対外紛争の得失2

出費のあるところに人材投入も必要ですので、国家発展のための人材が後ろ向きに使われてしまう損失があります。
「日中の制裁合戦4(バブル崩壊1)」Published May 3, 2014に紹介しましたが、中国や韓国では大卒が何百万人と就職出来ない状態で、どうせ失業者が一杯ですから不満を持たせないために情報統制のためのネットチェックや反日宣伝用のナンセンス映画を作らせている・・治安要員を増やし軍事要員を増やすのならば、有用な人材のロスにはなりません。
対外緊張を煽れば失政誤摩化しのためになるだけではなく、不満分子予備軍を失業対策事業に使い且つ治安対策要員になるとすれば、中国得意の1石2鳥〜3鳥4鳥政策になります。
中国基準では大成功の政策・・目出たしめでたしと言うところです。
しかし、良いこと尽くめは逆回転すると悪いこと尽くめに転換するリスクがあります。
失業対策で軍備拡張ばかりしていると軍事部門の暴発を防げなくなるのもその一例です。
上記のように自画自賛しているのは内部的には勝手ですが、反日方針転換しようとしても教育宣伝の成果で国民が反発するので変更できなくなっているように、失業対策で軍部を煽り過ぎたので対外紛争拡大傾向を政府が阻止できなくなって、政府が自分の手足を縛られるようになります。
中国の尖閣諸島での漁船体当たり事件や反日暴動も政府自身が合理的判断でやったというよりも、長年反日教育やいかに中華帝国が素晴らしいか・・「小日本」と蔑称を使って見下して来た手前・・行きがかり上やらざるを得なかったような面があります。
今後周辺と仲良くした方が良いと思っても、長年周辺民族を根拠なく見下して来た結果、どうにもなりません。
根拠なく威張り散らして相手を見下していてうまく行く訳がないので、今後アジア諸国では中国(韓国も何故か威張り散らすのが好きですので、同じ結果が待っている筈です)の孤立化が進むでしょう。
最近まで日本の何十分1の低レベル生活をしていて、今でもまだ賃金水準が10分1〜8分の1程度でしょう・・その低水準の中国が「小日本」と見下して国内宣伝して来た勢いで、反日暴動に走ってしまったもののその結果日本からの投資が激減したことなど、ボデーに利いて来る経済損失が中国には大きかったはずです。
5月17日日経朝刊7ページ左下のダイジェスト欄では「中国商務省発表によると、今年の1〜4月期の日本からの投資は前年同期比46、8%減と出ています。
(昨年も前年比4〜5割減だったように記憶しているので、減少後の昨年比更に46%減では大変な減りようです)
ただし総合では従来より増加率が減少したとは言え、なお前年同期比5%増というのですから、日本からの減少分をどこかが穴埋めしているかのように一見見えます。
日本の投資が減っても大したことがないと言う意味を含めた政府発表でしょう。
しかし、(中国政府発表は殆ど信用出来ない点をおいたとしても)仮に政府発表どおりとしても、日中紛争前には年率何割という増加率だったのが、一応プラスとは言え5%台しか増加しなくなっているのは、日本からの投資が減った分が殆どそのまま増加率の減少になっていると見ることが可能です。
ドイツ等からの投資が増えていて日本が取って代わられてしまうかのように、マスコミが大騒ぎして早く日本が悪かったと謝罪して仲直りしろと言わんばかりですが、実は大した穴埋めになっていないことが、この結果明らかです。
日本の投資減少後も同じ総合で増加率を維持していれば、他の国が日本の投資減少分の穴埋めしたことになりますが、増加率が大幅減少ということは他国による穴埋めが日本の減少分を埋め切れていないことを表しています。
まして上記はいつでも最低限プラス成長を主張するしかない・・原則に忠実な中国政府発表ですので、実際には増加率がマイナスに転じている可能性があります。
貿易黒字数字が相手国の数字とあわないと言われれば、輸入代金を装ったヤミ資金流入であって統計自体インチキではないと言い訳し、次に貿易黒字が減るとヤミ資金の規制強化の結果だ(競争力衰退ではない)と言うのですが、(結果的にヤミ資金であれ何であれ、資金流入が減ったことになります)その都度都合に合わせてやりくりして発表してしまう国です。
実際には株式市場や元相場の軟調が資金流入が減少に転じていることを裏付けています・・政府発表どおり5%増か否かの真相は藪の中です。

対外紛争の得失1

日本人も怒り出して感情的になって来たので、あまりに厚かましい要求を悪びれず繰り返すには、背後でアメリカが唆しているからではないかという国民意識・感情論が高まって来ました。
韓国の李前大統領も(胡錦涛同様に)就任時には前向きの日韓関係を唱えていましたが、結局反日発言に先祖返りしました。
中韓両政府は反日運動をやめるしかないと分ってもやめられない・・日本叩きをエスカレートするしかなくなるほど、反日教育の効果が出てしまった上に、この間に国内矛盾の累積激化が進んでいた・・失政続きと言うこともあって、日本叩きをやめると逆に政権が持たない状況に陥っています。
そこで、やむなく世界中で日本批判の宣伝に邁進するしかなくなったと見るべきでしょう。
この悪宣伝が長期的には、(他人の陰口を吹聴している人物が結果的に良い評価をもたらすことはどこの世界でもあり得ません)両国のマイナス評価に更に結びつくことが分っていても(本当に分らないのかな?)やめられない程国内で追いつめられているからでしょう。
そもそも、人民の不満は不満として直視して抜本的解決しない限り、反日煽動やフィリッピン・ベトナムと領海紛争を起こして一時的に国民の目をそらしても、意味がないことは中国政府も分かっている筈です。
対外紛争にうつつを抜かして内政をおろそかにしていると却って不満が蓄積するばかりですから、次から次へと永久的に対外紛争を増やすしかないとしても、そればかりやっている訳には行きません。
しかも、紛争を起こせばどんな小国相手でも、交流停止・縮小によるそれなりのマイナスを受けます・・。
100対1の国力差があってもやはり100分の1の被害を受けます。
中国全体では対ベトナム貿易が仮に100分の1でもベトナム進出企業にとっては本国工場とあわせても2分の1だったり3分の1の被害になります。
例えば新日鉄がインドに製鉄工場を建てるとした場合、新日鉄にとってその工場資産は全体の3分の1〜4分の1だったりします。
中越紛争ではベトナム進出中国企業にとっては折角投資したベトナムでの事業が出来なくなって大損ですから、その業界にとっては死活問題で不満が増えます。
対外紛争で気をそらしても内部的に何も解決していないし、その都度内政に注ぐべきエネルギーを対外工作に注がざるを得ない分人材的にマイナスです。
しかも紛争を起こせば上記のとおり相手が小さくとも一定の損をする以上は、矛盾が累積して元々の不満が嵩じて行くばかりですから、これを繰り返して行くうちに次第に政権に対するマグマが溜まって行きます。
不満の蓄積に比例して対外紛争をその都度大規模化・エスカレートしないと目をそらせなくなるでしょうが、際限ない大規模化はあり得ないので(ねずみ講みたいなもので)いつかはこの(対外注目)方式は行き詰まります。
国内矛盾解解決のために必要な施策を展開するには、必ず特定分野への国費投入が必要です。
(たとえば家庭介護だけでは無理になれば介護士の養成や介護事業所その他の分野への公費導入が要請されますし、農政改革するにはそれなりの予算措置が必要です)
対外紛争で目をそらすやり方は、矛盾解決のために国内に使うべき国費を対外紛争に出費する分だけ国内投資が減少します。
国民の目をそらす効果だけではなく予算措置も思考力も皆そちらに向いてしまい、矛盾解決のための智恵の創出も妨げられます。
韓国では世界中に慰安婦問題宣伝強化のためのロビー活動等かなり無駄な国費投入を続けています。
勿論中国も全国民相手に南京事件の宣伝をしたり映画を作ったり無駄な出費に追われています。
z子供も内容のない無駄な勉強や見学に動員されて無駄な時間を取られます。
歴史教育というのは生きて行くための人類の智恵を学ぶためにあるのですが、日本憎しの怨念ばかり植え付けられて子供にとって何のプラスにもなりません。

対外権限と内政能力4(アメリカの場合1)

アメリカの大統領制は、国内政治の利害調整は(法案成立までの調整は)議会でやり、(法成立後は)裁判所(どんなことでも裁判で決着を付ける国ですから行政裁量の余地が我が国よりも小さい)が行ない、大統領はその結果を執行することと対外戦争をすることが中心です。
ですから議院内閣制のように利害調整の経験がない・・利害調整に長じた人材が、大統領になる制度ではありません。
言わば創業・・対外的大統領選に勝ち進むだけ・・戦国時代で言えば、天下統一に勝ち進むのに特化した能力で足ります。
大統領には、言わば複雑な内政利害調整能力が求められていません。
大統領に当選するのに求められる能力は、利害調整能力ではなく対抗馬に勝ち進む戦略の優劣だけ・・演出家の振り付けにしたがって演技する能力だけで足ります。
December 3, 2012「選出母体の支持獲得3と政治資金1」で紹介したように、大統領選の結果は資金力にほぼ比例すると言われていますので、資金集め能力が重要ですが、これも選挙参謀・演出家の演出に従って挨拶回りやパーテイをこなせば良いことで候補者自身の能力は不要です。
大統領選向けの戦略は別の専門家が立ててくれるし、当選するまでの選挙活動・・これも演出に従って振り付けどおりうまく演説したり、ガッツポーズしたりする能力があれば足ります。
対外的に勝ち進みさえすれば良いように見える、わが国戦国武将でも、家臣団の利害調整能力が不可欠でした。
以前上杉謙信の例で書いたことがありますが,戦国大名の多くはその地域内小豪族の連合体ですから、家臣団同士の境界争いその他利害対立が無数にあってその調整に失敗すると不満な方は離反してしまいます・・。
石橋山の旗揚げに破れた頼朝が房総半島に逃げて再起出来たのは、千葉氏の力添えによるものでしたが、千葉氏は元々平氏でしたが、相馬御厨の所領争いで平家がうまく調整してくれなかったので、平氏を見限って源氏についてしまったことを、09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」で紹介しました。
上記コラムでも書きましたが、戦闘集団である武士であっても利害調整能力がないと権力を維持出来なかったのです。
アメリカで大統領になるには、大統領選挙に勝ち進めば良いことであって,利害対立する双方を納得させる複雑な内政能力は全く必要がありません。
当選後は(行政執行は完備した行政庁の官僚が実際にやるので)大統領の主な仕事は対外戦争をするか否かを決めることというのですから、いつも戦争予定の敵がいないと大統領の仕事がない国です。
これを法的に見ておきましょう。
行政府の長としての権限は議会の決めた法律の執行でしかないので、言わば下請けでしかありません。
行政には一定の裁量の幅がありますが、その実務は官僚機構が実施するのとアメリカの場合,何でも裁判で決める社会ですから、行政の裁量権も狭いし,大統領が具体的に口出し出来ることが多くはありません。
日本では内閣の法案提出権が重要ですが,アメリカ大統領にはこの権限が一切なく,(日本とは違って議員立法しか認められていません)議会に出席する権利さえありません。
大統領の年頭教書演説が有名ですが、議会からの招待があって初めて行なえるだけです。
大統領が議会に何かを命じたり議案を出せることではなく,言わば「今年の抱負をみんなの前で言っていいよ」というだけです。
戦争権限は憲法上は議会の決定事項ですが、戦争兵器の近代化が進んで議会で議論している暇がないので,大統領が専権で開始出来るようになっていました。
(核兵器発射ボタンを考えれば分るでしょう)
これがベトナム戦争など無制限に戦争が広がったことに対する反発から,戦争権限法が相次いで制定されて1014年2月8日現在のウイキペデイアによれば,以下のとおりとなっています。

1973年戦争権限法(War Powers Resolution)[編集]
1973年に成立した両院合同決議であり、アメリカ大統領の指揮権に制約を課すものである。この法律はニクソン大統領の拒否権を覆して(両院の三分の二以上の賛成による再可決)により成立した。
事前の議会への説明の努力、事後48時間以内の議会への報告の義務、60日以内の議会からの承認の必要などを定めている

対外能力と内政能力3(御三家の資質差)

家康の多くの子孫・・越前宰相家など・内政能力不足で次々と失脚しているのに比べて、最も複雑系に優れた頼宣(彼は何と10男です)を、戦略上重要な紀伊半島の初代領主にしたのかも知れません。
紀伊半島は一朝コトあるときには、いつも反政府ゲリラの根拠地になって来た難しい場所でした。
古くは壬申の乱の大海人皇子が根拠地にしたことに始まり、中世には南朝の根拠地、真田幸村父子のよった九度山など(幕末には十津川を中心に天誅組が蜂起しました)しかも京都に近いし、ココを占領されると本州が二分されるので戦略上重要な地域でした。
アメリカ軍も本土上陸作戦として南紀・潮岬からの上陸ルートを策定していたと記憶しています。
紀伊家に対して尾張65万石は濃尾平野中心で,言わば単純経済構造で単純内政が可能ですから,単純な主張で突き進むには勢いが良いのですが、紀伊徳川家のようにクジラ漁もなければ林業もないし、伊勢湾の漁業も関係がありません。
紀伊家では徳川期にみかんに始まって南高梅で知られる梅の銘柄や備長炭やクジラ漁その他かなりの特産品/新産業を生み出しています。
金山寺ミソに始まる醤油醸造も紀州発で全国に広まりました。
現在のキッコーマンや銚子周辺の醤油工場は紀州からの移住で発展したものです。
関東に進出した醤油製造は大規模化して行きましたので,その延長で世界企業になっていますが、今でも紀州本場に残っている醤油製造は古来からの製法を守って高級料亭などに卸してると言われます。
九十九里浜の底引き網漁も紀州からの技術導入でした。
江戸時代に日本全国の農業や木綿や果樹園芸等の生産性向上に大きく寄与したホシカも紀州から来た豪族が開発した銚子漁港を根拠地にしたイワシ漁の成果によるものです。
明治以降で見ても現在に連なる三越(三井グループ)や松坂屋,イオングループは全て紀伊徳川家領域であった伊勢の出身ですし,真珠養殖で日本の有力産業にしたのも伊勢の人です。
一般には何故か紀州家と言われていますが、紀伊徳川家は伊勢の国のかなりの部分を領地にしていたので紀伊家と言うべきでしょう。
尾張徳川家では単調な領土のために内部調整訓練が少なかったことから複雑系人材が育たなかったことが、内部利害調整能力を必要としてた将軍継嗣争いに敗れた原因ではないかと思われます。
(信長,秀吉も単なる個性の問題ではなく,この環境から逃れられませんでした)
吉宗は将軍就任後現在に連なる官僚制の基礎を作り、判例集の整備を行なうなど内政・・利害調整に力を注いだことは偶然ではありません。
判例集・・公事方御定書については、12/16/03「公事方御定書1(刑法4)(江戸時代の裁判機構1)」以下02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」〜10/03/06「公事方御定書の刑罰8(追放刑はどうなったか)」まで飛び飛びに連載しました。
判例に従って政治をするということは、一種の法治国家思想が彼によって宣言されたことなります。
尾張徳川家はずっと冷や飯食い・・野党的存在に徹して何かと楯突くことしか出来ないまま徳川時代をに過ごして来て、幕末徳川家が賊軍になってから漸く出番が来て反徳川=単純な勤王論の結果,官軍の征討総督代理か何かの重職についています。
しかし、(江戸城無血開城は西郷隆盛が決めたように)格式が高いから薩長に担がれていただけで,維新がなってからの明治政府〜現在まで人材が出ていません。
御三家の盛衰を見ると水戸家は家業とも言える勤王思想の中核でしたが、幕末に慶喜を将軍に出してしまったことから賊軍の将の実家として明治政府から見れば優遇する訳に行かない冷遇状態に置かれてしまいました。
勤王思想の震源地であり,桜田門外の変から始まって天狗党など維新の地殻変動・起爆剤として最大の功労のある水戸家が棄てコマにされてしまったことになります。
長い間の内紛等で人材が枯渇したとも言えますが、濃尾平野同様に単純経済構造であることから,(300年間に水戸偕楽園に梅林を作ったくらいが自慢では・・)人材層が薄かったのではないかとも言えます。
御三家では水戸と尾張が冷遇されて来た反発から野党的抵抗勢力・批判勢力の中核になっていたに過ぎず、イザ勤王の時代が来ると人材が薄かったので重きをなすことが出来なかったのです。
最後の将軍慶喜は一橋家に養子に入りましたので,形式上は紀州家の係累になりますが実家は水戸家出身です。
慶喜自身有能ではあったでしょうが、利害調整能力が低かったこと・・人望がなかったことが、大政奉還で主導権を握るつもりが逆に小御所会議でのクーデーターに連なったと見るべきでしょう。
現在連載中のアメリカの指導力低下と人材のテーマと重なりますが、慶喜は山内容堂の献策を入れて大政奉還しても自分が諸候会議で主導権を握れると思っていたのです。
彼の交渉能力は幕府の大権をバックにしていたに過ぎず、大権を返上して諸候中の有力者程度に格下げになると,モロに個人人格・交渉能力次第になってしまいました。
権力のゲタを履かない本来の政治交渉能力欠如が諸候の人望を失って行った結果があって,小御所会議でのクーデター(幕府領地返上命令決定)に繋がったと見るべきです。
俊秀と言われ利害調整能力の低い(幕閣内でも人望がなかった)慶喜が将軍職を継いだことが、徳川政権滅亡を早めたことになります。
民主党は高学歴者が多いのですが、政権を取ってみると利害調整能力欠如が致命傷になったのと同じです。
尾張と水戸の人材の薄さは地域の産業構造にあったと見るべきです。
紀伊家は直前に将軍家茂を出しましたから、まさか江戸城攻撃の官軍の総大将にはなれませんでしたが、賊軍になるのを免れて言わばうまく動乱期の危機を切り抜けました。
明治に入って紀伊家からは 陸 奥 宗 光(1844~1897のような外交巧者が出ているのは、偶然ではないでしょう。
日本では古代から(大和朝廷の始まりから,諸豪族の連合体であったというのが私の推測です)平安期も朝議は合議で行なわれて来たことを何回も書いて来ましたし、戦時を除いて安定期には・・ボトムアップ社会ですから、利害調整能力が最重視されてきました。
(戦時でも,長篠合戦直前の織田徳川連合軍で信長が主催した軍議が有名なように、政権創業期の対外能力の有無が価値観の基準になっていた軍事作戦決定のときでさえ、諸将合議で決める習わしでした)

対外能力と内政能力2(吉宗1)

8代将軍吉宗については、質素倹約と軟弱政治からの脱却・・武の再興ばかり物語的にはもてはやされますが、彼が中興の祖となれたのは、国内屈指の複雑な政治状況にあった紀伊半島の大半を施政下において来た初代頼宣以来三代にわたる利害調整能力の高さ・統治経験が買われたと見るべきです。
江戸幕府創設後武断政治から文治政治への移行と言っても、当初は天海僧正のような宗教・哲学者の意見に頼っていましたが,・・・・これでは具体的政策決定に役立たないので儒学を取り入れて脱宗教になって行った経緯を、03/14/08「政策責任者の資格9(宗教の役割2)」等で以前書きました。
綱吉や家宣までは、林大学頭や荻生徂徠、論争の鬼と言われた新井白石(正徳の治)が重きをなしていたことがその象徴です。
金の含有量を減らして発行していたのを改めた貨幣改鋳問題はその最たるものですが,今で言えば量的緩和は紙幣濫発→紙幣価値低下になる・・政府の信任にかかわるので許されないという道徳論・伝統的経済学者の意見によったのが、新井白石となります。
しかし学者の意見では理論が一貫するものの、複雑な利害調整・・政治判断までは、出来ません。
学者間の自由な論争は必要ですが、経済に対して専門的識見のない儒教学者の道徳的意見が政治決定に採用される仕組みは問題です。
赤穂浪士の義挙に対する裁断に荻生徂徠の意見が通ったと書いたことがありますが,裁断するのは綱吉であるとしても、学者の意見がモロに採否の対象になること自体問題があると言う意見で書いています。
まして、儒学は経済・・商取引に関するルールではない・・農業社会ムキ道徳ルールですから,商取引が発達した江戸時代中期以降社会ルールの参考にはならなくなったことを、04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」で書いたことがあります。
上記コラムで書いたとおり、日本は最早中国から学問を輸入しても商品交換経済に入った日本にとって有用な知識をえられなくなった・・もっと進んだ社会に入って行ったのが、吉宗以降の社会状況です。
失われた20年と言われますが、そのころから日本は欧米先進国の未経験の領域に先に入って行ったので、何かテーマがあると直ぐに「欧米では・・・」と訳知り顔で講釈する学者の意見が役に立たなくなったのと似ています。
法と政治の分離・・(裁判はプロに任せるとして・・)経済学と政治との分離・・(金融政策はある程度経済のプロに任せるとして・・財政政策までは任せない)等等の必要が高まったのが吉宗以降の社会でした。
吉宗以降学者の出番が減ったことを見ても、(現在政治では、経済学者や政治学者の意見を参考にする程度の関係になって行きます)政治が具体的利害調整に移って行ったことが分ります。
「東大教授やノーベル賞学者の言うとおり政治をしていればいい」(自動運転で足りれば政治家が要りません)と今では誰も思わないでしょうが、このような時代が吉宗から始まっているのです。
紀ノ川沿いの歴史地図を子供の頃に見た記憶がありますが,紀州随一の穀倉地帯にも拘らず根来寺領や高野山領などが入り乱れているのに驚いた記憶があります。
根来衆と言えば歴史に残る大ゲリラ集団ですし,外に有名な雑賀衆も和歌山城の直ぐ近くに控えている関係です。
高野山は言うまでもなく大名と言うより武門とは別格で、それぞれややこしい関係のママ幕末まで来ました。
熊野や勝浦方面はこれまた有名な九鬼水軍の根拠地でしたし、(九鬼氏は遠くへ追い払われましたが・一族郷党関係はそのまま残っています)熊野詣で有名な那智大社関係も大名家にとってはややこしい関係です。
外に本居宣長の出た伊勢の国もその領地ですが,ココはまた蒲生氏郷の築城した松坂城をそのまま受け継いでいて,名古屋から行くと松坂の先(紀州寄りに)に伊勢神宮があるので,別格の伊勢神宮も抱え込んだ関係になります。
言わば紀州徳川家は、群雄割拠の精神状態のままその上位機関(伊勢神宮や高野山に対しては上位とは言えないでしょう)として落下傘部隊のように舞い降りた大名家でした。
55万石にしては地図上の領土が広いのは、平野部が少ないことと内部が虫食い状態だったことによるのでしょう。
吉宗が将軍位を獲得出来たのは,初代徳川頼宣以降このややこしい政治を見事にこなして来た実績・・内政調整能力にたけていた点が重視されたものと見るべきです。

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