非嫡出子差別違憲決定の基礎3

高度成長に伴う社会構造の変化に合わせて昭和56年頃に、昭和22年改正法では3分の1だった配偶者の相続分を2分の1に改正しました。
http://www.moj.go.jp/content/001143587.pdf

5 昭和55年改正昭和46年から相続法改正についての審議が開始され,昭和54年の改正要綱試案の公表,昭和55年の改正要綱の法務大臣への答申を経て,同年に「民法及び家事審判法の一部を改正する法律」(昭和55年法律第51号)が成立した。改正内容は,次のとおりである。(1) 配偶者の法定相続分の引上げ従前は,配偶者の法定相続分について,子と相続する場合は3分の1,直系尊属と相続する場合は2分の1,兄弟姉妹と相続する場合は3分の2とされていたところ,それぞれ2分の1,3分の2,4分の3に引き上げられた(民法第900条第1号から第3号まで)。

上記の通り、相続法全般の改正でない相続割合の変更をするだけの改正でも夫婦のあり方がどうあるべきかなど社会の根幹にかかわるので、約10年間もかかっています。
今でも例外的に先祖代々の継承資産が大部分を占めるひとがいるでしょうが(鳩山元首相やトヨタのオーナーなど)標準型を基準にするのが法の原理です。
例外的不都合に当たる人は遺言等で自由に修正すればいいという制度設計は婚外子が例外である間は正当性を持ちますが、標準型が変わってくると正当性を失います。
現在身分とは何かのテーマのシリーズの一環として、生まれつき決まっている親子や親族関係の得喪変更・・その始まりである婚姻離婚制度を見ているところです。
身分法の特質として何らかの強制力が担保されている・・個人間の契約で内容変更できる範囲の外枠が決まっている点を問題にしています。
婚姻開始は当事者の自由意思・合意によってのみ始まると憲法に書いてあっても、一定年齢の制限や親子・兄弟間の婚姻を認めないなどの外枠は法で決まっています。
(これを憲法違反だという意見を聞いたことがありません)
婚姻関係に入っても夫婦のあり方を合意でなんでも決められる・・100%自由ではなく「同居協力の義務」など色々法律で決まっています。
夫婦間でその義務免除の契約をしても法的には限界がある・・長年夫婦関係がないとなれば被告側で「特約があるから、義務違反していない」と抗弁しても夫婦の実態がない・破綻していると認定されてしまうでしょう。
破綻主義については、こののち水野氏と瀬木氏の対談引用で紹介します。
子供の面倒を見ない約束があるとしても、妻の緊急入院中に子供を放置して餓死させたりすれば刑事処罰されますし、子供の父に対する生活費請求権がなくなりません。
上記の通り一般の商業活動と違い相続制度・・身分制度は強制力が背景にあって、遺留分制度で担保され、各人が修正できる限界が決まっています。
現行法では、遺留分は原則2分の1ですから、遺言や生前贈与で修正できるのは半分までの自由しかない仕組みです。
(相続分を修正しようとすると生前贈与には贈与税もかかるなど網の目のような不利益が用意されていて自由処分が事実上抑制されています。)
このような強制力が背景にあるので、民法の相続分の規定が標準型と齟齬がある場合の修正が働きにくいのでその害が大きくなってきます。
今の社会実態では婚外子差別を許容すべき合理性があるか・・何が標準型かの判断が、違憲かどうかの判断を分ける基準の一つ(国民意識の変化や国際環境の変化など)でしょう。
現在の世帯単位の変化・・未婚独身が増えているだけではなく高齢化による独身世帯も増える1方です)独身世帯の激増など目覚ましいものがあります。
重婚的婚外子でもそれぞれの家計管理・資産形成が別になっているのが普通(先祖代々の継承資産に頼る人はごく少数)です。
今ではいろんな統計データも世帯単位が普通になっているなど、(死亡退職金は支給規定次第ですが、原則として「生計を一にするもの」が受領権者です)どんどん基礎になる生活単位が変わっています。
死亡退職金については何十年も前から相続の強制力を排除する・福祉運用にシフトして生活実態によって支給する柔軟運用が続いています。
死亡退職金は企業の労働契約によることから契約書の書き方次第で、相続財産にもなれば生活補償給付にもなる・・身分法の硬直性・・強制力を受けない点を利用したものです。
例えば、労働対価の後払いという意味の書き方であれば相続財産になるでしょうが、一般に行われている例・遺族の生活保証目的→会社の指定する遺族に支給するとなっているときとか、労働基準法施行規則の42条〜45条の規定に従うという雛形的記載の場合には、以下のようになります。

労働基準法施行規則
第四十二条 遺族補償を受けるべき者は、労働者の配偶者(婚姻の届出をしなくとも事実上婚姻と同様の関係にある者を含む。以下同じ。)とする。
○2 配偶者がない場合には、遺族補償を受けるべき者は、労働者の子、父母、孫及び祖父母で、労働者の死亡当時その収入によつて生計を維持していた者又は労働者の死亡当時これと生計を一にしていた者とし、その順位は、前段に掲げる順序による。この場合において、父母については、養父母を先にし実父母を後にする。

43条以下は省略

上記配偶者限定の書き方も企業によっては変わって行くでしょうが、相続となれば身分法なので民間の柔軟対応によっては変更できない限界が起きてきます。
そのうち同性の同居者も(内縁とは男女のみに限る印象ですが)死亡退職金受領権利者に入っていくでしょう。
受給者を同性愛に限る必要もない・・近所で女性同士でアパートをシェアーしているらしい人がいますが、同性愛者などの定義規定を設けて審査する必要を認めない・同性愛者であろうとなかろうとありのままで妥当な対応を工夫すればいいことです。

民法改正に要する期間

GHQによる農業国家化の強制→都市住民復活に対する疑問もあった?上に、短期間での大改正でしたので時間をかけて多くの意見を聞く必要性を感じず?嫡出非嫡出子の差別が合理的という判断になったのでしょうか?
1年余りの期間が如何に短かったかについて、以下民法制定過程や最近の改正に要した期間と比較しておきます。
17年成立した民法中債権法改正案審議は、以下のとおり審議会で公式テーマになって(そこまで行くにはその前に学会や実務界での議論を経ています)からでさえ、約10年もの歳月を要しています。
http://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201903_14.pdf

明治政府が民法を制定するに当たって参考にしたドイツ・フランス・イギリスを含むヨーロッパなどの先進国では、近年、民法改正の検討が進められています。例えば、ドイツは2000年に民法を改正しています。こうした状況のなかで、日本でも2009年10月から、法務省法制審議会において民法(債権法)の改正について検討が進められました。審議結果を踏まえて2015年3月に民法の一部を改正する法律が閣議決定され、2017年5月に成立したという事情があります。

しかも実際に施行されるのは19年からです。
もっと前の元々の民法を作るのにどれだけの期間がかかったかを見ておきましょう。
このコラムで06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1)」や刑事法制制定過程のシリーズで明治維新以降の法制定過程を紹介しましたが、民放制定に要した期間だけ見るにはあちこちの引用が必要なので、他人様の文章の引用です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

日本政府法制顧問のフランス人法学家ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらが、1879年から1886年ごろまでに起草した日本の民法草案のひとつ。1890年に公布された旧民法(明治23年法律第28号及び第98号、財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編・人事編全1762条)のうち、「財産編」と「財産取得編」の原案
現行の民法(明治29年4月27日法律第89号、明治31年法律第9号)が施行された。

明治23年民法・・ボワソナード民法(これが旧民法と言われるものです)は約11年かかってようやく成立にこぎつけたものですが、一回も施行されないまま現行民法が約10年かかかって明治29〜31年に成立しその後施行されます。
以上見てきた通り、国民生活の根幹をなす民法の成案作りには約10年はかかるのが普通でしょう。
これを戦後混乱期にわずか1年余りで法律になったにしては内容がよくできているのではないでしょうか?
先に書いたようにもともとこのように改革すべきという意見の積み重ねが実務界であったからだと思います。
この種の意見は、戦後農地改革のシリーズでも(戦前から耕地整理の必要性や地主による搾取構造改革案が先行していた)書いたことがあります。
敗戦前の家督相続の場合、非嫡出子どころか長男以外ゼロ相続でしたから、これを半分でももらえるようにしたのはかなりの前進だったという意見もあったのでしょうか。
明治の民法がなぜ家の制度を骨格にしたかといえば、当時の産業構造がなお勤労収入による人がごく少なかったことによるでしょう。
明治2〜30年頃の民法制定当時の関係者は、武士の時代〜徳川時代だけでも約260年間も続いた家を基準した収入構造・大名や武士層は家禄収入基本で生きてきた時代の人が多かったでしょう。
明治維新から2〜30年経っても八幡製鐵などの近代工場で働く人は人口全体の例外だったでしょうし、明治30年で30歳の人は明治元年生まれ、その人たちの多くは、幕藩体制下の生き方しか知らない親に教育されて育った人たちです。
まして親世代が4〜50歳の人であれば家庭内の会話・・幕藩体制下の価値観そのものだったでしょう。
家に縛られている時代の名残の強い意識・生活習慣が色濃く残っていたから家の制度を骨格に据えたものと思われます。
小説の描写なので事実かどうか不明ですが、日経新聞小説でサントリー創業者の伝記風物語の連載を愛読しましたが、そこには当時の家族・親族関係が描写されています。
ウイキペデイアで見ると鳥井信治郎氏は明治12年生まれですから、同氏の青少年期の描写はちょうど民法制定作業開始から明治31年制定までと歩調を合わせた当時の社会状況を描写していたことになります。
戦後民法改正時(昭和22年)の社会状況と言えるかどうか不明ですが、私が育って物心ついた頃(昭和24〜5年前後頃)生活していた地方(地方の意識変化が1〜2世代程度ズレている?)の原風景と小説の描写はそれほど変わっていません。
その頃(昭和20年代中葉?私の小学生1〜2年?)の記憶ですが、明治20年頃(小学校制度が全国に行き渡った程度?)とは違い一定率の高校進学があったでしょうが(私には高校大学の区別もわからない年令でした)進学しない人もいます。
私の10歳くらい上の世代(農家次男坊以下)は新制中学卒業後小僧さんとして都会の商家などに住み込み奉公に出る習慣・盆暮れに農村地帯に帰ってくるのを見て育ちました。
就職と言わずに「奉公に出る」という表現が耳に残っているので、地方ではまだそういう意識だったのでしょう。
ちなみに明治30年生まれの人が昭和22年にようやく50歳ですから、その当時の周りの意識はそんなものでした。
鳥井氏の育った頃とは進学率・・当時は小学校普及段階?・・が大幅に違いますので小僧に出る比率が低くなっていたが、(進学率上昇が遅れる地方では)まだそう言うライフスタイルが残っていたというべきでしょうか?
未成年婚姻の場合に同意を要する父母として、戦前民法では「家にある父母」と限定していたように、明治30年代の民法制定時には核家族が例外であったから判断基準が家の内外(今の言葉で言えば生計の同一性)が重要指標でしたが、戦後高度成長後の我が国では核家族化が急速に進み、且つ相続財産の大部分が、先祖伝来の継承資産ではなく、夫婦恊働働によって形成した資産が中心になっています。
2019年7月7日の日経朝刊1ページには、農業票のテーマで「1960年には1175万人いた農業人口が、80年には3分の1の412万人、2018年には145万人」と出ています。
しかも担い手は65歳以上中心です。

非嫡出子差別違憲決定の基礎2(空襲→都市壊滅)

昭和22年改正時に非嫡出子差別がなぜ残ったか?社会生活の変化がそこまで進んでいなかったのかを以下見ていきます。
日本産業構造の近代化に連れて(タイムラグがあります)生活様式や意識も親族関係の重みも変わっていきます。
明治時代はまだ人口の大半は旧幕時代の意識濃厚であったでしょうが、明治45年を経て大正時代に入ると生まれたときから文明開化の空気で育った新人類(今で言えば生まれた時から「テレビを見て育った世代」最近では「生まれつきネットで育った新人類」)の時代に入っていたでしょう。
文学分野では、明治末から白樺派など(志賀直哉その他財閥2世?のお坊ちゃん文化)が一世を風靡していましたが、芸術系は発表時に現実多数化している生活変化の後追い表現ではなく、先行心情の先取り傾向があるので文学芸術表現が必ずしもその時代意識とは言えません。
大正時代には産業構造的にも都市化=核家族世帯化がかなり進み、家族関係も変わっていました。
法制度は実態の後追いですから、私の職業上のソース・・法制度で見れば以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%9F%E5%9C%B0%E6%B3%95-75830

借地法(読み)しゃくちほう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大正 10年法律 49号。借地人の権利の強化を目的とした法律で,借家法とともに制定された。借地人保護の法律としてはすでに建物保護ニ関スル法律があったが,本法は,借地権の存続期間延長と継続をはかり,その反面土地所有者に地代増額請求権を与えたものである。 1941年の一部改正 (法律 55号) によって,東京など一部の地域に限定されていた適用区域を全国に拡大した・・。

都市住民が増えていたことがこのような法律を必要とするようになっていたことがわかります。
大正時代には、大都市化の進んでいた東京だけ対象の法律でしたが、1941年から全国適用になっています。
そこで敗戦によって家の制度がなくなり親族相続編が抜本的改正が行われたにも関わらず、嫡出非嫡出の差別がなぜ残ったか?の疑問です。
敗戦直後都市住民の多くは空襲によってほぼ全部燃えてしまい・・空襲にあったのは東京だけではありません・・千葉市のような小さな町でもほぼ灰燼に帰したばかりの空襲写真展を時々見ますし、全国小都市にあるお城がほぼ空襲で燃えてしまった(空襲を受けずにそのまま残ったのは姫路城や松本城などほんのわずかです)ことでもわかるでしょう。
家もなければ食の手当てもできない→生活できないので故郷の実家を頼って田舎に帰っている世帯多数でした・・。
私自身都内で生まれましたが、東京大空襲にあって住む家もなくなったので母の故郷に戻りそこで成長しました。
GHQの当初占領政策は、日本の工業生産を認めず農業生産しか認めない方針であったことを何回も紹介してきました。
戦後直後は工場関係壊滅したばかりかせっかく空襲を免れた工場機械までGHQの命令で中国や東南アジアへ強行搬出されている時代でしたので、工場労働が縮小する一方で強制的に原始時代に戻ったような時期だったことになりそうです。
農業→家族労働同時代に逆行が始まっていたとすれば、非嫡出子・多くは正妻のいる農家や家業に関係しない子を前提にすれば、半分で良いのではないかという考えが多数だったのでしょう。
戦後民法改正時には、日本を今後江戸時代の農業社会へ退行させるという今考えれば悪夢のような恐ろしい政策がGHQによって実行されている最中だったのです。
以前にも紹介していますが、重要なことですので再度引用しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/連合国軍占領下の日本#貿易で7月7日現在検索すると占領政治は以下の通りでした。

産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。
マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」
と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。

欧米の植民地レベルに落とす政策・・奴隷解放運動をした運動家を奴隷の身分に落とすのと同じやり方・・植民地解放運動した日本を植民地にしてしまう・・日米戦争に引きずり込んだ米国の真意・目的がここに現れていることを何回か紹介してきました。
極東委員会は復興を認めなかった(焼け野が原にしておけ)だけですが、GHQは残っていた工場までスクラップ化を進めたのです。
引用続きです。

こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業や漁業や衣類を主力産業とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした[12]。
1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省(現在の財務省と金融庁)によると、1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。

非嫡出子差別違憲決定の基礎1

いろんな憲法違反訴訟をやっている運動家?は数十年後に違憲判決が出ると自分らに先見の明があった思っているかも知れませんが、裁判所は社会実態を見て判断しているのであって、数十年前には極く例外的不利益だったのが数十年の経過でその区別が不合理となって初めて憲法違反と認定するものです。
憲法に書いてある「良心に」従う義務とはこういうものであり原理主義的な主観的立場による裁裁判する義務ではありません。

憲法
1〜2項省略
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

税制(有名なところでは専業主婦)や社会保険 年金あるいは学校教育でも標準型をターゲットに政策決定していくのが普通です。
そうすると標準型でないものは利益を得たり割りを食います。
その部分だけを見れば不合理な差別でしょうが、その国・社会の実態から見て不合理で許容範囲を超えているかが決め手であるべきです。
学校教育で言えば、集団教育である以上どの程度の集団でクラスを編成するかでクラス内でレベルのバラツキ差がおきます。
先生が教育の際、どのレベルに焦点をあてるかが重要ですが、焦点に外れる生徒は置いていかれるし、出来過ぎる子には無駄な時間になるなどの不都合が起きます。
市民講座や講演会でも難しすぎてもっと丁寧な説明をしてほしいという人もいれば、常識的に知っている話ばかりで聞いても意味がなかったという人まで色々です。
義務教育のクラスは年齢でくくっているのですが、6歳になったばかりと7歳近い子供では発達結果に大きな差がありこれを50人ほどのクラスで6歳半に焦点に当てて教育をすると、6際になったばかりの子はついていけない生徒が出ますし、リーダーシップの経験を積むことなく生長していきます。
年単位で分けるのは今になれば括り方が大きすぎて、教育を受ける権利が侵害されていたという疑問や不満の声が大きくなってもおかしくないでしょうが、戦後まだ教室の足りなかった時代には仕方なかったとも言えます。
教育問題は一過性なので自分の子供はすぐ2年生3年生となって行くのでそんな裁判をしても解決にならないので泣き寝入りですが、学校の方でも課外授業でなんとか修正をし、お金のある親は家庭教師の利用に走っていました。
その後、塾や予備校が産業として発達したのは、画一教育が例外的少数者にだけ不都合だったのではなく、(できる子にとっても)大方の生徒にとって不都合な方法であったことを証明しているでしょう。
私塾の場合、習熟度別対応が今では普通でないでしょうか?
市民講座や数百人相手の講演会でも難しすぎてもっと噛み砕いてくれないと困るという人もいれば常識みたいな話ばかりわざわざ聞く意味がないという人もいます。
国民という母集団にはいろんなバラエティがあるので、統計や世論調査も標準モデルを利用するしかないのですが、最近では携帯等の発達、独身や共働きが多くなったので固定電話での世論調査では実態を表さないとか、夫婦共働きが増えると1世帯4人で専業主婦を標準モデルにした税制や年金消費動向調査その他のインフラが破綻状況になってきます。
選挙区も、数十年以上経過すると人口配置が変わるので修正していく必要があるのに、その修正を怠り過ぎると違憲問題になるということでしょう。
このように多くの制度設計は当時の人口構成や就労形態等を総合した政策決定の分野(立法政策の問題)であり、その限度を超えた場合に違憲の問題にすべきです。
ここで昨日最後に紹介した平成25年の嫡出子非嫡出子の相続分差別に関する最高裁の違憲判例に戻ります。
嫡出子非嫡出子の相続分の違いは、明治30年頃の法制定当時農業人口90%台(うろ覚えの直感的数字です)の時代・家にある子と家の外にある子とでは家産の維持発展に関する貢献度合いが99%(うろ覚えの直感的数字です)の違いがある時代を前提にしていました。
これが敗戦直後に家の制度解体による見直し時にも非嫡出子の相続分比率が修正されなかったのは、家制度という観念体系によるのではなく、世帯単位の分離が進んでいなかった生活実態によるでしょう。
戦後の親族相続編の大改正は昭和22年に行われています。http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s22_1947_08.htm

民法は、第1編総則・第2編物権・第3編債権・第4編親族・第5編相続の5編で構成されていますが、昭和22年(1947)12月22日、第4編・第5編を中心として、日本国憲法の基本原理に基づいた改正が行われました。家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続などにおける女性の地位向上などが改正の主要な内容です。

昭和20年8月のポツダム宣言受諾後日本開闢以来初の異民族による占領支配開始で大混乱下のわずか約1年余り(法案作成→審議会等の精査→利害調整過程を経ての国会上程時間を考えるとまともな審議ができたのか?
私の家庭で言えば東京空襲前には、父母は東京で自営業を経営していたようですが、戸籍上は田舎の跡取りの(家督相続した長男)の戸籍に属しているものでした。
都会人の大部分がこういう都会人1世〜2世だったでしょう。
私の家族の生活実態で言えば、法制度と全く合っていなかったのです。
家の制度が社会実態に合わなくなっている不合理が長年学会で問題になっていて戦前から煮詰まっていた意見によったから泥縄式の議論をしなくともすぐに成案になったのか?もしれません。
上記民法の正式改正前に民法改正予定の骨子を定めた応急措置法が制定されています。

日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(明治22年4月19日法律第74号)

民法改正は新憲法制定に間に合わないので新憲法施行と同時に効力が出るように予め改正予定の骨子だけ制定したものです。
これによれば、骨子については昭和22年4月には国会に法案提出できるように基本合意が成立していたことがわかります。
この骨子の中で家督相続廃止や相続分規定などがあり、配偶者の相続分規定があるのですが、非嫡出子の相続分変更規定がありません。
この時点ですで変更しないことが決まっていたのでしょう。

ホームレス排出の基礎2

話題をアメリカのホームレスに戻します。
ホームレスの現状報告・上記の通り立派なボランテイアの活動紹介がありますが、4〜50代で英語を話せない、話しても文字が読めないなどの労働者がどの比率でいるのか不明ですが、昨日冒頭に日経新聞記事を紹介したように最低賃金の現場労働している限りヒスパニック社会その他がゴロゴロあるので英語を身につけなくとも間に合うから英語が身につかないままであった面もあるでしょう。
彼らに対するボランテイア活動の尊さもわかりますが・・・中学生レベルの教育も受けていない労働者がひしめいている社会では・「格差拡大反対」などという以前の印象を受けました。
草刈りなど・・その日食べる程度しか稼げない超単純労働しかできない階層が雲霞のごとくひしめいている社会を作り上げたが、その種労働の必要性が縮小するばかり・・彼らの労働の場をどう確保するかの時代が来ているようです。
米国ホームレス現状報告の続きです。
以下は別の報告です。
http://bigissue-online.jp/archives/1073661229.html

米国の人気の街・ポートランドで深刻化しているホームレス問題の実態
2019/01/16
米オレゴン州ポートランドは、環境に優しい街づくりが行われ(公園、橋、自転車専用道路などの整備)、リベラルな街として知られる。ファーマーズ・マーケットなど健康的な食生活が送りやすく、都会でありながら自然に近い暮らしができることから、暮らすにも旅するにも人気の街として注目されて久しい。
米国北西部ではシアトルに次ぐ人気の街。人口も2010年以降は毎年1万人のペースで増え(2012年に約60万人 → 2017年には約65万人)、この勢いは2040年頃まで続くと見込まれている(*2)。しかし一方では、このすさまじい人口増に伴って家賃が高騰、失業率も高まり、ホームレス問題が深刻化。2015年10月には非常事態宣言まで出された(*3)。観光都市としての洗練されたイメージとは結びつきにくいホームレス問題の実態。
2018年9月に現地を訪れた

・・・カフェ運営は多くのボランティアによって支えられている。その一人、リンダに話を聞いた。
「ボランティアワークはとても楽しいし、多くの学びがあるわ。」
「最低賃金レベルの仕事をしていてはアパートを借りることもままならないのがこの街の現状なの。」
「最低賃金レベルの仕事をしていてはアパートを借りることもままならないのがこの街の現状なの。」
ポートランドの最低賃金は時給12ドル。これは米国の中でも6番目に高い数字だ(例:マサチューセッツやカリフォルニアは11ドル)*5。「オレゴン州雇用部門」によると、全雇用のうち7.4%が最低賃金レベルの仕事に相当する。
ポートランドは大企業で働く人などお金がある人には人気の街だが、低賃金の人には文字通り「生活できない街」になっているのだ。家賃を払えなくなって家を追い出され、仕事も解雇され、何もかもを失う悪のスパイラルに陥る。
1年間のインターンプログラムでカフェ運営を手伝っているドイツ人女性エスケにも話を聞くことができた。
ここで働いてみて、ドイツとアメリカの違いに気づいたという。「病気になると同時に仕事も失い、すぐに家を失う。この国の現実にショックを受けました。低賃金の仕事についてる人、貯蓄のない人、子どもがいる人は、いとも簡単にホームレスになってしまう。」
リンダが「彼の話を聞くといいわよ」と言って、偶然カフェの前にいたアントニオという男性を紹介してくれた。突然のことにも関わらず、快く身の上話をしてくれた。
僕は生まれも育ちもポートランド。父はメキシコ出身、母はポートランド出身。子どもの頃からずっと路上生活、いわゆるストリートキッズだった。学校も行けなかったし、精神を病んでた時期もある。33才になる今年、人生で初めて安全な住まいを手に入れたんだ。生まれ故郷であるこの街でね。」
「アメリカの福祉、公的セーフティネットは落ち度だらけ。自由な国なんて言われるけど現実はほど遠い。これが長年、安全な住まいを手に入れたいともがいてきた僕の率直な思い。」
「仕事は20年以上、建設現場などでの肉体労働。最近は農業や木の伐採の仕事をメインにしてる。稼ぎは決して多くない。この国で農家が十分に稼げたことなんてないよ。水やり、草刈り、農場整備、かなりキツい肉体労働をやって月収は約800ドル。」
「人々に食を提供する農家が十分に稼げない、この国の悲しい現実です。その国の農家がどう扱われてるかを見れば、その国の倫理観を知れるよ。それに比べ、人々の生活を監視、統制してる警察は時給40ドルとやたら稼いでる。ホームレスの人たちを苦しめ、行き場もないのに一掃し、時には殺しもする。この国の警察は大嫌いだ。」
「ホームレスの人々に足りていないのは、コミュニティと仕事スキルと心の問題に対するサポート。これらもないのに、警察からは追い払われ、どうやって生きていけというんだ。」
彼の語り口は非常に簡潔で的を得たものだった。
取材・記事: 西川由紀子

この記者もレベルが高い!
古くは奴隷解放と言っても開放しっぱなしで低所得層を放置してきたために貧困の連鎖が何世代も続いてきた・これが中南米その他からの貧困層の難民的移民に引き継がれてきたように見えます。
まだ分析していませんが、直感的に見てアジア系のホームレスは少なそうです。
もしもそうとすればその原因分析も必要ですが、この点は忘れなければあとで書くことにします。
単純作業系労働力余剰問題がホームレス激増の基礎でないかの関心で以下書いていきます。
運搬の動力を牛馬に頼った時代から車時代が来ると、輸送用牛馬の需要がなくなり、競走馬程度が食肉用しか存在価値がなくなりました。
人間がご用済みになればどうなるかの歴史です。
日本の武士は徳川の平和時代がきたときに、(大久保彦左衛門や旗本愚連隊を除けば)おおむね順調に官僚や文化人(酒井抱一のように)に変身していった歴史を書いたことがあります。
明治維新で職を失った士族に対する秩禄処分も紹介しました。
彼らの多くは、明治維新以降の日本近代化の人的礎となって近代日本の発展を支えてきたのです。
日本は古代からおおむね産業構造の変化に民族一丸でうまく対応してきた歴史です。

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