証拠法則と科学技術8(共謀罪の客観化)

客観証拠の重要性について書いている内に話題がそれましたが、共謀罪に戻ります。
内心の意思は外形行為が伴わない限り誰も分らない・・今の科学技術を持ってしても分らない点は同じですから、共謀罪においても内心の意思を処罰するのではなく、内心の意思が外部に出たときで、しかも第三者と共謀したときだけを犯罪化するものです。
即ち自分の意思を外部表示するだけではなく、さらに「共謀」と言う2者以上の人の間での意思の発露・・・条約文言で言えば「相談する」→「表示行為」を求めることにしています。
共謀するには内心の意思だけではなく、必ず外部に現れた意思「表示行為」が必須です。
共謀罪は、共謀と言う単語から内心の意思を処罰するかのような印象を受けますが、表示行為を実行行為としたのですから、内心の意思プラス外形行為を成立要件とする近代刑法の仕組み・・証拠法則は残されています。
共謀の実行行為が要請されている点では近代法の原理の枠内ですが、殺人や強盗の実行行為ではなく準備段階を越えて更にその前段階の共謀と言う意思表示・内心の意思に最近接している行為を実行行為にしている点が人権重視派の危険感を呼んでいるのでしょう。
近代法成立の頃には録音装置もメールもなく、防犯写真もないので、意思表示したか、しないかについて客観証拠がなく、関係者の証言だけですから(呪いの札が出たとか・・)これを根拠に刑事処罰するのは危険でした。
噓でも「恐れながら・・」と誰かが訴え出るとそれを証拠に陰謀(謀反)罪で政敵を処罰出来たのが古代からの歴史経験です。
そこで近代法では、実行行為に着手することが犯罪構成要件になったことを紹介してきましたが、ある行為の直前直後の周辺的行動記録がアバウトな時代には、意思を認定するべき前後の客観証拠が決定的に不足していました。
犯罪者は、暗闇とか人気のないところで犯行に及ぶことが多いのは、犯行直前直後の周辺行動を知られたくないと言う合理的行動ですが、このことから分るように密行性が犯罪の特徴です・・。
共謀罪は、「共謀」と言う実行行為が要求されますが、窃盗や暴力等の実行行為に比べて共謀行為には派手な立ち回りや動きがなく、従来型自然的観察では把握し難い行為です。
この意味では共謀罪は新型犯罪ですが、その分簡単には立件出来る筈がないことも書いてきましたが、仮に客観証拠のない共謀だけでの立件があれば、このときこそ弁護士が果敢に戦って行けば良いのです。
ただし今では、意思の表示行為は録音だけではなく、◯◯集会案内やメール交信その他外形的証拠を残すことが多いので、かなり証拠が客観化しています。
現在では訴訟実務が客観証拠を重視するようになって来ていることと科学技術の発展もあって、共謀を示す外形行為がないと簡単に有罪認定出来ないと思われますし、逮捕状自体が容易に出ないでしょう。
従来の外形行為・・現実に暴力を振るった場合の立証と比較すると、暗闇や人気のない場所での暴力行使や誘拐行為・・通りかかった目撃者がいても、半年〜1年〜数年経過後・・その人の瞬間的・印象的証言による人違いの危険性が高いのに比べて、メールや録音その他データによる意思表示の立証の方が、むしろ客観性が高まってえん罪の危険が少ないように思えます。
ただし、えん罪を防ぐには、昨日まで書いたように捜査機関による録音記録の改ざん(切り貼り)やメール等の事後編集の危険性チェックが重要になるように思われます。
共謀罪の証拠は目撃証言のような曖昧な記憶に頼るのではなく、録音の場合声紋鑑定その他客観証拠科学技術の勝負になって来るので、(改ざんさえなければ)却ってえん罪が減るような気がします。
その意思表現がどの程度であれば特定犯罪の共謀にあたるかの解釈の争いは残りますが、それは今後実務で集積して行くべきことです。
共謀罪は意思表示行為することが「要件」ですから、その立証には勢い客観証拠に頼らざる得なくなるでしょう。
その経験で刑事訴訟手続全体が客観証拠で勝負する原則になって行く先がけとなって、犯罪認定の合理化が期待出来ますし、無関係な人を犯人仕立ててしまうえん罪リスクが減ることは確かです。
ただし、これも証拠法則をどのように運用するか、共謀法成立にあわせてどのように改正して行くか実務家の能力次第でもあります。

証拠法則と科学技術5(自白重視5)

実際には、人は弱い者で、いろんな状況下で刑事に迎合してやってもいないことを言えば、刑が軽くなるかと思ったりして妥協してしまう傾向があります。
平成26年12月6日の日経朝刊第一面の春秋欄には、この機微を書いています。
曰く、江戸時代、辣腕の吟味与力がある日、自分の下男に言いがかりで罪をなすり付けて試してみたところ、下男は最初否認していたがその内に罪を認めてしまったのにショックを受けて、辞職し隠居したと言う話が書かれています。
(国立公文書館で開催中の「罪と罰展」で「知った」と書いていますが、何を読んだのか出典を書いていないので、どう言う公式記録にあったのか、誰かのフィクション・・解説だったのか明らかではありません。)
良く知られているところでは、痴漢疑いで逮捕されたサラリーマンが半年近く拘束されて裁判で争っていると会社に知られてクビになってしまうことから、認めれば罰金程度ですぐに出られると言われると刑事に迎合して認めてしまうリスクがあります。
多くのえん罪事件は「素直に認めれば大した結果にならないから・・」と言う刑事の誘導に負けてしまい、やってもいない自白(刑事の描くストーリーにあわせて述べる・・自白をしてしまうことが圧倒的に多いのです。
補強証拠さえあれば良いと言う近代法の証拠法則では、この種のえん罪を防げません。
歴史と同様に事実はいろんな矛盾証拠(事実)その他で成り立っていますから、論者に都合の良い事実だけ拾い出せば一応一貫した筋立てにあう証拠もそろっています。
刑事の想定するスジ建てにあう事実・証拠だけ開示し提出すれば、矛盾はなくなりますし、裁判所は「自白が一貫していて補強証拠とも合うし自白が信用出来るとなってしまいます。
問題は大阪地検の証拠改ざん事件は、矛盾・両立しない証拠があったことから、検事がデータを改ざんしたい誘惑に駆られた結果の事件です。
パソコンなどを駆使した事件の場合、自分の作った物ですから、ここにこう言う記録をしてあった筈などと覚えています・・これが検事による改ざんがバレる原因となり、検事の命取りになりました。
従来型型実務では、矛盾証拠が滅多にある訳がありません。
満員電車内での痴漢事件のように、被害者の背後にいた5〜6人が全員痴漢する可能性があって、誰もが矛盾証拠を出せない場合が殆どです。
ところが残り全員がその場を離れていて最早特定出来ない状態で、タマタマ一人だけ標的にされてアリバイや絶対出来なかった位置関係など矛盾証拠を出せと言われても偶然背が高過ぎたり・・右手不自由だったりなどの特殊事情がない限り・・中肉中背の平均的な人の場合、反論しようがないのが普通です。
こう言う場合、裁判所は補強証拠がないと言うのではなく、(被害者が「この人に違いない」と断言する程度で?)被害者があえて噓を言う必要性がないなどと言う変な論理で有罪と認めてしまうのですから怖いものです。
こう言う運用が「やっていなくとも早く認めて罰金にして貰おう」とする自白者が輩出する土壌です。
話を戻しますと、数年前に発生した大阪地検特捜部の記録改ざん事件以来、捜査手続改革に関して流行になっている取り調べ可視化問題は、証拠としての自白の重要性を前提に自白取得過程を録音録画しよう(「しゃべらないといつまでも出られないようにしてやるからな!」とかの脅しや拷問がなかった証拠のために)と言うだけです。
全面可視化は望ましい事は確かですが、何人もの刑事が交代で調べた延べ何百時間に及ぶ取り調べ過程全般を仮に録画しているとした場合、その同じ時間弁護士は録画をチェックしなければならない、1回見るだけでも取り調べに要したのと同じ時間かかります。
ビデオ録画は書物のように斜め読みのように早送りしていたのでは、ビデオが警察に都合良く編集しているのかどうかを見破ることは出来ません。
まして気になるところを巻き戻して(他の供述や帳簿等と付き合わせてみるには)何回も見直したりすれば、取り調べ時間の何倍も時間を取られます。
録画を見たり聞いたするのが、弁護業務の全てではなく、その他膨大な資料の読み込み証拠のチェックや面会に行っての打ち合わせ時間などを考えれば、天文学的時間を要することになります。

近代法理の変容3(クーリングオフ1)

11月30日に書いたとおり、近代法では自分で約束した以上・意思表示したとおりの法律効果が生じる=これを守らなくてはならない・・裁判すれば強制執行出来るのが基本原理ですが、今では意思表示に何らの瑕疵(未成年でも被後見人でもないし錯誤も強迫もない)がなくとも、特定消費者契約分野ではクーリングオフと言って、一定期間内に限って撤回出来る仕組みが出て来ました。
要は、意思表示の内容吟味を要せずして、約束事を撤回出来てしまうのです。
解約と撤回の違いは、解約は契約が成立してしまっていることについて、一定の事由があれば解約出来る権利行使ですが、撤回とは、一定の事由がなくとも一方的に「なかったことにする」魔法のような制度です。
民法が口語化したときに贈与の取り消しの条文が「撤回」に改正されたことを09/27/07「贈与6(民法273)と対価2」前後で紹介しましたが、贈与は親子などの親族間や特殊関係下で不用意に表明する・・元々非合理なものであるので、いつでも撤回出来るようにしようとする近代法意識以前の残滓だったと言えます。
今でも相談者の多く(女性に多い)が、「・・したことにする」などと言うので、(あなたは魔法使いのつもりか?)「そんなことは出来ない・・ありのまましか勝負出来ない」と説得することがありますが、「・・なかったことにしたい」「・・したことにする」と言い、何故出来ないのですか?と言う非合理的意識の強い人が多いのに日々驚かされています。
政治体制で言えば専制君主が気に入らないことがあると、一旦与えた臣下の資産や封土(命さえも)を理由もなく召し上げることが出来たことがその象徴です。
今でも「君主の無答責」と言って法=近代法の対象にならないことになっています・・・実際上スキ勝手に人を殺したりしていれば王制が保たないから誰もやりませんが・・。
このため近代民法では「人」(天皇・皇族は国「民」ではないことを以前書きました)が意思表示したら、法律の効果が出ます・・権力で強制します」と言う明文を設けて・これからこうなりますよ!」と言う教育効果が必要だったのです。
とは言っても、法律効果が問題になるのは、等価交換・・商品交換関係に参加した人から始まるものであって、親族や友人間ではまだまだウエットな思い入れ中心の社会が続いていました。
「◯◯がなかったことに出来ないか」とか「・・デモ・・。」とか言う発言が今でも女性に多いのは、他人間の交換経済関与経験が少ない・・・遅く参加したことによります。
大分前に連載しましたが、元々近代法が出来た頃にはブルジョワジーが「市民」であって、庶民は元々法的人格者としての、市民ではなかったのです。
民法とは「市民の法」の略語です。
言わば近代法以前には余程人格の立派な人以外には、人の約束は、信用と言う評価で守られるだけできっちりした法律効果の生じない(すぐになかったことにしてしまうような)当てにならないものだった名残です。
自給自足ではなく商品交換社会になって来ると、これに参加する人は貧乏人も資産家も皆、約束・契約を守らないと成り立ちませんから、法治社会化(約束は守られるべしのルール化)して行きます。
それでもなお、「家庭に法は入らない」と長らく言われてきたのは、家庭内では無茶苦茶で良いと言うよりは、家庭内では愛情に基づく行動原理が支配するので等価交換社会化が進まない・近代合理化し難い分野だったから先送りして来たに過ぎません。
家庭と言う十把一絡げではなく、家庭内でも近代合理化すべき分野では合理化(我が国では昔から、「親しき中にも礼儀あり」と言いますが、ルールは必要です)して行く必要性が出て来たのは当然です。
刑事分野でも殺人等に発展すれば法が入りますが、ちょっとした暴力行為は親権の行使として放置されていましたが、今では児童虐待やDVとしてドンドン家庭に法が入って行くようになってきました。
従来は児童保護法・・社会の悪人から児童を守る法律意識でしたが、今は親による子供虐待防止対策が重要になっています。
労働条件で言えば、私の青年時代には、基準法を守るのは大手企業だけのことで、零細企業では、そんなこと守っていたら仕事にならないといわれていましたが、今ではどこでも、きちんと守っています。
学校も家庭内類似の特別権力関係であると変な議論で人権問題を避ける議論が普通でしたが、数十年も前から「イジメ」を契機に法が学校に入って行くようになっています。
個々人で言えば、誰かが見ていてもいなくとも拾ったものは届ける・ゴミを拾うなどルール重視意識が個人の内面にまで浸透していることになります。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC