中国の西欧接近策2(定着した日本標準1)

インドネシア大統領は就任直後にそれまで着実に進んでいた日本の新幹線受注予定をいきなり外して中国に発注してしまいましたが、工事着工の見通しが立たないままと言われています。
その後始末(対日修復)に困り、今になって(25日夕刊の報道では)別のジャワ島縦断鉄道工事の日本発注を匂わせるなど、日本の御機嫌取りに苦労していますが、(信頼関係破壊の代償を理解したと思われます)国内的にも政治リスクを抱えたでしょう。
習近平の英国訪問時に架空の経済力・購買力を背景に傲慢無礼な態度に終始しても、英国は最大級の歓迎をするしかない屈辱を味わったのが昨年末であり、屈辱外交が今になって蒸し返されているのは、中国市場の魅力がないし、英国への投資が期待出来ない・・何のために非礼な習近平を大歓迎したのだ?となって来たからでしょう。
僅か数ヶ月後に中国経済が底割れに転じていると分って中国批判を始めるなんて、・・007で知られる情報大国の先を読む能力の浅さに驚くばかり・・何か裏にあったのかな?と勘ぐりたくなるのが人情でしょう。
韓国の場合既に中国にのめり込み過ぎているので、(5月19日に紹介したように韓国の対中貿易比率は25%に達していて、しかも13年には628億ドルもの黒字を稼いでいます)今後中国に邪魔扱いされると困ってしまう弱みがあって、卑屈とも言えるほど迎合せざるを得なかったと見ればパク大統領の選択は表面上合理的でした。
中国は歴史上勝者になれば何をしても良い・敗者を辱められるだけ辱めるのを得意とする文化?ですから、今回もその実践で相手が迎合して来れば、相手がいかなる屈辱も受ける程屈服しているかを世界に自慢されて恥をかかされるだけです。
軍事パレードに出席して却って恥をかかされた・・西側諸国で自分一人が臣下のように並んでいた、あのこわばった表情をみれば明らかです・・逆効果に漸く気が付いて軌道修正を始めて、年末に日韓合意に至った・・パク大統領とすれば、見事に軌道修正に成功した・・(日本なんかチョロイものと言う国内評価?)敏腕と言う評価なのでしょう。
中国の反日→西欧企業誘致策の得失に戻ります。
西欧諸国によるアジア・アフリカでの植民地支配のやり方を見ても分るように、西欧人は基本的にアジア人との差別化・・西洋人の優越性強調意識が根強く技術移転に親和性がない特徴があります。
中国は日本の代わりに韓国技術導入・おだてるまではうまく行きましたが、西欧諸国からの技術導入となると現場職人が重要ですから、トップだけ懐柔しても勝手が違う筈です。
たまに日本で普及しているドイツ製品家庭用品を見ても分るようにゴツイままで日本人向けに優しく改良するサービス意識が皆無・・日本のように顧客に親切ではありません。
長年日本に輸出する外車は左ハンドルのママでしたし、(やっと右ハンドルに変えたようですが)日本に輸出している洋服を見ても日本人の身の丈に合わせて改良しないで、そのまま輸出しています。
似たような部品導入は出来るでしょうが、現地に合わせる基本姿勢の乏しい西洋企業との協力では、中韓の発展にブレーキがかかってしまいます。
そのうえ、全体的に日本仕様になっている(韓国製品も元はと言えば日本技術)中国産業構造の中で一部部品や、機械だけドイツやフランスに頼るのは無理があります。
松下電気その他先行企業が技術をうまく騙し取られたかどうかは別として、アジア諸国には日本式技術・工場・店舗などの運営スタンダードが定着してしまっているのが強みです。
今トヨタの場合で言えば、一部特許解放してでも自社方式の世界スタンダード化競争が始まっていますが、日本人が草の根まで惜しみなく技術移転して来た成果・・無意識の善行をして来た効果が出ています。
日本人が古代から続けて来た自分だけではなく周辺のために尽くす習慣に従って個々人が誰に言われなくとも・・世界中で習慣に従って誠心誠意やって来たことが後で実を結ぶ好循環の1つです。
戦後アメリカが中韓を利用して日本を道徳的に貶め続けて来ましたが、いつの間にか世界の生活標準・価値観が日本的になって来たのは、このように草根の日本人一人一人が世界のどこへ行ってもこつこつと誠実に周辺の人のために生きて来たからです。

オスの定着2と支配

男性が定着するようになったのは、言わばライオンがメス集団の狩りのおこぼれを貰うためにメス集団にくっついている・・言わば放浪をやめて定住・定着しているのと元は動機が同じだったことになります。
ただ、一時的滞在が徐々に長くなりその内定着して行きますと、人間のオスの場合、腕力にものを言わせてその集団の経営に対する発言力が高くなり、結果的に乗っ取ってしまい、我が国ではここ2〜3000年ばかりオスがメスを食わしてやるかのような擬制が成立して威張っていた点がライオンとは違います。
前回書いたように食料を狩りに頼るのは人間に限らず生産性が低いので多くを養えず、ライオンはメス多数に対して1頭しか養ってもらえないのと、メス自体狩りをする関係で獰猛性・闘争能力を持っているので、僅か1頭のオスライオンが集団内で腕力で威張る・制圧することは不可能です。
ライオンのオスは「居候は居候でしかない」状態で現在まで来たのですが、人間の場合、1対1の関係である上にメスの方はライオンのように戦う習性がありません。
オスは元々用心棒として入って来たものですから、初めっから武張っていたでしょう。
メスの方は、これに対しておだててオスを使う・・定着させる方向性で来ましたから、(我が国は男社会でもおだてて使う傾向です)外形上オスの言いなりになる形式が続き、(オスは家ではお店の客みたいな扱いでした)オスの方も千年単位でこんな生活をしているうちに本来メスの造って来た農地・生活手段が自分のもののような気がして来た(欲が出た)のでしょう。
対外的には「俺の(用心棒になっている)農地に勝手に入るな」と言っていたのでしょうが・・その内「俺のもの」になったのです。
平安中期以降武士の台頭によって、武士の集団・一族統率形式が、日本社会の標準型みたいな風潮になって行きます。
武士の社会では文字どおり家(農地・領地)を守り外から戦利品を獲得して来るのは男の仕事ですから、獲得した領地の支配権はオスに帰属するのは当然のことになります。
源平合戦直前ころから武士以上の階層では、領地を獲得しあるいは主君から知行を貰えるのはオスの戦功によるのですから、現在の給与所得が夫だけしかなくて、家族はその御陰で生きているのと同じ関係・・貨幣経済化した明治以降の庶民と同じ関係がそのころから始まっていたので女性の地位が低下したままになっていました。
ところで日本の農地の直接的支配権は武士やオスがいくら威張っても実は現に耕作し管理している女性の実質的管理権はびくともしないままだったのです。
(今は過去のことになりましたが、3〜40年前まで家庭内の大問題であった嫁姑の関係も同じで、実際に何時までおしゃもじ権を握っているかで地位の強弱が決まります)
西洋では領主=農地所有者で、このために革命後も「所有権の絶対」の保障が貴族の経済力維持・政治発言力温存に繋がっていることを
December 8, 2010「フランス大革命と所有権の絶対4」ココ・シャネルの映画の紹介コラムで書きました。
我が憲法は明治憲法も現憲法も西洋の憲法の思想を受け継いでいるので、所有権の絶対性が憲法の基本原理(第9条の平和主義よりも重視されている基本夏原理)です。
我が国では何故これ・私有権の絶対がそんなに重要な原理なのかピンと来ない人が多いと思いますが、西洋の貴族にとっては死活的重要性のある原理だから革命憲法の基本になったのですが、日本ではそういう歴史がないのに意味もなくしかも大原則として学校で習っているのです。
(ただし、所有権そのものではないですが「一所懸命」・・一カ所にしがみつく習性はありますので、フクシマ原発あるいは津波危険区域でも移転政策実施は困難です)

オスの定着1(不安定収入)

 
話を少し戻しますと、子育てによる労働からの阻害が何十年も続くと女性は子を産むと退職してしまうから、企業の方でも大金をかけて高度な生産技能を養成するのは無駄だと言う論調が幅を利かしてお茶汲みなど下働きばかりになり(女子大生亡国論以前の議論)、親もお金があっても実務教育よりは良妻賢母教育(女子大進学)をしてワンランク上の階層の(奥方としての生活を)との結婚を期待しがちです。
子を産まなくとも女性である限り経済的弱者として決めつけてしまう・・働きたくとも仕事場が用意されていない社会が出来上がると、成人しても結婚出来ないと(親の保護を離れると)自立出来なくなります。
子を産まないのに遊んでいる(3食昼寝付き)のはずるいと言う女性仲間からの批判も起きるので、結婚しても子供の生まれない女性は肩身が狭いし、他方で、何らかの事情で結婚出来なかった女性や意識的に結婚しないで生涯働き続けたい人がいても、そのための職業教育が社会的に用意されないので結婚しないで生涯働き続ける選択肢が狭くなります。
実学系に進学すると白い目で見られ・たとえばせっかく弁護士になっても女性では独立が難しい時代が続くなど、職業能力を苦労して身に付けても仕事がない事態になります。
こうした1種の迫害・女子大亡国論などにめげずに実学系高学歴に挑戦して自分で生き方を選択出来るようにする女性が増えて来た結果、女性の高学歴職場も開拓されて行きますので、先ず挑戦して来た先人の努力を多とするべきです。
女性弁護士が最近増えたことによって、女性の得意分野(少年事件や修復司法や離婚事件など・・7月12〜13日に紹介したハーグ条約・子供の連れ去りに取り組んでいるのも主として女性弁護士です)の職域開拓が急速に進んでいます。
古代以来明治まで国の基幹産業である農業収入(明治以降輸出産業として活躍したお蚕さんも同じです)を支える主役は女性でありながら、何千年単位で経済主権を男に乗っ取られていたとは言え、我が国では家庭内での実質的地位が強かったのは、実際に働いて家計を支えて来たのが女性だったし、家庭自体が女性のものであって家庭内の切り盛り運営が女性によって今でもなされていることによるでしょう。
夫はいくら頑張って、家庭ではお客様使いですし、今でも妻が家庭の主役で夫がこれをどの程度「手伝う」かで良い夫かどうかの評価(妻がお礼を言う関係)になるに過ぎません。
元は放浪していたオスが定着するようになり、定着先の家庭をどのようにして牛耳るようになったかを見て行きましょう。
オスから見れば、最初はドングリの実を拾って集めるなど(ミレーの「落ち穂拾い」の絵を見ても分るように、男の私ではとても落ち穂など拾う気持ちが理解出来ませんが・・)かったるい仕事には違いなかったでしょう。
稲の場合を考えても(何十何百回も重ねて来た品種改良後の今とは違い実のつき方も少しだったでしょう)あの小さなモミを少しずつ集めてこれを食べるなどの細かい作業はオスには気が遠くなるようなことです。
オスはまじめにドングリや稲モミの採集作業に参加せずに一攫千金・・ネズミでもウサギでもとって食べた方が早いとしてウロウロ放浪していたのですが、実際にはウロウロ放浪していると食いはぐれてしまうことが多かったのです。
今でも女性の仕事は1つ何銭というような安いものを大量に作り上げて行く作業が得意ですが、男の方は1000万円単位の不動産取引などに精を出したがります。
やらずぶったくりのヤクザ商法や小さなことに因縁を付けて法外な金を脅し取るヒトなどを見るとぼろ儲けのような気がしましたが、事件を担当してみるとそういうヒトには、滅多にヒトが寄り付かないので年に何回もウマい汁を吸えず結局は生活保護すれすれの生活です。
ヤクザはいつも恐喝などしているかと言うと滅多にチャンスがなくて食えないので、ミカジメ料や覚せい剤などその他フロント企業など事件になり難い安定収入に依存しているのです。
古代の学習漫画などでは鹿やイノシシ・・うっかりするとマンモス象の捕獲場面まで絵になって書かれますが、実際には大物を仕留めることが出来るのは稀なことで、普段はネズミなどの小動物をとって食べるのがやっとで何時も腹をすかしていたのが実態です。
バカにしていた細々した仕事でも徐々に生産性が上がって来て、安定食料になってくるとメスの採集・農耕集団の仲間入りさせてもらうようになったのが始まりだと思います。
戦後何十年ぶりでフィリッピンから帰った小野田元少尉だったか横井さんだったか忘れましたが、主に小さなトカゲやネズミを捕まえて食料にしていたと報道されていました。
偶然に委ねる狩りだけで生きるのは、今でも大変なことであることが分るでしょう。

住民登録制度5(改正と運用定着の時間差)

本籍だけで管理していて住民登録制度がないと国民の現況把握が出来ず不便ですので、政府の方でも次第に現状把握方式を充実して行きました。
と言うよりは、元々人民の現況把握の手段として出先の把握だけではなく親元でも把握しようとたことが、寄留地把握と本籍把握の二本立て制度の始まりとすれば、徐々に現況把握制度を充実強化に励むのは当然の成り行きです。
本来過渡期の把握手段である本籍制度は、寄留値把握制度が充実した時点で御用済みになっていた筈です。
March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」March 6, 2011「寄留者の管理と神社1」で紹介したとおり大正3年には寄留法が出来、昭和27年に戸籍管理と切り離した住民登録に関する法律が施行されているのですが、法律が出来たとしても直ぐには実施・・浸透しませんので、住民登録が一般化して来たのは(私のおぼろげな記憶によれば)昭和30年代半ば以降頃に過ぎません。
私の子供の頃にはまだ住民登録制度が定着していなかったのか、あるいは身分証明制度がなかったからか、どこかに行く・・例えば修学旅行先の旅館で食事を出してもらうためには、米穀通帳持参(1981年に廃止=昭和56年)の時代でした。
法律と言うものは作ればその日から実行出来るものではなく、準備に年数がかかります。
民法応急措置法の精神(家の制度廃止)によって戸籍制度も抜本的に変わるべきでしたが、これに基づき昭和22年に戸籍法の改正が行われましたが、実際に核家族化に向けた改正の準備が出来たのは昭和32年頃で、(昭和32年法務省令第27号・・33年から施行)でした。
これによって全国の戸籍簿を各市町村で徐々に書き換えて行き、(これによる改正前の戸籍を改正原戸籍と言います)全国的に完成したのが、漸く昭和41年3月でした。
(完成の遅れた市町村ではそのときまではまだ古い戸籍方式の登録が行われていたのです)
それまでのいわゆる原(ハラ)戸籍を見れば分りますが、戸籍謄本の最初に前戸主と現戸主が書いてあって、その妻子や戸主の兄弟姉妹(結婚して他家に入ればその時点で除籍)とその妻子・孫まで全部記載されています。
分家して独立戸籍を興さない限り一家扱いで、弟の妻子まで家族共同体に組み込まれる仕組みでした。
コンピューター時代の到来に基づき、コンピューター化に着手したのが平成の改正で、この結果横書きに変わりましたが、コンピューター改正前の戸籍も改正前原戸籍と言いますので、今では相続関係の調査に必要な戸籍には、昭和の原戸籍と平成の原戸籍の2種類があることになります。
登記のコンピューター化が始まっても全国の登記所がコンピューター化し終えたのは、20年前後かかって全国で完成したのはまだここ数年の事でしょう。
昨年春離婚した事件で、都内錦糸町の数年前に買ったばかりの高層マンションの処分に際して、当然コンピューター化していると思っていたら、購入時の登記では権利証形式(以前紹介しましたが、コンピューター化した場合・権利証から登記識別情報に変わっています)だったので驚いた事があります。
寄留法が30年も前から施行されていたと言っても、住民登録制度が始まってもその日のうちに国民を全部登録出来るものではないどころか、国民の届け出習慣の定着・政府側の実態把握の完成等に時間がかかり国民全部を網羅するには15〜20年程度は軽くかかってしまった可能性があります。
その完成を待って昭和42年の住民基本台帳制度(・・これが現行制度です)が出来たと思われます。
このように改正経過を見ると戦後の戸籍法制度改正は昭和41〜2年頃までかかっていたので、それまでは制度的には過渡期で戦前を引きずっていたことになります。
国民の意識も急激には変わらないので、このくらいの時間経過がちょうど適当だったのかもしれません。
私の母は明治末頃の生まれですが、私の長兄が結婚した時に戸籍から長男が抜けてしまってるのを知って、とても驚き寂しそうに私に言っていたのを思い出します。
今になれば結婚すれば新戸籍編成になって親の戸籍から自動的に除籍されるのは当然のことで誰も驚きませんが、昭和30年代には親世代にとっては(まだ自動的に抜けるようになった仕組みを知らない人もいて)子供が「籍を抜いてしまった」と衝撃を受ける時代だったのです。
明治始めの戸籍制度は即時(半年後程度)実施制度でしたが、これは元々生まれてから家族として籍(人別帳)にあったものを無宿者として積極的に除籍していたのを、今後は除籍しては行けない・・一旦除籍してしまった無宿者をもう一度籍に戻すだけだったので、即時実施でも家族意識に変化がなく問題がなかったと思われます。
戦後の核家族化への改正は、(同居していても結婚すれば)積極的に籍から抜く強制だったので、意識がついて行けない人には抵抗があったのでしょう。
戦後改正は天地逆転するほどの意識改革であったこともあって、実施・定着には時間がかかったのです。
我々法律家の世界でも現在通用している最高裁の重要判例は、昭和30年代後半から40年代に集中しているのは偶然とは言えないかもしれません。

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