天皇観が根本変化したか3(憲法草案要綱・民間案)

憲法草案要綱に関する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1の記事からです。

戦前からマルクス主義者の立場から自由民権運動を中心に憲法史研究を続けていた鈴木安蔵が起草し、それに対して憲法研究会で出された意見等により修正を重ねて3案まで作られたもので、全58条からなる[1]。小西豊治によれば、憲法研究会の中心人物は鈴木であり、第三次案を執筆したのも鈴木である[2]。
「要綱」は、
「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」
など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。
このほか、詳細については以下の通りである。
議会については、二院制を採用しており(GHQ草案は一院制)、全国1区による大選挙区制による一院と職能代表による二院とで構成するかたちをとっている。また内閣については、議会に対して責任を負う議院内閣制を採用している。
司法については、大審院院長・行政裁判所長・検事総長を公選とし、冤罪に対する刑事補償規定がある。
憲法公布後10年以内に国民投票による新憲法の制定をおこなうことが規定されており、憲法の位置づけを暫定的なものとしている。
鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。
「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。」

国民主権の宣言の歴史と「要綱」の作成経緯
1945年11月21日、憲法研究会第三回会合が開かれる。第一次案として国民主権と立憲君主国の規定を含む案が鈴木から示される[18]。 会合において、室伏は「…天皇は…儀礼的代表としてのみ残る。…」と発言し、森戸は「天皇は…君臨すれども統治せずの原則により…国家の元首として国家を代表し…」と発言する[1
1945年11月29日、鈴木が第二次案をまとめる。天皇が元首と宣言されている[1
1945年12月11日、鈴木が第三次案を作成する。元首の規定は含まれず、天皇は国家的儀礼を司る、とされる
1945年12月16日、近衛文麿が自決する[22]。
1945年12月26日、憲法草案要綱が首相秘書官に渡され、GHQにも渡された[
1946年1月11日、ラウエルはGHQに「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」を提出する。その中で、国民主権を評価し、一方で修正する点として、憲法改正には国民投票が必要である等を挙げる[30]。
1946年2月3日、マッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。
1946年2月12日、マッカーサー草案が作成される。
1946年 春から夏、GHQと日本政府の駆け引きにおいて、GHQは、天皇が儀礼的形式的機能をもつような表現とするように要求する。
小西によれば、GHQの要求はこの草案に基づく
小西によれば、国民主権の規定は、アメリカが見逃していた、日本国憲法の核心部分である

上記は小西氏の自画自賛的でにわかに賛同できません
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

1-12 SWNCC極東小委員会「日本の統治体制の改革」 1945年10月8日
1945(昭和20)年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年1月7日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成される。本文書は、日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。

上記のとおり占領政策の基本はもともと国民が決めればそれで良いという「民意重視」でしたので、国民主権論は憲法要綱案作成者の手柄でも何でもありません・・。
研究会草案は、在野の気楽さでアメリカの本音をその通り成案にしてお先某担ぎ出来ただけかもしれません。
戦後すべての分野で、(昨日憲法学者を紹介しましたが)アメリカの動向先取り発表がエリートへの道でした。
商工業医薬等の実務すべての分野でアメリカが進んでいて、これを実習して帰ると日本では10数年には日本の商工業・証券や金融取引その他のルールになるのですから、やむを得ないでしょう。
上記民間発表だけではなく、46年元旦には(敗戦の詔勅につぐ初めてのお言葉でしょう。)いわゆる天皇の人間宣言が出ています。
これによれば天皇自身が天皇の地位は
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、・・」
とあって、民意によることを自ら表明しているのです。
人間宣言が歴史的に重要なのでそればかり取り上げられますが、この時点で天皇自身が自分の地位は民意による点をすでに打ち出していた点を重視すべきでしょう。
ここまで天皇が踏み込んでいるのに、周辺はそこに触れられなかったのです。
この辺は、マッカーサーとこ会談で天皇自身が「自分の命でどうでもなるならば国民の困窮を救って欲しい」と述べた肝心の部分をあまりにもおそれ多いということで公式記録から削除されてしまった経緯と同じです。

天皇観が根本変化したか2

GHQ憲法草案(・・ここでは天皇制限定)が、そのまま憲法になりえたのは強制によるのではなく、日本人の抱く歴史的・実際的天皇観にもあっていたので国民支持を受けたことによると思われます。
美濃部達吉一人がGHQ案に反対したのは、もともと天皇機関説批判論は学問でない・・実態に合わない妄想でしかないから、君側の奸である軍部狂信主義者の妄想さえとり除けばいいというのが彼の信念だったからでしょう。
この点では、戦後の憲法改正作業に関して宮沢教授が当初述べていた部分改正で良いという意見にも繋がっています。
(この辺はどこかの学説を読んでの意見ではなく私個人の思いつき意見です)
憲法改正に対する美濃部説や宮沢説を理解するには、両者がどの部分をどのように改正すれば良いとする案であったかを見ないと正確には言えませんが、そこまで読み見込んでいませんし引用して比較しているとくどくなり過ぎます。
正確に知りたい方は、以下に引用している国会図書館の資料に入ってご自分で読みくらべてください。
以下に紹介する通り憲法改正の流れでは、結果的にGHQに押し切られて言いなりになるしかなかったのは事実ですから、この外形だけを見れば、外国の強制によって憲法が制定された上に、明治憲法では前文と第一条に

「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ・・・国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ・・」
「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

とあったのが、日本国憲法では

「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

その他内閣の輔弼が助言承認となり、国会が天皇の協賛機関ではなくなるなど関連改正があった以上は、国体変更になったという解釈が確かに可能です。
宮沢教授その他当時憲法改正に関与したエリート学者の多くは、自己の主張が46年2月13日にGHQに真っ向から否定されて格好がつかなくなったことから、自己の理論は正しかったがGHQの強制要素・・8月革命説を主張したい心理もわかります。
しかし、昨日紹介した通り連合国が日本降伏前から、天皇制廃止を考えていなかったし、実際の占領政策でもマッカーサー自身が天皇制利用の占領政策を基本としていました。
その方が占領支配が円滑に行くからです・・・このような国民の天皇に対する尊崇精神利用は、現実政治としてはいつの世でもどこの世界(植民地支配でも土着権力を利用する方法)でもありうることです。
蘇我氏であれ摂関政治〜清盛であれ、尊氏〜信長であれ家康であれ、明治維新の薩長土肥政権であれ、武力背景に朝廷を圧迫しながらも天皇の権威利用価値があったので適当に妥協して利用していた点は同じです。
だからと言ってその都度天皇制の根本が変わったという歴史家はいないでしょう。
美濃部説とGHQ草案の違いは、形式上でも天皇大権が憲法上にあると、これを悪用する組織が台頭するのを防げない・錦旗を握った方が何でも出来てしまえるリスクをどう見るかにあったのではないでしょうか?
軍部がまた政権を握るリスクを連合国が非常に恐れていた実態があります。
実際にこれを防げずに美濃部氏は貴族院議員を辞めざるを得なくなりました・・を危惧していたこと・・権力(錦旗)を握れるのは民選議員の多数派=投票による確かな民意だけに限定するという方法の違いでしょう。
アメリカ型民主主義を「投票箱民主主義」と揶揄されますが、民意を知る方法を神威によるとすれば権力を握った者の恣意的操作(政敵・道鏡失脚の宇佐八幡のご神託など史上いくらでもその例があります。)に陥りやすい欠点があります。
今ではメデイアの世論調査次第・・自説に誘導すべくニュースの取捨選択で民意を操作しようとするリスクが問題になり始めました。
国内政敵どころか、仮想敵国が相手国の世論操作に絡むようになってきたのでその危険性が表面化してきたのです。
トランプ氏登場以来マスメデイア操作による民意創出が問題になっていますし、私自身も昨秋の総選挙直前ころに行われていた大手メデイア世論調査結果と、実際の選挙結果との乖離(ニコ動だけがほぼ一致)について疑問を呈してきました。
ロシア等のメデイア介入があったか、フェイクで操作されたかどうかは別として投票結果は、少なくともその時点での民意であることは間違いのない事実でしょう。
日本側政府案を作った学者は私など足元にも及ばない秀才揃いでしょうが、摂関政治の頃から変わらぬ天皇制の本質・象徴であり民の尊崇の対象であり続けてきた本質をみずに、天皇の名で(天皇大権や統帥権を利用して)統治する形式を重く見すぎていたようです。
・・だから、そこに手をつけないことが国体を守ることになる考え、姑息な改正案しか発案できなかったのに対して、連合国やGHQは第三者・岡目八目の優位性で古代から続く天皇制の実態・本質をよく見ていた違いではないでしょうか。
実は権力に気兼ねのない民間の憲法改正案では、45年12月には現憲法同様の民意による象徴天皇制に基づく改正案が発表されていたようですから、民間(といっても相応の学者ですから、要は政府に重く用いられていない・束縛のないフリー?学者)・国民の方が実態に即していたことになり・エリート学者の完敗です。
エリートもわかっていたが立場上そこまで言えなかったとすれば・・天皇を利用する「君側の奸」勢力に気を使う御用学者の方がおかしいのです。
宮澤教授の時の権力に合わせた変節ぶりを昨日紹介したばかりです。
次の芦部教授も結局は世界権力者であるアメリカの判例動向(二重の基準)をいち早く取り入れて、憲法学会の1人者になったように見えます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

2-16 憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日
憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。
12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。
なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

憲法研究会のメンバーや憲法草案要綱を明日紹介します。

皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)

年末から関心の続き・今日から17年12月30日の続きに入っていきます。
我が国の実質的意味の憲法とは何でしょうか?
12月30日に紹介したhttps://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。

*日本国憲法は、それ自体形式的意味の憲法であるとともに、憲法附属法も含めて実質的意味の憲法をも成している。
*学者さんによっては、ここで実質的意味の憲法として説明したものを、固有の意味の憲法とよび、固有の意味の憲法と「憲法 第2回」で触れる立憲的意味の憲法とを合わせて、実質的意味の憲法とされます。

http://houritu-info.com/constitution/souron/bunrui.htmlによると実質的意味の憲法の例として明治憲法下の皇室典範が入っています。

実質的意味の憲法とは、憲法の存在形式は問わず、内容に着目した場合の概念です。
実質的意味の憲法には、さらに「固有の意味の憲法」と「立憲的意味の憲法」に分類されます。
明治憲法下の皇室典範は実質的意味の憲法には当たりますが、形式的には憲法ではないため、上記の形式的意味の憲法には当たりません。

上記意見では「明治憲法下」と限定していますが、では現憲法下での皇室典範の位置付けはどうなるでしょうか?
実質的意味の憲法にも「固有の意味の憲法」と、「立憲的意味の憲法」があるようです。
「立憲的意味の憲法」論では権力抑止機能重視ですから、明治憲法下でも実質的意味の憲法に入っていなかったことになるのでしょうか?
皇室典範は現憲法下では形式上法律の格付けに入っていますが、実質的憲法か否かを論じるには法形式は本来関係のないことです。
日本国憲法

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

憲法自体に皇位の世襲制を書いてあって、憲法全体の平等主義に反する他「両性の平等原則」に反する男系承継の原則も皇室典範には明記されています。
国会の議決によるとしても皇室典範という特別名称を指定しているなど、憲法上別格扱いであることは明らかです。
もしも現憲法成立あるいはポツダム宣言受諾によって、実質的意味の憲法から除外されたか否かについては、天皇制のあり方が敗戦を期に国家・民族の基本骨格に関わらなくなったか否かでしょう。
ポツダム宣言受諾が長引いたのは、いわゆる国体の護持条件が受け入れられるか?であったのですが、結果的に「無条件降伏」になったと言われています。
ただし正確には国会図書館資料では以下の通りの経緯です。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html

日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。

形式的な天皇大権と象徴の違い・・あるいは「天皇の地位は国民の総意に基づく」となったのをどう見るかです。
私は摂関政治以来天皇の地位は名誉職・今風に言えば、象徴天皇である実態は何も変わらなかった・明治憲法で統治権・大権があるとしていても実態は同じであったし、その地位は神代の昔から国民の総意による支持が裏付けであったと言う立ち場(私個人の素人意見)でこのシリーズを書いています。
「神の意思とは今の民意の表現である」とたまたま1月2日に書いてきたところです。
ただし、改正された現憲法体制では、「国体が変更された」と見るべきというのが宮澤俊義教授・多分憲法学会の通説的意見でした。
(私は宮沢憲法の中の人権分野しかを基本書にしていなかったので、統治機構分野での宮沢説を直接読んだことがなくわかっていません。)
上記同資料によると以下の通りです。

憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。

上記意見が通らずに後記の通りGHQの強硬意見に押されて全面改正になったから、理屈でもなんでもない力によって変わった以上は「国体は変わった」と言う意見になったのでしょうか?
天皇制は神代からの神の意によるものではなく、「国民総意にもとずく」ようになった点を捉えたもののようですが、天下の碩学が塾慮の末の意見でしょう。
このシリーズでは、天皇の地位はもともと古来から、象徴権能を核とするものであり、国民総意の支持があってこそ信長も家康もマッカーサーも無視できなかったし神代の時代から天皇への尊崇が永続してきたのではないか?とすれば天皇観は全く変わっていないという私固有の視点で書いています。
宮澤教授に関する1月5日現在のウイキペデアイアによれば以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9

日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」[1]は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。
学説は時期とともに変節を繰り返した。

以下は上記変節の説明文を要約するために番号を付し→で示しました。

① 天皇機関説事件→「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」(1番弟子が恩師を批判・・稲垣)
② ファシズムの理論に基づいて結成された大政翼賛会の一党支配方式→大賛成
③ 終戦直後は、帝国憲法の立憲主義的要素を一転して擁護、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」「大日本帝国憲法の部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能」という今でいう押し付け憲法論の立場に立っていた[要出典]。外務省に対して、憲法草案については、当初は新憲法は必要なしとアドバイスした。
④ その後、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。
⑤ 天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」と述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。

今では宮澤説を継承している芦部説が支配的らしいですから、上記思想が戦後学会〜現在に至る憲法学を支配していたことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9Cnによれば以下の通りです。

芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 – 1999年6月12日)は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学会における議論をリードし、その発展に寄与した。
・・・日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[3]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

継続保障4(三菱UFJBKの10年計画?1)

http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1710/25/news018.html

2017年10月25日 06時00分 公開
銀行業界に激震が走った。三菱UFJフィナンシャル・グループ(以下、三菱UFJグループ)の平野信行社長が9月、「事務作業の自動化やデジタル化によって9500人相当の労働力を削減する」と発言したからだ。
9500人というとグループの中核企業である三菱東京UFJ銀行の従業員の3割に相当する人数である。
平野氏は、あくまで「9500人相当の労働力を削減する」と言っただけで、9500人をリストラするといったわけではない。余った労働力はよりクリエイティブな業務にシフトするとのことだが、皆がクリエイティブな業務に従事できるとは限らない。実質的な人員削減策と受け止めた銀行員は少なくないだろう。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22847550Y7A021C1EA30003

銀行大リストラ時代 3.2万人分業務削減へ
2017/10/28 19:17
日本経済新聞 電子版
みずほフィナンシャルグループ(FG)など3メガバンクが大規模な構造改革に乗り出す。デジタル技術による効率化などにより、単純合算で3.2万人分に上る業務量を減らす。日銀によるマイナス金利政策の長期化や人口減などで国内業務は構造不況の色合いが濃くなって来たため。数千人単位で新卒を大量採用し、全国各地の店舗に配置する従来のモデルも転換を迫られる。

http://blogos.com/article/229520/

記事
沢利之
2017年06月18日 16:43
三菱UFJ1万人人員削減計画、早期退職で加速が好ましい
3日ほど前ブルンバーグが「三菱UFJグループが今後10年程度で過去最大となる1万人規模の人員削減を検討していることが分かった」と報じていた。
・・例えば今後銀行が生き残ることができる分野の一つに「資産運用部門」を上げることができるが、資産運用部門で求められる人材・スキルは預金吸収・貸出型と全く違う。これを同じ人事システムで処遇しようとすると資産運用部門の優秀な人材は退職し、外資系の資産運用会社に移籍する可能性が高い。
つまり銀行は総人員を減らすだけでなく、専門分野で活躍する人材を長期的に育成・確保する必要があるのだ。そのためには人事制度の改革と大胆な人減らしが必要なのである。

私は三菱の発表まで水面下の動きを知りませんでしたが、10年間で何万人不要になるなどという悠長な発表のずっと前から果敢なリストラ・・足し算ではなく人員入れ替えが必要という意見が6月時点で出ていたらしいのです。
既存権利に手をつけずにそのまま温存して定年になってやめて行くのを待つ・新分野兆戦に適した能力のある人員を新規採用・・足し算して行くようなやり方では、入れ替えに長期を要しすぎて技術革新の早い現在では、企業が潰れてしまうでしょう。
以前から書いていますが千葉の例でいうと、旧市街の改造には利害が錯綜して難しいのであんちょこに埋立地造成(幕張新都心立地など)や郊外に住宅団地を作る足し算式政治でごまかしてきました。
人口がいくらでも増えていく成長期には足し算政治で良かったのですが、人口が現状維持になってくるとスクラップアンドビルド・何か新しいことをやる以上は何かを廃止しないと財政的に持たなくなっています。
数年前から、千葉市では(政治によらない)大規模な都市改造が始まっています。
ちば駅から遠い順にパルコ、三越百貨店が昨年中に閉店し代わって新駅ビルが完成してちば駅周辺集中・コンパクトシティ化に急速に進み始めました。
最早従来の決まり文句であった旧市街の活性化(見捨てるのか!)などの2正面作戦を言う暇がない状態です。
選挙制度改革も同じで、産業構造の変化に合わせて都市部の人口が増えて、投票価値格差が広がると過疎化した地方の議員数を減らさずに増えた都会の選挙区を増やして相対的に格差縮小を図る足し算方式でしたが、これも限界がきてついに島根県などの合区に手をつけざるを得なくなりました。
三菱の発表を見ると銀行業界はいわゆる護送船団方式と揶揄されていましたが、未だに手厚い保護でぬるま湯に浸かっているのではないかの疑念を持つのは私だけでしょうか?
東京などの大都会に限らず、地方都市に例外なくシャッター通りが生まれてしまった原因は、都市再開発用に旧市街の土地や建物の明け渡し需要が必要になったのに既得権の壁が強すぎて旧市街地に手をつけられない・時代適合の新陳代謝ができない状態・戦後の貧しい住居がひしめいたままだったので、郊外にスーパーや若者の住む住宅団地などが立地してしまった結果です。
若者だって市中心地で新婚生活したいし、スーパー等の業者だってできれば人のあ集まる中心地で開業したかったでしょうが、既得権保護の抵抗が強すぎて(大規模店舗法など)新興勢力を寄せ付けなかったので結果的に中心市街地が地盤沈下してしまったのです。
これを国単位でやっていると日本全体が地盤沈下し周辺の国々・・韓国等が潤うことになります・・・この例としては、成田空港開設反対運動の結果、空港の開業も拡張も思うように出来ないうちに韓国仁川空港等に国際ハブ空港の地位を奪われてしまった例が挙げられます。
労働分野でも生産活動や事業分野が根本的に変わっていく変化の時代が始まっています。
これに対応して企業も・・従来事業の延長・・熟練によってその延長的工夫だけで、新機軸を生み出すだけではない(車でいえば電気自動車、・・車製造の熟練の技では対応不能・・金融でいえばフィンテックなど)全く別の分野で育った発想や技術が必要とされる環境に放りこまれる時代になりました。
今日たまたま、歴博(国立歴史民族博物館)発行の2017年novenber205号26pの研究者紹介を見ていると、コンピューターによる古文書解読(くずし字等解読アプリ」を開発した)すごさを書いている文章が目にはいりました。
私のような素人にとっては美術館・博物館等で壮麗な金粉を散らした立派な料紙に(例えば宗達の絵に光悦の)流麗なかな文字の「賛』や和歌があってもよほど知っている有名な和歌などでない限り読みこなせないのでは・外国人が意味不明のまま見ているのほとんど変わらない・・とても悲しいことです。
美的鑑賞ではそれでいいのでしょうが、文字の意味も知って鑑賞できた方がなお感激が深いでしょう。
くずし字を自動的に翻訳できるようになれば、大した労力・コストがかからずに展示の都度楷書に印刷したものを横において展示してくれるようになれば、私レベルの人間にとってはとても助かります。
協調学習利用のためにクラウドソーシングのシステム設計によってオープン化した結果、現在は災害史料に対象を拡大し1日1万ページのペースで翻刻が進んでいることが報告されています。
この人は1984年生まれで2017年4月に歴博に採用されたばかりとのことです。
話が横にそれましたが、その道何十年の経験を積んだ人しか「くずし字」を読みこなせない・この分野に新しい技術をひっ下げた分野外から新技術者導入の快挙の例です。

継続契約保障と社会変化3(借地借家法立法3)

12月6日に出たばかりのNHK受信料に関する最高裁判例で時間軸をhttp://www.toranosuke.xyz/entry/2016-1105_nhk-saikosaiによって見ると以下の通りです。

事件の概要 *6
2006年3月、テレビを設置、「放送内容が偏っていて容認できない」と契約拒否。
2011年9月、NHKは男性宅に受信契約申込書を送付したが、応じず。
契約の申し立てを行った時点で契約は成立すると、NHKは主張。
1審:東京地方裁判所判決(2013年7月判決)
2審:東京高等裁判所 (2013年12月18判決, 下田裁判長)

となっていて、超長期の時間がかかっています。
弁護士が判例を説明して、企業からどのくらいの期間で決まりますか?と聞かれてもそう簡単には答えられないの実情です。
これでは企業活動(大手マンション業者の場合には、見込みだけであちこちにちょっかいを出しておいて買えるようになった順に仕入れていけばいいのですが、事業用地取得・・デパートの出店や工場進出などの場合には売ってさえくれれば駅に近ければどこでもいいという訳にはいかないので長期間不確定では事業計画がなり立たない・・不向きな制度設計になっています。
判例さえあれば良いかというと実務的には大違いなのが分かるでしょう。
この法制度がない時代にも事実上適正な立ち退き料支払いの示談で出てもらって都市再開発などができていたのですが、建築後4〜50年以上のあばら家に住んでいる借地人や借家人に正当な立ち退き料の提案をしてもアクまで「金の問題でない」と言い張られると法外な立退き料を払うしかなく、法的に強制する方法がありませんでしたが、判例は徐々に自己使用目的でなくとも金銭補完を認める方向に動いていたのです。
借地制度は、戦後牢固とした勢力を張る「何でも反対派?」(社会変革反対)政党の基礎的制度ですから、解約の自由度をあげる改正には頑強な反対が続いていました。
これでは時代即応の都市設計・再開発が進まない不都合があったので、借地借家法が新規立法の機運が盛り上がったのです。
昨日借地借家法の付則を紹介しましたが、「付則」とはいえ、これが最重要部分で(超保守系)革新政党との妥協によって、既存契約に適用なしとする妥協がされたので、過去の契約に関しては、従来通りとなってしまいました。
今どき新規借地契約をする人などめったになく、存在する借地権等はいつ始まったか分からないほど親や祖父の世代からの古いものが中心ですから、新法では古くからの借地の再開発案件には利用できないままですから、新法制定による都市革新促進効果は(定期借地権付き大型マンション等でたまに利用されることがある程度で)限定的になっています。
時代遅れのブティックやレストラン等の場合、この先何十年も建て替え予定がないのに「今度家を建て替えたら綺麗にするから」というだけでリフォームを一切しないのに似ています。
このように「弱者救済」の掛け声ばかりでなんでも反対していると木造密集アパートばかり残って行く・・近代化阻害ばかりでは災害対応も無理ですし、国際都市感競争に遅れをとるのが必至です。
車や電気製品のように短期に買い換えて行く商品の場合には、新製品からの規制・・排ガス規制というのは意味がありますが、超長期の借地契約でしかも無制限的に更新が保証されている借地関係では、(しかも新規借地契約など滅多になく旧契約が問題なのに、)今後の契約からの適用ですと言っても社会的にほとんど意味がないことなります。
都市再開発や新規事業用地取得の障害になって困っているのは、新規借地ではなく明治大正昭和前半に、大量に生み出された山手線の内外に多い古くからの借地です。
古くからの借地が事実上無期限に更新されていく前提ですと新法制定の効果がほとんどなくなります。
現代型借地契約として時々見かけるのは、大型マンションの場合、多数地権者からの買収が必須ですが、開発用地内の一部地主が先祖伝来の土地を売りたくない(一時に大金が入ると税負担が大きいなどいろんな事情で)と頑張った場合、便法としての「定借」が利用されるようになっている程度でしょうか。
あらたに生まれた定期借地権の利用形態としては、ビル用地の一部に所有権を残しておいても50年程度の長期ですから、(自分が生きている間には)配当金をもらうだけの債権に似ていて「保有」している意味が実際に無い(50年先に何か言えるというだけ)のに比して、マンション等ビル保有者の方は50年先にどうなるか不明で不安定になるマイナスだけで新規借地を奨励するべき社会的意義がほとんどありません。
マンション法の累次の改正で特別多数で所有権の一態様で有る共有者に対してさえ、強制的改築(建物取り壊し決議)ができるようにになっているのに、地主というだけで(全体敷地の1%しか持っていない地主が合理的理由なく拒否権を発動できる)老朽化したマンションの死命を制することができるのは、おかしなことだという時代が来るべきでしょう。
長期的には借地という半端な制度は臨時目的の1時使用目的以外にはなくなって行くべきではないでしょうか?
自分で利用する予定のない土地を持つこと自体がおかしいのであって、必要な人がいて相応の価格で買いたいといえば手放すのが筋です。
数十年あるいは50年以上も先まで土地利用計画すらないのに、売るのを拒否して所有権維持にこだわる人をなぜ保護するのか分かりません。
こういう不合理なヒト・しかも社会にとって迷惑なひとを保護するために、(既存借地の流動化を図るためならばわかりますが)いつでも返してもらえるような法律(新借地法)を作るのは方向性として間違っています。
有効利用もしていないのに「あくまで売りたくない」と言い張る所有権者の乱用と同じで、いったん借りたら既得権になって周辺の発展を無視して巨額立ち退き料を積まれてもアクまで「この古い家が好きです」と言い張って占拠し続けるのを社会が保証してやるべき・・どういう借地人でも「何が何でも保護すべき」という論者がいるとしたらこれも異常で、どういう社会のあり方を想定しているのか不明です。
バブルの頃に小さなラーメン屋か薬局だったかで何億という立ち退き料支払いが何件か話題になっていましたが、そのたぐいです。
※ ただしH6年の最高裁判例によって相当の対価が提供されていれば正当事由が補完されるようになってることは昨日紹介した通りです。
都市再開発での借地権問題同様に既得権には手をつけない・先送りしか出来ない問題は、厳しい解雇規制の結果、国際競争にさらされている大手企業の雇用現場で起きています。
企業でよくいう新事業向けに再構築し直すときに旧事業向けの余剰人員をリストラしないで、定年退職対応の新人不補充・(解雇規制があるため)「自然減を待つ」というのも同工異曲です。
1〜2ヶ月ほど前に三菱UFJBKの(フィンテック化進展等による)大規模人員不要化発言が話題を集めましたが、不要になるというだけで希望退職を募るのかすらはっきりできない・・不明の批判を受けているのは、解雇制限法理による点は、借地法関連の保護法理が支障になっているのと根底が同じです。

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