共同体意識2(崩壊)

昭和30年代から進んだ山村等の過疎地ではまだ日本が貧しい時代の名残で家の造りが貧弱だったので、無人になるとそのまま朽ち果てて行くのが目に見えたのですが(日本画家向井潤吉の世界です)、昭和50年代から進んだ空洞化は日本がかなり豊かになって以降ですので、家の造りが割に良くて外見上では簡単に分りません。
シャッター通りで表現される商店街は客が来なくなったことによるもので家は立派でもシャッターが閉まっている状態ですから、外見上分りよいですが、これにほぼ比例して農村に限らず地方小都市では一般住戸・農家でも家の内部空洞化がすごい勢いで進んでいます。
シャッター通りは郊外型巨大店舗が出来たことを目の敵にしてマスコミが報道していますが、そればかりではなく、地方住民の空洞化が元々進んでいたのです。
千葉から鴨川までの高速バスを利用すると、途中から高速を下りて久留里の小さな盆地らしい地域の旧道を通過するのですが、(久留里城のあるところです)ここには特に大きな郊外型店舗が出来ている訳ではないものの、道路沿いの駅前旧商店街はほぼ死に態です。
50年ほど前から農村経済が縮小し近郷近在からの買い物客が減少し始めた上に、残った僅かな客も車社会化でここ数十年くらいは10〜20kmくらい先の木更津など中核都市に客を奪われてしまったのです。
この20年くらいは高速道路化の進展によって、周辺の客を奪っていた木更津自体が(東京湾横断道路によって15分で川崎、30分ほどで横浜や東京駅につきます)川崎や千葉市に客を奪われて地盤沈下・不景気に苦しんでいます。
今では、久留里周辺の住民が買い物に都会に出るのではなく、木更津を通り越して千葉や市川、船橋等の都会に出てしまっている様子です。
(4〜5人家族だった家で言えば、子供が進学や就職で30〜40年ほど前から都会に出てしまい、その内父親も亡くなっておばあさん一人と言う家が多くなり最後は空き家になるパターンです)
2007年4月に犬吠埼灯台へ行ったついでに銚子市内を散策したことがありますが、市街の規模は大きくしかも家は割合いに新しい(せいぜい手直し後または新築後3〜40年前後?)のでその頃まで、現役世代または退職金で新築した感じですが、現状はかなり無人の家が多い様子で町中がシーンとしていて、この先どうなるのかな?と言う印象を受けました。
銚子よりも千葉に特急で30分ほど近い八日市場駅(千葉から特急50分です)周辺の市街地・数年前まで八日市場市→今は匝瑳市と言いますが、この市街地へは千葉地裁八日市場支部があるので時々行きますが、そこは地名の通り地域の中心的市場として栄えた歴史があるらしくいくつもの立派な寺院があって、(平成2年に立派な寺院で行われた地元弁護士の葬儀に参列したこともあります)明治の最初から裁判所もある古い場所です。
この市街は広大な水田地帯の真ん中にあるので、現役の漁港を擁する銚子に比べて衰退が早かったらしく、ここなどは築5〜60年以上経過したような家が多く、最早完全に過去の町になりきっている感じです。
農業が駄目になって農村が疲弊したのではなく、同じ生産量の場合、その他産業が機械化によって3倍5倍10倍と生産性が上がるとその上昇力に比例出来ず、ひいては従来と同じ人口を養えなくなって人口流出が続いて行くのですが、銚子漁港の場合、生活水準の向上によって魚類の消費量が増えて価格が上昇し、近代化(機械化)に連れて遠洋漁業に進出して漁場も広がり生産性が上がっていたので、昭和50年代までは元気でした。
(小舟を操って沿岸漁業していたときは農業で言えば一戸たり5〜6反部の規模だったのが、2〜30町歩に規模拡大したような変化でした)
漁獲制限や排他的経済水域制が発達して来て、日本漁業の拡大が頭打ちになった50年代からは元気がなくなっています。
これは銚子漁港に限らず、大手水産会社が元気をなくして行った時期とも一致します。
昭和40年代までは高校野球では銚子商業高校の活躍、川崎市を本拠とするプロ野球の大洋ホエールズ(スポンサーは大洋漁業)があったのですが、これが1978(昭和53)年撤退して横浜に売却されてしまったのがその象徴です。
私が弁護士になった頃には、八日市場駅周辺から千葉の県庁や裁判所(書記官)、千葉市内の企業へ通っている50代の人が結構いましたが、今ではこうした人はとっくに見かけなくなっていますので多分その多くは鬼籍に入っていることでしょう。
今春久しぶりに(ここ5〜6年に行ってない記憶です)八日市場支部へ行ったときに、先輩弁護士の家の前を通ると雨戸が閉まっていたので、支部の人に消息を尋ねると数年前に亡くなったとのことでした。
裁判所へ行く裏通りは元の旧街道らしく私より3〜40年以上先輩の弁護士の家が並んでいたものでしたが、いずれもなくなって以来門を閉ざし、無人の屋敷になっている様子になって久しく(いつの間にか空き地になっているのもあります)上記弁護士一人が残っていたのです。
このように地方では共同体意識は崩壊しつつあったにも拘らず(あるいはほぼ崩壊してしまっている集落が殆どでしょう)、これを大震災被害に対する世間の同情心をテコに「無理」に復活させようとしても、前提になる共同生活(水利の共同利用管理など)がなくなっているのですから、無理なものは無理です。
震災被害に対する同情心を利用して、既になくなりつつあって崩壊寸前あるいは最早存在していない共同体意識を強調している人がホンの少数いるだけではないでしょうか?
ドン・キホーテのように、滅び去った価値観にこだわる人の姿はどこか人の心を撃つものですが・・・。

共同体意識1と離脱金支給

伝統的集落から早めに離脱して行く人に対して、その集落運営者が平均以上の早期割増金を払うのは心情的に抵抗があるのは分りますが、物事は心情重視では無理がでてきます。
大方心情重視と言うときは心情が社会実態の変化から乖離している・・社会実態に遅れているときに使う言葉でしょう。
稲作共同体の歴史が長かった我が国では、集落共同体を死守することが集団員の生活を守る命綱でしたし構成員は当然守るべき最低の義務であり美徳であると教え込まれて来たので、社会構造が大きく変わってしまってから100年前後も経過しているのに今回の大震災では未だにこれに執念を燃やす人・・「郷土愛の強い人がいる限り復興は出来る」などとたたえられる傾向があります。
現在のマスコミ報道で見ると、飽くまでふるさとに戻りたい・破壊された集落や元の事業の復活に執念を燃やしてる人がもっとも尊いかのように描かれ、これを賛美する意見が100%です。
原発の避難地域に限らず、津波で壊滅的被害を受けた地域とは、将来再度同じような惨禍が予想される地域でもあるのですから、同じ場所に復元であれ復興する発想は、遊水池の比喩で言えば豪雨で遊水池が水浸しになった後にもう一度同じ遊水池内に集落を復元する運動を賛美しているのと同類で、おかしなものです。  
復興するには今度は津波の来ない高台等別の場所に集落を復興すべきですが、そうなると同じ場所ではなくなるので、復興とは何かの問題に行き当たります。
元の同じ集落住民が別の場所でもう一度固まって住みたい・・濃厚な人間関係の維持・継続を願っている気持ちが中核にあって、出来れば元の集落の近くでありたいと言うことになるのでしょうか?
場所は二次的要素でしかなく(同じ場所またはその近くにこしたことはないとしても)少なくとも従来の人間関係を復活したいと言うのがその基本でしょうか。
日本では、今でも何故共同体意識を重視するのでしょうか?
勿論アメリカもこれを知っていて「ともだち作戦」とか言って、(なかなかのキャッチコピーと言うべきです)日本人の心情をくすぐります。
誰もが先ず共同体意識を重視するかのような発言をする智恵があるのは、(私は年甲斐もなくこうした智恵に疎いので本当のことを書きたくなりますが・・・)稲作社会では灌漑設備は共同でなければ維持出来ないので、共同体を重視するし、これを軽視する発言をする人は危険人物視されて来た長い歴史があってのことでしょう。
ムラ意識に関しては、2011年4月24日に書き始めたムラ八分の続きを、この後に書く予定ですが、ここでムラ意識について少し割り込むことになります。
近いところでは、明治維新で国許にいられなくなった伊達家や会津松平家、あるいは淡路の稲田家など集団移転して開拓に従事していますので日本人は集団行動が好きかと誤解しがちですが、(徳川家も静岡へ)これは開拓の特殊性によるものであって、開拓移住以外で各藩の武士等が東京や大阪へ移住するのには集団行動ではなく各人バラバラの移動です。
私が育った頃から、小中学校まで一緒でもその後は(昭和30年代以降)その殆どが進学や就職等で離ればなれになるのが普通で、江戸時代までのように生まれてから死ぬまで同じ集落で同じ農業に従事している人の方が少ない・・今や稀な時代です。
現在の郷土愛・・結局は共同体意識の復活を重視するマスコミ論調は、過去の村落共同生活・・今や存在しない亡霊を前提に賛美しているに過ぎません。
千葉県の過疎化の進んでいる地域で見ると、高度成長に取り残された農業で生活するのが苦しくなってからは、遠くの中核都市に職を得て朝早く出て夜遅く帰る生活となっているものの、職場が遠いので地元集落と日常的には何の関係もなくなって共同体意識がバラバラになっている・・と言うよりは、濃厚な人間関係を鬱陶しく思っている人が多くなっています。
農村にいながら水田を荒れ地にしている家が増えたのは、1つにはいろんなムラの共同作業参加が面倒くさく感じている人が増えた面も有るでしょう。
この第一世代・7〜80代の(鬱陶しい)意識を反映してか、次世代になると千葉や船橋周辺・都市部にアパートを借りたりマンションを購入したりして移転してしまい、共同体作業(鎮守の森の草刈その他一杯有ります・・)への参加など無視している世代です。
彼らは最早過疎地化しつつある実家に戻る気もないので、次の世代になると県のはずれの方では空き家がすでに増加しつつあります。

親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)

余裕のない所帯・・貧農では結局は追い出してしまうしかないのですが、江戸時代には郷里を追い出された後も、(法的には縁を切られて無宿者になっているのですが・・・)何時呼び戻してくれるかといつも気にして都会生活をしていたことについては、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」までのコラムで書きました。
いざと言う時に後継者に選んでもらえるように・・盆暮れには欠かさず顔を出していつでも後を継いでやって行ける元気な様子を見せて親や兄のご機嫌を取り結んでおく必要があったので、盆と正月には実家に顔を出す習慣が定着したのであって、宗教心や孝行心がそれほど篤かった訳ではないでしょう。
明治に入ると次男三男が(勘当や無宿者・・アウトローとしてではなく、)正規の働き口があって正々堂々と都会に出て行けるようになったし、お金持ちの次男等は進学等で都会に出ますし、居候・厄介として親の家に残っているのは、外に働きに出られない病者・障害者等ごく少数の例外に限られた筈です。
都会に出た多くの人は、江戸時代と違ってきちんとした勤め先を得て所帯を持てるようになったので、居候や厄介として親の家に残る・・ギリギリの限度までしがみつく人が減っただけではなく、出て行った人も実家に呼び戻してくれるのを期待する意識が薄れます。
むしろ都会で成功した人(とまで言えなくともある程度の生活安定が出来上がると)が増えると、実家の兄が亡くなったと言われても都会で得た地位を捨てて郷里に帰って農業を継がされるのは迷惑と考える人が増えて来ます。
現実の都会生活が充実してくれば、あえて現実の生活を捨てて遠くの郷里の生活(実家とは言いますが、郷愁・バージョンの世界です)に戻りたくなくなるのが人情です。
まして都市での近代的生活水準が進む一方ですから、(食べて行けさえすれば都市の生活は田舎に比べて便利この上ないものです)遅れた田舎の生活に戻りたくなる人は滅多にいなくなったでしょう。
特に薩長土肥の下級士族出身者にとっては、多くは政府で良い職についていたので、田舎の足軽長屋を継ぐために郷里に帰りたい人は皆無に近かったのではないでしょうか?
今でも過疎地の田舎から出て来た人にとっては、田舎の土地その他の相続に興味・関心をなくしている人が殆どでしょう。
明治中期頃の社会意識の変化は、現在の過疎地出身者の相続期待意識喪失の前段階・先駆的問題ですが、よほどの豪農の子弟以外は、都会でせっかく得た勤務を捨ててまで田舎のあばら家・貧農の相続をするために帰りたい人の方が少なくなって来たのが、明治中期頃の実情だったでしょう。
(現在マイホームを持てなかった敗者が親の家に戻れるのを楽しみにしているのと同様に、何時の世にも・・好景気でも倒産したり食い詰めている人もいますので例外はあります)

相互扶助の崩壊と親族制度3

親族相続編は、人と人の財産関係の規律には直接関係なくどちらかと言えば、社会の基礎的構成単位とその構成員同士の関係を定める分野です。
財産法関係では、法の基準は原則にとどまり当事者間の特約が優先する(意思表示の内容で決める)関係です。
当事者の合意に委ねて行き過ぎが起きてくると別の法律で規制する(借地借家法や利息制限法や労働法・割賦販売法など)だけです。

民法
(任意規定と異なる意思表示)
第九十一条  法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。

ところが、親族相続法ではどこまでを親族とするとか、相続人の範囲をどこまでとかどこまで扶養義務があるなどを当事者の気持ち次第で勝手に決めることが出来ない・・ハードな仕組み(強行法規)です。
どの範囲まで扶養するかは親の勝手(親が気に入った子供しか食わせない)などとしてしまうと、食べて行けない人が出てくるので、法で誰(夫や親、子供などの関係になった以上はその身分に応じて)がどの範囲まで扶養する義務があるかを決めてしまうようになったものです。
どのような関係を夫婦とし、親子とするか、親族とするかも法で強制的に決めていて(養子縁組をしない限り)契約で自由に決めることは出来ません。
夫婦のあり方についても、婚姻届け出をした場合だけを夫婦として法で認める仕組みになったのも、故なしとしないでしょう。
明治の民法制定以降は、婚姻届をした場合だけ法で夫婦と扱うことになったことについては、05/31/03「婚姻制度 (身分法とは?1)4」前後のコラムで紹介しました。
近代法以前にはいろんな形の夫婦があり得たのですが、これを政府に届け出た唯一の方法に限定したのです。
それ以外は当事者やその周辺がいくら夫婦と認めていても、法的には認めない内縁関係にしてしまい、今でも相続権を一切認めていません。
(ただし、各種死亡弔慰金などは内妻がいれば内妻に支給する制度設計です)
全く相続を認めない制度が良いかどうかは別問題ですが、ここでは論じません。

婚姻制度の崩壊

しかし、放浪を本来とするオスの行動として見直せば、手厚いサービスを受けられるので、嬉しくなって家に帰って来ていたのであって、自分がサービスをするためにオスが家に帰るのではありません。
長い時代を経てオスにとってこのサービスを受けるのが必須のように刷り込まれて来たので、多くの男性だけでなくその裏返しで女性もなお、「ひとりで食べるのはわびしい」とか言って、結婚願望は簡単にはなくならないでしょう。
一人では寂しいとしても、それの解消策としては結婚にこだわる理由がありませんから、これに代わる人間関係が発達してくる筈です。
適齢期男性にとっては、両親が健在で面倒見てくれているので家庭サービスに不自由がありませんし、その他多様な交際の仕方が広がって来ますから、今のところ、重たい結婚関係に入るのをためらってデート相手くらいで済ましたい人が増えて来て、それ以上に進みたくない男性が多くなって来ているようです。
これからは、男女ともに異性とつきあう・・デートする必要性すら感じない人が増えて来ているような感触です。
女性は性関係に進む・・子供を産み育てるためにこそ、デート時期から男性に対して下手に出てニッコリ微笑むメリットがあるのですが、どうせ性関係に進んでも相手が子を産みたくないとするならば、そこまでサービスする必要性がありません。
デートしていても、腰が引けた関係になりがちです。
それでも、今のところ女性が下手に出る習慣が残っているので、子を産む方向へ進む訳でもないのにデートするには気を使うしかないのですが、そんなことならば女性同士で遊んでいる方が自分だけ一方的なサービスしなくて良い対等な関係で済みます。
今では御馳走してしてくれなくとも自前の収入もあるし・・・気楽で良いと言う人が多くなるでしょう。
現に中高年では、独身既婚者を問わず女性同士のグループでの旅行・食事会・観劇その他が盛んですが、もはや異性と食事等をして気を使っても、もう一度子育てのチャンスもないから無駄なことだと割り切っているからではないでしょうか?
夫以外の異性との交際をしなくとも夫婦で楽しめば良いのですが、子育て期間中に嫌っと言うほどサービスをしているのでこれ以上のサービスは御免ですと言う人(熟年離婚予備軍)の集まりでもあるかも知れません。
若い女性も外食費や旅費の負担は自分で出来る経済力を持っている時代ですし、しかも結婚を前提にしないとなれば同性以上に気を使わねばならない男性と一緒に行動したくなくなるでしょう。
とは言うものの私にはよくわからないのですが、別に結婚予定がなくとも・・生殖能力が衰えても異性と一緒にいるだけで楽しい人が多いと思いますが、それは優しくサービスを受けるメリットのある男だけのことでしょうか?
別にサービス受ける予定のない行くずりの女性・・同じ電車に乗り合わせた時にどこの誰か分らないし、今後二度と合うことがないと思えても美人・チャーミングな人がいると、ついそちらに目が向くものですが・・これは何によるのでしょう?
将来どんなチャンスがあるかもしれないので、万一の可能性に掛けて念のために目に入れておこうとするオスの本能が残っているだけでしょうか?
女性の気持ちはよく分りませんが、男性同様に結婚していても異性(特にイケメン)がいれば気になるのは同じではないでしょうか?
女性だって、もしもの場合があり得るのは同じですので、結婚していてもあるいは子育てが終わっていてもいつも淑やかそうにして注目を集めておく必要を感じているのでしょう。
女性にとっては、異性を大事にするのは何万年もの時間をかけて種の継続のために植え付けられた習慣にすぎないのであって、種の継続・結婚と関係がなくなれば、男性にサービスする習慣・・控えめで優しい物腰態度はメッキのはげるように雲散霧消して行くものかもしれません。

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