政争と粛清3(大躍進政策・モンゴル人等の大虐殺)

頭のいい人・秀才から見れば訳のわからない?人を抹殺しないで、グダグダした言い分を根気よく聞いて「納得」の上で進めないと内政はうまく行きません。
民進党の野田元総理が堅い支持基盤を持っているのは見るかに愚直・言葉にならない気持ちを近いしてくれそうな風貌(具体的に知らない大多数にとっては内容もそうだろうという安心感)によるでしょう。
私の持論ですが、秀才が政治運営するのは無理があります。
秀才?理念先行の集団が政権を取ると面倒な利害調整を端折って党内抗争で勝った方が独裁→計画経済=国民に対する問答無用の強制→抵抗勢力・集団・少数民族に対してはまとめてシベリヤへ強制移住・権力内部では猜疑心の再生産になって終わりのない個別政敵粛清に行き着いたものです。
ポルポト政権の大虐殺も中華人民共和国政府がモンゴル族や満州族、チベット族を大量抹殺したのも説得の手間を省く同じ流れでしょう。
チベット族の民族抹殺政策はインドに亡命したダライ・ラマの抵抗によって世界に知られていて、以下紹介する大躍進政策失敗に関するウィキペデイアの解説にもチベット族関係が出ていますが、モンゴル・満州族等に関しては記述がありません・・外部に逃亡しようのない内陸部の満州族やモンゴル族の大量虐殺はもっとひどかったのにまだ一般化していませんが、そのうち一般化して来るでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/によると以下の通り(引用文献名が地道な調査報告でない点が実態そのものか単なる主張に類するものかどうか頼りないですが、)人口の6割も被害を受けていると書かれています。
(追記10月19日日経朝刊6pの中外時報欄に「楊海英静岡大学教授らの研究によれば内モンゴルで文革中に『モンゴル人のジェノサイド』が起きた。ただその実情を伝える情報は中国の内側では封印されている」してとさりげなく触れているように徐々に大手新聞も扱うようになってきました。)

「内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴル-じんみんかくめいとう-しゅくせいじけん)とは、1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。」

内政を底上げするには根気よく民度をあげるしかない・「急がば回れ」の諺通りですが、民度アップは強制・恐怖政治では無理ですし・・平和な社会でしか民度が上がりませんから(現在のシリアのように日々生命の危険にさらされていると大人も自己啓発できないだけでなく、次世代の教育すらできません)、暴動や革命による社会の混乱は生活水準・民度アップの目的には反したマイナスの結果を生みます。
受け皿になる社会実態の変化がない以上社会を権力で変えようがないのですから、中国のように何回王朝が倒れても同じ政治形態をとってきたのは実態に即した知恵だったのです。
あたらしいスローガンで政権奪取しても、社会がその段階にない場合や社会が新しいステージに入っていても政治運営経験や能力がなくてその実現能力がない場合には、手っ取り早い政権維持のためにクロムウエルやジャコバンのようにエネルギーを政敵を粛清したり政敵駆逐が片付いて独裁体制が固まると今度はナポレンのように外延拡大に向けることになることを書いてきました。
イワン雷帝以来ロシアは外延拡張政策に突っ走ってきて、民生向上に向けるべき資源を民生に向けられなかったので西欧諸国と生活水準で大きな格差が生じていたことが革命を必要とする原動力であった筈ですが、ロシア革命後利害調整の必要な民政能力のない悲しさで、(レーニンも新経済政策・ネップをやったもののうまく行かず、「1歩前進二歩後退」などと失敗をごまかしていましたが)結果的に後継者は外延重視政策に切り替わって行くしかなかったと思われます。
その結果数千万の餓死者を出しながら穀物輸出をつづけ〜国民不満を抑えるためのスターリンの大粛清政治となり、国内では粛清が怖くて批判できず、民生は縮小均衡の螺旋状態に陥っていました。
この辺は毛沢東の何千万の餓死者を出したと言われる大躍進政策(政権奪取→毛沢東の党内基盤確立後民生向上に踏み出した点は正しかったのですが)とこれに続く文化大革命も同じです。
ウィキペデアによる本日現在の大躍進政策の記事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した
しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で米英を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、需要や流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策によるチベットの惨状について
パンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[3]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[3]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[3]、パンチェンラマは次のように書いている[3]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
政策の結末
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[8]
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[9]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

内政経験未熟2(ロシアの場合1)

国政担当者になれば、市民運動のように一方の立場だけ言い募れば良いものではありません・・。
革命成功には(まずは従来の対立を棚上げしての大同団結成功によりますが)多くの集団利益の糾合によりますが、権力奪取に成功してみると権力を倒そうという共通の目的がなくなります。
政策のすり合わせで一つの党になったのではなく当面の敵・政権打倒のための薄氷の団結では、政権を奪った後に棚上げが解消されれば対立が復活するのが当たり前で統一政権の展望がもともとありません。
命がけの革命が成功した以上は、各集団構成員は当然自分たちの現状に対する不満解消=要求が通ったものと感激し期待しますので、革命騒乱前の対立利益の棚上げ我慢が解消される期待・・革命勃発前以上に自己集団利益・主張の実現期待が高まっています。
政権運営者運営になると従来以上に妥協が必要なときに逆に出身母体の要求実現圧力が高まり利害対立が尖鋭化します。
戦国大名の合戦勝利後の恩賞争いは参加豪族の求めるものが同じ方向、領地等ですから競合豪族の得た恩賞が自分より多く(他の武将が60の恩賞もらい自分が40しか恩賞がもらえないのは悲しいですが、)自分の領地が減らされる関係ではありません。
革命後の政策争いの場合には、競合相手の主張が通ると自分の主張が否定される関係が多いので、「主張がとおってよかったね」とお祝いするどころではない・・簡単にはおさまりません。
もともと意見が相容れないから別組織を作り相互に敵対していたのですから、革命実現後の昂揚感で小池氏(は選挙で勝つ前に表明したのですが・・)のいう通り「さらさらない」譲る気持ちが薄れていますのでまとまるはずがありません。
最大共通の敵である政権(たとえば3〜4割の支持を受けていた最大政党の政権)を打倒するために残り6~7割の大同団結で(内部党派の内訳が15%〜13%〜12〜10〜9、5〜8%〜・・.=6〜70%)で政権奪取した場合、革命成功後の妥協が難しくなり離合集散を繰り返した挙句、最後は血で血で洗う内部抗争が始まるのが普通・西洋革命やロシア革命の経験です。
日本では、民主党の寄り合い世帯の矛盾がいつも言われていましたが、要は「自民党を倒し政権交代のための大同団結」という呼びかけに応じること自体に、政権獲得後の政権運営の展望がないことを自己表現しているのですから論理帰結というべきです。
家の建て替え案について借家に引越すかを含めて10種類の案の対立があってまとまっていないのに、先ず取り壊すことの賛否をとって取り壊してしまい、後で野宿しながらゆっくり決めるようなものです。
もともと合理的妥協できない体質の集団同士が、(中国の国共合作や日本で言えば選挙協力)当面の敵を倒すだけの目的で団結しているのでは当面の敵を倒して政権を取ったのちの熾烈な政争・国政混乱を前提にしているのですから、政権担当能力の無さを自ら示していることになります。
民進党内の保守系や連合が、共産党との選挙強力に断固反対していたのは、その後の熾烈な内部抗争では鉄の規律を誇る共産党に負けてしまう・3日天下の恐怖があるからです。
ロシア革命ではボルシェビキが多数の支持を受けたのではなく選挙では負けていたのに、武力圧倒(言わばクーデターです)した歴史があります。
クロムウエルの独裁も鉄騎兵という武力背景によるものでしたし、ナポレンも軍を背景に頭角を表したものです。
メデイアは総選挙得票数を見れば野党合計が与党合計を上回っているとしきりに宣伝しますが、妥協能力のない政党選挙目的で団結してもが仮に7割あっても大同団結の結果政権を取ると、外敵がなくなった後はお互い妥協能力のない人の集まりですから、ロシア革命の推移を見れば明らかなように連立政権の内部抗争で四分五裂し、最後に勝ち残ったグループも政治運営経験がない上に相手が合理的説得になじまない原理主義的傾向グループばかりですから、結果的に国民支持が10%以下の最も残忍なテロ行為を行える狂信的集団の政権確立・・内政では独裁・恐怖政治や対外冒険主義に陥ります。
ロシアや中国のような後進国でない先進民主主義国においても、民選議員が離合集散を繰り返すことに対する国民不満を背景に強力な政府・統領制への期待が高まるので、統領政治→独裁(前近代では中国のようにその都度前王朝制度の踏襲・あるいはフランスのようにナポレン帝政となるなど・1党独裁制度の場合には終身党首)→恐怖政治のパターンとなる確率が高まります。
第一次第二次ナポレン帝政を見ても分かるように、内部抗争がなくなると次々と敵を求めて対外戦争や紛争を起こすパターンです。
革命主導したレーニンは資本主義→帝国主義戦争が必然と主張していましたが、歴史を見れば逆に革命(素人で内政能力欠如)→対外戦争が必然的というべきでしょう。
日本の薩長土肥政権・古くは鎌倉や室町幕府・徳川政権の成立後この構成集団間で粛清政治にならなかったのは、もともと主義主張や利害対立で反目していたのではなく地盤が遠く離れていて別の領地を持っていたから別集団になっていたに過ぎない・・上記の通り論功行賞の競合関係しかない面と、構成大名それぞれ小なりと言えども先祖代々からの領地内の内政経験が豊富にあったから利害対立の捌きかたをよく知っていたことによります。
政権運営経験のない後醍醐政治が失敗したのは、失政を誤魔化すための恐怖政治に走ることを許さない民度の高さによります。
清教徒革命の場合クロムウエルの独裁、フランス革命の場合ジャコバンの恐怖政治・ロシアの赤色テロなど世界で有名な革命では例外なく独裁→恐怖政治に陥っていることが知られています。
以下は、赤色テロに関するウィキペデアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の引用です。

ロシア
レーニンは、早くから革命にはテロリズムは必要であると考えていた。彼はフランス革命や自らの兄アレクサンドル・ウリヤノフも信奉したロシアの虚無主義、セルゲイ・ネチャーエフを研究し、熱心にテロを奨励したと言われている。
1918年8月30日、左翼社会革命党の党員ファニヤ・カプラン(英語版)がレーニンを狙撃した暗殺未遂事件が発生すると、同年9月にレーニンは「赤色テロ」政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言した。しかし既にボルシェビキによるテロはいたる所で行われており、この宣言はそれを正当化した形であった。レーニンは、秘密警察チェーカー(後のKGB)を動員して反対派を徹底的に粛清。国民に密告を奨励して「反革命」とみなされた人物を次々と逮捕・処刑した。ロマノフ朝最後の皇帝であったニコライ2世一家もエカテリンブルクで全員虐殺された。この他の皇族や、資産家、クラークなども、亡命できた者を除いて「人民の敵」というレッテルを張られて裁判もなしに殺害された。これらの事実は欧米に衝撃を与え、ナチズムなどの反共主義が広がる要因となった。
カンボジア
1976年に親米政権を打倒して政権を掌握したクメール・ルージュは、農村部から都市部に至るまで、反対派を大量に殺戮した。クメール・ルージュによる大量殺戮は、1979年にベトナム軍が介入するまで続いた。
中国
毛沢東の主導で行われた大躍進政策や文化大革命は中国において行われた典型的な赤色テロの例であろう。大躍進政策では数千万人が餓死し、文化大革命でも数千万人が虐殺されたとされている。」

上記の通り、もっとも温和な国民性と思われていたカンボジアで共産党政権になると大虐殺がおこなれていたことを見ても、ソ連のおそるべき粛清政治はスターリン個人の資質によるものではありません。
共産主義政党に限らず西欧流の主義主張の強調によって、(相手をけなして)政権を取る方法(集団内部で結果的に妥協を拒む原理主義者・・純粋主張・純化論が幅を利かしがちです)はこうしたことになり易いことを示しています。
日本のように尖鋭な主張を嫌い茫漠とした人格採点の方が穏当なところ落ち着きます。

メデイア誘導の害(韓国の場合)

日本でも具体的事実報道をしないで、しきりにムード宣伝・衆愚政治化を煽るメデイアの姿勢を見てきましたが、メデイアの世論調査が正しければ日本人の底レベル化が進んでいるのでしょうか?
これまでメデイアの煽りに対する関心から書いて来ましたが、視点を変えれば論理も何もいらない・・怪しいと言う洪水的報道の方が視聴者が増えると言う営業的な視点から各メデイアが徐々にムード報道を加熱していった可能性があります。
誰が悪いといっても始まらない・・何ごとも国民レベル以上の社会はないと言うことでしょう。
これは一過性であって、根拠なく煽ったメデイアを含めた政治勢力はスローガンに頼った旧社会党などと同様に後で国民の厳しい審判をうけることになるのか、結果を待つしかありません。
漢字熟語を庶民に教えない韓国社会では合理的思考になれていないのでメデイアの煽りが「短期的どころか長期的にも」そのまま効果発揮する社会になっているように見えます。
韓国でもメデイアの虚構性に気付く人の比率は日本同様なのかもしれませんが、韓国の場合国民が弱すぎて本音を全く言えない社会の結果、メデイアの煽りがそのまま是正されない状態になっているだけかも知れません。
トランプ氏登場以来、メデイアのフェイク性が話題になってきたことは良い傾向です。
話題が横に逸れましたが、漢字熟語を学校で教えなくなると自発的に学ぶ意欲がなくてを自然消滅させてしまう民度レベル・・感情に訴える社会構造を見れば、メデイアが日本のように愚民化するために苦労して感情をある必要がなく逆に衆愚に迎合して一緒に煽ってれば良いので気楽かも知れません。
「韓国政治は感情8割とか9割」とか言われる状態の基礎はここにあると言うべきでしょう。
制度的に国民に(難しいことは)シラシムベカラズ・・「風評で行動すべし」と言う社会意識の植え付けが成功しているからこそ、ろうそくデモその他過激な運動が起きるのです。
日本ではメデイアがいくら衆愚を煽っても結果的に野党の方が支持率が下がる・・国民の冷静な判断力がありますが、韓国ではすぐに感情のままに政治に反映してしまうのは民度の違いです。
民度差は結局のところ、文字普及の差にあると思われます。
ハングルの表意性についてもう少し書いていきます。
表音文字とは言いながら、文字数が多すぎる点については、パソコン用の文字数で言えば以下のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB#.E3.83.8F.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.AB.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.AA.A4.E8.A7.A3
「字母を組み合わせて作られる文字の理論上の組み合わせは11,172文字だが、実際に使用されるのはその半分以下である(1987年に韓国の国家標準となったコンピュータ用の文字セット(KS完成型、KS C 5601-1987)には日常の99%が表記できる範囲として2,350字しか含まれなかった)。」
上記を見るとひらがなの50音やアルファベットの数に比べ多すぎる・・そんなに多くの音の種類が世の中にあるのか不思議ですが、ハングルは音をあらわすに過ぎないと言いながら実際にはある程度の意味も含んでいる(ひらがな文に漢字が少し入っているイメージ?)のではないでしょうか?
世宗の言った「訓民正音」論は反対派をおもんばかった政治的発言に過ぎなかったと見るべきでしょう。
ただ、この程度の表意性では内容が乏し過ぎる・・(私の憶測に過ぎませんが日本で小学生が漢字を習う程度の内容しか表現できないとすれば)表現内容が限られることから、ハングルしか知らない世代が増えると抽象的思考を巡らすには概念不足でないかの疑問です。
世宗の時代から徐々に発展して、今ではかなりの高度概念表現も可能になっているかも知れませんが、成り立ちが表音文字ですから意味を含ませるとしても限界があるのではないでしょうか?
大学へ行っても歴史的文献を読むのが必要な分野に進まない限り社会生活で漢字に触れる機会もないまま・学ぶ動機が生まれないままでしょう。
ただし、1965年の日韓条約以来、日本の経済・技術援助に伴い大発展してきた経緯から、企業活動の大部分では日系企業との接点が重要ですから、必要に迫られて日本語習得に必要な漢字熟語の習得が進んでいる印象です。
公式発言とは異なり、(大学等で正式に外国語として日本語を習わなくとも身近に日本語を話す人が一杯いて)事実上の日本語習得率が極めて高いことを知って置く必要があります。
日本の悪口を言いながらも、在日がしょっちゅう韓国へ帰国するしその親族がしょっ中日本訪問しています。
直近の訪日数の報道です。
https://www.j-cast.com/2017/05/06296409.html?p=all
「日本を訪れる韓国人観光客が増えている。2017年3月は、前年同月比で3割増となり、3月としては過去最多となった。
こうした傾向について、韓国メディアの中には「両国の関係は冷え込んでいるのに…」と驚きをもって報じるメディアもある。」
聯合ニュース「韓日関係と旅行は別?」
日本政府観光局が17年4月19日に発表した訪日外国人数(推計値)によると、3月は前年同月比9.8%増の220万5700人だった。うち、韓国からの観光客は48万8400人と3月としては過去最多となり、前年同月比でも30.6%増と急増。最多の中国(50万9000人、同2.2%増)に迫る数字となった。」

JBpress8月16日の記事からです。(8月9日から15日までで家を空けていたので、いま修正追加)
末永 恵
6日前 訪日客で韓国人が首位返り咲き
 7月19日、日本政府観光局は、今年上半期(1月~6月)の訪日外国人旅行者数を発表。前年同期比約18%増の約1380万人と、上半期では過去最高を更新。年間最多の約2404万人を記録した昨年を上回るペースで、消費額も同約9%増の2兆456億円と、初めて2兆円を突破した。
訪日客の中でも、韓国人が約43%増の約340万人と、地域・国別で4年ぶり(上半期)に首位に返り咲いた。」
上記は観光客だけ(のはず)ですが、経済交流に比例してのビジネス入国数は1965年の国交回復後半端な数ではないはずです。
中国の訪日数も反日騒動後ものすごい勢いで増えていることは周知のとおりです。
政府は反日を煽っているが自分たちは、うっかり本音を言えませんが・・日本時代が良かったと言って殴殺された例を紹介した「・・本心では日本に憧れています」という国民の抵抗の意思表示でしょう。
観光名目でも内容は色々ですし、単純計算は正しくない(同じ人が何回も来るなど)としても年間仮に6〜700万人も来ると10年足らずで一度は全韓国人が一回きている計算です。
リピーターがいるので1回も日本へ来た人がいないとしても、その代わり1回しか来ないより数回以上来たひとへの日本文化の影響を深くなりますのでそれらの人の韓国民全体への影響力が大きくなる傾向があります。
朝鮮通信使時代にはホンの限られた人数しかこないので国内に日本の発展を知らせないですみましたが、こんなに大量にくると文化輸入禁止=思想統制しても無理があるでしょう。
中国政府もいくら思想統制して日本人は残虐だと教育しても、(実習生や犯罪目的も含めて)年間5〜6百万人も訪日するようになると無理が出てきているようです。

投資過多社会3(中国の場合)

固定資産投資が6割を超える・・公共工事主体であるから、GDPが上がってもその割に税収が上がらないのは一見当たり前とも言えますが、それも実は違っています。
必要な公共投資・・例えば道路が渋滞していて二時間かかるコースに高速道路を通して15分に短縮すると、投資額の何倍もの生産効率アップ効果が出ます。
峠を越えるのに4〜5時間かかっていたのをトンネル開通で20分で山の向こうに行けるようになる・・目の前の対岸に行くのに遠くまで迂回してクルマで40分かかっていたのが目の前に橋が出来て僅か5分で行けるようになる・利用数さえ多ければ投資の何倍もの生産効率アップになります。
即ちこの分企業業績が上がり税収が上がります。
このように発展・高成長段階ではインフラ投資が盛ん・・その年度には税収が上がらなくとも、経済活性化の恩恵が数十年単位で続く・税収が上がって行くのが普通・・その後はその恩恵を受ける一方ですから税収弾性値が改善します。
成長が落ち込み始めてからの固定資産投資は上記のような必要性の低いもの・・効率の悪い分野しか残っていない結果、一般論として税収が増えない結果になっている可能性があります。
人の乗らない鉄道や人の住まない投機目的のマンション建設などでは、工事期間中の資材供給生産や人手需要効果がありますが、完成後の生産アップに関係がないばかりか、企業にとっては1需要減10のところ生き残るためのお情けで公共工事の受注で3の補給を得ても、死なない程度・赤字の程度が軽くなる程度・・利益が出ないので結果的に税収増に結びつきません。
税収弾性値の下降が注目されているのは、ゾンビ企業への追い貸しや赤字補填的目的の仕事造りを反映しているだけではないかと言う意見でしょう。
仮にGDP統計が正しいとしても無駄な事業に資金をつぎ込んでいるのではその先がありません。
表向き発表しているGDP維持や倒産先送りのために資金を浪費しているのでは却って中国にとって大変な損失です。
昨日紹介した
「成長率の低下に耐え切れず、投資依存型の成長を続けるのか。習近平体制は歴史的な分岐的を迎えた中国経済のかじ取りを任されている」
という 三浦 有史氏の意見は、(13年1月)「無駄な投資をやめる勇気が習近平氏にあるかを問う」ものでしたが、未だに追い貸し的投資を続けている以上・・その勇気・実力がなかったと言うことでしょう。
以前は電力消費量がGDPの伸びに合わないと言われるとこの統計をいじり、今度は、トラック輸送量統計に合わないと言うとこれも・・と次々です。
最近では全人代の後で、マンション時価評価指数?発表が禁止されたと報道されています。
相場下落が始まる報道によるパニック売りを予防するためなどと言われていますが・・。
産業が育っていない地域へ工場誘致した場合に地域の技術基盤底上げ効果に関する以下の論文の最後・・高速道路などの便宜性などで目当てにイキナリ進出した地域など・・60年代以降の大規模先端産業誘致の場合、地場産業興隆や技術アップに結びつかない・・工場に出て行かれればおしまいになる流れを書いています。
アメリカの場合地場産業の集積のない地帯に、鉄鉱石その他資源だけを目当てに大型工場が一気に進出した結果、いわゆるラストベルト地帯やデトロイトなどで町が錆び付いてしまった原因と思われます。
深圳特区などの大規模工場群出現は以下の1ー2に当たるのか、「2.企業誘致型産業振興の限界」「3.変わりつつある国内工場の役割」に当たるのかの関心ですが、もしかしたら他所に逃げられたら終わり・・うまく行かない典型パターンになる確率が高いのではないでしょうか?
以下工場誘致効果に関する論文の部分抜粋引用です。
https://www.iuk.ac.jp/chiken/pdf/regional_studies38/tomizawa.pdf
  地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
   富澤 拓志
1.地域に定着した分工場
1-1.誘致工場の周囲に地元企業が創業して形成された産業集積
誘致した企業・工場が母胎となって周囲に関連工場や企業が創業し,集積を形成したものがある。例えば長野県の諏訪市・岡谷市の産業集積や坂城町の産業集積などはその例である。・・こうした人材の蓄積は,それまで地域産業を牽引した大企業が破綻したときにも地域産業の崩壊を防ぐ効果を持った。この点で諏訪地域の産業集積の経験は印象的である。諏訪地域では,主力製品が時計,オルゴール,カメラ,プリンタ,産業用機械と時代に応じて変化してきたが,その移り変わりの都度,有力メーカーの倒産や地域外メーカーによる買収等が起こっている。企業の解体・縮小の都度,その従業員の流出が生じたのだが,その従業員から地域内で中小企業を創業する起業者が出現するのである・・略」
「浜松のソフトウェア産業集積は1980年代以降に形成されたが,浜松地域のヤマハ発動機やスズキ自動車など複数の輸送用機械メーカーがこの創生期に顧客として存在したことがソフトウェア製品の開発に大きな意味を持った。
・・略
1-2.多数の工場を誘致することによって外来の工場が主体となった集積
第二のケースは,自治体による積極的な誘致が功を奏し,多数の外来工場が立地したために産業集積が形成された例である。
・・・中略・・・こうして外来の工場群がまとまって立地することによって,地域内の工業系人材が地域に残ることができるようになった。また,同種の技術を持つ中小企業が複数立地しているため,これらの企業に共通の課題を立て,地域全体で技術開発などの具体的な連携・交流活動を作ることもできるようになった。
1-3.集積を形成していない分工場
しかしながら,これらの地域のように,誘致された企業を中核として産業集積を形成するケースはそれほど多くはなく,進出企業が孤立したまま地域内に産業連関を形成しない場合がほとんどである。
2.企業誘致型産業振興の限界
・・・・・略・・1960年代以降製造業,とりわけ機械工業で進展したオートメーションとシステム化という二つの技術革新によって,それ以前の労働者個人の属人的な熟練労働に依拠した生産体系が,管理労働と単純労働とへ分化した。これは,それまで企業内で進められていた分業システムを企業外へ拡大することを容易にし,その結果,それまでの工程に固有の労働能力を必要としない単能的な労働力を分工場,あるいは下請系列工場の形で地域分散的に調達・編成することが可能になった。
・・・これにより,地方に展開する工業の構成が立地選択の幅が広く海外と競合
しやすい量産品の生産機能に集中するという地域産業構造の「純化」(柳井
1996)が生じたのである。・・・・ほとんどの地域では,依然として管理・開発機能を持たず,都市部の管理に服する分工場・下請的な生産機能のみへの特化が続いている。従って,企業誘致による地方の工業化は,地域の産業連関を深化させ産業を発展させることには十分つながらなかった・・。
3.変わりつつある国内工場の役割
・・・分工場経済への転化は,・・・・地方は従来の分工場の進出先という役割をアジア諸国によって奪われつつある。これは,地方で「純化」される生産領域が,アジア諸国が競争力を持つ生産領域とほぼ重なっているからである(関・加藤Op. cit..)。このため,地方が従来果たしてきた量産品の生産機能の受け皿としての役割はアジア諸国に取って代わられつつあるのである。」
以上の日本国内分析を見ると中国が先進国から誘致した先端工場が東南アジアに取って代わられつつある実態と重なっています。
アメリカの既存大工場・ラストベルト地帯も同じ運命にあることが分ります。

投資過多社会2(中国の場合)

1昨年あたりから、企業負債伸び率がGDP(これも実態に合わない蒸かした数字と言う声が多いですがそれに比べても)の伸びより大きい現象・・生産増のための投資よりは、国有ゾンビ企業への追い貸し分がこの差額に当たると言われています。
過去にはGDPが実態より膨らましている批判根拠に電力消費や輸送統計の伸びよりGPDの伸びだけ何故そんなに大きいのかと言われて来ましたが今度は金融の伸びが大き過ぎると言う逆批判です。
この辺の議論の方法は税収弾性値論による批判でも同じです。
以下日経の記事を紹介しますが、過剰投資によって成長していたのは鉄鋼や造船業だけではなく、以下のデータによればこれから中国の時代ともてはやされていたものの、内容・実態は酷いモノだった・・全般的に生産性が上がっていないことが明らかです。
いわゆる限界資本係数の考えで、中国ではこれが一貫して上がっている・特にリーマンショック以降係数が上がる一方で投資額に見合う生産増が起きていない異常性です。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130222/244092/からの引用です。
「中国は、鄧小平氏が経済改革に着手してからの30年間、年平均9.8%というペースで成長を遂げてきた。だが世界銀行によると、このうちの6~8割は投資によるもので、生産性の向上は2~4割しか寄与していないという。」
「現在の中国は、低迷する外需、脆弱な内需、上昇する労働コスト、低い生産性といった問題を抱えながら成長を維持するために、投資に過剰に頼りすぎている。 」
「中国の1995~2010年のGDP(国内総生産)成長率は年平均9.9%。この間、固定資産投資(インフラと不動産開発計画への投資)の規模は年平均20%増え続け11.2倍拡大した。そのため、固定資産投資の総額は、平均でGDPの41.6%、n2009年には過去最高の67%に達した。大半の先進国ではあり得ない数字だ。
 中国のGDPに対する投資比率が上昇している背景には、投資効率が悪化していることがある。それは、限界資本係数(年間投資額を年間の生産増加額で割った数値)の高さに表れている。」
GDPアップを自慢していても中身は無駄な公共投資によっていることが、以上の記事で明らかです。
しかもその資金が自分で汗水たらし貯めた資金ではなく、外国からの誘致資金(あぶく銭)によっているので、無駄遣いし放題・「どうせ他人の金」と言う意識があるからでしょう。
巨額賄賂がはびこるのも、外資による元々の地元相場の何倍~何十倍もの天文学的売却金が入るのを目にすると許認可権を持つ関係者がいくらかのバックを期待したくなりやすいし、払う方も抵抗が少ないことが背景にあるでしょう。
世界中の高成長時・・日本でも田中角栄時代や後進国の開発独裁に汚職~不健全資金移動が付き物である構造的原因です。
リターンを求めて行うのが民間投資ですから投資効率が下がると民間投資資金流入が減少し、さらにストップないし逆流を始めます。
その穴埋めとして公共投資を活発化するのが普通ですが、緊急失業対策としての意味があってもこれによって新規産業創出に成功することは滅多にないのが普通です。Gdpアップに繋がらない無駄な投資が続くわけがない・・いつか資金切れになるのは規模の大小を問わず自明ですが経済規模が大きいと費用対効果の関係が複雑化するので統計さえいじればごまかしの利く期間が長くなります。
以下促成栽培的高成長をを狙う工場誘致の問題点に入って行きます。
ラーメン屋であれ、弁護士独立であれ、本来地道に稼いだ資金をためてから独立や規模拡大すれば相応の技術があって手堅いのですが、まだ十分な技術や顧客がつかないうちに親がお金を出して貰ってイキナリ独立しても投資に見合う収益増が期待できません。
国全体で見ても同じで投資が投資を呼んでいる間は土地造成や工場建設等による生産増がありますが、まだ工場の稼働が始まらないので投資額の割に生産増にならない・・限界投資係数が上がります。
高度成長期に限界投資係数が上がるゆえんですが、順次稼働率が上がり始めると次第に限界投資係数が下がっていくのが健全なあり方です。
地方・・後進国への大規模工場誘致は、自発的産業がいつまで待っても育つめどがないから手っ取り早く(促成栽培)成長するには外資あるいは中央から大企業の工場を引っ張って来る方が良いとの判断が基礎にあります。
導入した地域から見れば一種の外資ですが、あんちょこな分に比例して・・誘致した大工場が世界戦略上海外に出てしまうと残された工員には自分たちで何かを始めるほどの技術が育っていないから途方に暮れるのは当然です。
この典型事例が北海道夕張市の破綻でしょう。
炭坑がある間に関連技術が地元に育っていない・・炭坑閉鎖後残された労働者が新規産業を起こすべき力がない結果失業対策に公共工事をする・・投資に見合う新規産業創出や生産増がないので公共工事が終わると仕事がなくなり財政赤字が残ります。
規模が小さく単純経済だったので結果が早く出たと言うべきで、工場海外展開→他の多くの自治体も似たようなことをして来ました。
そこで地方政府が何とかしようとして無駄な公共工事・・箱もの行政に精出して来た結果、どこでも赤字体質になってしまい、この10年ほどはその修正に必死です。
以下はhttps://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/jrireview/pdf/6646.pdf
投資効率の低下が顕著な中国経済  ─習近平体制下で「発展方式の転換」は可能か─
   日本総合研究所 調査部 主任研究員 三浦 有史
からの部分的引用です。
「中所得国の罠」に陥っている国の共通点は、低所得国から中所得国入りした際の成長パターンから脱却できないことである。その一つは投資依存型の経済成長である。
・・もう一つは輸出依存型の経済成長である。東南アジア、とりわけASEAN諸国や中国は安価な人件費と先進国の技術を輸入できる「後発性の利益」を最大限に発揮することで「離陸」(take off)を遂げた。
しかし、それらは当然のことながら経済の発展段階の上昇とともに失われていく。
中国では名目GDPに占める総資本形成の割合が徐々に上昇し、2003年には個人消費を上回る水準に達した(図表3)。・・わが国で名目GDPに占める総資本形成の割合が最も高かったのは1973年の36.7%(注3)、この時の個人消費の割合は53.8%であり、韓国は1991年でそれぞれ38.0%と50.6%であった(注4)。異常ともいえる中国の総資本形成の伸長は投資効率の低下を示唆する。」
「経済成長の牽引役は投入量ではなく、生産性や効率性の向上によって代替されなければならないのである。」
「成長率の低下に耐え切れず、投資依存型の成長を続けるのか。習近平体制は歴史的な分岐的を迎えた中国経済のかじ取りを任されている」
投資効率を表す限界資本係
数は、一般的に次式(1)、つまり資本ストック(K)の追加分(⊿K)と国民純生産(Y)の追加分(⊿Y)
の比率で表される。
 限界資本係数=⊿K/⊿Y
資本ストックの追加分を国民経済計算上の総資本形成、国民純生産を統計の制約から国内総生産(GDP)で代替し・・・」とあるように、簡単化すればGDPアップ分をストック追加分で割れば良いことになります。
アジア主要国の限界投資本係数の比較が表になっていますが、何故かコピペ出来ないので、大雑把に紹介しますと中国が突出して大きい・投資効率が悪くなっています。
上記によれば日本の高度成長期の最大指数でも2、9%です。
高度成長期で比較しているのは、成長期待で投資が最大限膨らむからでしょう。
限界資本係数算出も基礎データの取り方にもよりますが、基礎データ自体中国の場合信頼性が乏しいのですが、基礎データの正確性を別として勝又氏の表が一覧性があって分りよいので紹介しておきます。
meblo.jp/katsumatahisayoshi/day-20170129.htmlによれば、中国の係数は以下のとおりです。
      限界資本係数  実質経済成長率
2010年   3.0   10.6%
  11年   2.8    9.5%
  12年   4.3    7.9%
  13年   4.7    7.8%
  14年   5.5    7.3%
  15年   6.2    6.9%
以上のとおり中国では成長率が下がり始めてから限界資本係数が、急上昇している異常さが明らかです。
前向き投資が膨らんだのではなく、後ろ向き投資(ゾンビ企業への追い貸し)が急激に増えている・・中国が如何に危険な綱渡りをしているかが明白です。
中国のGDP発表自体が当てにならないことが有名ですから、限界投資係数を見ても前提数字が合っていないと意味がありません。
ただ、国威発揚第一の中国のGDPが発表が実際よりも低くしているという逆の偽装をすることは想定出来ないのですから、(本当のGDP伸びがもっと低い場合、)実は限界資本係数がこの何割増である可能性がある点が怖いところです。
ここ数年でGDP比で見る税収弾性値が急激に下がっていることも指摘されています・・実際のGDPは伸びていない・・マイナスではないかと言う疑問です。

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