社会変化2→短命な班田収授法

吉宗自身いろんなことを知りたい好奇心の塊であった結果、自由な学問領域を認めたのでしょう。
下々の意見を聞いて政治をするといっても既定の(朱子学)枠内の諮問では結果が知れています。
吉宗の改革は植木鉢の根が絡まったような窮屈な状態になっているのをほぐし直すようなものだったでしょう。
これによって幕藩体制が生き返ったようです。
千年も2千年も社会構造そのままで来た中国や朝鮮と違い日本社会は古代から絶え間なく変化していますので、6〜70年・・約2世代経過でその前の成功体験・制度構築が合わなくなります。
3代将軍家光の子供世代の最後が綱吉でしたので家宣の時代は、徳川政権成立が関ヶ原後とすればすでに3世代以上経過しています。
社会変化・現実対応力が秀才には弱いように見えます。
例えば、班田収授法が始まってから例外たる私有地公認が始まるまでの期間は以下の通りほんの数十年間あるかないかです。
班田収授法に関するウイキペデイアです。

班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。

律令制度では年齢男女別一人当たり何反歩という面積の割り当て方式でしたが、現在基準で考えると法令ができても、全国民に配分すべき農地の登録(農地の規模を決める測量その他のルールの整備?だけ考えても・その後実際の測量図面作成や地番の付け方)や配分すべき国民の統計・戸籍簿が完備するわけではありません。
事前にこうしたインフラがあってこそ政治的可能性だけ(反対派の抵抗など)の議論ですが、前提になる全国規模の統計整備などしたこともない時代に、律令だけ作ってどうやって実行しようとしていたのか理解不能です。
ちなみに幕末頃でも地番制度がなく、知行地の書き方をみると(今はうろ覚えですが)「〇〇の庄何町何反歩」という程度の書き方です。
明治民法ができても前提になる土地登記をするには、上記の通り地番制度自体がなかったので民法に登記が対抗要件と書いてあっても同時に登記法を作ることができなかった・・・前提になる地番等の表記制度がなかった・・ボワソナード(旧)民法成立時には戸籍制度の実務基盤ができていない状態で、約10年後の現民法ができた明治30年頃にようやく関連制度が出来上がりつつあったことを明治の法制度シリーズで紹介したことがあります。
関連整備を待つ必要がったので旧民法はすぐに施行出来ず施行時の特定さえできずにいた間に民法典論争が激しくなって結果的に施行しないうちに、現行民法制定なってしまったものでした。
反対運動があったので施行しなかったのではなかったのです。
例えば消費税が正しいという意見が仮に明治初年頃にあって法律が出来たとしても、売上帳簿制度がない状態でどうやって捕捉するのか考えれば、画餅論に過ぎないことが分かるでしょう。
今でも、もしもゼロからスタートすればこんな大事業の準備が5年や10年で終わるとは思えませんが、律令制当時土地の特定方法や測量技術がどんなものだったか知りませんが、大雑把でよかったとしてもその時代に応じた場所や範囲の特定作業その国家登録制度が必要だったでしょう。
以下に見るように本当に実施できたかどうかすら不明な723年には、すでに私有を認める制度が始まっています。
この制度はあっという間に崩壊し(本当は実施不可能だったのではないか?)私有化が認められ、私有化公認されると今度は租税回避目的で荘園制に移行しました。
口分田に関するウイキペデイアです。

導入 – 衰退の経緯
記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。
ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。
特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。
都城の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。

荘園パターンも内容は時期によって異なり同じ状態が続いたのではありません。
荘園_(日本)に関するウイキペデイアです。

日本の荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有(墾田永年私財法)により始まる。
平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。

700年始めに制度導入後養老7年(723年)に出された三世一身法に続いて墾田永年私財法は743年ですから、723年にはこの前提になる制度が始まっていてこの歳になって完全な私有承認に至るのです。
墾田永年私財法のウイキペデイアです。

背景
養老7年(723年)に出された三世一身法によって、墾田は孫までの3代の間に私財化が認められていたが、それでは3代後に国に返さなければならないことが見えており、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。また開墾された田も、収公の時期が迫ると手入れがなされなくなり、荒れ地に戻ってしまいがちである。それを踏まえ、食料の生産を増やす為、この法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とした。
原文には「由是農夫怠倦、開地復荒(これにより農民が怠け、開墾した土地が再び荒れる)」とあるが、三世一身法の施行からまだ20年しか経っておらず、3代を経過して農民の意欲が減退するという事態が本当に生じたかは疑問が残る所である。これを根拠として、むしろ農民というより富豪や大寺院の利益誘導ではなかったかという見方もある。

「富豪や大寺院の利益誘導」と言うのですから、大富豪の下で働く仕組み・・この頃には荘園化の進行を前提にした意見に見えます。
以上のように古代においても日本では目まぐるしく社会構造が変わっています。

文化の進んだ唐の理念実現を絶対として、やみくもに進まず、我が先祖が変化に柔軟対応して来た歴史がここに見えます。
長屋の王の事件は藤原4兄弟との政争に負けた点だけ一般化されていますが、本当は最高の貴種で秀才であった長屋の王が、左大臣で権勢をにぎったときに荘園化進行中・これが社会現実だったでしょうが、これに対する否定論・・観念論にこだわって幅広く新興荘園経営層を政敵にしてしまい、バックの広がりの違いで4兄弟との政争に負けたのではないでしょうか?
長屋の王は、朝廷そのものですから藤原氏を中心に旧豪族連が推し進める荘園拡大=朝廷収入の空洞化が許せなかったでしょう。
律令制導入は中国の真似をして朝廷に収入を集中し豪族の収入源(今で言う領地)を奪い、旧豪族には八色のカバネ姓や官位を授与し単なるサラリーマン化する政策に対する旧豪族連合の抵抗が荘園化進行だったでしょう。
大化の改新は天皇権力を強めすぎ・やりすぎたので結果的に天皇家の地位を弱めたように見えます。
この辺は建武の新政で後醍醐天皇が朝廷権力回復政策を推進すると急速に武士の支持が離れ、尊氏の方にみんな寄って行ったのと同じ・歴史順に見れば建武の新政の失敗は古代律令制失敗の轍を踏んだように読めます。

フラストレーション→英雄待望=弱い者苛め

新興国指導者の人気取り政策の共通項は、既成秩序を代表するアメリカに派手に楯突いて英雄っぽく演出するものの、具体面ではクルド族攻撃強化やテロを叩くと称して少数民族圧迫などしているのが共通項です。
ソモソモ古来からの英雄豪傑とは、圧倒的な力の差がある相手に豪快に勝ち進む・・それだけのことです。
ほんとの強い者とは、勝てる相手に無茶な勝ち方をしない・負ける相手の立場を考慮することではないでしょうか?
「武断派」とは自分より弱い者を容赦なく叩く・・「弱気をくじき強きにおもねるモノ」と言う意味かも知れません。
これが英雄っぽく振る舞うものの正体です。
日頃からフラストレーションの大きい国では、スター渇望・・弱者の見果てぬ夢を実現するかのような・・弱者をこてんぱんにやっつける大スターを求める矛盾願望があります。
マトモニ弱い庶民を虐げるだけでは庶民が喝采しないので、この矛盾を修正するために悪代官などスケープゴート役を作り上げるのが水戸黄門であり、いつもより大きな権力・あるいは剣(鞍馬天狗)や柔術の達人(姿三四郎)が痛快にやっつける仕組みです。
フィリッピンのドウテルテ大統領は、抵抗力の弱い犯罪者(水戸黄門でういえば悪代官)相手では、躊躇ない射殺を命じていますが、強い中国に対しては領海を侵害されていても一切の実力行使していません。
インドネシアは何も言いませんが、違法操業する中国漁船を爆破するなど黙ってきちんと対応していルト頃を見ると、内政がうまく行ってるからパフォーマンス不要なのでしょう。
トランプ氏も庶民受けするために支配階層を激しく攻撃しているように見えるもののイメ−ジ(自分は資金援助を受けていないと言うだけで)どまりで具体性がなく、他方で弱い移民批判ではバンバン実力行使する主張・・英雄っぽくパフォーマンスしている点では、同根です。
新興国がアメリカに対する言いたい放題をしても、本当の大国は余裕があるので、アメリカからはロシアやトルコや中国のように瞬間的報復をされる心配がありません。
大国はすぐに反撃しませんが、長期的にじんわりと仕返しをされるので長期的に国益を損なうようになるのが普通です。
中国に目の前で非礼なことをされてもその場で怒ったりしないのが大人の対応ですが、非礼行為をすれば相応の仕返し・マイナス効果を受けるから、世の中には礼儀と言うモノがあるのです。
この点では中国は日米に対して精一杯の非礼行為をして見せて、自分は相手よりどんなに偉くなったかを国民や世界に示しているつもりでしょうが、国益を考えない行動である点ではドウテルテその他と同じです。
主席になる前の習近平が日本訪問をしたときに天皇陛下面会を強硬実現してかれは「どうだ!」と言うつもりだったでしょうが、却って日本国民に大きなマイナス印象を残したし、昨年の英国訪問時のゴリ押しに英王室が公然と不快感を示したニュースが世界を駆け巡りました。
非礼ほど高くつくものはありませんから、古来からみんな礼儀作法に気をつけるのです。
常識に挑戦している点でその先の国益の喪失を知らない弱者から喝采を受けていますが、別の価値観・・ルールを提示出来る訳ではなく単に秩序破壊を主張しているだけです。
秩序破壊が進んで来て欧米の非道徳性の暴露が行われる面で日本非難に特化している戦後秩序破壊になり、将来的には日本的価値観による国際秩序が優勢になる切っ掛けになる点では、日本に好都合な面があります。
このことと、彼らの主張が正義であると言うコトとは関係がありません。
かれらは、自分の(正しいかどうかは別として)意見を言い出せる・・「何言ってるんだ!お前の方こそもっと悪いことをしているだろう」式に自己主張時代出来る時代がきた・・アメリカの作った戦後秩序が崩壊に向かっていると言うことだけを書いています。
フィリッピン大統領の主張は、自分が正しいと言う主張でなく、「お前の方がもっと悪いだろう」と言うだけです。
そこには正義の基準がありません。
しかも価値観は時代と共に変わるものですから、過去の制度を持ち出して「お前の国も元は王制だったろう」とか軍政・植民地支配だったろうといっても始まらない・・民族感情に訴える効果が大きいでしょうが、本来は今の価値観でどうかの議論をすべきです。
この辺は捕鯨問題も同じで、日本は個人的にはアメリカの身勝手な言い分と思う人がいても、これをそのまま言わずに今の基準「種の保存」の価値観で本当に禁止する必要があるかどうかの議論をしています。
公害問題も同じで元はどこでも公害を気にせずに煙を出し,川に流していましたが、今は許されないと言うだけです。
売春婦も当時の基準で議論しなければならないと言うことは、慰安婦騒動で日本人が良く知っているとおりです。
豊臣秀吉が天下人になった後に私戦禁止したのを伊達政宗が「お前だって今までやって来たじゃないか」と言いたかったでしょうが、それを言っても始まらなかったのと同じです。
いわゆる遅れて来た戦国大名の悲哀です。
  馬上少年過 世平白髪多
  残躯天所赦  不楽是如何

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