モラール破壊10(性善説の消滅)

我が国では形式的な「律」があるかどうかではなく正義の観念に裏打ちされた「法」でなければ支持されない文化であったことが、わが国では中国伝来の「律」を重視しなかった理由であることを01/18/06「法と律と格の違い2(民法148)(悪法は法か?1)」で書いてきました。
明治維新では王政復古と称していたので、最初は新律綱領など「律」という名称の法規を造っていたことを07/29/05「明治以降の刑事関係法の歴史3(清律3)」のコラムなどで紹介しましたが、その内に内容の妥当性にかかわらず強制する性質のある「律」は国民性に合わないことから、「法」と名称を変えていきました。
この名称の変更は内容がどうであっても専制君主の命令・律に盲目的に従うべきという中国伝来の律の思想を否定したことに意味があります。
我が国では古来から「悪法は法で」であったことはないのです。
その基礎には、日本列島では一度も絶対君主や専制君主に支配されたことがなく、その結果理不尽な命令に従う必要のない社会があった・・歴史があるからではないでしょうか?
日本列島の政治は、卑弥呼の時代から江戸時代末までずっと諸豪族の連合体の運営形態ですから、筋の通らない主張はどんな比較強者でも強制することが出来ない社会のママ明治維新まで来ました。
英米法で言う「法の支配」は、権力者とその側近の恣意によるのではなく、議会による制定手続きが整備されていることが専制君主の命令とは違いますが、そこには内容の当否をチェックする仕組みがなく、手続きが整備されている点が違うだけです。
(憲法に反しない限りの制約はありますが・・憲法自体多数の力で決まるものです)強者の意向を受けた多数派の意向どおり何でもルールが決まって行く=いつも強者=多数派に都合の良いことが正義になって押し付けばかりでは、弱者が浮かばれません。
「正しいものは正しい」(権力者が命じても駄目なものは駄目」とする我が国の古代からの価値観が強固なままです。
・・そのときの圧倒的多数に支持されている権力の力(法的には憲法改正も可能でしょうが・・)を持ってしても「侵すべからざる人倫の道がある」・・からすれば、中国等専制君主制を基本とする国や英米流強者の論理は、いつか否定される時代が来る筈です。
こう言う基準で見ると,アメリカに押し付けられたとは言え、日本国憲法前文は日本古来の価値観が織り込まれて結構良いことを書いています。

日本国憲法
前 文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

憲法前文は英米の狡猾な弱肉強食の価値観を否定して、正しいことのためには「千万人といえどもわれ行かん」の精神の闡明です。
ついでにこの出典を紹介しておきましょう。
孟子
公孫丑章句 上に公孫丑から真の勇者について聞かれたときの問答に以下のようなやり取りがあります。
いろいろな事例を書いた後に
「昔者曾子謂子襄曰、(昔曾子が子襄に謂いて曰く)子好勇乎(子勇を好むか)、吾嘗聞大勇於夫子矣(吾かつて孔子に大勇を聞く)、
「自反自不縮、雖褐寛博、吾不惴焉、自反而縮、雖千萬人吾往矣、」
 後半部分が有名です。   
   自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん
※自分で内省して正しくないと判断したならば、褐寛博(よれよれの緩い衣服を来た貧民)の輩に挑発されても余は進まない(勇気を奮わない)。
自分で内省して正しいと判断したならば、相手が千人万人であろうとも、余は(勇気を持って)進む。
孟施舎守之氣、又不如曾子之守約也、
(孟施舎は「気」をよく保って勇敢ではあったが、曾子が心に正義を基礎にした勇敢にはかなわない。・・この問答の対照的な人物例として出していた2人の比較です)
中国にも孟子(紀元前372年? – 紀元前289年)のような立派な思想の人々がいましたが、孟子は秦帝国成立前で、自由な思想を戦わせていた諸子百家の時代の人で、秦の始皇帝(紀元前259年 〜紀元前210年)による専制君主制成立後こうした思想はなくなってしまい、日本でだけ大事にされて来たのでしょうか?
孟子と言えば、性善説が有名ですが、今の中国ではとっくに廃れて性悪説・・相手を信じていては駄目という情けない風潮がはびこっています。
何もかも良いものは(美術品だけではありません・・心さえも)日本に逃れた以外は全て棄ててしまったのが、中国の歴史のようです。

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