率が上がるだけであって、(小学3年生で5年生の能力ある子も2年生の能力しかない子もいます)大人になっても対話能力が育っていない人が一定率いるのですが、(私もそうかな?)そういう人は、自分の能力限界をわきまえて集会参加しても黙って聞いている・論争を聞いて最後にどちらが良いかの挙手をするだけで済ませば世の中が決まって行きます。
旧社会党の場合、議論にならない反対のための反対論(法案に関係ないキャンダル追求先行要求など)を繰り広げ、質疑打ち切りすると委員長不信任案や議長不信任案等を繰り出して最後は牛歩戦術や根拠ない不信任決議案提出で数時間でも採決を遅らせることで議決自体の妨害を図っていたので国民支持が離れました。
このような政治活動は技術革新の早い現在社会で、日本の国際適応を一国でも遅れさせる目的にしかならない・反日国家の意を受けた行動でないか?の疑念を抱かせるようになりました。
こういう疑念が一般化して来て・・革新的系政党支持率が低下一方になったのちは、地方自治体レベルでの抵抗戦術を始めたようです。
国政の場合2〜5%の支持率では何もできないのですが、地域特化し地域固有の問題が起きればその問題が続く限り、その地域限定で抵抗政党が圧倒的支持を得られるようになります。
数%支持でも特定問題・・例えば、放射性物質の特定市町村内廃棄貯蔵地問題が起きれば、その問題に限って過半の支持を得ることが可能です。
福島原発事故の結果、千葉県内で風向きの関係か?柏市中心に放射性物質の降下が多かった・・これの県内処理として原因企業である東電の広大な敷地がある千葉市内の臨海工業地帯・・広大な埋立地立地なので旧市街とかなり距離が開いている・近くに一般住宅街もない・・千葉市に白羽の矢がたったらしいのです。
これまで書いてきましたが、そもそも微量の放射能があった場合、どういう被害があるかの科学的意見を見たことがないのですが、宗教心のようにメデイアが恐怖心を煽り続けてきた結果だと思っていますが・・。
普段与党支持者でもこの問題に限っては、まず反対するしかないという宗教信念みたいな動きが起きます・・自治会等での議論を聴いていると風評被害がおきたらどうするんだ!式の反対で地元結束するようです。
原発問題もそうですが、「不可知な論争に持ち込んだ方が勝ち」というか、反対論者は対話にならないこの方式に頼ることが多いのです。
「〇〇があったらどうする」式の議論では、神ならぬ身、誰も「そんなことはあり得ない」と断言仕切れ無いので黙るしかない・・合理的対話が成り立ちません。
県内どこかで引き受けねばならないとなれば、被害の一番少なそうな場所に決めるしかないのですが、東京電力敷地が広大でしかも周辺と車で移動するほどの距離がある・・それ以上の適地がない・・しかし地元エゴに付き合わないと仕方ないので責任政党の与党系は「知事にかけあって努力する」というだけで腰が引けているので迫力がない・・不利です。
集会での議論を聞いていると「柏市のゴミを千葉市がなぜ引き受けねばならないか?」という一見尤もらしい議論で落ち着いて参加者が自己満足していたようです。
ちょっと考えれば無理筋の論理ですが、誰でも良識というか、良心があるので自分を誤魔化す目先の浅い論理が必要なのでしょう。

  中国強権政治と政権の脆弱性

習近平政権による激しい粛清劇や、日本とマトモに戦ったこともないのに抗日戦勝利の大々的な式典開催を(するしかないのを)見ると、権力基盤がかなり弱い・・その反作用と見るのが普通です。
世界の支持率のバロメータートしてみれば、出席者はロシアのプーチンと韓国大統領くらいで、欧米首脳その他マトモな国の参加がなく、世界大多数の国が日本に遠慮して?参加していません。
これでは普通の先進国的報道基準で言えば、却って習近平氏やって来た中国の国際的地位低下を満天下に曝したことになり、却って権威が大失墜・・大恥をかいた結果になります。
(報道規制があるので、中国人は何も言えませんが・・)
習近平の自信喪失状態丸見えの写真がニュースに出ていますが、報道規制下ですから政府公表写真でさえそんなものしか発表出来ないのですから大変な事態です。
世界で孤立している自信喪失を補うために軍事力を誇示する大々的パレードをするなんて、ナチス時代の再来のような印象・・時代錯誤もはなはだだしい発想です。
マスコミでは、こう言う評価が出て来ませんが普通に見ればナチスの閲兵式のような印象です。
このために3日前ころか北京中心街3km前後が交通禁止、道路に面した窓を開けることも禁止、商店も営業禁止、株式市場も閉鎖(経済活動停止)などですから、事実上戒厳令を布いているようです。
強大な軍事力や公安警察の威力を国民や諸外国に誇示すればするほど、それほどまでに国民が怖い・国民の支持を受けていないことの自認行為であり、諸外国に対しては、今後紳士的交渉・正義の基準に基づくよりは、武力で威嚇して行く方針を明示したことになります。
これでは株式下落の催促に対して市場開放・・透明な社会にして信任を得る努力よりは、市場経済化促進よりは規制強化・・対外不信に対しては武断政治の強化と言う意思表示になります。
自由な経済活動を認めない・・正義に基づく話し合い解決よりは武力による世界から孤立する覚悟・・開き直りを誇示したことになります。
ヤクザ組織じゃあるまいに、力を正面に出して行く意思表示が国益上マイナスになる・・いよいよ国際資本が逃げるでしょうから、冷静な判断が出来なくなっているか生まれが出たと言うべきでしょう。
国内経済も軍事パレードにかこつけて周辺工場や商店を操業停止させたり株式市場閉鎖していれば、当面株式相場の下落を防げるでしょうが・・式典が終わって再開したときどうなるのやら・・却って怖いでしょう。
経済活動の隅々まで剥き出しの規制強化せざるを得なくなったのは、経済面でも限界が来ていることを表しています。
これが尻抜け状態になると・・この面でも権威失墜です。
政府高官自体がいつ失脚するか知れないので、安全のために裏社会を利用して国外に資産を隠し、家族を逃がしている「裸官」と言われている社会です。
隅から隅までお互いを信頼せずにルールも国法よりも入り乱れたヤミの掟で動いている社会では、人間も相互に信頼する習慣が途絶えています。
中国では、愛国心などかけらもない・・一族のみが頼りと言われています。
猜疑心が渦巻く・・荒廃した人心関係で秦漢以来約2000年も経過しているので、これをマトモな心に戻すのは至難です。
表向きは誰でも簡単に改心出来ますが、心の底から癒し真人間に復元するには、心を傷つけられ続けた時間に比例した長期間を要するでしょう。
始皇帝以来の2000年以上にわたる専制支配下で生きて来た人民が、生き残るために法網をくぐることに精出して来た民族性のままで、世界進出するようになると世界秩序の撹乱要因になっていることを、2015/08/06「秩序破壊と社会の停滞・退化1」以下で書いてきました。

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