利害調整不全9(自治体と国の権限分掌)

9月9日の地域エゴ競争2の続きであり、July 6, 2020 12:00 「利害調整不全8」(地域エゴ野放し3)の続きです。
国政段階で反対の選挙運動をした結果惨敗して国会審議で反対が否定されたのにその後、その法律具体化のための現場工事段階で場外乱闘のように妨害するのは、民主主義政党としてルール違反ではないか?の疑いがありますが、これをできないように法改正すべきという意見が自民党から全く出ないのが不思議です。
成田空港や高速道路原発などなど相次ぐ自治体反対運動の結果、民主主義と地方自治の関係が問われるようになって久しいのに、抵抗政党の主張(中ソ陣営との競争力を削ぐことが主目的に見える)に親和性を持つ大手メデイアや政治学者が、意図的に放置して?この重要なテーマを一向に取りあげようとしないで半世紀以上経ちました。
選挙を通じた民意によって日米基軸体制が選択され、これに適合すべき政策の実現を採用するのは民意実現そのものです。
政府中央が合法的に決めた国策であっても、現地工事になると地元自治体が例外なく拒否権を持つ制度設計になっているからこのような国策実現反対運動が効果を持つようになったように思われます。
しかも、9月9日に書いたように、地方自治体特に県単位になると中央施策に「ともかく反発する」のがかっこいいような風潮が広がってきました。
この風潮にのるパフォーマンスが〇〇ファーストのスローガんであり、地域政党の乱立でしょうか?
小は、韓国や、フィリッピン大統領のように反日や反米を唱えても、超大国が大人気なく懲罰行動に出ないのをいいことに、超大国に反抗する素ぶりを見せて、民族感情を煽り政権浮揚の基本にする国があります。
(実は超大国はむき出しの武力を使わないだけで相応の報復をする能力をもっているので実は大きな国益損失になっているのが、普通です。・・)
上司の悪口を言っていても、露骨な左遷がないとしても何かと上司に厚遇されないことは確かでしょう。
この逆があって、日頃からお中元お歳暮を滞りなくしたりするのです。
地域大国の場合、口先反抗でなく、本気で周辺小国に勢力拡大していこうとする実力行使を伴いますので、世界の無秩序化が進みます。
中東のトルコ、イラン、ロシア、中国等の地域大国・例外なく独裁的強権支配が特徴・・ごり押し的勢力拡大期に入ってきましたが、これが行き着くところ世界が日本の戦国時代のようになり、お公家様のように「暴力はいけません」と眉をひそめるだけ・・平和愛好などと言っていても押し潰されるだけのことでしょう。
国内でいえば、杉並ゴミ戦争の時には文字通り権力を伴わない住民地域エゴでしたが、20年9月8〜9日に地域エゴと首長の〇〇ファーストのテーマで一部書きましたが、地域権力を持つ地域エゴが過ぎてくると権力の遠心力が働きます。
世界平和より地域大国の強引がのさばるのと同様に、国内でも地域権力を盾になんでも反対を始める国家の統一が成り立ちません。
米国が世界の警察官でないと言いだして世界平和の守護者の役割を放り出したように中央政府が国内統治権を放り投げたりできません。
私の思いつき意見ですが、政府決定にランクをつけて例えば、Aクラスについては地元に工事許認可権を政府に保留するなどの例外制度を設けるべきです。)
地方自治と中央政府の関係ですが、中央政府が決めた政策の場合、そのために必要な工事その他を政令で決めるとそれについては地元自治体の許認可事項でなく中央政府が直接行うとすれば良いのでしょう。

憲法
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第九十五条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない

上記の通り憲法の直接的縛りは95条のみであって、その他は地方自治の本旨に従いさえすれば法で権限分掌できることです。
リニアーであれ、自衛隊基地設置工事であれ、特定自治体だけの特別法ではありません。
現在の地方自治体の許可権限濫用は、杉並ゴミ戦争を巨大化したもので目に余る・放置できない段階に至っていると見るべきでしょう。

国防と内訌蠢動1

中国の問答無用的実力行使が上記の通り頻発してくると、いざという時に現状の日米安保で米国が本当に日本を守ってくれるかを国民多くが心配になっている現状を踏まえて従来より日米安保を緊密化する必要があるという問題意識によるのが、一連の安保法案でした。
その必要性を十分理解している人もいるし、理解したくない人もいるでしょう。
政治は100%の支持を待って10年先に必要な法律をつくるのではなく、10年先の社会、国際環境の変化を読んで行うもので、その意味で消費動向を先取りして商品開発し先行投資する商人・企業家と同じです。
その見通しを誤れば商人は倒産の危機があるし、政治家には落選・・政党にとっては政権を失う憂き目が待っています。
いつも政治決断には長期的国家の進路に関する展望が下敷きになっています。
数年前の安保関連法案は、中国の理不尽な実力行使の脅威が高まり始めたので、中国の多民族侵略傾向・近い将来を見据えて、どうやって民族の安全を守るかの展望を競うものです。
安保法案で本来行うべき論争は、過去70年平和があったという陶酔ではなく、来るべき国際環境で日本がどうやって生き残るかの論争であるべきです。
大きな家を借りて台風をしのいでいたが、その家が壊れかけてきたので台風が来る前に修繕費を一部負担するか等の問題です。
国防に関しては企業戦略同様にしょっちゅう変化する国際情勢を展望しながら中長期的な友好関係を広げることといざという時に本気で応援してくれる国の選別が重要です。
これまで書いてきた戦後の大きな選択・・全面講和か西側諸国との片面講和かの選択で国運の方向が定まり、西側陣営での復興を目指すことに決まりました。
その後の60年、70年安保、臨海工業地帯の新設、成田空港開設、高速道路敷設など、常にその先の進路を見据えた選択がありましたが、その都度社共系政党や文化人などは、毎回国民大多数(地元住民)の反対を無視するな!という決まり文句を唱えながら、全て反対して見通しを誤ってきたことは歴然たる史実です。
安保条約時反対では国民支持を得られないのがはっきりしてくると米軍基地存在は「日本に置いてやっている迷惑存在でしかない」「米国の戦争に巻き込まれる」式の有害論でした。
この応用として、米軍軍兵の交通事故程度で大規模ニュースになる傾向が普遍化していました。
また対ソ防衛主目的時代には、前線基地となる東北や北陸北海道の基地反対闘争では安保反対を基礎にした反対で、地元だけが迷惑を押し付けられている形式の反対運動はありませんでしたが、中国の台頭による国防最前線としての沖縄の重要性が見えてくると、約20年以上前から「沖縄だけの負担は不公平」論が加わって被害強調が始まり・この被害意識が定着したので、民主党が「少なくとも県外へ」の公約を掲げるようになりました。
これと並行して沖縄人=少数民族が虐げられている論への誘導が盛んになって、沖縄独立運動への揺さぶり→中国侵略への地ならし運動?の思惑も広がって地元で少数民族→虐げられている被害感情を反基地感情に結びつける運動をしてきたのが旧社共系政党と文化人メデイアでした。
政党やメデイアの動きは慎重ですが、跳ねっ返りグループは主張が露骨ですので長年かけてじんわりと浸透させてきたいわゆる文化人らの本音が露骨にでます。
例えば「乗り越えねっと」の活動です。
表向き民族協調・異民族の違いを乗り越えようという名目ですが、実質は少数民族が虐げられている・沖縄県民は少数民族である→沖縄県民に少数民族の自覚をを植え付け自立扇動→全体利益のために我慢する意識軽薄化が目的のように見えます。
本日現在のウイキペディアの記事です。

のりこえねっとは、2013年に設立された日本の任意団体である[1]。正式名称は「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」[2]。「在日外国人・留学生、国際交流、行政への改策提言」を活動分野として公表する
概要[編集]
在日本大韓民国民団(民団)の機関紙「民団新聞」による発足記者会見レポート
2013年9月25日に、都内で開催した「キックオフ記者会見」で結成を発表[2]。
在日本大韓民国民団(民団)の機関紙「民団新聞」では、共同代表の辛淑玉が在日コリアン3世であると写真付きで紹介し、のりこえねっとの結成を「在日同胞主導」と表記し、辛淑玉の「売られたケンカを買う」、「敵はでかいので、広範囲に抵抗していきたい。」などの宣言とともに、結成記者会見をリポートしている[2]。民団新聞によると、「のりこえねっと」の目的は「在日特権を許さない会」などの「行動する右翼」(原文ママ)に対する「包囲網づくり」であるという[2]。そのレポートによると、辛らは「いまは闘う基盤を作るのが最優先」とし、全国で小規模な学習会を組織して賛同人を増やしつつ、共同代表は知名度を活かしてテレビに出演し、広報活動を行うとしている[2]。また、インターネットの差別表現には内容証明を送ったり悪質なものは告訴する方針であるという[2]。
活動[編集]
沖縄への「市民特派員」へ5万円支給[編集]
カンパで募った資金をもとに、本土から沖縄への交通費にあたる5万円を支給し、沖縄の現地の様子をツイートする「市民特派員」を募集した。2016年9月から12月まで16人を派遣している[3]。チラシに「往復の飛行機代相当、5万円を支援します。あとは自力でがんばってください!」と書かれている[4]。
ガジェット通信によると、2016年ののりこえねっとの講演で、辛淑玉が、高江ヘリパッドの反対デモへの参加予定者に対し、「私は稼ぎます。若い者には死んでもらう。爺さん婆さん達は嫌がらせをして捕まってください。山城博治には『病気で死ぬな。米兵に殺されるな。日本の警察に殺されるな。私が殺してやるから』」などと講義している動画がアップされ、過激な内容ではないかとネットで話題になっているという[5]。

 「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

国(くに)(郡)とは?2

郡とは何かですが、大宝律令制定前の木簡には全て評(こおり)の表示しかないということですから、日本ではそれまでは評(こおり)と書いていたようです。
そうすると「評」(こおり)とは何かに戻りますが、評に関するウイキペデイアの説明では、

奈良県明日香村石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 – 評 – 五十戸(五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。

とあり評里性という語も見えるので今の郡市町村制同様に、評(こおり)の下に里(50戸単位)がいくつか所属する形であったようです。
ちなみに50戸単位は今でも実務上重要指標です。
高度成長に伴う大都市人口集中→首都圏で宅地造成華やかなりし頃・・都市計画法が制定されて無秩序な宅地開発の規制が始まりました。
都市計画区域のうち市街化調整区域では原則として(農家住宅等の各種例外を除き)住宅建設が許可されない仕組みですが、50戸連坦(たん)といって現状として約50戸の連たんする地域であれば新築住宅許可になる制度が利用されていました。
連たんをネット検索するとすぐ出ますが、例えば佐賀市の説明です。
https://www.city.saga.lg.jp/main/51905.html

佐賀市では、既存集落の維持・活性化等を目的に平成20年7月1日より、市街化調整区域内の開発行為等の許可基準に50戸連たん制度を追加しております。(川副町、東与賀町及び久保田町は平成22年10月1日から適用)

話題が逸れますが、千葉市周辺では無秩序市域の広がりを防ぐ目的の都市計画法施行(昭和44年頃)直後から例外に当たる「50戸連たん」の運用を利用して雑木林や畑地等の宅地化が行われてきましたので「50戸連たん」しているかどうかが実務上重要でした。
佐賀市ではバブル崩壊後約20年経過後の平成20年になって、この制度利用が始まったと言うのですから時間差と利用目的の逆方向性に驚くばかりです。

都市計画法 (昭和四十三年六月十五日) (法律第百号)
(都市計画の基本理念)
第二条 都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び 機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的 な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする。
(区域区分)
第七条 都市計画区域について無秩序な市街化を防止し、計画的な市街化を図るため必要があるときは、都市計画に、市街化区域と市街化調整区域との区分(以下「区域区分」とい う。)を定めることができる。
第三十四条 前条の規定にかかわらず、市街化調整区域に係る開発行為(主として第二種特
定工作物の建設の用に供する目的で行う開発行為を除く。)については、当該申請に係る開
発行為及びその申請の手続が同条に定める要件に該当するほか、当該申請に係る開発行為
が次の各号のいずれかに該当すると認める場合でなければ、都道府県知事は、開発許可を
してはならない
1〜10略
十一 市街化区域に隣接し、又は近接し、かつ、自然的社会的諸条件から市街化区域と一
体的な日常生活圏を構成していると認められる地域であつておおむね五十以上の建築物(市
街化区域内に存するものを含む。)が連たんしている地域のうち、政令で定める基準に従い・・・以下省略

上記34条11号が50戸連たんの例外規定です。
都市計画法が昭和43年にできたのは急激な都市人口増加→無秩序に市街化が広がる圧力・需要が多かったからその規制が必要になったからですが、その分千葉県等の東京郊外型需要地では抜け穴探しの競争も熾烈だったので50戸練炭の例外申請が多かった・・我々弁護士にくる相談事例が多かったということでしょうし、急激な市街地拡大がなかった佐賀市の場合昭和40年代どころかバブル期の影響もなく平成20年頃になって放置していると市域縮小一方?になってきたので逆に50戸連たんを利用して住宅建設需要を取り込もうという時代になったのでしょうか。
しかし住宅需要の前提たる人口増がないのに、「郊外に家を建ててもいいよ!」というだけではユーターン需要が起きるわけがない・せっかくUターンする気になった人の新築妨害をしない程度でしょうか?
大宝律令以前においても我が国では集落単位として50戸が一つの目安になっていたことがわかります。
現代的産物と思われる都市計画制度の基礎として、古代の集落単位である50戸連たんを採用している・・物事には古い歴史があって決まっていくことが分かります。
どんどんテーマがそれますが、里の関係でいえば「郷里」「故郷」という熟語があります。
郷と里の関係はどういうものでしょうか?

国(くに)とは?1

臣民と国民の違いに戻ります。
民を表現するのに人民と言うときには、ときの権力を覆すことを望む意味を含む用語として生まれてきた・・いわゆる不平分子とすれば、政府は支配下の民を人民と言いたくないのがわかります。
それならば、明治憲法制定当時既に旧刑法で採用していた「国民」を採用すればよかったはずなのに明治憲法で何故採用しなかったのか不思議です。
国民より臣民の方が良いとしたのは、王政復古にこだわる勢力への配慮・妥協の産物でしょうか?
もしかして?当時まだ日本「国」という表現が一般的でなかったとすれば、「日本の民「=日本「国」のたみという概念思考自体が一般的でなかった・特定の人しか考えていなかったのでしょうか?
しかし、明治憲法の表題は「大日本帝国憲法」ですから、大日本帝国国民とすればよかったはずです。
ただし私の個人的興味ですが、いつから日本列島全域を表現するのに「日本国」と言うようになったのかが、この際気になります。
以下見て行くように大和王権成立前の紀元前の前漢時代から倭「国」と呼ばれていたし日本列島の当時の祖先らもそのように自己表示していたようです。
明治政府がそれを否定していたか?というと明治四年の遣欧使節に対して翌五年に明治天皇の発行した全権委任状を見ると大日本国の国璽を押捺しています。
そうとすれば明治政府が何故日本国の民(たみ)という自然な表現をしないで「臣民」という無理筋?定義を何故したか不明です。
古代律令制から明治維新まで、国といえば地方の単位・今の都道府県よりほとんどの場合小さい地方単位でした。(千葉県でいえば安房、上総、下総の3カ国)
いつから日本60豫州の総称として日本「国」というようになったのでしょうか?明治維新後に地方制度として廃藩置県断行後、古代律令制導入以降の地方制度であった国の制度がなくなりました。
それまでは国という単語は、三河国、駿河国、上総国など国内地域の単位だった筈ですが・・。
日本列島の一部の表現だった国の制度がなくなってから日本列島全体の表現になったのでしょうか?
地域単位を表現するのに、和語でない借り物のの漢字の「國」とか邦、州とか郡や県、村・郷、邑を利用するからややこしいのだと思います。
「みどりなす黒髪」という表現が有名ですが、同じく「みどりご」という表現もあります。
これを漢字にすれば嬰児ですし赤ちゃんです。
日本では草花が生き生きと生命力に輝いている状態を「みどり」といい、中国では生き生きした若葉の色を緑というので、偶然一致して緑という漢字を当てただけなので、今になると緑=グリーンという漢字文化が身につきすぎると、緑=色の名詞である現在では黒と緑が同じ?なんで「緑なす黒髪」というか、赤ちゃんを「みどりご」というか?意味不明になっているに過ぎません。
大学生の頃か?大人になってからか中国の揚子江を長江というと知りましたが、遣唐使だったかの日本人が渡船場で地名を聞いたらそこが揚子江(中国語で別の発音ですが)と教えられて(その入江のことのことだったらしいのですが同じ「江」というから間違ったのです)これが日本に伝わり、長江全体の川の名前かと思ってしまったというのもあります。
漢字利用前の和語としての「くに」や「むら」とは「何」だったのでしょうか?
コトバンクによると以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD-55694

くにとは
一定区域をなす土地を表わす言葉で,現在では,土地,人民,政府をもつ国家のこと。歴史的には,さまざまの範囲を呼ぶのに用いられた。日本に農耕生活が始り,人々が政治生活を営むようになると,従来の「むら」が「くに」と呼ばれるようになった。『後漢書』に,1世紀の倭国に百余国があったというのは,このような「くに」の分立状態を示している。
「豊葦原の中つ国」 (→葦原中国 ) といった国土の総称にも用いられていた。

一部地域の表示にも列島全体の表現にも使う融通無碍げというか、外来語・漢字が入ってきて無理な当てはめが行われたから起きた現象でしょう。
ある外国語が入ってきた時に、道具や社会の仕組みあるいは文学表現等の概念がその社会にある場合にはすぐにこれに当てはめれば済むのですが、ないときあるいはかなり違う時にそれを当てはめると大きな違いが生じます。
例えば、パスタをそのままソーメンと訳してみると共通性は麺というだけで、お互いまるで違うものをイメージして会話することになります。
社会制度の場合、一方の話者が、100万人規模の集団をイメージして「国」の話をしている時に数十人の部族社会しか知らない未開部族の人は自分お部族の人間関係をイメージしているとお互い意思疎通がズレまます。
いまのように世界中の情報が行き渡っていない時代に、「4月頃を春」と言うとの共通認識があっても日本人が桜の季節を前提にいろんなことを南洋の人に言っても、なぜ春が待ち遠しいか楽しみか理解不能でしょう。
言語学でどうなっているか知りませんので素人的無責任想像ですが、人の集合体である「むら」が一定の地域性(同じ川の流域など)を持つようになる・・婚姻は超古代から濃密な血族間婚姻の危険を避ける知恵が生じでいるので、ムラができた当初から周辺他血統のムラとの通婚が必要→これを繰り返すうちに周辺村落同士の共通価値観形成が緩やかに進みます。
私の一家は東京大空襲の結果焼け出された結果、幼少期は地方で育ったのでその時の見聞経験でしかないですが、その地域の風習で見ると多くは徒歩日帰り圏内からの嫁取り婚だったようです。
後になって考えると当時(戦後から今に続く)〇〇郡という地域がほぼこの範囲と重複していることが分かります。
例えば、現在の都道府県制度の前の国制度時代には、下総国に属した江戸川両岸地帯の葛飾郡(こおり)・・葛飾北斎で有名ですが・・だいたいこの程度の文化共同体地域です。

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