国債2と税の歴史7

国債発行残高の危険水準のテーマに入る前にもう少し税の歴史を振り返っておきます。
我が国の税の歴史を辿ってみると、02/13/06「利息3(出挙2)高利金貸しと税金の起源2」の前後で紹介しましたが、わが国では稲モミの貸し出しによる出挙から政府資金徴収が始まったように、古代には稲モミの利子徴収と税が未分化でした。
我が国では権力者には元々税を取るという意識がなかったし、国民も税というものを納めなければならない意識が育っていなかったように見えます。
その後イキナリ律令制が導入されて税観念(租庸調)が導入されたものの、国民性に合わないこともあって01/09/06「律令制の崩壊1(豪族のしたたかさ)」で紹介したように直ぐに消滅してしまい、明治維新・・版籍奉還まで約1000年間絶えて徴税していなかったことになります。
明治維新まで大名小名の取っていた税らしい物は、(5公5民・4公6民などの割合がありましたが・・)地代と区別のつかないものでした。
08/12/09「所有権保障の政治的意義2」や、08/10/09「大名の没落と西洋貴族1(所有権の絶対性1)」以下で、ココシャネルの映画を見た後の感想等でわが国の重層的な所有権観念の紹介をしましたが、明治民法制定までは、大名や武士の領主権は土地所有権と区別がつかない意識でした。
(ただし、徳川期の鉢植え・転勤大名になると意識が大分変わって来ていましたので大名でもいろいろです)
農民の方も大名小名・・その前の荘園領主・・から土地を借りて使わせてもらっている印象でしたから、地代相当の年貢を納めるのは納得し易かったでしょうが、商人の場合土地も使わないのに政府維持費がいるから負担しろと言われてもピンと来なかったと思われます。
こうした意識から言えば、農民以外から税を取る方法・・大義名分がないので、明治維新まではどうして良いか分らないままで来た感じです。
僅かに室町中期以降戦乱が続いたので商人が安全に市(いち)を立てられる対価として所場代をその土地の領主に納める仕組み・意識が発達しましたが、(国内治安が乱れたからこそ自然発生した原理・・中国古代に王が生まれたと同じ原理です・・)楽市楽座制によって所場代を取るのは非合法なヤクザ組織くらいの意識になって、納税意識が根こそぎなくなってしまいました。
「安全はただ」と言う意識の再定着です。
この点明治初期から始めた租税の金納性の実施・・地租改正作業は、日本人の租税納付意識を変革する革命的大事業でした。
地租改正作業は明治維新による社会の貨幣経済化変革の基礎をなすものとして、2009年秋ころから大量に連載していますので・・もしかしたらその途中で今のテーマに脇道は言ったままかも知れません・・関心のある方は地租改正で(新しくブログ形式になる前のコラムを)サーチして下さい。
この結果固定資産税その他各種の税を取ることが可能になったのです。
この点中国や西洋では、元々商業国家から始まっているので、ヤクザの胴元同様に王様は市場秩序維持機能と引き換えの所場代を取ること・取られることに馴れています。
証券取引所を維持するためにあるいは競馬場の経費を賄うために一定の参加料を払うことには誰も違和感がないのは今でも同じです。
宗教(キリスト教など)までこれに合わせて「10分の1税」などと言って応援していたのです。
今でも事業している人には馴染みが多いと思いますが、我々弁護士報酬を受けるときには、年間総収入にかかわらず先ず10%の源泉徴収を要求されていることに繋がっています。

税の歴史4(楽市楽座)

楽市楽座制の宣伝は現在で言えば租税回避地であるタックスヘイブンの先がけあるいはシンガポールのような法人税低減化で企業誘致の競争を始めたようなものです。
こういう競争が一旦始まれば、対抗上諸国は際限なく法人税を下げて行くしかなくなるので、(アメリカでもオバマ政権は大幅な法人税の引き下げを宣言しています)将来的には法人税がなくなってしまうのでしょうか?
楽市楽座制の普及の結果、政権は町衆からの合理的な徴税方法がなくなったまま、明治まで来たことになります。
ただし信長は、堺の町衆から矢銭を徴収しています。
(この時点ではまだ軍資金目的税で一般経費向けではありません。)
こんな程度で膨大な戦費を賄えたのは、織田、豊臣から徳川初期までは、金銀の豊富な採掘があって、(当時世界採掘量の何割という量であったことを November 9, 2011「鉱物資源で生活する社会3(ナウル共和国)」のコラムで書いたことがあります)政府資金は間に合っていたので無税でも、政権が成り立っていたからです。
今の湾岸諸国や、ブルネイが豊富な石油収入(・・採掘権の直轄収入)の御陰で、税を取るどころか国民にお金を配れるような状態になっているのと同じで、織田・豊臣政権時代には、政権維持費用を主として豊富な金産出に頼っていたことになります。
戦国時代の強国ないし勝ち残りは、おおむね金銀の取れた地域または商業利権の大きかった大名でした。
ちなみに信長〜秀吉は商業利権で伸びた大名ですから、商業に関心をおいていました。
上杉謙信も、越後ですので佐渡の金山を連想しますが、当時は越後の布・青苧などが主要商品で、この経済力で戦費を賄っていたので彼の二度にわたる上洛もそのルート維持に精出していた面があると言えるようです。
ちなみに、佐渡金山は、1601年(慶長6年)鶴子銀山の山師3人によって発見されたとされるもので徳川政権になってからのことですから、謙信の頃には関係がありませんでした。
農業系は鉱物資源に頼ることになるので、武田家の衰亡は領内の金採掘量の減少と比例しています。
徳川は農民系ですから政権を取ると生野銀山や佐渡金山など直轄支配していました。
またオランダ・中国貿易など独占していましたが、これは権力者が握るものと言う過去の歴史経験によるだけで、これを幕府財政の大きな資金にするつもりはなかったでしょう・・。
金銀の採掘量が減って来て徳川政権も経済的に参ってきますが、信長以来の楽市楽座制のままで・・日本国民は商売と言うものは自由に出来るものと思い込んでしまって・・既得権になっているので、商業活動に対する徴税方法がうまく機能しないままでした。
この辺は商人から税を取ることから始まった中国の政府・王権と自然発生的な我が国社会の世話役としての政府との大きな違いです。
中国(中国という国家は周知のとおり辛亥革命高成立した国家でそれ以前の王朝とは違います)と言うか、その土地で権力が発生したのは異民族・異境の地に出かけて行く商人の護衛をしたり、行った先での交易・市場の秩序を守る役割があって成立して来たものです。
現在の中国地域での王権の成立に関しては、08/30/05「都市の成り立ち9(異民族支配)」で用心棒・秩序維持役として始まったことを紹介しました。
商業・交易にはルールが必須ですし、ルールあるところにはそれを守らせるに足る武力・権力が必須です。
商業活動と権力の親和性・随伴性については09/18/05「唯一神信仰の土壌(商業の発達と画一化・・・信教の自由2)」を嚆矢として03/27/06「デザイン盗用と電気窃盗4(刑法44)」その他で連載しました。
異民族との交易のために出かけると市を開いた場所で一定期間駐在するための砦を作って(中国人は今でも世界中どこでも似たような中国人街を作るのはこうした歴史があるからです)商人を夜間護衛することも当然しました。これが中国や西洋の寿の始まりですから、どこでも城壁を持っているのですが我が国ではそのような歴史がありません。
・・砦では夜間門を閉めて朝鶏が啼いてから門を開ける(鶏鳴狗盗の故事)習わしでした・・。

税の歴史3(商業税1)

足利氏も平家同様に直轄領地を殆ど持っていない・・(一族の領地が全国的に散らばってありましたが本拠地の足利の莊自体は小さなものです)源氏の棟梁的(担がれていただけで自前の軍事力=資金源なし)役割だったので、資金的に最初から困っていて幕府自体の財政資金の出所は微々たるものでした。
南北朝の争いが終息した3代目の足利義満の時代になると権力的には頂点になりますが、その代わり領地を取ったり取られたりがなくなりますので、安定収入源としての直轄領地が殆どないマイナスが目立ってきます。
朝鮮征伐に活路を求めた秀吉同様で、義満も天下統一が終わると恩賞として与える新規占領地がなくなり行き詰まってしまいます。
そこで、資金源を清盛同様に日明貿易に求めましたが、貿易で儲けると言っても貿易商人の上前をはねるだけですから、個人収入としてはウマい方法だとしても、国家権力維持の資金としては基本的に多寡が知れています。
今のように貿易の盛んな時代でも関税収入は国家収入のホンの1部でしかないでしょう。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、国内統一がなると恩賞を与えるべき新規領地獲得がないので大名が命令に従うメリットがなくなってきて威令が利かなくなります。
将軍家の統治能力の低下に伴い倭冦による密貿易が普通になって、政府の統制が利かなくなると貿易による収入源もなくなってしまいます。
幕府財政は手数料収入に頼るしかないので、義政の妻日野富子による関所・・通行税などに徴収に頼るようになります。
(貿易の上前をはねる方法の小型版です)
これが怨嗟の的となって彼女は歴史上守銭奴・悪女とされていますが、(資金源に困った結果でしょう)これは京の出入り口(7口らしいです)だけであって全国の通行税を取れる訳ではない・・どこの大名も関所を設けて真似する程度のことであって、中央政権独自に必要とする巨額資金源にはなりません。
日野富子死亡後ころから、資金面から中央(足利幕府)の実力が維持出来なくなって行きます。
(義政は富子との関係が冷えていたこともあって早くから竹林の7賢のように権力争い・政治から離れて行きます)
戦国時代に入ると各領国ごとに勝手に税を取る仕組みですから、中央政府・・足利政権の経済基盤がなくなってしまうと、足利氏は直轄領が殆どなかったので戦国時代の朝廷同様に悲惨です。
室町時代から商業活動が活発になり、(そもそも鎌倉政権を倒した原動力が、河内の馬借など新興産業の担い手であったことを、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。)
室町期にはさらに商業が発達して来たので、各地領主はこれを保護する代わりに特権・独占的権利を認める形で一種の特許料を取るようになっていました。
業者は同業者間の組合である「座」を結成していましたので、言わばこうした団体を通じて統制して税・冥加金を取る仕組みでした。
今のように売上を正確に把握する帳簿もないので、多分話し合いでまとまったお金を上納してもらっていたのでしょう。
これが次第に(独占の見返りではなく市場の維持費や参加料として行くなど)合理化して行けば、今のように商売自体から税を取る方向に発達出来た可能性がありました。
上記のとおり戦国時代に入った頃には地代だけではなく、商業活動に対しても現在の税の萌芽である所場代を取るようになっていたので、このまま発展していれば、日本でも商業活動に対する税の徴収方法が発展していたと思われます。
ところが、戦国末期には信長がいわゆる「楽市楽座」制を支配下大名に布告したので、各領国・大名も競争上真似せざるを得なかったので瞬く間に全国的に「楽市楽座」になってしまい所場代の徴収方法の根がなくなってしまいました。
教科書的には、閉鎖的特権組合的権利(今で言うとギルド的特権)をなくし商業活動を自由化・活発化させた画期的な制度だと教えられますが、地代以外に税を取るシステムの萌芽だったとして見れば、楽市・楽座制は徴税方法が進歩するべき根っこをなくしてしまったことになります。

税の歴史2

大名や旗本が町奉行や作事奉行に任ぜられると自分の家臣団を動員し市中取り締まりや工事(薩摩島津家で言えば長良川の堤防工事)をする必要がありました・・。
このやり方では徳川家で言えば大身旗本しか役につけないので、足し高の制・・役料制度が発達したことを03/01/04「足高の制4と新井白石の正徳の治(家禄・家臣団の不要性)」前後で連載しました。
中央政府は巨大な領地・圧倒的領地収入を前提に政権を獲得するので、その後も自腹で全国的な運営を担当するのが我が国古来からのやり方でした。
同好会その他弱小組織の場合、会長がかなりの事務量を自腹で賄う・・町内会・商店会・小さな同業組合などでもその中の比較的大きな会社が組合事務局を自社内において組合会費からではなく、自社の事務員に組合の事務を兼務させて間に合わせることが多いものです。
(勿論家賃・パソコン・コピー電話利用料など取りません)
政治家は井戸塀政治家というように、人の上に立つ以上は自腹を切り続けて損ばかりしているうちに井戸と塀しか残らないのが我が国政治の有り様です。
この点パレスチナ解放戦線議長だったアラファト議長とか、リビアのカダフィ大佐あるいは共産主義政権の崩壊したときのルーマニア大統領など世界の政治家は蓄財が得意なのには驚きます。
イザとなれば彼らが海外に何兆円と国民のために?隠し財産を溜め込んでくれているので国民は安心してまかせておけるでしょう。
日本の菅前総理や野田現総理が失脚しても何も貯めてくれていない(と思われる)ので、国民は大して期待(あてに)出来ません。
国民は、増税に反対して自分でせっせと溜め込んでおくしかないでしょう。
自腹で公務を運営する方式に戻りますと、このやり方・世話役方式では政権を取ったばかりは何とかなりますが、政府・公益的仕事が増えて来ると自分の領地からの上がりの持ち出しだけでは中央政府は維持費が賄えなくなって来ます。
同好会や自治会や組合で言えば、事務量が増えて来ると自社の事務員を何人もかかりきりにしていられなくなって、事務局を持ち回りにしようとか、会や組合の費用で事務所を借りよう・専属の事務員を雇おうとなるのが普通です。
政治の場合、単なるサービス精神による世話役ではなく自分の支配欲を満たすための政権取りですから、そのまま自腹で経費を持ち続けることが多いので経済的に参ってしまいます。
中国のように政権を取れば、中間豪族の存在を一切認めずに人民を直接支配する仕組みの国(・・皇太子以外の子供などに一部王国を認めますがそれは例外です)なら却って私腹を肥やせるので、政権は税の取り過ぎで人民が蜂起しない限り盤石です。
(異民族に滅ぼされる以外はいつも農民の流民化で政権の最後が始まるのはこうした結果です)
日本の場合、大和朝廷の始まりから諸候連合ですから、中央政府は自分の直轄領地からの上がりだけで全国支配をしなけれならないので、割が悪い仕組みでした。
日本の政府・指導者はいつも質素倹約で簡素な役所しか持てないのは、こうした違いによるものです。
神社も権威を強調するだけで、建物自体はどんな大社で質素なものです。
中央政府の経済基盤を強化するために、随・唐の律令制導入が(大化の改新)この面で必須だったでしょうが、逆から言えば豪族にとっては自己の地位が危うくなることですから、骨抜きに必死になったのは当然です。
律令制=国家全面所有・人民直接管理制は、わが国には根付かず失敗に終わったので、以来国家直接管理思想は無理がある(トラウマ)となって明治維新まで来たことになります。
律令制失敗後は全国的に荘園制となり荘園制のうえに武士団が誕生してきます。
武士団の最初に天下をとった清盛が政権維持のためには(湯水の用に資金を使ったでしょうから・・)娘盛子の夫藤原基実死亡時に子供が小さかったので、基実の弟が後見になると平家にとって大変な事態になるので、必死のがんばりで何とか摂関家の荘園財産の殆どの管理権を入手します。
清盛は(摂関家資産を多分食いつぶしたでしょう)た上で、その後は資金源を求めて安芸の守以来の瀬戸内の交易による利益だけでは足りなく日宋貿易に頼るようになりました。
(資金源がなくなったことが、平家没落の主たる原因です)
鎌倉政権・頼朝は自前の領地・収入源がなかったのが当然ですが、北条家に実権が移った後は、北条各家は経済基盤確保のために領地拡大に精出して、各自の領地を最大にしていて、執権家構成一族としての経済力が高かったので長く続いたのです。
(蒙古襲来がなければ経済基盤がしっかりしていたので、もっと続けられたかも知れません)
襲来時の北条一族の支配地が大きくなっていたことについては、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。
徳川家もこの歴史を知っていたので直轄領地(公称800万石)にこだわっていたので、幕府財政は苦しいながらも約300年近くも続けられたことになります。
(黒船来航さえなければもっと続いたかも・・・)

税収3(税の歴史1)

助け合いや地域のことを、何もかも税でやらなければならないと思い込んでいる人が多いと思いますが、そんなことは、元々ないのです。
近代国家になって国家権力が強大になったので、政府の入り用は何でも強制的な税に頼るようになっていますが、全く強制力によらず国債を資金力のある人に買ってもらって資金を獲得するのが最もソフトな民間からの資金徴収方法と言えます。
イヤならば国債を買わなきゃ良いのですから、100%自発的拠出に頼ることになります。
何事も強制よりは自発的行為の方がスムースですから、国債による資金徴収方法はソフトな良い制度だと思います。
政府費用や所得再分配資金として「国民からお金を集めるのは税だけだ」と錯覚している人が多いと思いますが、税だけで運営するようになったのは明治維新による近代国家成立以降に限られています。
そもそも中国式の中央集権国家・・政府が直接国民を把握して徴税する仕組み・・・律令制は導入しても、我が国の実情に合わないことから直ぐに破綻してしまったことを01/09/06「律令制の崩壊1(豪族のしたたかさ)」その他関連のコラムで紹介しました。
平安朝以降は荘園や大名小名領地に編成されて行き、次第に中央政府自体が直接徴税出来る仕組みがなくなって行きました。
秀吉が後陽成天皇に寄進したのが僅か3000石であり、家康が関ヶ原後に征夷大将軍に任ぜられたお礼は、秀吉の寄進した旧領安堵でしかなかったのです。
家光の上洛(1634年)の引き出物として後水尾天皇に7000石を寄進して漸く合計1万石の生活費を得たに過ぎません。
(外に5摂家に各1000石していますが・・武士で言えば中級の上の旗本程度です・・高家筆頭の吉良家は4200石程度でした)
徳川時代には公家諸法度で朝廷が政治に口出しさせないように儀式を多くやるように強要していたので、その代わりその経費を見る必要・・・を賄う程度・・今の皇室経費の発想です。
05/22/04「皇室祭祀令 4と雅子妃殿下の苦悩23 (天皇家の独立)」前後で連載しましたが、今の皇室もこの歴史を引きずっているので行事儀式だらけで忙しすぎることを書きました。
徳川政権自体も自分の領地から上がる地代・税によって運営されていて、諸大名には堤防工事や駿河台の石垣積みをやらせたり何かの義務・・たとえば浅野内匠頭に接待供応・・を命じるだけで国税として(大名が自分の領地で取る税は今で言えば地方税に該当するでしょうが・・・)徴収する方法がありませんでした。
大名も支配内で固有の領地を持つ豪族的・・大身家臣の領地内での収入は、その重臣の固有収入であってその何割かを大名家に納める仕組みがなかったことは、徳川家と大名・旗本等の関係と同じです。
元々平安末からの武士団・・鎌倉時代から徳川時代終わりまでの中央・地方の政府組織は、戦闘集団から始まっているので、家臣は命じられれば戦闘だけではなく何でも無償で人的サービスを履行する義務を負うだけで、金品を納付する義務がありませんでした。

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