新型コロナによる諸外国の実害(序盤採点1)

まだ治療薬もなく収束への流れ不明の結果、現在序盤の終盤にさしかかったかどうかすらわからない段階ですが、収束しているように見える中国韓国はもとより、日々千人〜数百人単位の死者が出ている米欧でもロックダウン一部解除〜緩和の動きが始まりました。
この辺で序盤における諸外国の実害相違を比較して総括的感想を書いておきたいと思います。
データは後日の訂正があり得るので3〜4日単位で細かく見ても切りがないのですが、4ヶ月以上経過して大方の傾向が見えてきたように思われます。
世界的な流れを見ると、感染の激しかった中国武漢では新規感染者数が激減し、ついで韓国の場合も当初激しかったのに比例して急速に収束しているのを見ると、(中国のことだから統計操作があると見る人が多かったのですが、数字上の統計と違い現実に多くの人が次々と死ぬ事態を隠しきれるものではありません)人間=生物の適応力として感染者周辺で免疫獲得運動が起きて生き物としての適応力獲得に成功した事によると推測可能です。
中国でも武漢から離れた地域・黒竜江省などで感染者が増えた例など見ると適応するチャンスのあった地域となかった地域の違いのように見えます。
感染者や死者急増の欧米でも一定の頭打ち傾向が見えてきたのは何か医学的あるいは画期的政策成功があったからではありません。
単にやり過ごしてきただけです。
ロックダウンしようとしまいと、一定期間経過で感染者数が増減して行くのが普通とすれば、以下のようなド素人の私のような超能力的理解想像が可能です。
周辺で感染症が猖獗を極める場合、それを見ている別の生物が自分が体内に取り込まないまでも一定の適応・抵抗能力を身につけて行くのではないかと言う仮説まで行かない仮の思いつきです。
生物としての適合能力・・体内での応戦体制が整うまで新型ウイルスに席巻されっぱなしになっていた時間・個々の人間の適応というよりも襲ってくる敵に対して一つの生き物のように行動する魚群集団と同様に民族集団として全体で学習し各人の体内で抵抗力を高めうる作業をしていた結果と見ることが可能です。
中南米の原住民がほぼ絶滅したのはスペインの残虐性によるばかりでなく、旧大陸で経験済みの各種病原菌に対する民族的耐性がほとんどなかったことによると言われることの逆バージョンです。
21世紀に入ってからの新型ウイルス・・香港風邪やサース等は全て中国発祥であり中東症候群マースでも中韓香港台湾シンガポールなどはいずれもひどい目に遭っているので、防疫システムも整えていただけでなく、生物としての適応力もその間に準備して来たと思われます。
日本はいずれの新型ウイルス禍にも対岸の火事程度で(国民のほとんどで記憶がない程度で)終わったのでまともなシステム整備まで行なっていなかっただけでなく、国民個々人の体内準備もしていなかったので、上記中韓香港台湾等の過去事例勉強でやるべきことが頭で分かっていても現場の準備がなかったことから、その場しのぎ対応に終始するしかなかったと言われます。
以上が合理化された説明ですが、香港やシンガポールに限らずその他周辺アジア諸国の剣尖社数や死亡率が欧米に比べて大幅に少ないのです。
北朝鮮の実数は不明としても鎖国していないモンゴルだって感染数、死者が少ない点は同じです。
指導力がない場当たり的と批判されながらも、日本人の被害が現在欧米に比べて大幅に少ないのは、中国に地理的に近い事が重要ではないでしょうか?
近いので、知らず識らずのうちに中韓人との接触が多いので、新型ウイルスに対する迎撃体制を日本人の身体がいつの間にか(ウイルスに感染して免疫ができたというよりは、)魚群のように以心伝心で適合訓練していたからでしょう。
中国語や韓国語を習わなくとも、ちょっと会話を聞けば、中国人か韓国人か区別がつくようになっているのですが、接触チャンスの少ないアフリカ系の場合どこの国の人か全く区別がつかないのと同じです。
今回のウイルス対応力の差は震源地中国との関係が近い順に、政治家、学者国民個々人の物言わぬ体内細胞に至るまで、新型ウイルスに対する予備知識・抵抗力を身につけてきた違いによるような印象です。
米国が防疫専門の巨大組織を作っていたものの、欧米の場合、地球の果ての災害程度の距離感で他人事だったし生物的接触率も低いので、結果的に最大規模の被害になりました。
結局は置かれた民族関係の距離差による対応差によると見るのが合理的で、立場の違う他民族の真似をしても仕方ないということでしょう。
以上は「素人の直感による想像を膨らませた感想であって、世間に主張できるような意見」ではありませんが・・。
結果から見ると日本民族の対応は見事だったというのが序盤の成果ではないでしょうか?
いかに日本政府対応がお粗末かの批判論調中心だったメデイアもついに以下の意見が出てきました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200511-00000000-ykf-soci

新型コロナ、日本人の低死亡率に新仮説…すでに“集団免疫”が確立されている!? 識者「入国制限の遅れが結果的に奏功か」
5/11(月) 16:56配信 夕刊フジ

「2週間後はニューヨークのようになる」など悲観的な予測もあった東京都、そして日本の新型コロナ感染だが、別表のように現時点ではニューヨークにもロンドンにもなっていない。中国や韓国、表にはないが台湾など東アジアが総じて欧米よりも死者数や死亡率が抑えられている

外出規制緩和10(韓国の実験と監視社会化3)

専制支配体制が長く続く社会の人民は、自主的価値判断で動くのはリスクが高いので、専制君主のご機嫌を損ねないことが優先順位となり最悪の場合処罰されるかどうかの外部基準に頼る社会になっています。
専制君主に直接接点のない末端人民に至るまで、人民は処罰さえ受けなければ(法網をくぐる技術重視)良いという正義とは何かを考える余地のない社会になり、正義とはなにか?自発的価値観を育む経験がないまま、千年単位過ごしてきたと専制支配社会の特質を書いてきました。
政治世界では世の中を良くするための知恵をしぼるよりも保身・権謀術数に勝ち抜く訓練が優先順位になります。
個々人は社会貢献よりも私腹をどうやって肥やすかの金儲けだけが基準となり、自粛と言われてもどの程度自粛すべきかを考える訓練機会が子供の頃からないので、自主判断能力が育たない社会になっています。
日本でも成績優秀者・・模範解答を勉強するのや忖度に特化したひとは政府の方で早く自粛基準を示してくれないと困るという大阪府知事のような変な要求が出てくる点では似ています。
自治を守れと声高に主張しながら具体論になると指導基準を示してほしいという人が少なくありません。
自主判断・自由行動禁止になっている社会と自主行動推奨社会でありながらどうして良いか分からない・・一定基準に達しない人のために、参考基準・・マニュアルが必要なのは似ていますが出発点の方向が違います。
人が自主的にどこまでやれるかを年齢順で見ると小中高校、大学〜社会人と順次レベルが上がっていくのが普通です。
同じ年齢でも能力差がありますので、マニュアルがあった方が低レベルの人も一定水準まで真似できます。
特措法では、政府が緊急事態を宣言すれば都道府県が地域の実情に合わせて対策を決める仕組みですが、大阪府の要求を見ると政府指示待ちの習慣が出てきたようです。
感染率の上昇や縮小といっても地域差が大きい上に、地域の産業構造も違うので緊急事態かどうかの判断権は中央政府にあるとしても個別施策は地域の実情に合わせてやって下さいというのが特措法の精神です。
韓国のコロナ関係統計を見ていると韓国のコロナ政策がうまくいっているようなのにメデイアによるこれといった紹介がないのを不思議に思っていましたが、韓国が外出規制解除に動いてから一気に韓国のコロナ政策内容が公開されるようになってきました。
韓国の政策特徴は、日本の微温的政策と違い監視社会化を大きく進めていたことが大きな違いのようです。
メデイアが韓国でこんなことしているから日本も学んだら!という報道をしないのは、何もかも中央政府が国民一人一人を監視し指示し、地方や国民が政府指示通りに動く社会を理想化する意見が日本人には少ないと判断したからでしょうか。
能力が低くて指示待ちになるのは個人の問題ですが、能力の有無に関わらず政府が前もって指示してくる仕組みになる・・能力ある人の日々の日常行動まで自主判断が許されない社会になると民主主義の本質が破壊されるように思われます。
専制支配に慣れた社会では、自由は重たすぎるので恐怖感利用による指示政治の方になじみが良いのでしょうか?
韓国の規制緩和の結果を見ると中国の真似をした監視網構築であるものの、中国ほど徹底できない・・半端さでウイルスの報復を受けたような印象です。
国際政治力学的に見れば、中国の台頭と歩調を合わせた慰安婦騒動以来の韓国民の行動を通じた心情をみると自由主義陣営に属しながらも本当は自由より専制支配されていた昔が恋しい意図がアリアリの印象でした。
表向き米国中心の自由主義陣営に属しているものの、内心では自由は辛い・・99%中国の属国に戻った気分になっているように見えていましたが、今回の韓国のコロナ対策の具体化が徐々に報道されるようになってみると、表面上自由主義社会の一員にかろうじて留まっているとは言え、社会の実情としてはいわゆる監視社会化を中国パターンにあと一歩まで近付いた極限社会になっていた印象です。
人権(個人情報保護)にうるさい西欧諸国でも対コロナ禍では緊急事態下で相応の厳しい規制をしていますが、1律の外出制限等にとどまっているののたいし、韓国の個人監視運用を見ると民主主義社会の一線を超えている印象です。
韓国民にとっては歴史始まって以来専制支配下にあってもともと専制支配体制に服する方が気持ち的にピッタリして落ち付きの良い民族性の上に、北朝鮮の専制支配に憧れる文政権成立でこれをチャンスに?急激に監視社会化が進んだということでしょう。
日本では安倍政権が休校自粛要請するだけで、教育の中立性侵害という批判論が朝日新聞で紹介される社会とは大違いです。
コロナ禍をダシにしてなし崩し的に何でも決まって行く・軍靴の音が聞こえてくる式の政権批判論がメデイアの基本姿勢ですが、一方で安倍政権は右往左往していて指導力がないという政権批判論を煽っていますが、「韓国がうまくいっているのに」という喉まで出かかっている単語を持ち出せないのは、休校要請や自粛要請批判と韓国の強制力の激しさと矛盾してしまうからでしょう。
そこでやむなくドイツがいかにうまくいっているかの宣伝が激しくしていたので、このシリーズで国際比較の一環としてドイツのデータも一緒に表を引用して紹介してきましたが、ずっと日本の10倍以上も死亡発生していますので、これまたなぜ「ドイツがこんなに成功している!」と安倍政策失敗の比較例になるのか不明になっています。
誰もが国際統計をネットで見る時代に、結果比較でおかしすぎるので恥ずかしくなったのか?最近ドイツを賞賛する根拠不明の記事が減りました。

外国文物導入(やまと心)3

仏教を文字その他文化吸収目的の国家機関・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形・・が主目的だったのを、本来の宗教(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、真言宗、天台宗祖の派生から、日蓮、浄土系民族宗教が発展して行くのです。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょうという程度の位置付けです。
クリスマスを祝ったのちに大晦日〜元旦の初詣(神社仏閣どこへ行こうとも)何の矛盾も感じません。
七五三では神社に行きその翌日には近所の葬儀があればお寺に行くし、結婚式は神社でもキリスト教の教会式でも良い・要は神仏(超越的霊力を持つ存在)に祝福されればいいという考えです。
生命の根源に関わるときは神であろうと仏であろうとも超越的存在に頼りたいのが日本人の心です。
私の子供たちも近所にキリスト系の幼稚園があった時にはそこへ通わせましたが、私がキリスト教徒になった気持ちは一切ありませんし、3人目の子供も当時の自宅近く(約100メートル足らず)にあった幼稚園に通いましたが、何系だったか記憶すらしていません。
幼稚園もキリスト系でもお寺でも良い・その都度自宅近くて便利なのが第一選別基準です。
一神教のキリスト教やイスラム教徒がこういう社会に根付くには、「お寺に出入りする人は教会にくるな!」とは言えないので、自然に他宗教徒も受け入れるしかない・日本にいる限りいろんな神々の存在を受け入れるしかないのではないでしょうか?
明治以降の文明開化運動による欧米文化の大量流入や敗戦以降の米国文物大量流入もその一つでしょう。
明治以降の文物流入に対する受容モデルを表すためには、和魂洋才という熟語が知られています。
和魂洋才の受容方式が古代からあったのか?です。
和魂洋才とはテクニックを取り入れるだけで精神を取り入れるものではないという主張ですからそう言わねばならない圧倒的先進技術が入ったからこそ必要な主張だったでしょう。
そんなことが可能か?生活スタイルが変われば価値意識も変わるのではないか?
キリスト教の思想を深く理解しないと欧米の行動パターンや文物の理解を真にできないというのが戦後の風潮でした。
中国が開放し「文化度が上れば自然に欧米流儀に従うはず」という期待論調もこの延長論ですが、中国は簡単に政治スタイルを変えず逆行し始めたので欧米にとっては思惑が違ってこまっている状態です。
日本で和魂洋才の主張原型が始まったのは、その必要性が高まった時期・・いわゆる国学の発生の頃からでしょうか?
朱子学が浸透しすぎて画一理解の弊害・・やおよろずの価値観を基本とする大和心には馴染まない面が際立ってきたので、反動的に大和心を掘り起こす国学の発生につながったのではないでしょうか。
このように少しずつ日本の心に合うものだけ無意識のうちに入れていたのに対し、明朝崩壊後亡命学者等が大挙流入→儒学が「体系的」に導入され徳川幕府は昌平坂学問所設立し、(大学の頭」という役職まで置いて)徐々に日本思想界を席巻→統制作用を及ぼし始めました。
大學の頭に関するhttps://dictionary.goo.ne.jp/jn/132691/meaning/m0u/からの引用です

2 江戸時代、昌平坂学問所の長官。元禄4年(1691)林信篤(鳳岡)が任命され、以後代々林家が世襲。

こうなると談論風発や八百万の神的に、多様な意見を許す思考になれた日本民族にとっては、窮屈過ぎる不満が発生します。これが国学・大和心を見直そうという運動のエネルギーになったと思われます。
局面が違いますが、文武両道とうるさかった松平定信の政治に対して「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」の狂歌で揶揄された違和感です。
教養人の政治は一面的になり過ぎてかえって国民を苦しめることが多いものです。
現在韓国の文政権が、庶民の生活水準底上げのために経済原理によらず強制的に最低賃金引き上げに踏み切りました。
一見人権尊重のようですが、このために零細企業が雇用を縮小し、廃業するようになって失業を増やして大混乱になっています。
頭でっかちな一方的な政治は、一面的な理に走り過ぎて多様な矛盾意見を包括できないからでしょう。
ちなみにエリート政治家松平定信の改革はほんの短期間・6年間で頓挫しています。
同じくエリート官僚・・水野の天保の改革はわずか2年で失脚でした。
これに対して享保の改革は2〜30年と息の長い改革・被支配層の支持を受けたので長かったのでしょう)だったのでこれが徳川政権260年を持たせた原動力です。
吉宗は、生まれつきの貴種として養育されず家臣の子供として育ってからお城に引き取られたので、世事に通じていた点が大きな違いだったのではないでしょうか。
もともと素質自体が実務向きであって、歌道などの風流なことには向いていなかったと言われますが、その分思い切った改革ができたようです。
思い切った改革が必要になった背景を見ておきます。
幕藩体制・・・家康〜秀忠〜家光の草創期を制度的にまとめたのが知恵伊豆こと松平信綱でした。
いわゆる知恵伊豆と言われ幕藩体制確立に功のある松平伊豆守信綱は物事は重箱の隅をほじくるような政治はいけない、緩やかな政治が肝要と述べていました。

外国文物導入と大和心2(鑑真和上とその後)

法華堂に関するhttp://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance5.htmlの解説です。

旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

2月堂の修二会に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/では以下の通りです。

古来は旧暦1月に行われる法会である。
農耕を行う日本では年の初めに順調と豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)が重要視され、神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする。養老令にも記載され、8世紀には国の重要行事とされていたが、修二会は祈年祭に対応した仏教の行事として形成され定着した行事である。

以上の通り日本列島に伝わる古来からの祈願行事を、仏教行事に取り込んだにすぎません。
仏教が土着信仰に打ち勝って土着信仰行事が減ったのではなく、仏教が逆に土着信仰行事に浸透されているのが実態です。
仏教を文字その他文化吸収目的で導入したのは明治維新で、御雇外国人を導入して西洋法や科学知識導入に精出したのと本質が同じだったでしょう。
この普及を図るために国家機関としての・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形を見ても分かります。
これを日本風にアレンジして日本の土着信仰にも合うように(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、この意味で日本の精神界の合理化に大きな影響を与えた大事件だったと思います。
合理化仕切れない人間の弱い部分・・今でも残る「叶わぬ時の神頼み」・・・「神も仏も無いものか!」とか「厄除け信仰」がなくならないのが現状です。
その救済には密教の秘法に頼る部分が必要だったのでしょう
真言宗、天台宗が日本の宗教意識の体系化の足場を築きますが、シュウアhである以上一定の競争がるのは当然として、他宗派排斥を目標にするような宗教ではなかったか乏しかったように思われます。
その結果、日蓮、浄土系民族宗教等に裾野を広げていき日本人の精神性が豊かになって行ったのでしょう。
日蓮系は日本の宗教には珍しい排他闘争的宗教でしたが、(中世に限らず戦後創価学会の「折伏が激しかったすが・・)今は創価学会もおとなしくなりました。
日本列島でいる限り、周囲と円満にやっていくのが知恵のある生き方と悟ったのでしょう。
政治の世界でも公明党が政権与党になって約15〜20年かな?すっかりおとなしくなっています。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょう・・なにかいいことがあれば取り入れたらいいし・・という程度の位置付けです。
共産党も理屈一辺倒の強面では日本時に浸透できないとわかって、「歌って踊って民青」というフレーズがが昭和40年代のソフト路線でしたが今はどうなっているか知りません。
仏教が中国に入った時点では、環境の厳しい西域を通じて入ったことから、キリストや現在のイスラムのように戒律が厳しかったでしょう。
鑑真和上が戒律を伝えるために千里の波頭を超えて日本へ渡海した故事はよく知られています。
鳩摩羅什の漢訳は西暦400年頃で鑑真和上の来日は750〜60年ころ・・聖武上皇・孝謙天皇の時です。
中国に漢訳が伝わって数百年で鑑真が来日したことになります。
当時日本では私度僧が多く、戒律制度の確立が要望されていたと言われます。
鑑真に関するウイキペデイアの記事です。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
要するに聖武天皇は東大寺筆頭に全国に国分寺を設置するためには公認僧侶資格設定を急いでいたのです。
明治政府が帝大を作っても教授になる人材がいないとどうにもならないので御雇外国人を招請したのと同じでした、
南北朝時代の戦乱に明け暮れる中国に受け入れられたのでしょうが、その中国よりも日本の方が将来性があると見極めたのでしょうか?
ところで、日本仏教の礎を築いた弘法大師は私度僧出身だったのですから、皮肉なものです。
観音信仰が奈良〜平安時代に入って隆盛を見るのは、私度僧出身で人心に通じていたからこそ、なし得たのかもしれません。
日本に来た時の険しい仏教がようやく日本化したことによるものでしょう。
観音菩薩に限らず文殊、地蔵、月光や日光その他の菩薩も皆柔和な顔貌になって行きます。
救いを求める以上はごついより、美しくて優しい方が日本人なら誰にとってもいいでしょう。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象(御神体の多くが背後の山になっている神様より救済してくれるお方が具象化されてよかったと思われます・)とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都諸宗派というものの勉強する学科名称程度の違いでした。

法学部で言えば、民法専門や、商法専門教授という程度の違いでしょう。

融通むげ3(外国文物導入と大和心1)

本居宣長の大和心とは何かです。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

これだけでは宣長の著作をじっくり読み込んだ人にしか意味不明・・理解困難です。
美の本質は
「もののあはれ」
とも言うようですが、ここまで来れば私のような並みの日本人にもある程度理解可能です。
しかし「もののあはれ」と日本の心のあり方とはどういう関係があるのでしょうか?
文学表現としては何となく分かりそうですが、私の関心は人が守るべき法・道徳のあり方です。
そこで国学と何か?江戸時代中期頃になってなぜ興ったかの疑問から入っていきます。
思いつき的私の意見ですが、明治の欧米文化が入って反動的に日本画が興ったのと同じ視点です。
縄文時代から日本列島には太平洋諸島沿いあるいは現中国の沿海部や朝鮮半島から少しづつ渡来人が入ってもその都度包摂同化してきました・そもそも日本人とは長期間かけてアジアの多様な人種が同化融合して出来上がった民族でしょう。
縄文時代が1万数千年前から始まり、キリスト紀元後数世紀の古墳時代に至るまでの長い時間軸を経て日本列島に住む人たちの共通的基本思考・・・結局は遠い先祖の出身地が違っても1万年前後もその地に住めば、その地の気候風土にあった同じ生き方価値観が形成されていったように思われます。
文字利用が徐々に入り、続いて仏教や儒教が入ってもその都度断片的であったために(律令制が制度として入ってもなし崩し的に融解しています)時間をかけていわゆる大和心に包摂消化して取り込んできたように思われます。
東大寺2月堂行事をこの後で見るように、仏教の教理に関係なく日本列島に住む人にとって重要な行事が東大寺にとって最も重要有名行事として残っているのです。
仏教の力で日本土着信仰を廃止するのではなく、仏教が逆に日本列島人の要求を取り込むことによって生き残って来たと言えるでしょう。
蘇我versus 物部の最終決戦を宗教戦争のごとく習いましたが、蘇我氏が仏教というより大陸文化導入に積極的だったというだけのことなのに、結果からあたかも(西洋的一神教の型にはめて?)宗教戦争であったかのようにイメージづけている可能性があります。
これは一神教的宗教意識に基づき・仏教と古代信仰が両立できないものとして後付けイメージによる解説ではないでしょうか?
古代の蘇我V物部の決戦を宗教戦争的に理解する解釈が朱子学による思想統一に反発した江戸時代の国学誕生前から行われてきたのかを知りたいものです。
それまでいろんな文物が入って来てもそれに強制されることなく、禅宗であれ水墨画であれ良い面があれば吸収すれば程度の意識できたので、(武士が 禅宗に帰依したからと言ってもその前からある各宗派を禁止しません)ある宗教を入れるかどうかで国を挙げての戦争したという歴史教育がおかしいと思います。
平安時代に真言や天台宗が入っても、その前からある南都仏教宗派に強制することもありませんでした。
飛鳥〜奈良時代の仏教導入が進んだのは文字文化や絵画彫刻音楽等々の総合文化導入に効率が良いからそうしただけであって、諸外国のように統治の手段として民衆の心を掴むための宗教導入ではありませんでした。
権力者はいつも政権維持に心を砕いているので、統治利用の意図皆無ということはあり得ませんが、それを主目的にしたとは言い切れないという意味です。
政権にはそういう仏教利用の意図があったかもしれませんが、実態は国分寺全国配置は列島人全般の文化レベルアップが主目的で古代からの土着信仰を否定するものではなかったはずです。
あるいはそういう意図があったので地元に根付くことができず、各地国分寺が自然消滅したのかもれません。
政権側としては、わざわざ土着信仰を否定して各地で悶着を起こす必要性がない・・マイナスでしょうから、各地信仰 (非征服部族の氏神)を尊重してきた大和朝廷が、わざわざ外来宗教を地方に押し付ける必要がなかったでしょうから、逆に宗教性を希薄化させる宣伝・地方民も文字を学べるようにするなどの宣伝をしてきたはずです。
明治維新でキリスト教文化を導入しても、日本古来信仰・各地の鎮守様信仰否定と関係がなかったように、仏教は日本列島古代からの信仰(自然への畏敬心)と並存したからこそ各地に浸透できたのでしょう。
葬式仏教言われようと厄除けであろうと、死者の霊魂や先祖を大事にする土着信仰を取り入れるしかなかったのです。
国宝重文級の仏像展が次々とあるので、しょっちゅう東博等に見に行きますが、元はといえば、12神将に代表されるようなおっかない仏像中心だったのでしょうが、気の小さな私などは足元に踏みつけられている邪鬼の方が気になって仕方ないので柔和な大日如来など如来系に目が行きます。
こういう日本人が多いからか、日本に来ると時間の経過で修行途中であるはずの菩薩でも観音菩薩・ほとんどが女性美の極致を競うかのように秀麗な佇まいに変わっていく感じです。
教科書の挿絵でしか見たことのなかった狩野芳崖の悲母観音の実物を簡単に見られるようになったのがありがたい時代ですが、実物を見ると観音さまにヒゲが生えているのに驚きますが、菩薩とは厳しい修行に耐えられるごつい人が本来だったのでしょう。
その目で古仏像など見ると観音様にはヒゲがありますが、日本人の多くは観音様といえば母親のように何をしても許してくれる優しさの極致のイメージを抱いているのでないでしょうか?
その願望の結果、不空羂索観音とか千手観音や千眼観音とか救いの方法が無限にあるかのようなイメージの・・しかもいかに優しく美しいかを競う観音像が続々と作られてきたのです。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都(法華宗・華厳宗など)諸宗派というものの勉強する学科名称・・法律で言えば民法専門家商法専門家程度の違いでした。

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