江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道1(秀才の限界2)

Jul 24, 2019「社会変化→秀才の限界 1」以来横道にそれましたが、日本社会はしょっちゅう社会も権力構造も変わっていて適応力が問われる社会で、中国や朝鮮のように千年も2千年も同じ思想行動様式で続く社会ではありません。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び如何に精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょう。
それでも約300年毎に大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返しているのですが、その後また同じスタイルの王朝が繰り返され進歩=変化がないのは驚くばかりです。
殷の紂王の妲己、夏の桀王・末喜に始まり呉越の戦いの西施〜玄宗の楊貴妃まで美姫寵愛や奢侈(これも紂王の酒池肉林に始まりいつも同じパターン)に走ったから国が滅びた・というお定まりの批判でことを済ますからでしょう。
実際の原因は毎回そんな単純なものではない筈ですが、儒学では古代思想のママ現実当てはめをしないでことを済まそうとするからこうなるのでしょう。
江戸時代の改革の必要性と対応力の差に戻します。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょうが、(それでも約300年毎の大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返してきました)昨日まで見てきたように絶え間なく社会変化のある日本の場合古代思考の学習では解決出来るはずがありません。
各大名家は、藩政改革・貨幣経済発達とコメ生産に頼る経済システムの無理を正すために特産品奨励(=コメ以外の商品生産を工夫する改革)に励んだ西国大名系の改革が相応に成功していたのに対し、幕府はあくまで朱子学思考・・質素倹約・貨幣改鋳禁止・古代的思考の繰り返しに終始していたので幕末頃のは大きな差がついたのではないか?というのが私の関心です。
要するに産業構造を改を(リストラクチャリングして時代遅れの部門を縮小して新規需要のアリそうな分野に人材資源を回)して時代即応の商品生産拡大する視点が欠けていたか希薄であったということでしょう。
ちなみに上杉鷹山の改革成功は、定信〜水野らと違って生産拡大路線である点は西国大名と同じでしたが、旧来型農業生産向上策による成功でしたが、中部以西の西日本では貨幣経済化に対する構造変化能力(元禄時代にすでに赤穂藩では塩の生産商品化成功していたことが忠臣蔵で知られます)が求められていました。
これに気がついて構造改革に努力・成功していたかどうかで幕末にかけての経済力や人材教育レベルが違っていったのです。
徳川時代の三大改革・・・享保・寛政、天保改革に関するウイキペデイアによれば以下の通りです。

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する[1]。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては享保20年(1735年)や延享2年(1745年)とするなど複数説がある。
主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。

https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_3.html

蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。

先例に捉われない大改革によって、平賀源内のような奔放な人材が次々と出現できたし、結果的に合理化思考になれて、明治近代化に必要な人材の準備ができたのです。
吉宗の出自・・生まれつきの宮廷教育を受けなかったプラス面が出たのでしょう。
次の寛政の改革です。

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代に松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。
定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。また、一連の改革は田沼が推進した重商主義政策とは異なる。蘭学の否定や身分制度改定も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
改革は6年余りに及ぶが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
寛政異学の禁
柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
処士横議の禁
在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
旧里帰農令
当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、強制力はなかった[1]

吉宗の改革は文字通り社会の変化に対応するための大掃除リニューアル・・革新的なものでしたが、定信〜水野忠邦になると社会構造の変化を否定し、新たに生まれtきた戯作その他都市文化を禁止し、人口の都市集中の動きを農村へ戻そうとするなど、社会構造変化を元に戻そうとする努力中心です。

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

  社会変化2→短命な班田収授法

吉宗自身いろんなことを知りたい好奇心の塊であった結果、自由な学問領域を認めたのでしょう。
下々の意見を聞いて政治をするといっても既定の(朱子学)枠内の諮問では結果が知れています。
吉宗の改革は植木鉢の根が絡まったような窮屈な状態になっているのをほぐし直すようなものだったでしょう。
これによって幕藩体制が生き返ったようです。
千年も2千年も社会構造そのままで来た中国や朝鮮と違い日本社会は古代から絶え間なく変化していますので、6〜70年・・約2世代経過でその前の成功体験・制度構築が合わなくなります。
3代将軍家光の子供世代の最後が綱吉でしたので家宣の時代は、徳川政権成立が関ヶ原後とすればすでに3世代以上経過しています。
社会変化・現実対応力が秀才には弱いように見えます。
例えば、班田収授法が始まってから例外たる私有地公認が始まるまでの期間は以下の通りほんの数十年間あるかないかです。
班田収授法に関するウイキペデイアです。

班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。

律令制度では年齢男女別一人当たり何反歩という面積の割り当て方式でしたが、現在基準で考えると法令ができても、全国民に配分すべき農地の登録(農地の規模を決める測量その他のルールの整備?だけ考えても・その後実際の測量図面作成や地番の付け方)や配分すべき国民の統計・戸籍簿が完備するわけではありません。
事前にこうしたインフラがあってこそ政治的可能性だけ(反対派の抵抗など)の議論ですが、前提になる全国規模の統計整備などしたこともない時代に、律令だけ作ってどうやって実行しようとしていたのか理解不能です。
ちなみに幕末頃でも地番制度がなく、知行地の書き方をみると(今はうろ覚えですが)「〇〇の庄何町何反歩」という程度の書き方です。
明治民法ができても前提になる土地登記をするには、上記の通り地番制度自体がなかったので民法に登記が対抗要件と書いてあっても同時に登記法を作ることができなかった・・・前提になる地番等の表記制度がなかった・・ボワソナード(旧)民法成立時には戸籍制度の実務基盤ができていない状態で、約10年後の現民法ができた明治30年頃にようやく関連制度が出来上がりつつあったことを明治の法制度シリーズで紹介したことがあります。
関連整備を待つ必要がったので旧民法はすぐに施行出来ず施行時の特定さえできずにいた間に民法典論争が激しくなって結果的に施行しないうちに、現行民法制定なってしまったものでした。
反対運動があったので施行しなかったのではなかったのです。
例えば消費税が正しいという意見が仮に明治初年頃にあって法律が出来たとしても、売上帳簿制度がない状態でどうやって捕捉するのか考えれば、画餅論に過ぎないことが分かるでしょう。
今でも、もしもゼロからスタートすればこんな大事業の準備が5年や10年で終わるとは思えませんが、律令制当時土地の特定方法や測量技術がどんなものだったか知りませんが、大雑把でよかったとしてもその時代に応じた場所や範囲の特定作業その国家登録制度が必要だったでしょう。
以下に見るように本当に実施できたかどうかすら不明な723年には、すでに私有を認める制度が始まっています。
この制度はあっという間に崩壊し(本当は実施不可能だったのではないか?)私有化が認められ、私有化公認されると今度は租税回避目的で荘園制に移行しました。
口分田に関するウイキペデイアです。

導入 – 衰退の経緯
記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。
ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。
特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。
都城の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。

荘園パターンも内容は時期によって異なり同じ状態が続いたのではありません。
荘園_(日本)に関するウイキペデイアです。

日本の荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有(墾田永年私財法)により始まる。
平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。

700年始めに制度導入後養老7年(723年)に出された三世一身法に続いて墾田永年私財法は743年ですから、723年にはこの前提になる制度が始まっていてこの歳になって完全な私有承認に至るのです。
墾田永年私財法のウイキペデイアです。

背景
養老7年(723年)に出された三世一身法によって、墾田は孫までの3代の間に私財化が認められていたが、それでは3代後に国に返さなければならないことが見えており、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。また開墾された田も、収公の時期が迫ると手入れがなされなくなり、荒れ地に戻ってしまいがちである。それを踏まえ、食料の生産を増やす為、この法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とした。
原文には「由是農夫怠倦、開地復荒(これにより農民が怠け、開墾した土地が再び荒れる)」とあるが、三世一身法の施行からまだ20年しか経っておらず、3代を経過して農民の意欲が減退するという事態が本当に生じたかは疑問が残る所である。これを根拠として、むしろ農民というより富豪や大寺院の利益誘導ではなかったかという見方もある。

「富豪や大寺院の利益誘導」と言うのですから、大富豪の下で働く仕組み・・この頃には荘園化の進行を前提にした意見に見えます。
以上のように古代においても日本では目まぐるしく社会構造が変わっています。

文化の進んだ唐の理念実現を絶対として、やみくもに進まず、我が先祖が変化に柔軟対応して来た歴史がここに見えます。
長屋の王の事件は藤原4兄弟との政争に負けた点だけ一般化されていますが、本当は最高の貴種で秀才であった長屋の王が、左大臣で権勢をにぎったときに荘園化進行中・これが社会現実だったでしょうが、これに対する否定論・・観念論にこだわって幅広く新興荘園経営層を政敵にしてしまい、バックの広がりの違いで4兄弟との政争に負けたのではないでしょうか?
長屋の王は、朝廷そのものですから藤原氏を中心に旧豪族連が推し進める荘園拡大=朝廷収入の空洞化が許せなかったでしょう。
律令制導入は中国の真似をして朝廷に収入を集中し豪族の収入源(今で言う領地)を奪い、旧豪族には八色のカバネ姓や官位を授与し単なるサラリーマン化する政策に対する旧豪族連合の抵抗が荘園化進行だったでしょう。
大化の改新は天皇権力を強めすぎ・やりすぎたので結果的に天皇家の地位を弱めたように見えます。
この辺は建武の新政で後醍醐天皇が朝廷権力回復政策を推進すると急速に武士の支持が離れ、尊氏の方にみんな寄って行ったのと同じ・歴史順に見れば建武の新政の失敗は古代律令制失敗の轍を踏んだように読めます。

  社会変化→秀才の限界 1

新井白石に関するウイキペデイアの記事からです。

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
引退後
致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。
江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。
晩年は不遇の中でも著作活動に勤しんだ。『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日、死去した。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。

外様大名や反間部詮房/新井の幕閣内の支持を受けて屁理屈先行社会の限界を根底から覆したのが想定外の野育ちの将軍吉宗の登場だったことになります。
吉宗は儒学を否定したのではありません。
吉宗も当時主流だった朱子学を学んで育っていますので、儒学者も重用されていることが紹介されています。
http://www.ne.jp/asahi/chihiro/love/ooedo/ooedo71.htmlでは以下の通り紹介されています。

同時に林信篤、室鳩巣も吉宗に重用された儒学者でした。
その室鳩巣が、吉宗の教養について「御文盲に御座なされ候」といい、6代家宣の正室天英院の父・近衛基煕も「和歌については尤も無骨なり。わらふべし〃」と酷評しています。
どうやら吉宗は、当時武家社会において教養とされた儒学や和歌については、あまり得意ではなかったようです。
しかし、先に述べたように薬学に明るかったり、また神田駿河台(後に佐久間町に移転)に天文台を作るなど、実用的な学問には非常に興味を示したものでした。
文系ではなく理数系の人であったのでしょう。

私の(思いつき)意見は上記紹介意見と違い、理系か文系かではなく現実主義政治家であったということではないでしょうか?
青木昆陽の献策を受けて馬加村・マクワリ・現在の千葉市幕張でサツマイモの実験農場を作らせて見たり、同じく房総半島で白牛を育成させてチーズを作らせるなど何かと進取の気性というか好奇心が強かったように見えます。
青木昆陽の献策はもともと目安箱に投じられた意見によると言われますが、今風に民主主義思想によるというよりは、自分のしらない意見を知りたかったのではないでしょうか?
天文方自体は渋川春海の研究業績によって、本邦初の国産歴である貞享暦がおこなわれるようになったことが知られているように、貞享年間頃からあるものです。
天文台の設置自体が、単なる移転?であったとしても、相応の出費(今でいう予算)を要することですから、この方面への好奇心や理解があったということでしょう。
個人趣味のように発達していた和算を実務で応用する体制が天文台という国立?機関設置によって活躍の場というか、研究家・レベルの高い人が集い意見交換の場ができたことによってより一層の発展ができたものと思われます。
これによって国立機関の充実によって、天文→もともと発展期にあった我が国発の和算・・数学の発達に寄与したことが後世伊能忠敬がそこに籍を置いて天文方公式職務として日本地図作成・・全国測量して歩けたことなどで分かります。
正確な地図測量には三角法の数学基礎知識が(当時プロの世界では常識?)前提ですが、(実際伊能忠敬は、岬の突端などまでの距離を三角法で測量しています。)それまでの天文学=占星学と違い、科学的に事実を知る・・数学素養が基本です。
伊能忠敬の地図作成申請目的が、子午線の距離をより正確に知るには底辺距離長い方が仰角差正確に計算できるので蝦夷地での測量が必要となったことによると言われています。
最新考古資料発掘は地元好事家の発見によることが多いのですが、そのためには基礎学力の普及が必要です。
25年ほど前に千葉県に国立の歴博ができたことによって、(正式には「独立行政法人〇〇共同研究機構」というようですが、特定大学の研究所ではなく全国研究者に開かれた機構にすることによって、歴史研研究の場が開かれるようになったことがおおきなインフラになっているのと同じでしょう。
16〜7年ほど前に岐阜県山中のプラズマ発生装置?の修習生を連れて行き見学をしたことがありますがそこは歴博同様の〇〇共同研究機構と銘打っていて日本中の研究機関が事前申し込みによって巨大装置を使った実験をできて見学時にもどこかの大学の実験中でした。
このように開放的インフラ整備は長期的には重要な役割を果たすものです。
その後の日本での数学発展(世界的に見て日本の数学水準が高いのはこの時からの基礎(インフラ整備)によると(個人思いつきですが)おもわれます。
私の理解によれば、吉宗は幼児期からの教育主流に従って従来の朱子学者を重用しながらも並行して蘭学その他実学を取り入れて、前政権の白石流儀の隅々まで朱子学に反しないか目を光らせる小うるさい政治をやめたように見えます。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

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