アメリカ国籍を持っているのに、日系人と言うだけで強制収容したり、クリントン政権の対日100%もの極端な差別課税を課すための行政命令?・・今回のアラブ7ヵ国人だけ標的の入国禁止令・・メキシコ国境に壁を作るなどの共通性をみると人種差別や対外行為・要は国内少数派相手ならば、法に基づかずに何でも出来るような大統領令制度が有効なクニって?近代法治国家と言えるかの疑問でこのシリーズを書いています。
フィリッピン大統領の犯人射殺命令に対しても、(これがフィリッピン社会に適合しているかどうかの判断は別として反対者さえ少なければ良いのかの基準ここでは書いています)犯罪集団が反対デモ出来ませんし、その支持者も少ないでしょう。
反対さえ少なければ正義に反するかどうか無視して何をしても良いので社会が成り立つかの疑問です。
正義の基準と言うと何が正義か不明・・「アラブ人を収容所に入れることがテロを防ぐために正義」だと言う多数決が仮にあるとした場合、誰が正義を決めるのだと言う意見が出て来そうです。
喩えば、誰も疑わない正義→1+1=2が正しいときに、多数決で1+1=4にしたり、3+3を2にしたり出来るクニ・社会が成り立つのでしょうか?
1ヶ月すると大統領の考えが変わって大統領令で1+1=6にしたり、3+3を5に変えたりする社会って持続可能でしょうか?
数学的合理的基準・・合理性無視の政治は出来ないとしても、「天賦不可譲の人権」思想を数学的正しさの必要性と同一視出来ないことも確かです。
何が人権でどう言う場合にどこまでの制約が許されるかの基準・正義は、民族ごとの歴史的経験・・積み重ねによるしかないと思われます。
この種の正義は共同体の長い期間を経た共通意識によるとすれば、共同体の理想型は価値観共有社会と言うべきです。
同じく国際正義も長年かけて合意形成されて来たものを当面の「正義」として尊重するしか秩序が保てません。
日本の場合で言えば、漸進的変化・・既存価値を認めた上で、(古いお祭りや、様式美がそのまま残って行く)新たな価値を積み上げて行くので社会が何千年も安定的に推移して来ました。
これが大災害時にも略奪に走らずじっと救援を待つ・・相互信頼社会が構築されている基礎構造です。
長年かけて形成された民族合意・国内秩序や国際合意・国際秩序が気にいらないからとイキナリ、否定・ちゃぶ台返しの主張は、国内的には民族共同体意識の否定・・国際的には既存国際秩序の否定を企図することになります。
既存秩序破壊を訴えるのは、漸進主義主張より激しい分(家の修理をしますと言うより、ビルを建て替えると言う方が夢があります)人目を引きつけますが、トランプ氏の主張は現秩序を破壊したあと何をするのかがもう1つはっきりしないことが問題です。
反政府運動や国際秩序挑戦者としてならば、(赤ちゃんは泣くだけで良い・・自分で解決策を示す必要がありません)不満をぶっつけるばかりでも意味がありますが、権力者である大統領になっても既存秩序破壊を主張し続けるだけでその先の展望を示さないのでは、自己のよって立つ共同体統合をぶちこわす自己矛盾行為となるリスクがあります。
トランプ氏の場合アメリカンファーストと言うだけで(政治家たるもの国益第1は当然で全く新味がない)国内外に対して移民排斥論以外に新しい方向性・・正義を示せていません。
移民排斥論も・・「家に閉じこもりましょう」と言う次元で、その後の国家運営の提案がありません。
移民排斥や二国間主義=管理貿易逆戻り政策は、その先にどのような国際秩序を構想しているのかがまるで見えていません。
何と書く「強い者が何をしても勝手」と言うルール不要の野獣の世界に戻るような印象を受けます。
もっとも政治はすぐに分らなくていいのですが・・新たな価値観の提示が出来ないままで既存秩序をぶっ壊すだけで終わると(鎖国も1つの政策ですが・・これが国益になることをきちんと説明出来ないと)、単なるストレス解消・・民衆騒動・・(赤ちゃんが泣きわめくだけのような)暴動を政治家が煽動しているだけになります。
高校生が不満だからと、校舎のガラスを割って歩いたり、授業が荒れて授業にならない→教育政策の見直し、赤ちゃんが泣く場合、ミルクやおむつの取り替えあるいは、どこか具合が悪いのかなど気が付く効果・・対策の必要性を訴える効果がありますが、為政者・権力者は自ら政策を立案する立場であり世間に訴える立場ではありません。
過去に積み重ねて来た正義感・生き方が間違っていると主張する場合、間違っている・・納得出来ないと騒ぐだけなら民衆暴動や子供が泣き叫ぶのと区別がつかない・・どうするかを提案すべきがリーダーの責任です。
移民を多く入れると経験して来た歴史の違う集団同士になるのですから、価値の分裂が起きるのを防げない・・来たばかりでものの考え方習慣の違う人と同胞意識がある訳がありません。
トランプ氏は、移民を制限することによって、共同体意識を時間をかけて築いて行く長期展望を考えているのかも知れません。
隣近所の人とは挨拶程度で良いのですが、他人と同居するとなれば、余程気が合わない限りイヤだと思うのが普通です。
これを無視して「寛容の精神で受入れましょう」と移民導入を煽って来たのが、いわゆるPCの流布強制であり欧米社会でした。
外国人が観光や商用で短期間だけ来る程度では許容範囲ですが、毎日一緒に暮らすとなれば、許容範囲を超えていると思う人が普通ではないでしょうか?
異民族と一緒でも良いと覚悟を定めて移民して来た外国人自身が、一定数以上になって来ると◯◯人町など集団で居住するようになるのが普通であることを見れば、移民自体が気の合う仲間・・気持ちの通じる仲間を求めていることが分ります。
これが普通の人情であり、「異民族と仲良く暮らしましょう」と言うのは、やせ我慢・・無理があります。
よその人は他所の人のままで、一定の距離を置いてあっさりとつきあうのが大人の智恵です。
敢えてべたべたと同居する必要はありません。
民族的言えば、外国人が入って来ても一定期間限定の訪問者程度に限定しようとするのは1つの許された主張だと思います。
労働力獲得目的に異民族を多く入れることによる共同体意識拡散〜対立のマイナス(これは低賃金労働者導入だけの問題ではなく知的労働者の方が出身民族の価値観を身につけていることが多いために逆にリスクが高くなります)に気が付かないで来たのが欧米です。
あるいは気が付いていても金儲けの方を優先して敢えて無視して(特に民族差別を厳しく批判する)PCを事実上流布させて言論統制して来たトガメが出て来たとも言えます。
移民導入論者によって多様な人材が入れば多様な発想が可能になるメリットがしょっちゅう・・ダイバーシテイーなどと宣伝されますが、古くは遣唐使、南宋の朱子学や水墨画、禅宗、火縄銃、幕末欧米文化流入、明治維新でのお雇い外国人等々の歴史を見ても、鉄砲職人集団や学者集団や僧侶集団、画家音楽家などが大量に移民してくる必要がなかったことが明らかです。
日本の精神界に大きな影響を与えた仏教伝来でさえ、古くは来日したのは鑑真和上程度ですし、大量に人材導入した明治維新時の御雇外国人でも、各分野ごとにせいぜい1〜2名で、しかもあっという間に御引き取り願ったことが知られています。
全人口比で言えば10万人に1人2人程度の流入により違った角度からの意見を求め刺激を受けるのはわさびのように重要ですが、各分野で何万人・・合計人口の5%〜1割も入って来る必要がありません。
一定量以上になると自衛のために出身別に集団を作り固まる傾向(今は地域的に固まって住まなくとも通信手段の発達で別の形)があるので、却っていつまでも地元民と融合出来なくなるリスクが高まります。
アメリカも旧ユーゴスラビアのようなモザイク国家になりかけているのではないでしょうか?
これを抑制するために移民流入を抑制すること自体は政策判断の範囲内であって合理的であり、かつ主権行為ですし、これが何故憲法違反になるのかは(大統領令自体見ていないこととアメリカの憲法条文を知らないので)不明です。