米金融政策の影響1と中韓

米金融政策の影響1と中韓

米国金融政策の影響力に戻ります。
2日ほど前には、米連邦準備理事会議長の記者会見で、12月の記者会見で発表した19年中2回の利上げ既定路線が否定されバランスシート縮小の年内停止示唆したことを世界の市場は好感し、ひいては日本円高予想になっています。
https://www.smamjp.com/documents/www/market/ichikawa/irepo190131.pdf

2019年1月31日三井住友アセットマネジメントシニアストラテジスト
市川雅浩

米連邦準備制度理事会(FRB)は、1月29日、30日に米連邦公開市場委員会(FOMC)を開催し、フェデラルファンド(FF)金利の誘導目標を年2.25%~2.50%で据え置くことを決定しました。利上げの見送りは織り込み済みでしたが、今回のFOMCは全体として市場の予想以上にハト派的な内容となりました。まず、FOMC声明について、重要な変更点が3つありました。

 
 
この結果から政策金利は年内据え置きの予想に変更、バランスシート縮小も年内停止の可能性1月30日の米国株は上昇、米国債の利回りは低下(価格は上昇)で、それぞれ反応しました(図表1)。
米ドルは、米国債の利回り低下や、FF金利先物市場の利上げ回数の織り込み低下(図表2)により、対主要通貨で下落し、ドル円は1月30日に一時108円81銭近くまでドル安・円高が進行しました。
今回はFOMC声明とは別に、バランスシートの正常化に関する声明も公表されました。この声明で、FF金利が金融政策の主要手段としながらも、バランスシートの正常化の完了に向けて詳細を調整する用意があることや、状況によってバランスシートの規模と構成内容を変更する用意があることが確認されました。
ただし、声明に具体的な手段は示されておらず、現時点では基本方針の表明のみなっています」

トランプ氏恫喝に動じたか市場反応によって動じたか不明ですが、議事録公開による説明トーンの変化について書いてきたように、すでに今年2回の利上げは遠のいていると年初から見られていたことの正式確認で扱いです。
これまで、米国金利上げに戦々恐々状態であった世界経済はこれで一先ず息をついて、年初から新興国や先進国低格つけ社債発行などが増えているようです。
中国ではGDP比の負債拡大が大問題になっていても企業救済をやめられないように、世界(日本の財政赤字も同根)は紙幣増刷→債務拡大問題をどうするかのテーマに取り組むべき時期が来ているようです。
産物・供給量同一で紙幣発行量が2倍になれば物価も二倍になる単純論理で結果的に債権債務が均衡(債務帳消し・借金していた人や企業が得する)する仕組みでしたが、閉鎖社会から解放経済になると物価が二倍になれば半値以下の近隣国からの輸入が増えるので、一国で紙幣増発しても物価が上がらないので(日本の場合、平成に入った頃から20〜10分の1以下の中国製品が流入しました)上記のような単純論理での解決できなくなりました。
結果的に債務の帳消し(物価を2〜3倍にすれば債務負担2〜3分の1になりますが)ができないので、債務が積み上がる一方になってきたのです。
財政赤字解消の即効薬として日本では物価上昇を目ざすリフレ政策を採ってきましたが、上記の通り物価をあげれば国内企業の国際競争力が落ちて、輸入が増えてしまうので無理がありました。
この辺の論理構造をだいぶ前からこのコラムで書いてきました。
日本の場合には、国民債務膨張でなく政府債務だけ膨張していく関係・国民は国債を買って債権者になっている関係、中韓では政府債務よりは、国民や地方政府や国有企業債務が膨張していく仕組みでした。
国家が強く国民が弱い国かの違いであって、トータル破綻すれば国民が困るのは同じですが、愛国心の強い民族の場合、いざとなれば(戦時中は鉄不足のために鍋釜お寺の鐘まで供出したし)私財どころか前線の兵士は生命を擲っても国(構成する民族)を守る・敗戦で祖国が食うや食わずになっても皆外国から引きあげて復興に尽くす国民ですので、政府がお金を持っていなくとも国民に資産を持たせておいても心配がないし、愛国心のない民族の場合、個人資金を海外に隠しておいてイザとなれば国外脱出するので、政府は国民を信用していないし、国民も政府を信用していない相互関係です。
中国の場合裸官で知られていますし、韓国の場合国外脱出熱の高さが知られています。
国内的には愛国心を訴え国民を煽る政治家が多く、大袈裟に叫ぶ国ほど(相互信頼がないから)こういう傾向があります。
日本の場合政府・学者が「国際人材が育たない」と心配するほど、多くの若者が海外に行きたがりません。

軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)2

欧米の軍政批判〜人道主義論をうがった見方・悪意で見れば、英米はようやくトロイの馬のごとく仕立てたスーチー氏の政権獲得に成功したものの、したたかなビルマ人の能力が上回っていた・・・欧米の評価の高いスーチー政権に看板だけ与えて、経済制裁を免れた上で、直ちに欧米傀儡(獅子身中の虫)のロヒンギャ潰しに動いたと見るべきでしょう。
あるいは民族間紛争棚上げ目的で、ロヒンギャ駆逐に一致団結しているかのように見えます。
ロヒンギャだけなぜ、国民一致の標的になったかの疑問ですが彼らが英国の分断政策に乗ってしまったことが大きな原因のように見えます。
昨日見た「移民国家」という説明を読むと(全部引用していませんが)いろんな部族が次々とやって来た点ではロヒンギャも同じですが、最後にやって来た新参であるにもかかわらず・・逆に新参で最も弱い立場であるからこそ、挽回のために世界の強国英国の後ろ盾を利用して先住既得権益者を追い払う逆転を狙った点が嫌われたのでしょう。
どの部族も武装解除に応じないままの停戦協定というのですから、各部族はそれなりの怨恨の歴史があって相容れない関係でしょうが、それでもビルマ領域内・一種の世界内での土着民族内に争いという共通項を持っているのでしょう。
日本は古代から列島内を一つの「天下」と見て来たし・・列島外からの侵略には一致して戦ってきました。
ギリシャ都市国家は「いざとなれば一致団結して戦う」この精神の母体をヘレネス信仰?と言ったかな?特別なことのように高校歴史で習いましたが、今考えればどこの地域でも地域内紛争と外敵の関係は同じでしょう。
スーチー氏政権獲得(16年)とほぼ同時にロヒンギャ襲撃が過激化したのは偶然の一致ではないでしょう。
一橋慶喜が京都で総裁職だったかについていた時に、旗揚げした(というより地元水戸で主流派に追い落とされたので集団逃亡したような経緯ですが)水戸天狗党が彼を頼って各地転戦しながら京に向かったのですが、北陸に至った時に肝心の慶喜が討伐軍のトップについてしまい、結果的に天狗党の大方が処刑されたことがあります。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9201

2017年3月30日
スーチー政権発足から1年、早くも難局にさしかかる政権運営
藤川大樹 (東京新聞記者)

ミャンマーで昨年春、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)の新政権が誕生した。半世紀にわたり国軍の強い影響下にあった同国で、選挙による民主勢力への政権交代は歴史的な快挙だった。あれから、間もなく1年。国民の熱狂は次第に冷めつつある。国際社会も、西部ヤカイン(ラカイン)州の少数派イスラム教徒ロヒンギャに対する人権侵害疑惑に厳しい視線を向けている。実務能力を欠く新政権に、国軍は早くも見切りをつけたとみられ、アウンサンスーチーの政権運営は難局に差しかかっている

欧米はスーチー氏に、ロヒンギャ問題の解決を求めているもののスーチー氏もこれには応じられない状態です。
国連調査団さえ入国国拒否せざるを得ないのが、スーチー政権の現状です。
https://jp.reuters.com/article/myanmar-rohingya-nobelpeaceprize-idJPL3N1VL094

2018年8月30日 / 09:59
スー・チー氏のノーベル平和賞剥奪ない=委員会事務局長
スタバンゲル(ノルウェー) 29日 ロイター] – ノーベル平和賞の受賞者を選定するノルウェー・ノーベル委員会は29日、ミャンマー軍がロヒンギャ族に対して大量殺りくを行っているとの国連報告を踏まえても、政府を指導するアウン・サン・スー・チー国家顧問のノーベル平和賞剥奪はないと表明した。
アウン・サン・スー・チー氏は民主化運動により1991年にノーベル平和賞を受賞したが、ラカイン州における軍の弾圧に反論していないと批判されている。

鎌倉幕府が都から源氏の将軍を歴代迎え入れていたのと同じ構図です。
欧米諸国はアウンサンスーチーを鳴り物り入りで応援していた手前、どうして良いかわからないようです。

軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)1

10数年以上前から、ミャンマーの軍政だけ欧米が目の敵にするのはおかしいという意見を書いてきましたが、アラカン族にとっては、ビルマに征服されてから、イギリスに支配されイギリス支配から免れるためにビルマ全体の日本軍に協力に参加し、日本敗退後はビルマのイギリスからの独立運動に協力してきた苦難の歴史(独立戦争は日本敗戦後のことですから、日本の戦後より短いのです)が、つい最近のことでしょう。
ビルマ全体がイギリスからの独立戦争を戦い抜いた歴史・軍事政権とはそういうことです。
欧米にとっては自分たちに歯向かったビルマの軍政が許せないでしょうが、国民にとっては軍こそは欧米支配から独立の旗印・象徴ですから軍の威信は絶大と思われます。
ビルマ独立直後の政治を見ると、中国の辛亥革命後の軍閥の乱立混乱状態の小型版の中から、平野部を抑えたネ・ウインがクー・デ・ターによって政権掌握したものですが、いわば蒋介石が軍閥の抗争から一頭地を抜いて南京の国民政府を仕切るようになったのと本質的違いがなさそうです。
フランス革命もジャコバン独裁からナポレオン帝政へ・ロシア革命も結局は選挙無視のクーデターによるものであり、韓国も混乱回避のために軍事政権が続いた結果の民主化ですし、戦乱を統一するには最終的に武力によるしかないのは、どこの国でも同じです。
乱世平定後民心が安定してから文治政治に移行するものであって、まだ国内が固まらないうちから文治政治では国が治りません。
イギリスに抵抗した腹いせのように、これを民主政治破壊の軍事政権と定義づけて国際批判・経済制裁するのは、(10年以上前にアメリカは中南米や韓国軍事政権を容認していたのに、ビルマだけ許せないのは独立戦争に対する欧米の腹いせ」だと書いたことがあります。)無理筋でしょう。
英米の支援を受けたアウンサンスーチー氏の反軍政・民主化運動に対抗するのは、ビルマ軍としては独立戦争の継続みたいに受け止めていたでしょう。
アラカン人は本音では、ビルマ中央からの独立を希望しているのかも知れませんが、(このために政府はアラカン人の対ロヒンギャ強硬論を無視出来ない関係です)内部不満/敵対勢力一掃の方が先という戦略で、ビルマとともに日本軍に協力し、ビルマ全体の独立戦争に協力してきたようです。
ロヒンギャは日英戦争では英軍側についていた関係もあり、日本敗戦後すぐに始まったビルマの対英独立戦争でも明白に英国側で戦わないまでも、積極的にビルマ独立に協力しなかったと思われます。
しかも何十年にもわたる英米主導の対ビルマ経済制裁下で、スーチー氏の運動を応援していたロヒンギャは、侵略軍の手先のように国民意識にすりこまれてしまったように見えます。
長年のスーチー氏の反政府運動をロヒンギャが支持してきたことにより、アラカン人のみならず、その他相争う少数民族全体(ミャンマーの少数民族はなんと百三十五もあると言うのですが、「ロヒンギャを許せない」と言う点では一致している様子)がロヒンギャだけは容認できない・・仇敵関係になってしまったように見えます。
ロヒンギャとしいては、頼みのスーチー氏がようやく政権を得たので、その庇護を期待したのでしょうが、ビルマ全体の敵としての位置づけが確立してしまったロヒンギャをスーチーが保護できません。
スーチー政権は(欧米の傀儡でなく)民主化運動の成果である以上、国民大方の意向を無視できないのは当然です。
民族和解の精神はその他部族との和解には、使えてもロヒンギャ問題解決には使えないのです。
民族和解に向けた会議で「ロヒンギャだけは別」という方向で会議が進んでいるのでしょう。
下記の通り、少数民族との停戦合意が成立したのですが、ロヒンギャだけは別扱いのようです。
https://thepage.jp/detail/20150603-00000013-wordleaf?page=2
によれば、ミャンマーは移民国家であり、部族間の戦争は移民同士の争いに集約されるようです。

ロヒンギャ漂流問題 ミャンマー少数民族の対立と迫害の歴史
2015.06.05 16:25
3月末にミャンマー政府と16の少数民族との間で停戦合意草案が調印されました。しかし、5月下旬に入り、イスラム系少数民族ロヒンギャの数千人規模の難民が同国沖を漂流したり、ロヒンギャらとみられる大量の遺体が見つかったりするなど、いまだ根強い少数民族問題が垣間見えます。
実は「移民による多民族国家」
ミャンマー(ビルマ)はアメリカ合衆国やカナダと同じく、「移民による多民族国家」です。
人口約5100万人の60~70%を占めるビルマ人のほか、シャン、カレン、アラカン(ラカイン)、モンなど130を超える少数民族で構成されています。少数民族の多くは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイとの国境付近に暮らしています。
人口2位のシャンは推定350~400万人、3位のカレンも推定300万人で、けっして「少数」ではありません。
この規模の独立国は世界にたくさんあります。世界の1/4の国(約50か国)が人口300万未満です。つまりミャンマーは、独立国家を持っていても不思議ではない複数の「少数民族」を抱える多民族国家なのです。
紀元前から住んでいたのは、モン人やピュー人と考えられています。現在、この地を支配しているビルマ人は先住民ではありません。
ビルマ人は、9~10世紀に大陸から南下してきた広義の移民(移住者)なのです。
11世紀、ビルマ人は最初の統一王朝(バガン王朝)を建国し、この地に仏教を根づかせました。少し遅れて、北方からシャンやカレンなどの民族も移住してきました。ほかの多くの少数民族も、中国から南下してきた移民です。
その後は、シャンが勢力を強めたり、モンがビルマ人の王朝を倒したりと、移民の対立・紛争の時代が続きました。
現在の領域にほぼ固まったのは、イギリスの植民地になった19世紀半ば以降です。ビルマは英国領インドの一部となり、南アジア系民族(ベンガル人ほか)が入植してきました。
肌色・容姿が日本人に近いビルマ人は、南アジア系の人々を「カラー」(外来者の意も含む)と呼び、快く思っていません。あまり声高に語られませんが、「ビルマ人vs.カラー」という火種も残っているようです。
イギリスの家芸の民族分断統治によって、「ビルマ人vs.少数民族」という対立構造もしっかり強化されました。
第二次大戦後の1948年、ビルマは連邦国家としてイギリスから独立しましたが、直後、南東部の少数民族カレンが武装蜂起したのです。
1962年にネ・ウィン政権が誕生し、ビルマは社会主義路線に進みました。1988年、民主化運動の激化で後任のサン・ユは退陣したものの、国軍がクーデタで全権を掌握。国際社会の批判を浴びながら、長らく軍政が続きました。
その間も、カレンだけでなく、カチン、シャン、カレンニー(カヤン)などの少数民族による独立・反政府運動は止まりませんでした。
国際社会の眼は、「軍事独裁政権vs.国民民主連盟(アウンサンスーチー率いるNLD)」という“ビルマ人内の民主化問題”にしか向けられませんでした。スーチーの軟禁状態がいつ解かれるのか。解放されると、いつ軍事政権と和解するのか、真の民主化は進むのか。ヤンゴンのビルマ人に聞くと、カレンやカチンなど少数民族の問題は「よそごと」という声が返ってくるようですが、国際社会にとっても同様だったのです。

私の推測ですが、もしかしてアラカン族支配地内の少数民族という位置付けで見れば、ビルマ国内の大手少数民族間の協調優先の為に各部族内のさらなる少数民族問題を他の部族はタブー視して口出ししない(アラカン族の独立運動を封じるために国軍がロヒンギャ迫害に協力するのもその一つです)「国際」協調路園があるのかもしれません。
15年3月の16部族間停戦合意後、ロヒンギャ迫害がいきなり激しくなったのはその流れとも読めます。
ミャンマー周辺国がこぞってロヒンギャに冷淡なのは、国家規模での協調に影響がある・・「お互い内政不干渉が大人の知恵」という立場でしょうか?
ミャンマーの部族一覧のウイキペデイアからです。

ミャンマーの民族の一覧である。
ミャンマーでは、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在する。そして、それぞれの部族は、それぞれの州そして文化を持っている。

上記の通り大手部族内にいくつものさらなる少数部族を抱えているのですが、大手部族内部の抗争に外部の部族が口を挟んでいたら収拾がつかないでしょう。

原理論と時代不適合4(テロ対策2・フランスの場合)

現実の殺傷や交通機関破壊などの実行行為前の阻止手段・・テロ対策法として考えられるのは、内乱予備罪や凶器準備集合罪がこれですが、内乱予備と言えるほどの大規模なものは民主国家では現実的でないので、ちょっとした凶器を準備する程度では凶器準備集合罪程度しかありません。
この法案提出時には革新系政党や進歩的文化人?が人権弾圧法案として猛烈な反対運動していたことは周知の通りですが、法成立後現在までの約60年間でどのような弊害があったでしょうか?

刑法
(予備及び陰謀)
第七八条 内乱の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の禁錮に処する。

ウイキペデイアによると以下の通りです。

凶器準備集合罪・凶器準備結集罪は、刑法に規定された犯罪類型の一つ。
「第二十七章 傷害の罪」の第208条の2に規定されている。生命、身体又は財産に対する危険をもたらす一定の予備的な行為を処罰する。個人的法益に対する罪であると同時に公共危険犯としての性格を持つ。
暴力団の縄張り争いや過激な政治団体同士の抗争を早期の段階で取り締まるため、1958年に新設された規定である。

現在日本では、暴力行為を実行する前の規制は凶器準備集合罪・共謀罪法が成立しましたが、実務的には共謀だけでの検挙が難しいので、一味の一人でも現実に窃盗等の実行行為をした時に、その数時間前の共謀した時点で犯罪が成立していたと時間的に遡れる程度でしょう・・だけであって、それ以外は具体的犯罪行為をしようとしている場合に事前規制をしたり、より重く処罰する程度しかありません。
事前集結して気勢をあげて行進するようなことをしない・いきなり襲撃する共謀罪法以前の既存法令では現在型テロ行為に対して現行法令では、適応できなくなっていることは明らかです。
犯罪成立要件は、「凶器の準備プラス集合」ですが、テロは集団の威力を誇示するのではなく一人2人が別ルートで現地付近に赴き各自が別々に発砲したり爆発させたり、トラックを群衆に突っ込んでも大きな被害が生じる時代です。

特に現在のIS式テロの場合には組織らしい組織もなく、矯正シアtもノアh各自勝手にテロをやればいいという仕組みでネットをつじて煽っているだけですから、共謀さえありませんし、もちろん組織化されていないので集合さえありません。
既存法令・・・既発犯罪の捜査→検挙という法体系では、テロが起きるまで黙って見ているしかないのでは時代遅れ・・困るでしょう。
アメリカの銃乱射事件で言えば、アメリカの場合銃所時が一定手続きで合法ですから合法所持している人を検挙できません。
これから学校に行って銃乱射すると言って家から学校に向かう青年を、警察は途中で阻止できないのでしょうか?
事件が起きてからの捜査を前提にする近代法の原理はそれなりに人権擁護に果たした役割は否定できませんが、今では航空機搭乗前の所持品検査が必要になるなど、事前情報蒐集や所持品検査が必須の時代です。
空港や学校など場所限定列挙の銃所持禁止法律を作った場合、その境界10センチ手前で銃を持っていてもいいのか?
そこからの銃乱射を待つしかないのでしょうか?
それとも1メートル〜50〜数百メートル先から検問することになるのでしょうか?
欧米では日本と違いテロ防止用の特殊法令が発達しているように思えますが・・・。
そういう紹介がネット上にも出てきませんし、まして日弁連関連や法律専門雑誌では、そういう紹介はタブーのように全く入ってきません。
「近代法の法理を守れ」いうばかりです。
今ではテロの方法が日進月歩ですので対策も日進月歩でしょうから、だいぶ古いですが、2006年に発表された紹介文が見つかりましたので、その目次と概要を紹介しておきます。
(その後いわゆるIS方式による末端とも言えない個人暴発的大規模テロがパリやベルギーであったので、以下の紹介制度後さらに新たな対策法ができているのでしょうが・今わかるのは、2006年方です)
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/legis/228/022807.pdf

特集 テロリズム対策◆外国の立法 228(2006. 5)
フランスのテロリズム対策
高山 直也(主任調査員)
目次】
I  2006年テロ対策法の目的と背景
フランスはテロの標的になるたびに、新たなテロ対策を講じてきたが、その中でもフランスが重視してきたのは、テロを防止するための諜報活動である。
2006年テロ対策法は、その方向をさらに進めて、テロを予防するために「さらに上流にさかのぼって(注4)」情報収集ができるよう、国家警察や国家憲兵隊(以下「憲兵隊」とする。)に新たな権限を付与する内容となっている。

2 テロの性格の変化
3 ロンドン同時多発テロの教訓

II 2006年テロ対策法の内容
1 テロの未然防止対策
2 特別な司法手続きの適用
フランスは、テロ犯罪は特別な犯罪であるとして、テロの実行者またはテロを企てた疑いのある者に対して、普通法とはちがった特別の司法手続きを適用することにしている。
006年テロ対策法は、つぎの11章33か条から成る。
第 1 章 ビデオ監視カメラに関する規定
第 2 章 テロ行為に参加している疑いのある者の電話・電子交信に関するテクニカル・データの移動及び伝達の監督に関する規定

i 行政警察が交信記録にアクセスする権限を認めた前述したように、司法手続きの枠内であれば、交信記録の消去または匿名化の猶予期限を最大1 年間延長できることになっている。しかしテロがおこってから捜査のために交信記録を利用するのではおそすぎるとして、今回の改正ではもっと「上流にさかのぼって」、テロが実行に移される前の段階でそういう謀議がおこなわれていることを把握するために交信記録を利用しようというのである。今回の改正では、国家警察と憲兵隊に対し、「テロ行為を未然に防止」するため、電子通信業者等から交信記録のデータの伝達を要求する権限を与えている。ただしそれができるのは、「特別にテロ対策の任務を与えられた」国家警察及び憲兵隊の担当のうち「個別に任命され、正規に授権された警察職員」に限られる
アクセスできるデータ権限を与えられた警察職員が要求できる交信記録データは、盗聴の場合とちがって交信記録の内容そのものではなく、「電子通信サービスへの加入又は接続の番号の同定に関するテクニカルなデータ、特定の人物の加入又は接続の番号のすべての明細目録、利用された端末機器の位置に関するデータ、並びに受信先又は送信先
番号のリスト、通信の時間及び日時に係る、加入者の通信に関するテクニカルなデータ」に限定される。

第 3 章 個人情報の自動処理に関する規定
第 4 章 テロの抑圧及び刑の執行に関する規定
3 刑の加重

以上を概観すると、司法の権限行使であれば憲法上の要請・事前の令状発布や、捜索される相手に対する事前開示が要請されるが、フランス憲法では、行政警察であればその要請がなくなる・緩くなるということでしょうか?

混乱収束後の政治体制(ローマの場合)

ロシアの大統領制はソ連崩壊の混乱の中で失うものがない状態で生まれたものですが、中国の場合共産政権が崩壊してもいないのに結果がどうなるか不明(選挙というものはやってみないと結果はわからないものです)の選挙など怖くてすぐにはできません。
(対立候補が出ないように)よほど周到な準備をしてからでないと怖くて選挙をすると言い出せませんので、今は内々にその準備中でしょうが、中国にとっては大統領制のロシアでプーチンが2000年以来約20年も続いている体制が理想となっているのでしょうか?
大統領制で守られているはずのプーチン氏でさえも、家族でさえ信頼できない・・日本が贈った秋田犬だけが心を許せる状態?・・らしいですが・・・。
権力争いに関係のない国民にとっての関心は、習近平の粛清がどの段階でとどまれるか・スターリン粛清のように庶民まで及ぶのかでしょう。
中国歴代暴動では暴動を生き抜いた覇者を次の皇帝にすることで、際限ない闘争に終止符を打ってきた例を10月21に「漢承秦制の思想」として(003/30/10「パックスアメリカーナから中国専制支配へ2」のシリーズで紹介したこと)紹介しました。
一定の民度以下の社会ではどこでも一旦独裁が始まった以上は、終身制・・どころか子孫へ世襲していける皇帝や国王にして安心させない限り独裁者が権力維持のための際限のない猜疑心に陥り大変なことになるのが歴史教訓というべきです。
古代ローマでもシーザーへの権力集中→終身独裁官にまでしたものの、シーザーへの権力集中が進むことへの危機感から「共和制の大義」を守るために有志で?「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」の文句で知られるクー・デ・ターで倒したものの、結果的にそのブルー タスを皇帝にして行った歴史が参考になります。
シーザーに関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/によれば以下の通りです。

ローマ内戦
紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルはクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。紀元前45年3月、ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスやポンペイウスの遺児小ポンペイウス・セクストゥス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。
終身独裁官就任
元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。代わって、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎ともなる。
紀元前44年2月15日、ルペルカリア祭の際にアントニウスがカエサルへ王の証ともいえる月桂樹を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサルが月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルはカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという[28]。 共和主義者はこの行動をカエサルが君主政を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは白昼夢に過ぎない。実体も外観も無く、名前だけに過ぎない」「私の発言は法律とみなされるべきだ」などと発言したとされる[29]。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。
暗殺『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作

 紀元前44年3月15日 (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサル

4〜5年前に松本幸四郎主演の「カエザル」を日生劇場で見た時の舞台装置はこれを参考にしたらしく上記写真のようでした。
以下は、ローマ帝国に関するウィキペデアの記事からです。

「紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。」

上記経過を見るとクロムウエル独裁やナポレン帝政の原型・混乱を鎮めたスターを国王または皇帝にしないと世の中がおさまらない歴史の原型がローマ時代からあったことがわかります。
クロムウエル独裁時に議会が国王になるように求めた例がありましたが、現実的判断の利くイギリス人の一面を表しています。
中国歴代王朝が大暴動で滅びこれを鎮めた武将が次の皇帝になり過去の王朝制度をそのまま踏襲してきたのもその一例です。
北朝鮮がどんなに貧困状態にあっても政治が安定しているのは、意外でもナンでもない・民度レベルからしてできもしない民主主義・能力主義政治あるいは、政策目標を掲げたり約束していない身の丈にあった世襲制政治をしているからです。

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