合議制社会とリーダーシップ1

版籍奉還問題に話が大分それてしまいましたが、April 27, 2011「大字小字」2011-5-20「郡司6と国司」等で書きかけていた合意社会に戻ります。
我が国では古来から何事も合議で決めて行く社会でした。
寄り合い・・合議制の我が国では、各種組織や団体には責任者がいても村「長」や市「長」と言う概念がそもそもなかったと思われます。
せいぜい莊屋さんとか名主と言うだけで、村「長」として、何かを号令するような制度設計ではありません。
民主主義かどうかは選出方法に関するシステム論に過ぎませんから、ヒットラーも民主主義の産物ですし、社会主義国の場合、民主主義的選出でも1党独裁ですし、民主主義国の権化のようなアメリカ合衆国でも大統領の権限は強大です。
我が国は水田稲作農業社会でしたので指導者不在・不要でずっと来たので、諸外国とはまるで社会の成り立ち・歴史が違います。
稲作と小麦等畑作・牧畜等との大きな違いは、水田の場合では始まりは小さな谷津田に始まりその内千枚田も出来たでしょうが,戦後の大規模土木工事による土地改良までは,水田は平地でも曲がりくねった地形に合わせた小規模なものが基本であったことによるでしょう。
一望千里と言われる平野部中心になった今の大規模水田の場合でも、水田と水田には僅かに段差があって,一定グループごとに大規模用水からポンプでくみ上げて上(高い方)から順に水を引いて行くやり方は同じ(規模が反歩単位に変わっただけ)です。
ちなみに、大規模水田は(農機具の発達だけではなく)人力によらない大規模な用水工事が出来るようになって可能になったものです。
千葉の場合で言えば,マトモな川がないので遠く離れた利根川から、延々と巨大なパイプラインを引いて,九十九里浜方面まで潤しているのですが,こんなことは人力・スコップ・ツルハシ等で掘り下げて行く戦前にはとても構想すら出来ない大事業でした。
これだけ大量に水を引くには大きな井堰を造ることから必要ですが、昔は大川の本流自体にこんな大規模工事をする技術がなかったことになります。
こういう小刻みな農作業の場合、号令一下何千人が一斉に動くやり方はあり得ません。
最も人手のかかる田植え(機械化以前の千年単位続いた方法)でも、隣・・上の段と下の段の水田では(4〜5枚下になると)水の入り方で田植えの時期が違ってきます。
(戦後の土地改良前の小さな水田の場合直ぐに水がいっぱいになったので数日で5〜6枚の田に水が行き渡ったものですが,それでもその一団の水田所有者達だけが同じような時期に田植えするだけです。
当時(戦後の土地改良以前)は水田の規模が小さかったので,せいぜい家族にちょっと多くした程度の応援を得たグループで,それぞれ自分の水田で一斉に田植えするくらいです。
各農家のいくつかの水田自体が、早く水の入る場所とか遅く入る場所など分かれているので、これにあわせて順番に土を起こしたり・大分土が水に馴染んでから田植えして行けば良いので、一斉に農作業する必要がありません。
応援する方(臨時労働力)も1つの部落の内の農家ごとの田植え時期が少しづつずれているので順次応援に動ける仕組みでした。
これに比較して西洋等の見渡す限りの起伏のある一枚の畑(・・これは水を引かないので水平を保つ必要がないので可能なのです)の社会では一斉に何百人で農作業するのに適しています。
何事も一斉に大規模にやった方が規模の利益があるのは、万事共通ですから規模が大きければ大きいほど良いとする価値社会だったでしょう。
我が国の農作業をする単位は、家族労働に毛の生えたようなものが基本でしたし,水の管理と行っても数十戸単位くらいが適当な単位で戦後の機械化までやって来たので大きな単位は意味がないとする価値社会でした。
土地改良により耕地が大規模化しても、その代わり田植え機械やトラクターなどの機械化が進んだので今でも家族労働で間に合う点は同じですし、千葉の場合で言えば利根川から引いている両総用水からの引水作業も一定数の農家で1つのポンプを利用して順番に水を自分の田に水を引いて行く作業をしています。
戦闘集団もこうした細かい単位の積み重ねで大きくして行く仕組みでした。
刀や槍で戦う時代にはこれでちょうど合っていたのでしょう。
小さな集団で動く社会では,号令は必要がなく季節感やその周囲の空気で動けば自然に行動が一致する社会でずっと来たのです。
音楽の分野で見てもお琴や尺八の合奏あるいは雅楽では、お互いに気を合わせれば良いのであって指揮者が不要です。
小集団と小集団の意思疎通には阿吽の呼吸ばかりではうまく行きませんので気持ちの擦り合わせ・・合議の繰り返しが重視されてきました。
世界中(先進国しか知りませんが・・)で、我が国のように古代から現在まで何もかも合議制で来た民族がないように思えますが・・・。

律令制による国の制度

5月2日に紹介したように大化改新以降、律令制施行までの間にそれまでの国の造の治める地域を小さく分けて・・喩えば3〜4個の評・(後に郡と改称)にして従来の国を2〜3個合併して1つのクニ・・一国内に郡が6〜7個にするなど規模的再編成があったようです。
このときのクニの名称や範囲がapril 28, 2011「くにと国」で疑問を書いておいた江戸時代末(正確には明治4年11月の府縣統合)まで続いた国郡制の基本(後に若干の変更があります)だったと思われます。
ただし、上記の従来の国を細分化して郡にして、これをさらに併合して従来よりも大きな国を作る実際の数については、わたしの比喩であって正確には分りません。
ただ日本書記では、ずっと昔の実在するかどうか不明の成務天皇の時代に国を山脈など自然の地形で区切って作ったように書かれていますが、これまで書いて来たように元は大和朝廷成立時の地方豪族の支配地ごとに国の範囲(大きな山脈を越えた飛び地支配は困難ですから当然自然の地形に似ているでしょう)・名称があったのを、大化の改新以降律令制導入に向けて(かなり無理な)統廃合をして新たに国の範囲・名称を決めたものと考えています。
例えば今でも南北対立の激しい長野県・信濃国をウイキペデイアで見ると
「7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした(当初は科野国)。」
「721年(養老5)から731年(天平3)まで信濃国から諏方国(すわのくに)が分置されたこともある。」
「645年の大化改新で科野国[8]が設置され、704年(慶雲元)の国印制定により、「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。」
「新政権は大化から白雉年間(645~654)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」(コオリ)と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間評(今の筑摩郡のことでしょう)・安曇評・水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評などが成立していたと考えられている」
とあります。
私の想像によれば、長野県の南北対立は明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県とこれに引き続く同年11月の第一次府縣統合によって、筑摩縣と長野縣に分かれていたのが、1876. 8.21の第二次府縣統合で長野県1つになったことから始まったように思われていますが、もっと古い対立があるように思えます。
古代のクニ制度改変(国をコオリ単位に細かくしてこれを再度まとめて「くに」と言うようになった)時に千曲川流域を中心とする水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評(千曲川流域)地域(もとは國)と現在の松本・諏訪地方を中心とする伊奈評・諏訪評・束間評・安曇評地域のクニを無理に合併させたから、こんな結果が今でも続いているのではないでしょうか?
信濃の國は壬申の乱で大海皇子側について勲功があったと言われていますので、(逆に千曲川流域地方は大友皇子側についた?)その論功としてもしかしたら、山を越えた千曲川流域までまとめた大きな1つのクニ・支配下にして貰った可能性があります。
壬申の乱に匹敵する明治維新で言えば、千曲川流域地方の勢力は早期に官軍側についた(真田家などは当初から官軍でした)のに、筑摩郡を中心とする勢力は徳川家の息のかかった大名が多かったことから、(例えば会津藩の始祖である保科氏は、高遠城で養育されました)県庁所在地を辺鄙な水内郡の長野村(今は長野市ですが・・)に持って行かれた可能性があります。
1つの国としては他国に比べて面積が大きすぎる外に郡の数が多すぎますし、間に大きな山並み(・・今はトンネルもあるし車で山越えは簡単ですが・・)があって、古代から1つの生活圏だったとは考えられない地形です。
大和朝廷成立当時としては北の果てに諏訪大社(信濃国一宮)があるのは、こうしたいきさつによると思われますが如何でしょうか。(単なる私の空想です)
周辺の同じ山国(海のない地域)・・例えば甲斐の国や飛騨の國はそれぞれ1つの盆地状のまとまった地域です。
その他はそれぞれ海路または水路で一つの生活圏をなしていた感じですが、信濃の国だけは南北が大きな山並みで分断されているのに無理に1つにして来たのが現在に至る南北対立の根源になっているのではないでしょうか?
戦国時代は殆どのクニで先ず国内諸豪族のヘゲモニー争いから始まって国内統一が出来てから、隣国に押し出して行くのが普通ですが、信濃のクニでは国内統一して外敵にあたる機運がまるでなく、武田と上杉両勢力の草狩り場になったのは、クニとしての一体性を欠いていたことによるでしょう。
明治で大きな縣を作るために、いくつかのクニ・地域を合併させた福島県や静岡県(伊豆、駿河、遠江)などと同じ地域対立が古代の律令制施行時から続いているのです。
福島県は大和朝廷成立時には、北辺の陸奥の国の一部でしかなく、独立のクニとして分離成立するのは大分経ってからのことです。
現在知られている岩代の国と岩城(いわき)のクニに分かれ命名されたのは、明治維新直後の数年程度のことです。(直ぐ縣制度に移行しますので・・なくなってしまいました)
718年(養老2年)に石城国と石背国が分離独立したこともあるようですが、前9年の役など蝦夷との関係が怪しくなると陸奥のクニに再編入されて以降、国として一体化したことがなくまとまらないまま(戦国時代も大名が乱立ですし、江戸時代も会津松平家を除けば小大名の乱立で)明治まできたのです。

郡縣・郡国制から州縣制へ

  
漢字導入時期は5〜6世紀と言われ、しかも王任と言う人の名を教科書で習った記憶ですが、実際には、交易を通じて人の交流があれば(渡来人も住み着いていました)徐々に入って来て気のきいた人が使い始めていたものでしょうから、彼がまとまった千字文を紹介したと言う程度のことでしょう。
ですから、本来誰が何時とは言えない性質のものです。
5月3日には中国の郡縣制ないし郡国制はなくなっていたと書いてきましたが、この際私の想像だけではなく実際の文献で紹介しておきましょう。
諸葛孔明の出師の表では既に州が出てきます。
「天下三分して益州疲弊す」
がこれです。
いつからかは不明ですが、後漢最後の三国鼎立直前の頃には既に州縣制に移行している様子です。
ちなみに第6代景帝のときの呉楚7国(王)の乱があって、これを鎮圧してからはいわゆる郡国制は消滅に向かい、次の武帝の頃からは全国が郡縣制となり皇帝が完全に掌握するようになっていました。
第7代武帝の時に郡大守による不正が横行したためにこれを監察するために全国に103あった郡の上に全国に13の州(冀・兗・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・朔方・交阯の13の州(最後の二つは郡))を作ります。
州1つごとにに州内の郡大守の不正を監察する刺使を置いたのが始まりです。
郡大守の格式に比べて刺使の格式が低くて監察の実が上がらないことと、州の軍事権を持つ州の牧制度が始まったことから、監察権を州の牧に与えるようになり、その後監察権が刺使に戻ったりある郡では刺使、ある郡は牧と言うように刺使と牧が並列したり、州の牧が権力を握ったりしている時期が続きましたが、結果的に州の軍権を一手に握るようになった牧が優位になり、牧が郡の行政権まで握るようになって行ったようです。
州内全部の郡の行政権を握るようになれば、結果的に州単位の行政になります。
中央集権国家では、郡の大守は行政権だけで軍権や警察権がありません
(我が国でも大名時代には、軍事力と警察権がありましたが明治以降の県知事や市長・・官選でしたので彼らが警察権や軍事権を持っていなかったのと同じです・・戦後地方自治制度になって地方自治体ごとの警察権を持つようになりましたが、これは直ぐに実態をなくして行きます)
何時の頃からか知りませんが州の「牧」は州(地方の)の軍事力を持つようになって行きましたので、(今で言えば軍管区長官?)中央権力が弱体化して動乱期になると地方で軍事力を持つ州の牧・・州単位が重要になってきます。
三国志でよく出て来る「徐州の牧」豫州の牧になったと言うくだりは、その州(郡)の軍事力を手中に収めたと言う意味です。
所によっては逆に郡の大守が実力を持っていて隣の郡も併呑して強大な軍事力を持っていたこともあるでしょうが、事実上の権力移行期には、いろんなパターンがあってもおかしくありません。
後漢以降・・特に黄巾の乱以降は中央政府はあってなきが如しでしたが、郡の大守には基本的に軍事力がなかったので、動乱期には奪い合う対象でなくなり、独立の意味がなくなって行ったのです。
州の牧の独立性が高まる・・行政権も掌握して行くと、その下部に位置する郡の大守や県令だけを中央で任命して派遣することが不可能になりますから、州内の行政組織もその州の牧ごとのやり方になって行ったことでしょう。
上記の通り州の権力と郡の統治権が競り合った結果、州の政治権力の方が優位になって行ったいきさつがあるので、州権力の定着に応じて郡大守と郡の政治自体が消滅して行ったと見るべきです。
各州には大きい州では120くらい小さな州でも5〜60くらいの縣城がありましたから、治安の悪い動乱期には軍事拠点でもある城を中心に行政が行われ、中間の郡の役割が消滅して行ったのだと思われます。
ちなみにウイキペデイアのデータ(何時のデータか不明ですが・・・)によると最大の益州(この中に巴郡や蜀郡がありました)で118の城、戸数1526257、口数7242028、荊州で117の城、戸数1399394口数6265952、徐州で城数62、戸数576054、口数2791693、最小の交州で56の城、戸数270769です。
(ついでですが、一戸当たり4人平均程度の人数で、以前から書いてきましたが昔から核家族だったことが分ります。)
郡が制度としてなくなったのではなく、中央の権力衰退に応じて事実上衰退・消滅して行ったと見るべきでしょう。
これが何世紀も続いているうちに地名を現すのに州名が原則になって行くのです。
ただ人名の説明をみると、かなり遅い時代でもその生地として「何々郡◯◯の人」と言う説明があるのは、上記のように法制度としてなくなった訳ではないから史書ではこのように書いているのでしょう。

国と郡

中国に関する歴史物の本では魯の国などと春秋時代から国名があったかのように書いているのがありますが、後に漢以降地方に封ぜられた王族の領地を「何々国」と言うようになって何々の国の呼称が定着した後に、地方制度として昔から国があるかのように安易に書いているに過ぎないように思います。
あるいは我が国で地方を信濃の国の人と言うのに習って、中国の地方・地域名を表現する翻訳として中国の地方も同じように魯の国などと翻訳している場合もあるでしょう。
何とか通りと言う地名表記の国の表示を、我が国のように何丁目と翻訳しているようなものでしょうか?
西洋の地方制度は日本とは同じではないとしても、似ているような組織を日本の町や村として翻訳しても間違いではないのですが、中国の地名に勝手に「何々国」と翻訳して書くと同じ漢字の国であるから、我が国同様に昔から何々国と言っていたのかと誤解し易いので、こうした場合、翻訳しないで中国で使っている漢字のまま書くべきです。
ところで春秋戦国時代は地方制度がきっちりしていなかったようなので、史記や18史略を見ても斉の桓公とか衛の何々、楚の懐王と書いているだけで国や州等の肩書きがないのが普通です。
官僚派遣の郡縣制は始皇帝が始めたものですし、郡国制は漢になって中央派遣の郡縣だけではなく、王族に封地を与えて半独立的統治を認めた折衷制度して始まった制度です。
外地の服属者に対して国と表現するのが元々の意味ですから半独立国を言う意味だったでしょう。。
春秋時代には地名に肩書きがないのに、我が国の文筆家らは我が国の習慣で当時も我が国のような地方制度があり・・地方は何々の国となっていたかのような思い込みで書いているのです。
魏晋南北朝時代を別名5胡16国時代と言い、我が国で室町時代末期を戦国時代と言うときの「国」とは半独立国が乱立している状態を意味するでしょう。
我が国古代で何故地方の呼称に・・・國と言う漢字を当てたかのテーマに戻ります。
上記の通り漢の頃から南北朝時代まで独立・半独立地域名として主流であった地域の肩書きを我が国の地域名に輸入して「・・國」としたと思われます。
唐の時代に律令制が我が国に導入されたのに大和朝廷直轄のみやこ以外の地域名を州や縣とせずに国としたのは、大和朝廷では唐ほど中央権力が強くなかった現実に合わせたのかも知れません。
しかし、我が国古代の「國」は漢字の成り立ちである四角く囲まれて干戈で守っている地域ではなく、(国ごとに対立している地域ではなく)一定の山川で隔てられた地域・・当時で言えば広域生活圏をさしていたに過ぎません。
その結果、我が国における国とは都に対する地方を意味するようになり、国をくにと訓読みするようになって行き、「くに=国」は故郷・出身地をさすようにもなりました。
我が国の「くに」の本来の意味は、昔も今も自分の生国と言うか生まれた地域・地方を意味していて、それ以外の地域の人と区別するとき・・ひいては・現在では自分の地域の範囲が広がって日本列島全体を「わが」国(くに)とい言い、異民族に対する自国、本邦を意味して使っているのが普通です。
すべて同胞で成り立つ日本列島では、相模の国、伊豆の国、駿河の国と言われても、あるいは河内の国、摂津の国、大和の国と山城の国とでも国ごとの民族的争いがありませんので、現実的ではなかったでしょう。
ただ、大和朝廷の威令がそれほど届かない地域・・服属している地域と言う意味だけで中国の国概念と一致していただだけです。
国の範囲は実際の生活圏と違っていたし、国単位で隣国と争うような必要もなかったので、その下の単位である「コオリ」が一般的生活単位として幅を利かすようになって行き、上位概念の国名や国司は実体がないことから空疎化して行ったのではないでしょうか?
ちなみに「こおり」は我が国固有の発音であり郡(グン)は漢読みですが、国より小さい単位だからと言うことで郡と言う漢字を当てて、これを「こおり」と読んでいたただけのことでしょう。
ところで、この後で書いて行く縣の読みについては古代では「アガタ」と言っていたことが一般に知られています。
しかし、ものの本によると「縣」の発音として「コホリ」と読む場合もあったようです。(どこで見たか忘れましたが・・・)
我が国古代の生活単位としては、先に「コホリ」や「コオリ」が存在し、これを中国伝来の漢字に当てはめて使っていた漢字導入初期の試行錯誤が推測されます。
我が国では大和朝廷が律令制に基づいて押し付けた生活実態に合わない「国」よりも小さい・・現実的生活単位として、「コオリ」乃至「コホリ」が使われていて、これに縣や郡を当てはめていたことになります。
このコオリ単位の行政運営が江戸時代末までコオリ奉行による行政として続いていたのです。
律令制が始まっても国司は郡司さんの意向を前提に政治をするしかなく、郡司が実力者だったと言われる時代が長く続き、江戸時代でも1カ国全部を支配する大大名は全国で何人もなく、郡単位の支配である大名が普通でしたし、江戸時代でもコオリ奉行が現実的行政単位だったのです。
徒歩で移動している時代が続いている限り、古代から明治始めまでコオリ単位が現実的な行政単位でしたが、明治になってその下にいくつもの莊を合わせた村が出来、村役場、村単位の小学校、戸籍整備その他が進んで来たので、中間の郡単位の仕事がなくなり郡役所もなくなりました。
村を合わせた上位の行政単位として明治政府は郡よりも大きな縣を創設しました。
実際交通手段の発達等により、小さな郡単位どころか従来の「くに」単位よりも大きな規模で行政する必要が出て来たのでこ、広域化政策自体は成功でした。
郡よりも大きな経済規模が必要になったと思ったら、古代からの国単位では狭すぎるとなったのですから、我が国では古代から現在まで国単位では何も機能していなかったことになります。
もっと広い県単位の行政が普通になってくると郡は無駄な中2階みたいで具体性を失い・・精々地域名として残るだけになったのでコオリと読む習慣も廃れて行き、今ではグンと漢読みするのが普通になり、コオリと言う人は滅多にいません。
縣の名称も明治政府のイキナリの強制まで日本での日常的使用例がなかったのですから、これは今でも(市原の人に限らず全国的に)音読みしかなく日本語読みが全く定着していません。
漢読みしかないと言うことは、その制度が現実的な意味が根付いていないことになるでしょう。

くにと国

 いきなり聞いたこともないような「村」が出現したのと同様に、地方行政区分で似たような新規出現例は「県」です。
明治までは国の次の小さな単位として郡(こおり)があったのですが、明治政府はいくつかの国を合わせて1つの縣にしました。
千葉県の例で言えば、上総、下総(の大部分)と安房の3カ国が1つの千葉県ですし、駿河と遠江と伊豆の3か国が静岡県ですし、薩摩と大隅の2カ国が鹿児島県です。
このような例が全国にいくらでもあります。
そもそも古代に制定した国制度は、その当時における地域ごとの豪族の勢力範囲で決めたのか、あるいは1種の風土・地理的共通性で括ったものかが(私には)分りません。
ただし、陸奥の国などは、言うならばその他の地方と言う程度の括りだったでしょうが・・・。
郡(こおり)が各地豪族の支配区域であり、くにはそれよりも広い地理的共通性だったように推測されます。
明治時代に、それまでのいくつかの莊を合わせて村を作ったのと似たような発想で大和朝廷も国家制度創設の時に人工的な「国」を作ったのでしょうか?
大和朝廷の作った国の制度は行政組織としての実態に合わなかったので名前だけのこって直ぐに消滅し、実態に裏付けられた郡司さんにとって代わられて行きますが、気候風土などある程度の一体性のある地域を倭人は「くに」と読んでいたので、クニの一体感は明治まで残って来たのです。
この「くに」に何故國の漢字を当てたかです。
律令制を導入した時に、中国の制度を機械的にまねをして大和朝廷支配下の地域ごとの地名の肩書きとして、便宜、一定の気候的一体性のある地域ごとに中間的な中国風の国名の肩書きをつけてみたのかな?と思われますが、そうでもないでしょう。
むしろ中国の古い制度を十分研究して、直轄地以外を「国」と命名するのが妥当とする意識があったからです。
国司の仕事は租庸調を中央に納めるのが主な仕事だったことを想起すると中国の外地・朝貢国の扱いと同じです。
律令制導入時には唐の時代に入っていてその前の群雄割拠・5胡16国時代は終わっています。
唐時代には国内統治・・地方制度には州を使っていたようですから、律令制から直ちに分国制導入にはならなかった筈です。
国とは中国では、皇帝の支配地の中で一族を各地の王として分国統治された地域・諸候の封土の意味として、あるいは外地・・朝貢する服属者を国と一般的に漢の時代から使われていたような私の記憶です。
その他は直轄領土として官僚を派遣する州や郡縣制だったのです。
(私のこれまでの知識によるので、学問的正確性はありません・・)
周時代に、その親族などを各地に封土する例が生まれてきますが、(このためにこれを封建制の始まりと言う人もいますが・・正確には今でもはっきりしないようです)この時代には April 25, 2011「むらと邑」のコラムで書いたように邑と称していて、国とは言わなかった筈です。
これを後世、太公望の封ぜられた斉の国とか周公旦の封ぜられた魯の国などといろんな本で我が国では書いていますが、当時は邑を賜ったに過ぎず、その地域を国と称していないのです。
春秋戦国時代に入ると領主間の戦いが起きてきますので、結果的に各地に封ぜられた領域の独立性が高まって来ます。
それでも、いわゆる覇者といえども、斉の桓公(bc667)、晋の文公などと「公」しか名乗っていなかったのです。
王が一人しかおらず、その他の諸候は「公」でしかない時代には、その領域がいかに独立性が高かろうとも国とは称していません。
戦国乱世になって実力主義が浸透して来て、周王室の権威が問題にならなくなってくると、各地領主の自立・・何々「公」から何々「王」への名称変更も起きてきます。(信長が朝廷や将軍家を問題にしていなかったのと同じ傾向です)
諸候が王を自称するようになるのは大分時代が下ってbc334年魏の惠王が名乗ったのが最初でそれまで周の王室だけが王を名乗っていました。
各諸候が王を名乗った頃から自分の領域を邑ではなく国と称するようになっていたかの関心です。
この辺は史記の原文を読まないとよく分らないのですが、今のところ原文に当たっている暇がないので、ペンデイングにしておきます。
(このコラムは何回も書いているように研究書ではなく、これまでのおぼろげな知識に基づいて思いつきで書いているだけです)
これまでのうろ覚えの記憶では、地名に「國」とズバリ書いたものを見た記憶がないのですが・・・。
タマタマ春秋左氏伝の原文付き解説書が自宅にある・・子供が持っていたので、借りて読んでみましたところ、あちこちに自分の「国」と言う言い回しの漢字が出てきます。
正式な国名表記ではないものの、その頃には既に国と国の戦いを意識する文章になっているのです。
日本で言えば「我が何々家」のため・我が軍と言うべきところを、国の大事のような表現している原文が結構あります。
ただし、この左氏伝自体誰が何時書いたかの論争があって、1説によると漢を簒奪した新の王莽に仕えた儒者の劉歆だとも言います。
この時代になると半独立国や外地の服属者を国と言う常識が出来上がっていた可能性もありますので、春秋時代のことを書いた書物だからと言って、春秋時代からあった言い回しだったとは限りません。
漢時代の言い回しが一杯入っているから後世の偽作だろうと言う説も出るくらいです。
いずれにせよこの書物でも「魯国」とはっきり書いた部分は今のところ見つかりません。
魯氏春秋と言うのが正式書物名で、魯国春秋(魯国の歴史)とは言わなかったのです。
国名を正式な地名表記に使うようになったのは漢になって、王族を封じた頃からでしょうか?
そのころでも、直接支配地域外の朝貢国・外様を国と言うのが、一般的な例でした。
高句麗好太王の碑では、漢の倭の奴の国王とあり、魏志倭人伝では、既に日本列島内で割拠している地域を◯◯国、△の国と列挙されていますが、この記事があってもこの当時我が列島でヤマタイ「国」いき国、まつら国などと名乗っていたことにはなりません。
我が国の新聞でニューヨーク市や州と書き、ダウンタウンを下町と翻訳して書いてあるからと言って、その新聞発行時にニューヨークがステートやシティと言わずに日本同様に「市」や下町と言う漢字を使っていたことにならないのと同じです。
当時の魏・・中国では地方割拠地域名を国と表現していた(三国志の時代です)から、自分の国の制度・呼び方・・上記の通り直轄領地以外の服属国を国と言いましたので、これに合わせて日本列島内の各豪族の支配地域名を・・国と記載していたに過ぎないと思われます。
ですから魏志倭人伝に「◯◯国」と書いているからと言って我が国でその頃から・・各地域を国と言っていたことにはなりません。

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