政治家と専門家の役割相違2

サンフランシスコ等の入港拒否の住民運動の理由として、入港後乗客が港湾周辺を自由に歩き回るのでは住民が不安を感じるのが当然ですが、非合理な運動だと一蹴して入港→下船を強行するか、住民不安に応えて下船と同時にチャーターしたバスで医療機関や隔離施設一括搬送するなどの手順を示して港周辺の人が心配するような事態が起きないとの説明を丁寧にするか、地元住民の運動を恐れて入港拒否するかは政治家の判断分野dです。
サンフランシスコでは地元州政府が、地元民の声に押されて入港拒否したものの「よそへ行ってくれ」というのではなく、4〜5日経過で漸くすぐ近くの反対の少ない港への寄港を実現できたようです。
感染拡大放置による死者より、不景気拡大による死者の方が多くなるかの判断(ブラジル大統領やトランプ氏はその種の意見のようです)・・その中間のロックダウン方式をとるにしてもどの時点で行うか?どの地域に限定するかどの程度厳しくするかなども政治家の判断領域です。
判断ミスか否かは結果で見るべきで、政治家が政治責任をとることです。
今回の日本政府に対する批判論の基本は専門家(と言っても米国CDCルールに反しているという形式論中心だったように思われます)の立場から現場対応を批判するものだったように見えます。
政治家は結果で評価すべきです。
(これまで書いてきたように例えばNHKニュースはどういう批判かを書かずに「外国で批判が大きい」といい、外国報道機関の方は「日本国内で感染症専門家から批判の声が上がっている」というキャッチボール形式で波紋を広げる方法で、何が批判されているのか?素人には分かりにくい報道の仕方でした。
結局具体的に紹介されていたのは岩田健太郎氏のツイッターと東洋経済のインタビュー記事が基本・・感染症の専門外の官僚が・・これが世界を駆け巡る批判論の根拠になっているらしいということです。
クルーズ船批判論が火を噴いた頃には、「専門知を大切にすべきだ素人集団が決めているのはおかしい」という専門家重視論のイメージでの政権批判報道が多かったような印象でした。
このメデイアの論調に火をつけた?のが岩田氏のツイッターだったように思われます。
直後の3月12日には米国式 統括機関創設を求める学会有志?の共同声明が発表されていたことを6月20日に紹介しました。
世の中専門家の言う通りで良いなら経済政策は経済学者の言う通りで良い筈ですが、そんな主張をする意見は皆無でしょう。
社会運営は一定の論理に支えられながらも利害対立の調整にあるのですから、「実験室の結果で良い」政治など、どの分野にもありません。
新型コロナにかかっているかの判定やその場合の治療方法は専門家に委ねる分野であって政治家は「あいつは嫌いだから、治療するな」と言うことは許されません。
緊急事態宣言の前提事実として、感染がどのくらい進んでいるか、ICUに入った患者の生還率はどのくらいかなどの具体的問題点などは専門家の意見を聞くべきでしょうが、一定の事態が間近に迫っているとしてもロックダウンすべきか日本のように自粛要請で足りるか・・自粛要請にどの程度応じる国民性かの判断は政治家が決める領分です。
自粛を求める産業分野とその効果も専門家が詳しいでしょうが、国民意識のありように合わせて、総合的に見てどの業界を優先するべきかなどは政治家が責任を持って決めていくべきでしょう。
原子力発電やリニアモーターカーの必要性等は科学者が最終決定すべきではなく、政治責任を取れる政治が決めるべきものです。
6月26日リニアモーターカーの工事着工に対して静岡県知事とJR東海とのトップ会談で知事側が工事に必要な準備工事にさえ同意しなかったので、2027年の開通は不可能という報道が出ていました。
問題はトンネル工事によって地下水の流れが変わることに対する反対らしいのですが、その決着は専門家の分析を待つことになったらしいです。
以上を見ると専門家が決めるかのように見えますが、政治家が争点を専門家の決める専門的意見次第と論争の場を限定したことによるものです。
例えば宇宙物理学等では巨大な実験設備があったほうがいいでしょうが、国の経済力から総合して日本が保有する必要があるかは、政治家が決めることです。
PCRの大量検査能力維持、ICUあるいは体外人工呼吸器(クオモ)などの備蓄が多いほうが良いとしてもコロナのような伝染病のために毎年大量のICU設備や訓練された運営要員をどの程度抱え込んでおくのが合理的かは政治が考えることです。
当たり前のことを無視して、メデイアが政権批判していた・・この結果政治妥協の経験のない研究者が決定の矢面に立つような変な結果になって研究者を苦しめていたようです。
神戸大学岩田健太郎教授に関する3月8日現在のウイキペデイアです。

2008年 – 神戸大学大学院医学研究科教授(微生物感染症学講座感染治療学分野)、同大学医学部附属病院感染症内科診療科長[1][2][
2020年2月18日 – 2019新型コロナウイルスの集団感染が発生しているクルーズ客船 ダイヤモンドプリンセスに乗船[4]。自身のYou tubeサイト上にて、「ダイヤモンド・プリンセスはCOVID-19製造機。感染対策は悲惨な状態で、アフリカのそれより悪く、感染対策のプロは意思決定に全く参与できず、素人の厚労省官僚が意思決定をしており、船内から感染者が大量に発生するのは当然と発言したものの、翌20日には乗船に関し助言した医師に事実誤認を指摘され、削除した[5][6

6月16日現在のウイキペデイアでは、箇条書きの経歴部分のみで上記部分は以下の通り変更されています。https://mainichi.jp/articles/20200219/k00/00m/010/097000cには(削除前のツイッターかな?)具体的指摘事実が出ていますので引用しておきます。

岩田氏の説明によると、厚生労働省の協力を得て、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員として18日に乗船した。18日夕方に下船後、動画投稿サイトで「ウイルスが全くない安全なグリーンゾーンと、ウイルスがいるかもしれない危ないレッドゾーンが、ぐちゃぐちゃになっていて、どこが危なくて、どこが危なくないのか全く区別がつかない」「熱のある方が自分の部屋から出て、歩いて医務室に行っている」「感染症のプロだったら、あんな環境に行ったら、ものすごく怖くてしょうがない」などと訴えた。

この事実指摘自体は当然で元々客船には感染者と何日か前に感染しているがまだ陽性にならない潜伏中の患者などが入り乱れているから、そういう仕分けのために検疫官が乗り込んでいく過程では、誰が感染者かすらまだ区分けできていない状態です。
そもそも気の利いた企業であれば、香港から横浜に着くまでの間に発症者が出たのであれば、日本の係官が乗船する前に隔離くらいしておくべきだったでしょうが、前夜までパーテイをしていたというのですから多分何もしないで従来通りビュッフェなどで大勢一緒に食事をしていたのでしょうか?
3711人にも及ぶ人数の検査・・検体摂取だけでも瞬時に終わるわけでなく、検体採取を経て順次検査機関へ搬送先では1検体ごとに手作業による培養作業が行われ一定の培養時間経過後プロによる読みとり作業を経て判定していくので(最近ではこのプロセスが自動化されていると言う意見もありますが、当時の説明)その間の未判定期間があります。
検体採取後即時に陽性陰性が判別するわけでなく、その間誰が陽性かも不明です。
しかも結果が一斉に出るわけでなく、陽性者が数人〜10人づつ順次結果が出るつど船内の空室に移動してもらうとしても、最初のうちは未検査の人の方が多いのですからどこの船室の前の廊下が安全かなどの区分けできている訳がないと素人としては思いますが・・。

報道機関の役割(政治家と専門家の役割相違)1

以下に紹介するフロリダの入港拒否の内容を見ると受け入れるとしても、フロリダ州民以外の下船・治療を認めないという自分勝手なものでした。
日本のクルーズ船対応ではそういうことを言わず、世界中の人たちの治療を最後まで見ていました。
日本では、強力指導力発揮する余地がない社会なのに、強力な司令塔設置要求・・低レベル社会で必要な米国基準を持ち込んでその通りやらないと批判すること自体がおかしいのです。
米国内で発生している多くのクルーズ船の結末を、日本メデイア(都合が悪くなったから?)は一切報道していません。
NHKをはじめとして日本メデイアが米国で日本政府が批判されているとして、鬼の首でも取ったように日本政府対応批判キャンペインを張っていたのを6月21日頃のコラムで引用しましたが、メデイアが客観状況の報道でなく政府批判という特定目的をまず設定しその方向でしか報道しない傾向があるように見えるのは問題です。
NHKに言わせれば、批判内容が不明だが、ともかく米国で批判報道が広がっているという客観事実のみを報道しているという言い訳が成り立ちそうです。
この論法は、朝日の慰安婦報道が世界に広まり、それが事実確認無しに既定事実になっていったのと同じ方式です。
報道機関が報道している場合は、それは事実であるかのようなすり替えがある・報道内容の吟味を経ないで大手が一旦流すとそれが事実のように国外メデイアもそのまま報道するあんちょこな姿勢があり、日本メデイアはそれは日本発の報道転載でしかないこと報道せずに「海外で日本やり方が批判されている」と抽象的報道する・・キャッチボールされる仕組みになっている恐ろしさです。
今回は1ヶ月後にほぼ同じ事例が米国で起きたので必然的に比較対照報道された結果、日本に対する誹謗中傷が止みました。
日本国内での安倍政権批判も根拠を失い静かになり続いて検察官定年延長問題に移りました。
その後のクルーズ船の動きや感染結果等が不明なので日付で新しそうな日付のネット記事を探して見るとせいぜい以下のような報道しかありません。
https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20200402-00171007/

まだあったクルーズ船問題!4人死亡、感染者多数?の米ザーンダム号 フロリダから受け入れ拒否
安部かすみ
ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

上記によると(転載禁止と書いてあるので引用できませんが)米国籍・米国企業運営のクルーズ船なのに入港反対ということらしいです。
CDCが如何に強力な権限を持っていても、船の入港下船が地元政府反対で洋上漂流になるとどうにもなりません。
この点は6月29日に書いた通り中央政府が強力な権限をCDCに与えてもどうにもならないのが現在の民主主義国家です。
クルーズ船入港を認めるか下船させるか、緊急事態宣言するか、どの程度の外出規制するか等々の決定は専門家が決める領域でなく政治判断であると書いてきましたが、
日本のコロナ対応も専門家と政治家の役割分担の理念そのものの議論が、この1週間で表面化してきました。
https://www.asahi.com/articles/ASN6S7JGBN6SULZU004.html

専門家会議「純粋科学と違う」 自らの役割に苦悩の日々
2020年6月25日 8時00分

新型コロナウイルス対策についての政府の専門家会議のメンバーが24日、組織の見直しを求めた。
権限や責任があいまいなまま、対策や市民の行動変容など積極的な発信をしてきたことに、批判も出ていた。自らを省みた会見のさなか、政府は新たな会議体の立ち上げを発表した。政治と科学の関係はどうあるべきか。他国も模索している。
「感染症対策というのは、実験室の学問や純粋科学とは違う」。24日夕。日本記者クラブ(東京)で会見した専門家会議の尾身茂副座長はそう述べ、新型コロナ対策の難しさの背景を語った。
感染の拡大防止には人々の行動を変えることが必要になる。誰がどうお願いするか。元々医学的見地から助言するのが目的だった専門家会議は、権限と責任に法的根拠はなかったが、積極的な発信を続けた。迅速に対策を伝えないと、国内で感染が爆発的に広まるとの危機感が、メンバーに高まったためだ。
会見で、脇田隆字座長は前のめりになった理由を「(政府の)諮問に答えるだけでなく、対策をとる必要があると考えた」と語った。

専門家はこれまで学問上判明している限度の説明をすれば良いのであって、(諮問に答えるだけ)それを踏まえてどのような対策を取るかは政治家の分野です。
まして日本の場合、国立感染症研究所の所長・文字通りウイルスなどを顕微鏡で覗く実験が本業の人たちであり、行政機関ではありませんので、利害調節的判断=政治決断するのは畑違いすぎて苦悩の日々だったということでしょうか?

あいちトリエンナーレ不自由展11(政治家は発言を抑制すべきか?1)

ちなみに不自由展に対するウイキペデイア記事によれば、
河村の設置する検証委員会に対して、大村は「展示の中身を検証して、けしからんから(市の負担金を)出さないというなら、検閲委員会になる」と反発した
というのであり、検証委員会設置でさえ検閲になるといっていたはずですが、日本第一党の展示に対しては、県施設許可決定に関する権力行使できる地位にある筈の大村知事が内容に立ち入って判断して公言しています。
これが権力行使者の抑制的な行動でしょうか?
右翼系に対しては遠慮なく権力行使できると言わんかのような発言です。
津田芸術監督のいう

「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」

という意見について見ておきます。
「政治家は表現の自由に対して権力を行使できる立場」とは何かですが、権力行使権を持つことと、影響力の有無とは違います。
主権在民というように、一般国民も権力があると言えば言えるのでしょうが、一般的に権力者とは言いません。
主権在民とは、国民支持が国家権力の源泉になるという程度の比喩にすぎず、一般国民を権力行使者と思う人は誰もいないでしょう。
権力という意味自体はっきりしませんが、普通は行政権力・強制力を行使できる人を「権力行使できる人」というべきでしょうから、政治家の中でも行政権力行使できる人は限定されます。
行政府の長、自治体の長がこれに当たるでしょうが、政治家一般がこういう権力行使できることはありません。
だから政治家は・・と政治家一般がこういう権力行使できる立場にあるかのような言い回しは、誤解を招く表現です。
政治家は一般国民より権力者に対する影響力が強い場合がありますが、影響力は一般国民も主権者として権力行使に影響力あるのは当然ですし、他方政治家と言っても野党も入れば地方議員もある上に落選中でも政治家ですので幅が広すぎて、政治家=権力行使できる立場とは言えません。
政治家というだけでは権力行使する立場でなく、権力に影響力のある一般国民より一定程度権力に近い程度の差です。
権力行使できる政治家であれば発言を抑制すべきと言うのでれば、その権力行使に関する発言は抑制的出るべきでしょうが、政治家であれば「発言を抑制すべき」というのでは自己に対する批判発言を封じるかのような発言です。
8月31日に紹介したウイキペデイアの記事をもう一度引用します。

津田の芸術監督就任を批判したオペラ歌手の畠山茂に対して、津田はツイッターで以下の反論を行っている[42]。
こんな僕ですが一応文化庁主催のメディア芸術祭で新人賞なるものをいただいた経験もありまして、その審査した人たちや、芸術監督を選出したあいちトリエンナーレの有識者部会(アート業界の重鎮多し)をみんな敵に回す発言になりますけど、大丈夫ですかw

批判者に対してないように対する反論でなく「そんなこと言って良いのか!」というイメージの記事です。
名古屋市長の河村氏に対するものであるから、市長としての権力行使できる人だというのでしょうが、一般論でなく、「不自由展」論争に限定しての発言とするならば不自由展限定で河村氏がどのような権力行使できる立場にあったかの具体論が必要です。
「政治家は・・・」と言う大風呂敷を広げて一般人に対する「政治家って発言が慎重なことが多いよね!「権力行為は抑制的にすべき」だよね1という常識論に引き寄せて議論の方向をすり替える効果を狙った表現です。
政治家は発言責任を問われるので影響の及ぶ範囲を見極めて、自己責任を取れる範囲内に止める慎重発言しないで言いたい思いき発言していると過去の発言と矛盾するリスクなど回避のために慎重な発言をする→リスク判断を経る作業が多いのは内部・自己保身問題であって、論争相手に要求される作業ではありません。
発言している政治家のガードが甘ければ、論争相手は発言者の隙を突いて論破すれば良いことです。
内容に反論しないで頭ごなしに「政治家がそんなこと言って良いのか!」という批判はクレーマーが、営業マンに対して「客に向かってそんなことと言って良いのか?」とクレーム内容と違った次元の攻撃をするのとどこか似ています。
ただし津田氏は
① 論争相手は河村市長であり単語的には政治家一般になっているがそこでの対象は河村氏に決まっている彼は市長であり行政権力を行使できる立場にあった
という弁解が成り立ちそうです。
しかし市長であっても論争テーマである「不自由展」にどのような権力を行使できるかの説明がありません。

②「表現の自由に対して権力行使できる立場」

と修飾語をかましているので、かなりの人が表現の自由に権力行使できるなら「抑制的であるべき」だな!と納得してしまいそうな表現方法にしています。
ところで、不自由展に関して外野から想定できる権力行使は、施設管理権に基づく使用許可権限と、文化庁の補助金交付権限くらいです。
名古屋市の施設利用がない限り名古屋市長であることと不自由展に関する権力行使とは関係ないことです。
河村氏は、市長の立場で自由展実行委員会委員長代行として参加しているだけで県施設利用許可に関わる・展覧会に対する権力行使できる立場になかったのではないでしょうか?

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離10(行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められるか?)

芸術監督津田大介氏に関するウイキペデイア記載経歴引用続きです。

2010年代
2010年 – 、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)フェロー。
2010年 – 、特定非営利活動法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパンフェロー( – 2013年)。
2010年、上智大学文学部新聞学科非常勤講師。
2010年 – 、スマイキー株式会社(旧ピーエムアール) 顧問。
2011年、武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。
2011年9月、有料メールマガジン『メディアの現場』の配信を開始。以降、毎週水曜日発行。
2012年4月、株式会社ゲンロン取締役( – 2015年3月)、関西大学総合情報学部特任教授(任期:2012年4月 – 2013年3月)に就任。「ネットジャーナリズム論」「ネットジャーナリズム実習」を担当。
以下中略
2015年 – 朝日新聞社論壇委員
2017年 – 早稲田大学文学学術院教授(任期付)[12][13]
2017年8月1日 – あいちトリエンナーレ2019の芸術監督に就任[1

10年代に入るとどういう実績によるのかメデイア関連の仕事が増えて15年に朝日新聞論壇委員になって17年にアイチトリエンナーレ芸術監督就任の経歴です。
以上によると彼が芸術家=創作の専門家ではないばかりか、芸術専門家としての評論活動等の実績もないし、作品展覧会等の主催経歴もなさそうです。
10年台に入って朝日新聞やあちこちの大学で任期付きとはいえ招聘されているのは、彼の情報発信力が評価されたからではないかと推察されますが、それにしても芸術監督になるベき経歴としては異色で、その異色性(政治的発言の方向性も十分に知られていたでしょう)を発揮してもらうはっきりした意図で芸術監督に選任したと想定されます。
津田大介氏をジャーナリストと紹介していますので、彼の基本職業はジャーナリストと理解すべきでしょうが、ジャーナリストが芸術監督になったことになりますが、これまで見た経歴では、芸術系専門を生かしてジャーナリストになったのではなく、メデイア系活躍の経歴しかなさそうです。
こういう人でも芸術監督になってさえいれば、素人は口出しするな!と言えるのでしょうか?
昨日引用した大村知事による委嘱時の記事の再引用です。
どこかの大学の名誉学位を貰った政治家が政治発言して都合が悪くなると、学問の自由を守れ!と政治発言が免責されるかのような主張です。

「実行委員会の大村秀章会長(愛知県知事)は津田に「とんがった芸術祭にしたい」と委嘱状を渡した」

というのですから、彼の政治方向性を知悉した上で「とんがった」企画を期待していたことになります。
「とんがった」企画期待とはジャーナリストとして日頃表現しているとんがった主張を遠慮なく出して下さいという意味ではないでしょうか?
政治色満々の展覧会を(政治任用?)の(芸術家でない)芸術監督がプロ学芸員の提案を作品を次ぐ継と拒否し自己の好みで捨選択し開催しておきながら、いざ政治問題になると芸術展への政治の介入を許さないかのような立場を代表するのはなんとなく(自分自身が芸術家でないのに芸術展示作品取捨選択の監督をしているのとどのように整合するのか)不思議な主張です。
ウイキペデイア記載の津田大介芸術監督の発言と朝日の主張を再引用します。

芸術監督の津田大介は「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」と批判し[71]、また、津田を論説委員として擁する朝日新聞も「行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。」と批判を行った[

芸術監督というといかにも専門家のようですが、津田氏の経歴を見たように、ジャーナリストというだけで何の専門家かも不明で、はっきりしていることは朝日新聞の政治傾向と親和性のあるジャーナリストらしいというだけです。
芸術監督として選べばその人の政治姿勢そのママで良い、外野(行政や世論)は意見を言うべきでないというかのようです。
そこまでいうと芸術監督のレベル保証はどうなっているのかが気になりませんか?
津田氏の経歴によると芸術そのものに関する経歴がなく、芸術を政治利用した発言があるかも知れない程度のイメージしか伝わってきません。
政治組織内部で部下の一人を芸術監督すれば良いのか?
早速津田芸術監督や朝日新聞の主張を逆手に取った施設利用が行われたようです。
トリエンナーレ・不自由展に関するウイキペデイアの記事内にある参考事例に飛んでみると以下の通りです。
「不」自由展に対するアンチテーマとして「自由展」を開催しています。

あいちトリカエナハーレ2019「表現の自由展」
2019年(令和元年)10月27日に愛知県名古屋市の愛知県女性総合センター(ウィルあいち)で開催された芸術祭である。主催は政治団体の日本第一党の愛知県本部。
経緯[編集]
主催側の主張では、「国民からの猛反発を受けて一部が展示中止され、未だに責任の所在や事実の検証、展示再開是非で迷走を続けるあいちトリエンナーレ2019に対抗する日本人のための芸術祭として企画・開催された」[1]芸術祭である。 あいちトリエンナーレが愛知県や名古屋市などからの税金、県や複数企業からの後援を受けたうえで開催されていたのに対し、こちらは全て個人個人からの資金により開催され、県や企業からの後援を一切受けていない。また、一時停止後に再開されたあいちトリエンナーレ2019では撮影などが禁止されていたが、こちらでは参加者の顔を映さない限りは撮影や中継はほぼ可能としていた。
内容[編集]
桜井誠によるライダイハンについての講演と、同氏制作の芸術作品「ベトナムの子供」の展示、「不自由」と大きく書かれたバッグ、ベトナム戦争時の韓国軍兵士の蛮行を表現する紙粘土製「ライダイハン像」[3]、「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタなどが展示された[4]。
芸術監督は長尾旭日本第一党副党首、会場責任者は谷口博史日本第一党愛知県本部長[1]
愛知県の大村知事は、「内容からしてヘイトに当たると言わざるを得ない。(内容を確認した時点で)中止を指示すべきだった」と述べた[5]。主催者側代表の桜井は「私はチマチョゴリを着てライダイハンの説明をしただけで、ヘイトなんて全くやっていない」「かるたは売っている物。それがヘイトというのは検閲じゃないですか」と主張した[9]。

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離9
  (表現の自由市場論18と世論軽視論の矛盾10)

京都弁護士会や東京弁護士会の論理構成は、表現の自由と公的施設利用(あるいは補助金支給)基準問題とは次元の違う問題であるのにあえて?これに触れず、「表現を萎縮させる効果」を言うのは、いかにも憲法で禁止する検閲類似行為があったかのような誤解を招く(ための意図的ずれ?)主張ですが、公的施設が使えなくとも検閲に当たらないばかりか、芸術表現に萎縮効果は出ません。
ほとんどの平均的作家は、公的企画展に出品できなくとも、人権重視論者の金科玉条としている自由市場で腕を磨いています。
公共美術館の企画展などで出品できる現役作家は、むしろ限られているのが現状でしょう。
不自由点に関する報道の限りでは自由市場で相手にされていない作家+日韓対立系の韓国主張に焦点を当てる試みのように見えます。
最終判断権を芸術家に委ねるべきとの主張は、芸術系の実績のない津田氏を芸術監督に任命して作品取捨選択権を(政治的主張)を与えてきたのと矛盾します。
企画=作品選択経緯に関するウイキペデイアの記事を引用します。

2017年7月18日、あいちトリエンナーレ芸術監督選考委員会[注釈 2]は、あいちトリエンナーレ実行委員会に対し朝日新聞論壇委員[31] の津田大介を「バランス感覚に優れ、また、情報を整理する能力にも長けていることから、いろいろなアイデアや意見を取り込んで、トリエンナーレを創り上げることができる」などの理由から芸術監督として推薦し[32]、同年8月1日に津田は芸術監督に就任した[30]。実行委員会の大村秀章会長(愛知県知事)は津田に「とんがった芸術祭にしたい」と委嘱状を渡した[33][
津田は「芸術監督に与えられている権限は大きい」と決定権を握ると学芸員が提出してきた作家を「ピンとこない」と退けて陣頭指揮を執る[35]。津田は話題性を集めるため「ジェンダー平等」を仕掛け「日本初」を目玉にした宣伝活動を展開する[35]。2019年3月27日、津田は記者会見を開き、国内外79組の出典作家を「男女平等」に選考したと発表して「あいちトリエンナーレ2019」を全国紙で紹介させることに成功する[27][36][37]。また、あいちトリエンナーレで恒例となっていたプロデュースオペラを廃し、音楽プログラムを新設して[38][39]、ニュースサイト「ナタリー」で津田の共同創業者を務めた大山卓也[40] をキュレーターに任命した[41]。津田の芸術監督就任を批判したオペラ歌手の畠山茂に対して、津田はツイッターで以下の反論を行っている[42]。

こんな僕ですが一応文化庁主催のメディア芸術祭で新人賞なるものをいただいた経験もありまして、その審査した人たちや、芸術監督を選出したあいちトリエンナーレの有識者部会(アート業界の重鎮多し)をみんな敵に回す発言になりますけど、大丈夫ですかw

2019年3月27日に「表現の不自由展・その後」の企画を決定。津田は企画の意図について、あいちトリエンナーレのアドバイザー東浩紀(表現の不自由展を巡る混乱の責任を取って8月15日に辞任)との対談で以下のように説明している[43]。
公立美術館で撤去されたものを、『表現の不自由展』という展覧会を持ってくる体(てい)にして全部展示してやろうというそういう企画で。おそらくみんな全然気づいてないけど、これが一番やばい企画なんですよ。おそらく、政治的に。

津田芸術監督の経歴をウイキペデイアで見ると以下の通りで芸術系の経験皆無・・どちらかというとパフォーマンスに優れているので大手メデイアに重宝されてきたように(もともと知らない人なので以下のウイキペデイアをちょっと読んだだけの印象ですが)推測されます。

津田 大介(つだ だいすけ、1973年11月15日 – )は、日本ジャーナリスト

概要[編集]
東京都北区滝野川出身。父親公男は社会主義協会派の活動家で、日本社会党(現:社民党)の副委員長高沢寅男の議員秘書も務めた[2]。しんぶん赤旗にて、中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったと述べている[3]
・・・1年間の予備校生活を経て早稲田大学社会科学部と明治大学政治経済学部に合格し、早稲田大学を選択した[4]。就職活動では出版社を志望するもすべて面接で落とされ、卒業後はパソコン系編集プロダクションのアルバイトとしてライター活動を開始する。1999年に会社設立[5]。
2000年代
2002年、個人運営ニュースサイト「音楽配信メモ」(ブログ)を開設。
2006年、株式会社ナターシャ設立・取締役( – 2014年7月)。
2006年 – 2008年、文化審議会著作権分科会において複数の小委員会で専門委員を担当[10]。
2007年、Twitterアカウント(@tsuda)を開設。
2007年、小寺信良(コラムニスト、AV・音響機器評論家)・白田秀彰(法学者、法政大学社会学部准教授)らと共同でインターネット先進ユーザーの会(MIAU、現インターネットユーザー協会)を設立。現在、一般社団法人*インターネットユーザー協会(MIAU)代表理事。
2008年 – 、特定非営利活動法人情報通信政策フォーラム(ICPF)副理事長( – 2014年3月)
2008年 – 、デジタル・コンテンツ法有識者フォーラム設立・発起人。
2008年 – 、コンテンツ学会設立・発起人。
2008年 – 、特定非営利活動法人ブロードバンド・アソシエーション「P2P関連問題研究会」委員

2000年代の経歴を一見すると次々と誰かと〇〇組織を立ち上げてきたことが分かりますが、(短期間にいくつもの組織立ち上げで同時並行で何ができるの?と言う疑問があり、組織実態が不明です。
名刺にはいくつもの肩書を書けるでしょうが・・。
名称で実態が分かるのは政府系委員会の専門委員になったというだけですが、それも任期2年一回でお払い箱?のような印象です。
この経歴を見ると、シールズを立ち上げた奥田愛基氏の経歴と酷似しています。
時間軸でいえば、津田大介氏の成功例をなぞってメデイア界が、10年遅れで次世代育成の思惑で過保護にデビューさせたのが奥田氏だったような印象です。
津田氏の過去発言内容等を知りませんが、朝日新聞論壇委員になっているところを見ると、多分朝日新聞系の期待する気の利いた「とんがった」発言でモテはやされてきたのでしょう。
芸術監督になる直前の2010年代の経歴を明日引用します。

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