寄留簿1と本籍3

戸籍制度が始まった当初における人の居場所による特定は、安定した住所の場合にはそこで戸籍を作り、(先祖まで辿って行くとどこまで辿るのかの議論になってしまうので現住所で作成したことを、February 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のブログで書きましたし、22日のブログで紹介した本でも、戸籍簿は住所登録台帳であった趣旨が書かれています。)戸籍を作るに足るほど住関係が安定していない場合には寄留簿として登録する二本立て制度として始まったものと思われます。
この頃には、まだ法制度自体がなく西洋法で議論されていた「住所」と言う概念を論じる必要もなかったし、まだ知らなかったからでしょう。
23日に書きましたが西洋では国際管轄の基準として住所が古くから論じられて来たのですが、我が国ではそんな必要はありませんでした。
後に紹介しますが、寄留に関する太政官布告が壬申戸籍の布告の直後・・同年に出ています。
2本立ての場合、寄留地(仮住まい)は本来の住所ではないので、親の戸籍のある場所・本来の籍のある場所(あるいは帰省地)の記載が当初から寄留簿に決められていた可能性があります。
人別帳を発展させた戸籍簿にはそこがまさに自分が登録した、周囲が認めた場所ですから、そこ以外に本来の籍を書く余地がなかった(22日に「戸籍基本先例解説」の本を引用したように明治31年から本籍記載が始まった)のに対して、寄留簿が出来た最初から寄留簿には親元の戸籍のある場所が、本来の籍=住所のあるところ=本籍として、書かれていたと見るのが合理的です。
江戸時代末までは都会に追い出された子供は結婚しないで死んで行くのが普通でしたし、だからこそ人別帳から除籍しておいても行った先で子孫が増える訳ではなく、大きな間違いではなかったのです。
(行った先で棟梁になったり俳諧の宗匠・剣道場の主になるなどして成功していれば、そこで所帯を構えるのでそこで人別登録の対象にされます)
仮に妻帯出来て一家を構えられるほど成功して根を張っていれば、明治の初めにそこで戸籍が編成された筈です・・そこまで行かないで除籍されっぱなしでフラフラしている単身の息子が故郷の親の戸籍に入ったのですから、最初は出て行った子を戸籍に残すようになっても大したことがなかったのです。
(今の核家族とほぼ同じで・・子供が成人して出て行ってもまだ不安定な場合、住民票を親元に残したままの人が多いのと同じです。)
元々江戸時代まで経験では子孫が際限なく増えて行くことを想定していなかったので、戸籍制度を始めた時に出て行った子まで記載していると、子々孫々まで増えて行った場合にどの段階で分離するかの自動分離システムが制度内に用意されていなかったことが、戸籍制度を機能不全になってしまったと言えます。
明治になってから近代産業が興り正業に就ける人が増えて来て、そのほとんどが妻帯してあるいは女性は結婚出来て、その子までもうけるようになって来ると弟らの嫁や子供まで戸籍に書き込むようになって来るので、(明治も20年前後になってくると)親が死亡して長男の世代になると甥姪まで戸籍に残ってしまうので戸籍簿の規模が大きくなる一方となります。
本来は、子世代が結婚までして更にその子の世代まで擁するようになれば、そこでの生活が安定している・寄留とは言えないと見るべきですから、実態に合わせるならば本来はその時点で子世代戸籍の分離・・新戸籍編成をして行くシステムに改正すべきだったでしょう。(戦後一般化された3代戸籍の禁)
戸籍制度を始めて見ると構成員が増える一方になったのですから、どういう場合に分離するかの戸籍制度の改正・検討が必要となって行ったのですが、ちょうど住民移動が激しくなって来たのと軌を一にして、伝統的価値観・集落共同体意識崩壊が進んで来たので、これに対する守旧派の危機感が強まって行きます。
これが「民法出でて忠孝滅ぶ」の大論争に発展し、旧民法施行延期のエネルギーに発展するのです。
反動として大きな家の制度を強調する運動が強まって来た状態下で、それに油を注ぐような3世以降分離するための改正が出来なくなってしまったのではないでしょうか?
その結果、戸籍簿を際限なく膨らませて行き重たくなった転籍行為に変えて寄留簿の方を膨張させて行く・・本来の住所変更まで寄留として受け付けて行ったので、本来・国民の住所把握を目的としていた戸籍機能が寄留簿に取ってく代わられてしまったのです。
寄留者用にできた本来の住所・籍のある場所=本籍・・親のいる場所の意味から、住所の安定している戸籍筆頭者がその後移動したことによって元々戸籍のあった場所・・本(もと)の籍=「本籍」と言う観念的な場所が必要となって行ったと考えられます。
(この場合、本籍には誰もいないことが想定されるので、観念的な場所になります。)
本籍と言うと何か有り難い本物のあるところのイメージですが、実は本物というより元「もと」を現すのに「本(もと)」と言う漢字を流用していたに過ぎません。
今でも神戸には元町が存在しますが、殆どの都市では元町と書かずに本町と書いていますが、(千葉にも本町とか本千葉がありますが、嘘の町などあるべくもありません)元々からの町というよりは、本町と言った方が何となく有り難く格式が上がるような気がするのでこれが流行しているに過ぎません。
「本」と言う字は苗字で見れば分るようにほとんどが「もと」と読むのですから、(橋本、宮本、坂本、松本、榎本あるいは旗本などなど・・枚挙にいとまがありません)ホンとして多く(昔からないと言うのではなくあったとしても例外的で)使うようになったのは最近のことだと分ります。
昔からの用例は本当の旗とか、本当の宮だと言う意味ではなくその根本(もと)と言う意味であったことは、その熟語から明らかです。
話を戻しますと、本籍概念は元々寄留地から見れば本来の戸籍のある場所と言う意味から始まった外に、戸籍がカラになってくるに従い元・本(もと)の登録地=本籍地と言う記載が一般化して行ったものと私は推測しています。
この結果、今では本籍と言うと意味のない・・実用性がないものであることから却って何か意味不明な有り難いもの・・先祖のルーツでもあるかと漠然と思っている方が多くなったと思いますが、最高に遡っても明治初年に先祖が住んでいたことが分るだけのことで、それ以上のことは分りません。

戸籍と住所の分離3

 明治4年の2つの太政官布告で戸籍簿と寄留簿の二本立てで始まった国民管理制度の内、時代の流れに合致していた寄留簿の方が発達して肥大化して行き、戸籍簿の方は逆説的ですが肥大化し過ぎた結果空洞化が進み、その結果が明治31年式戸籍だったことになります。
前回紹介した本では「社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなった・・」と書かれていますが、私が21日まで推測を逞しくして書いて来たように、律令制下で農地配給のために生まれた戸籍制度は国民の頻繁な移動に適応出来ない制度であったのに、明治維新以降近代化が進み住所移動が激しくなったことから、制度に内包する無理が生じて来たからです。
農民が数年あるいは五年に一回移住していたのでは耕地の前提たる土造りも出来ないので農民にとっては定住が原則です。
しょっ中移動していたのでは食べて行けないので移動する人は農民以外の商人等稀な事例(商人も安定して店を構えないと信用されない社会)になりますが、近代化進行=経済活動の活発化・農業から商工業社会への変化ですから、人の移動が激しくなる一方・・未だに地方から大都会への移動が現在進行中です。
戸籍の空洞化が何時頃から進み始めて何時完成したかですが、大正3年成立の寄留法では既に住所寄留と言う区分が出来ていることから見れば、そのずっと前からこうした運用に変わっていたことになります。
前回紹介した本の意見によれば、明治31年式戸籍法(明治31年民法施行による家の制度にあわせて改正されたものです)では、住所記載がそぎ落とされて身分登録だけに純化していますので、この時点までに、戸籍と住所が切り離されている運用・・寄留届けが一般化し・寄留簿が事実上住民登録簿に変わっていたことが分ります。
ではそのどのくらい前から戸籍が(現住所を現さなくなって)空洞化していたかと言う疑問ですが、前回紹介した本では明治19年式戸籍では、まだ戸籍には住所を記載していて、本籍記載欄がなかったのですから、大分普及していたとしてもまだまだ戸籍制度に反映するまでは行ってなかったのでしょう。
明治20年代には普通になっていたとすれば、いわゆる旧民法成立(明治23年)の前後ではどうだったでしょう?
旧民法は、保守反動層の猛反対で施行されないうちに、明治25年に施行延期決議が議決されて明治29年に新たな(現行)民法が成立してしまうのですが、この時に新たになったのは主として親族相続編でした。
19日にも少し書きましたが「住所」は、フランス法やドイツ、スイス法などの学説を参照して作ったものであって、我が国の保守革新の抗争・・醇風美俗論争とは関係がありませんでした。
ただし隣国との往来の盛んな欧州諸国では、住所概念は対外的な裁判管轄を決める・・主に国際私法上必要な概念であって、民法と言う基本法に書くものではなかったようですから、我が国だけが突如民法の、しかも総則に書いたのは戸籍関係で、特に住所の意味が重要になっていた事情があったからかもしれません。
後にも書きますが、民法の実質主義によりながらも選挙権では選挙法で、税は税法でそれぞれの住所概念が必要・・民法で一律に決めるのではなく、と言うのが現在の通説のようです。
最近では武富士創業者の息子の住所が香港にあったのか日本にあるのかに関する最高裁の判断によって、2000億円前後の税還付が決まったことが報道されています。
民法の総則で住所一般の原則を書いたのは、古代から定住民族の我が国では人の定義として住所による特定の意義が重視されていて、これに基づき戸籍を整備したものの、戸籍の記載場所と本当に住んでいる場所とが乖離し始めたので住所=本籍とする形式理解ではすまなくなりました。
そこで「住所とは何か」を決める必要性の意識が高まっていたので、民法に定義規定が置かれたと思われます。
壬申戸籍では戸籍と寄留しかなく住所概念がなかったのですが、戸籍をそのままにした移住が多くなると住所とは何かが問題になって来るのが必然で、戸籍記載場所と(本来の)住所・寄留(居所)の3カ所の概念が出来て来たのです。

転籍と寄留届け

ところで、どうせ寄留届けを出す必要があるなら引っ越した人にとっては本籍異動届でも良いようなものですが、本籍異動届では、(人別帳とは違い戸籍簿には)同居していない一族全部が記載されているようになったので、構成員全員の書き換えになるので手続きが面倒だったこともあるでしょう。
届ける方は簡単でも届けられた村役人の方が、その都度僅か10〜20番地違いの場所で新たに戸籍簿を造り直さねばならない・・外に出ている人の再確認などの必要性・・役人の方が面倒がっていたのかもしれません。
(今のようにまとめてコピー・ペースト出来る時代ではなく、すべて毛筆書きの手作業ですから大変です)
何十年に一回しかない農家の家の建て替えと違い、都市住民の場合、経済活動が活発化してくるに従って移動が頻繁となりますから、現に一緒にいる家族の居場所変更だけで良い寄留届出で済ます例がもっと多かったと思われます。
農家の建て替えのような同じ村内移動の場合、みんな知り合いなので「あなたのところの次男・弟さんはその後どうしてますか?」など・・質問も簡単ですが、都市住民の場合別の生活圏への移動が多くなります。
東京から大阪神奈川県(逆に地方から上京する場合が多かったでしょう)など遠くへ移動する場合、受け入れる役人の方では、同居している家族だけではなくその他の家族構成まではまるで知る手がかりがないので、新戸籍編成作業は困難を極めた筈です。
転籍すると従前戸籍の承継ではなく、転籍先の役場での「新戸籍編成」になるのは現在でも同じです。
(機会があればご自分の戸籍謄本を見て下さい・・婚姻あるいは転籍と同時に新戸籍編成と書いてあって、その当時に存在する戸籍内の人全部を記載して始まり、その後増減した家族の記載をして行くする仕組みです)
従前地の戸籍謄本を持って来させれば簡明で良いようなものですが、今のようにコピー機がないので、従前地の役人に(当時は毛筆です)一々全部書き写して貰って持ってくるとすれば大変な作業になります。
現在の戸籍謄本は家族構成も少なくて簡単ですが、前戸主から傍系の嫁や子供まで書いている戸籍謄本は何ページにもなる大部なものです。
私は職務の必要性から、いわゆる改正前原(ハラ)戸籍謄本(戦前までの家族法に基づく戸籍謄本)を職務上しょっ中取り寄せていますが、これらには、前戸主から戸主夫婦及びその子とその嫁や孫、弟らの嫁、その子・甥・孫の代までみんな入っている戸籍ですから(ご存知のとおり除籍された・・死亡や嫁や婿に行った人もその該当箇所に×上書きして戸籍記載にはそのまま残っています)何ページにもなっている大部のものです。
今はコピーで出てくるので5ページでも6ページでもそれほどの手間ではないですが、これを全部間違いなく手作業・それも毛筆で写すとなれば、大変な作業になります。
戸籍謄本交付制度が何時から始まったか知りませんが、(もしかしてコピー機以前のいわゆる(PCBをつかった)青焼きが発達してからのことだったかもしれません)かなり大変な作業であったことは間違いがないでしょう。
古くは平家納経、現在でも写経と言えば大変な作業ですが、何ページもある戸籍簿を正確に写し取ることはよほどの事態でもない限り出来ないので、誰でも気楽に申請さえれば(今では何百円ですがそんな安いお金で)発行するようになったのは、戦後大分経って機械化が進んでからのことかもしれません。
手作業・毛筆の時代には全部の写しは大変すぎるので、一部の記載証明で済ましていた時代が長かったと思われます。
(いわゆるお寺の過去帳を研究者が資料として見せてもらうことはあっても、お寺で書き写してまで貰えることは・・かなりのお礼をしない限り・・殆どなかった筈ですから、自分でメモして帰るしかなかった筈です・・今ではコピー機持参?)
現在の住民登録制度では、転出証明を持参して転入届けする扱いですが・・・明治の昔では持って来た文書の正確性の担保もない・・今のように電話で確認・問い合わせることすら出来ない時代です。
届出人自身からしても、自分の子の生年月日や婚姻日くらいは知っているでしょうが、(これも結婚式の日と届け出日はずれていることが普通ですので意外に分らないものです)甥姪の生年月日や名前や弟の婚姻日、嫁の名前やどのような漢字を書くかなどその他詳細を正確に知っている人は稀です。
仮に文書の真正の有無を確認するとすれば、受け入れた役所で持って来た文書をそのまま(当時は毛筆しかない時代です)毛筆でそっくり写して転入者の前住所の戸籍役場に郵送して正確かどうかの返事をもらうような手続きが必要になります。
これを繰り返すくらいならば、転入者が予め写しを持って来ても無駄ですから、受け入れ役所の方で、転出して来た前住所の役所へ連絡して写しを送ってもらう形式になって行ったのでしょうが、いずれにせよ元の役所の方では大変な手間になりますし、受け入れる方も送って来た文書を元にもう一度転入者を呼び出して現状の事実・・・・・送って来た戸籍簿の写しに記載している外の事情・・甥姪などその後の結婚や死亡者がいないか嫁や婿に行ったものや生まれた子供がいないかなど・を確認する必要があるので双方の役所で膨大な手間がかかります。

本籍2(寄留の対2)

 

壬申戸籍と言っても、壬申の年から内容が変更されなかったのではなく、前回書いたように書き方や書く事項や枠組みを後日造るなど少しづつ改正されて来たので、何時から本籍表示をするようになったのかは定かではありません。
元々本籍概念は、後に書くように寄留簿から発達したものと言えますので、戸籍制度が出来た当初からある筈がないのです。
仮に壬申戸籍の写しが手に入ってもそれが何時作成したものかによって書式が少しずつ違うものですし、しかも地域によって中央の通達通り出来るようになるのは10年単位の差があります。
後に昭和22年の新戸籍法による改正の期間を紹介しますが、大家族単位から核家族単位の戸籍に作り替えて行くのに昭和40年代初頭までかかっているのが現状です。
ですからある壬申戸籍の写しが入手出来たからと言って、どの地域で何時発行のものかによる誤差があるので、中央からの指令が何時あったかを特定するのは困難です。
現在の戸籍ですと昭和何年法第何号・あるいは政令何号による昭和何年何月何日新戸籍編成と書いてあるので、これは何年前の法に基づいて何時書き換えたのかが分ります。
細かい改正の経過を辿れば何時から「本籍」記載事項が追加されたのかが分るでしょうが、大きな法の改正ではなく今で言えば書式変更の通達みたいな下位の文書ですので、これを入手する・・・調査能力が私には今のところありません。
事務所の事件に関係あれば本格的に調べますが、繰り返し書いているように、このブログは余技ですので、そこまで専門的に調べる手間ヒマかけられません。
そこで以下は私の推論にかかることになります。
戸籍編成時に記載した本拠地=住所でも、その後移動する人も出てきますが、当初の戸籍作成後移動した時に戸籍記載場所の変更届出・・・戸籍変更は届け出で足りるとしても、引っ越しの都度変更届を出すのが面倒なので放置する人が出てきます。
こういう人のために同じ村内でも本籍地と違うところに住所を定めると、後の大正4年施行の寄留法では住所寄留と言う登録方法が出来ています。
(このとき創設したと言うことではなく、既に法がそこまで出来るような実態が進んでいたと言うことでしょう)
農家など田舎の場合、自宅を建て替えるときに、家を壊して同じところに建てるには建築中の住まいに困るので、すぐ近くの別の土地に新築する事が多かったのですが、この場合、大正3年成立施行4年の寄留法では本籍移動しない限り住所寄留として届けなければならなかったのです。
寄留と言う意味からすれば、仮住まいのことですから、安定した生活の本拠地を意味する住所に寄留を合体させた「住所寄留」の届出強制自体論理矛盾です。
明治31年施行の民法自体に住所とは生活の本拠を言うと記載されていたかどうかが分りませんが、今手元にある昭和8年版の民法条文によれば現行法同様に、21条に「各人ノ生活ノ本據ヲ以テ其住所トス」)とあって、少なくとも戦前から現行法と同じであったことが明らかです。
なお、2002年版六法の条文(4〜5年前の口語体への変更前です)も手元にある(自宅においてある)のですが、これをみると同じく21条で、文言もそっくりで違いがあるのは「本據」の據が当用漢字「拠」に変わっているだけです。
住所と言う基本概念が20年や30年でこまめに変わる必要がないので、明治29年の民法制定・・施行は31年当時から同じ定義があったと見るべきでしょう。
(上記壬申戸籍の記載条項の変遷をこまめに追跡出来ないのと同様に、この条文が明治31年施行当時から一度も変更されていないかまでは上記のとおりの推測の域を出ません。)
仮に変更がなかったとすれば、大正4年施行の寄留法の住所寄留と言う区分は、基本法たる民法の定義と矛盾することになりますが、民法制定後約20年も経過していますので既に家の制度・・本籍概念・重視が一人歩きし始めていて、このために無理を重ねたのではないでしょうか。

本籍1(寄留の対1)

最初の戸籍には本籍を書くところがなかったように見える・・壬申戸籍はエタ等の身分差別事項が書かれていたので今では極秘扱いのために現物又はその写しが見られないのですが、元々本籍と言う用語は本当と嘘・仮住まいの両立があってこそ必要になる単語です。
この後に寄留と言う登録方法を紹介して行きますが、これの発達が寄留地と言う臨時の場所の登録から必然的に、親元・本来の戸籍がどこにある・・・本籍と言う用語を生み出して行ったものであって、寄留者にとっては戸籍のある場所が今で言う本籍ですから、戸籍制度の当初から、戸籍簿自体に本籍を別に書く欄があった筈がないのです。
戸籍簿がこれも後に書きますが地番別に編成されるようになってくると、戸籍簿の記載場所が寄留地から見れば本籍地と言われるようになったものであって、これが戸籍簿自体に本籍と書くようになるのは、住所と本籍が一致しなくなるようになってからでしょう。
宗門人別帳時代では親元からいなくなったものは除籍するか残しておくかしかなくて、行き先の仮住まいの登録方法がなかったのですから、本当の籍と言う言葉が生まれる余地がなかった筈です。
実家と言うのは実際に住んでいない家・・実態に反しているから逆に強調(嘘やイカサマほど大きな声で主張するものです)して「実家」と言う言葉が生まれたとFebruary 8, 2011「江戸時代までの扶養1」で書いた事がありますが、本籍と言う単語が必要になったのは本籍以外の登録方法が一般化してからと見るのが妥当です。
出向してない社員には「本籍はどこそこです」と言う自己紹介がいらないのと同じです。
江戸時代の宗門人別帳は1年に一度チェックして行くものでしたが、村と言っても当時の村には十数戸あるかないかでしたから、毎年別の人別帳に記載し直しても大した手間ではなかったでしょう。
この方法の方ですと、ある年にある事項を誤記あるいは脱漏していても前後の年の人別帳を見ればどちらが正しいかがすぐ分る便利さもあります。
10〜20年以上の保管義務を定めておけば、たいていの移動が分るでしょうし、10数戸しかない村落の記録としてみれほど嵩張るものでもありません。
仮に20戸あっても今の大学ノートで言えば、一冊に収まる程度ですし20年分でも20冊保管するだけのことです。
このように過去の分が保管されている事・・これを繰って行って初めて系統だった流れが分ることから、宗門人別帳の事を一般に過去帳と言われるようになったとすれば合理的です。
(仮に20年分比較して見るとすればその内19年分は過去の帳です)
しかし現在の過去帳と言うのは、そうではなく満中陰・49日が過ぎたらお寺さんがその人の生前の行いなど書いて記録していると言うのですが、これはもしかしたら明治4年の太政官布告によって宗門改めの権限喪失後に考えだしたお寺の仕事かもしれません。
死亡後に僧侶が遺族から聞いて、その人の事績を記録しても、それでは正確ではないから歴史研究資料には(ないよりマシですが・・・)使えません。
江戸時代の過去帳の資料価値が高いのは、生きているときから村方が記録していた客観性の高い宗門人別帳の過去版だからでしょう。
これが、庚午戸籍から(実際はその前身の京都府の仕法・その前身の長州藩仕法にその始まりがあるようです)変更分を上に貼付して行く仕組みが考案された事から一旦造った戸籍の記録を何十年も使って行けるようになりました。
このように記録形態の変化見ると「帳」から「簿」になり「籍」と変わって行った漢字の変化が分ります。
簿も籍も重なって行くサマを現した漢字です。
ついでに、色々書きますが戸籍簿への年齢表記も戸籍作成時の年齢を書くものであって、生年月日形式になったのは明治9年からです。
毎年あらたな帳簿作成方式の場合、何年何月調整とその人別帳表紙等に書いてあれば、それで記載されている人の年齢から生年が計算して分るので、それで足りたのです。
私が事件の聞き取りをしている時に「それは何年頃の事ですか?」を聞くと平成何年かを答えられないのに、今から5年くらい前とか3年前や半年前など言う特定をする人が殆どです。
私の方はそれではメモが出来ないのでその都度「じゃあ平成何年の事で良いですか?」と確認して漸くメモして、次の出来事を聞いていると「それは4年半ほど前」などと言うので、また年号で聞き直しの繰り返しです。
「焦れったいな初めっから年号で言ってくれないかな」と思うのですが、私自身もこの家に住むようになって何年経つなあとか、あれは今から8年前のことだったかなどと過去を想起していることが殆どです。
我が国では12/31/03「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)」のコラムで紹介しましたが、過去のある時点を何年何月何日と言うよりは「今から何日前」と言う表現に太古〜明治9年まではそういう特定の仕方をして来た歴史があるからです。
あえて言えば、西暦であれ平成であれ、腕時計の時間であれ、これら暦は人類の歴史が始まってから技巧的に造られたものであって、まだ2〜3000年しかたっていないのですが、動物的腹時計・・・どのくらい経過したかに関する体内時計の方は万年単位の歴史を有していて未だに健在だからはないでしょうか?

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