アメリカ優位性喪失4(物量作戦の限界1)

特攻機でも、アッツ島玉砕でも硫黄島や沖縄の戦いでも日本兵は自分個人の命のためではなく背後の自国民族のために1分1秒でも本土侵略を受けるのを遅くさせるために戦いました。
自分の損得で参加している志願兵・傭兵のアメリカ・強制的に徴用される中国兵の場合、命を失うと意味がないので危険のない限度でしか戦わない→負け戦になると踏ん張る気力がない・・中国・朝鮮の陣立ての基本は古来から先頭の兵が逃げないように後方から見張る兵がいて先頭の兵が逃げたら真っ先にその兵を射殺する仕組みになっていると言われています。
損得勘定で参加し逃げると血祭りに上げられる恐怖によって戦う兵を前提にしているのが多くの国の兵士ですから、圧倒的兵力のときには何とかなりますが、勝つか負ける分らない状態になると味方の監視をかいくぐって如何に逃げるかばかり考えるので、しのぎを削る戦いには弱くなります。
日本の場合,命令に従わないと処罰される恐怖感によるのではなく、自分の命を棄てても犬死にならない限り子々孫々のために役立ちたい思いですから死んでも食らいついて離さない根性が諸外国の兵との違いです。

以下はhttp://www.iwojima.jp/data3.htmlのデータです。
1945年2月19日 – 1945年3月26日
硫黄島戦の両軍の損害

硫黄島戦の両軍の損害

     日本軍               米 軍
   戦死者(人)
   陸 軍 12,723        海兵隊 5,931
   海 軍 7,406         陸 軍 9
   島 民 (82)           海 軍 881
   小 計 20,129        小 計 6,821
 
   戦傷者(人) 陸 軍 726     海兵隊 19,920
   海 軍 294           陸 軍 1,917
   島 民 (21)           海 軍 28
   小 計 1,020         小 計 21,865

   合  計 21,149        28,686

以下は沖縄戦に関するウイキペデイアのデータです。
1945年3月26日 – 6月23日
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[5]。 その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908 人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は14,006人、 イギリス軍の死者が82人で、アメリカ軍の負傷者72,012人であった[6](日本側被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)。

圧倒的物量で始めた硫黄島占領作戦・・ヤマの形がなくなるほどの艦砲射撃や空爆の後に戦車を先頭に上陸して来る米兵に対して何十日も殆ど水しかのんでいない日本兵が大砲もなく素手に近い・・弾薬すらほとんどない鉄砲だけで戦ってこの結果でした。
続けて予定どおりに実施した沖縄戦でも、攻撃側の死傷者数が10万人近くになっています。
沖縄戦での死傷数が硫黄島の戦いと大して変わらないのは正規軍同士の戦いが多かったこと・・この場合物量に優る米軍の損害率が下がることによります。
この結果を見て日本本土上陸作戦遂行にはこの10倍〜100倍の被害が出る・占領後もゲリラ戦になればどのくらいの被害が出るか計り知れないと言う計算が立ちますし、兵の方も圧倒的安全な戦いでないと尻込みしたくなる兵が多くなります。
知覧にある特攻機出撃基地に行けば分りますが、みんな銃後の家族・民族のために散って行ったのです。
敗戦を数分、数秒遅らせれば良いと言うよりは、その後の占領支配に対する影響を考えて生命を賭してみんな頑張ったことが分ります。
特攻機攻撃の激化は、今の自爆テロの先行事例で占領完成後にも日本人の命知らずの襲撃・・長期的テロが続くことが当然想定されていたと思われます。
蒙古襲来を防いだのも地元武士による夜襲の連続によること・・このために蒙古軍は昼間の戦いで占領した橋頭堡を夜間維持出来なかった・・船に帰るしかなかったので台風被害になってしまったことを紹介したことがあります。
幕末での長州対四国連合艦隊の戦い後の戦後処理でも、連合艦隊側が占領した島の租借要求が高杉晋作にあっさり蹴っ飛ばされて引き下がったのも、全てこの恐怖によります。
アメリカは日本の歴史を研究していますので、硫黄島作戦では日本軍得意の夜襲を研究していてその想定での橋頭堡確保作戦をしていたようです。
膨大な死傷者を出したアメリカ軍の恐怖・・この恐怖心の現れが・・白兵戦に頼るしかない本土上陸作戦をためらうようになった要因です。
本土の場合島とは違い奥行きが深い・・海岸線の戦いでは艦砲射撃が届きますが内陸部には届きません・・海岸線だけの支配では夜襲その他ゲリラ襲撃に悩まされて維持出来ない点は蒙古襲来時と同じです。
制圧までの被害想定とその後の武力一辺倒の占領統治には無理がある・・原爆投下と言う歴史に残るマイナス行為に踏み切るしかなくなった・・・追いつめられた決断でした。
硫黄島〜沖縄作戦後アメリカ軍内に恐怖心が支配していて、アメリカは軍事的には手詰まり状態に陥っていたことが分ります。
第二次世界大戦終了後の東南アジアでの植民地独立戦争で英仏蘭が敗退していったこと(日本兵が現地に居残って指導していたことが知られています)やベトナム戦争の失敗は、既にこの日本との戦いの経験で(力攻めで最後までやった場合の占領後のリスク)研究済みどおりの展開になっていたことが分ります。
アメリカ得意の物量作戦は広大な海戦や砂漠での戦いでは有効ですが、硫黄島・沖縄戦終了時に大規模戦以外の戦闘形態・・ジャングルや都市ゲリラその他での限界が見えていたのに、ベトナム戦争やイラク戦争を起こしたのは、これを敢えて学ばなかったことになります。
第一次イラク戦争(湾岸戦争)ではあっさり兵を引いたのは、占領後の統治困難をパパブッシュが知っていたからかも知れません。
2週間ほど前に、イギリス政府による第二次イラク戦争に関する調査報告書が出ましたが、これによると戦争開始に関する判断ミスの外に終結後・・占領後の展望についての戦略不足が現在のテロ社会化・・混迷の原因になっていることが書かれているようです。

社会保障とその限界2

介護サービス分野の労動力不足問題は移民導入で解決する問題ではなく、これを提供する側のコストを利用者が負担出来ない・・税で負担しようとするところに無理があります。
給与4〜50万も払えば求職者が殺到するでしょうから、人口不足ではなく給与水準の低さにあることが明らかです。
移民導入論は、移民の労働条件は日本人よりも低くて良いという思想を前提にしないと成り立ちません。
この思想は移民が他産業へじわじわと浸透して行くのを期待して最低賃金水準を結果的に引き下げて行きたい思惑が背後にあると思われます。
この効果が出ているのが欧米であり、今や中国に負けないほど賃金水準が下がったと豪語している状況ですが、これがイギリスやアメリカ国民の不満爆発に繋がっているのです。
日本をそう言う社会にして良いかの議論が必要です。
有料老人ホームの待機問題が起きないように、保育所や介護費用も利用者が必要なコストを払うならば民間参入が進むし税負担がいりませんので、国会で議論する必要すらありません。
高齢者介護は医療同様に家庭内で見るのが無理なのでこれを社会化・・サービス産業化して行くのは必要ですが、補助比率を徐々に下げて行き民間参入を増やして公的比率を減らして行く工夫が必要です。
明治維新当時を振り返れば分りますが、国営製鐵や国営鉄道その他揺籃期には、税で後押しする必要がありますが、いつまでも公営であり続けるべきかは別問題です。
千葉の例で言えば、モータリゼーションが始まったばかりの昭和40年前半頃に繁華街での路上駐車対策で?始まった公営駐車場がまだ残っていて、5〜6年前からこんな施設を税で運営している事自体おかしいと思っていたら遂に、今年から一部廃止することになったようです。
今では100円パーキングがあちこちにあって、税負担でインフラとして用意する必要性がなくなっているからです。
美術館・・公営会館などは一見ペイしないので、税が必要と言う意見が多いでしょうが、東京になると民間美術館が一杯あるので、民間と競争するために税を投入する必要があるの?と言う想定外の視点が必要でしょう。
公民館やスポーツ施設などもフィットネスクラブや民間のいろんな組織・貸しホールが発達して来るとコミュニテイーセンターなどの役割に疑問が出て来ます。
ビジネス街の公民館の利用を見ると民間より数十円安いから利用する人が中心になって来ると何のために巨額の税投入で維持しているかの疑問が出て来ます。
まだ結婚式が個人宅で行われることが多かった昭和30年代始め頃に大田区のどのあたりだったか忘れましたが、(奥沢か雪谷だったかなあ?)をクルマで通りかかったときの光景を今で思い出しますが、・・新装なった公民館で結婚式をやっていましたが、それが当時の新生活運動だったのです。
屋敷を持たないアパート住まいの労働者も一人前に結婚式をやれる時代到来の象徴でした・・いま公民館で結婚式や葬儀をやっている人は滅多にいないでしょう・・役割が終わったのです。
学校制度も公営は民間が育つまでの過渡的制度であるべきで、最後は民間の授業料を払えない階層のための社会保障としての公立小中高校・国公立大学制度に絞れば税負担が大幅に減りますし、自由な競争に曝した方が、教育レベルがあがると思われます。
明治維新時の織物工場や製鐵や鉄道・今のロケット技術等先端分や制度創設当初には補助金・・公営が必要かも知れませんが、創設時に民営化するまでの工程表を策定しておく発想・・民営化して行く前提がどんな分野でも必要です。 
明治維新の官営工場がいつまでも官営のママであれば、日本の近代国家への離陸発展がなかったでしょう。
保育所や介護関係は、業界の自立が見込めない・・いつまでもコストの大部分を政府が出し続けなければならない点に無理があります。
必要なコスト負担しない・・この差を埋めるために国家支出・・みんなの善意?を求められているのが今の保育所増設や介護士増員や特養増設要求であって、払えないコスト分は国家支出に頼る以上国策の優先順(宇宙飛行士の給与、大学教授の給与〜公務員の給与・・・道路や文化予算等々)で総枠が決まって行くしかありません。
利用者がコスト負担する場合・・放っておいても需要がある限り供給されるでしょうが、税でコスト負担する場合には需要がある限り供給すべしと言う理屈にはなりません。
介護や哺育関連従事者の賃金も税で供給されているから市場価格と乖離する・・人が集まらなくなるのは仕方がないことです。
自分の収入に匹敵する費用を払っても良いと言う国民合意があってこそ、賃金の市場価格が成立します。
介護士や保育士は平均賃金で良いがコストの5分の4を政府が負担すべき(保育所の敷地購入負担・建物建設や管理その他運営費用がかかるので、介護士や保育士の給与だけでは運営出来ません)と言う現在の要求では、いつかは国家予算が持たなくなります。

社会保障とその限界1

コスト負担したくない国民のために、需要全部賄えるように補助金を無制限に増やせば良いのでしょうか?
その負担が国家予算に占める比率が微々たる場合・・大川や海に捨てるゴミが少しのときには気になりませんが大規模になると公害になったように、負担額が国家予算の半分を超えて来ると可哀相だけの基準では済まなくなってきます。
個別分野の積み上げではなく、個人負担の分野をどこまで政府が面倒見るべきかの総予算に対する比率・・総枠に関する議論が必要です。
そう言う意識的な議論がないまでも事実上予算総枠の縛りが起きて需要・要望を満たせないのは仕方のないことです。
予算の制約上需要に応じた施設全部作れない・・需要の10分の1〜2しか作れないと待機が生じるのは当然ですし、待機比率が高いときには、理想的設備ではなくともある程度レベル落としても数を多くした方が良いかも政策判断の範囲です。
市場原理に基づく代金を払う有料ホームの場合、必然的に設備やサービス内容が高度化するし、これに比例して従事者のレベルアップが要求される→給与アップするので、人手不足になりません。
量を供給するためにレベルを落とせば、介護関係者の待遇が下がる→応募者が減って不足する関係です。
予算上総枠としていろんな要求に対する優先順位がいるように人材配分としての優先順位も必要です。
介護士の給与を大学教授や宇宙飛行士よりも高くすればドット集まるでしょうが、上記は極端な例としても、現実世界には微妙な待遇差で無数の職種が存在していて市場原理で微妙に決まっているのですが、計画経済的にどの職種より介護士や保育士が時給10円高くても良いかなど決めて行くのは無理があります。
利用者がコストを負担出来ない以上市場原理で決められないのは仕方がないことですが、中央が決めた点数で決める制度設計である限り人材供給がスムースに行かないのは仕方のないことです。
ソ連は経済原理無視の結果遂に崩壊しましたが・・中国の経済原理に反した国家介入の限界が来ていて近日中に大破綻するだろうと意見が普通ですが、「お金に色がない」といいますが、赤字の原因が社会保障分野ならば経済原理に反した支出しても構わない・・永続出来るものではありません。
使い道が何で(高邁な理想に基づくからと言って)あれ、収入以上の支払が永続することはありません。
日本でも国鉄の赤字拡大その他幾多の事例を見れば、市場原理を無視した国家運営にはいつかは無理が出ることが明らかです。
日本の財政赤字の元凶は歯止めのない社会保障負担拡大ですが、社会保障は赤字に決まっているからコストを無視しても良いという発想に安住しているといつか国家=民族が破綻してしまいます。
生活保護で以前書いたことがありますが、増額しろ、可哀相だと言う感情論の合唱ばかりではなく平均的生活水準の何割まで保障するかと言う国民合意が先決・必要です。
この議論がなくて生活保護基準を上げて行くばかりで最低賃金よりも高くなって来たら今度は最低賃金の方が低いのはおかしいと言う主張ですが、お互い引き上げ競争ばかりしていると国際競争が成り立ちません。
生活保護・社会保障は実働している国家総収入の限界があり、実働者の賃金は国際競争可能な範囲に決まっている・・一時的に引き上げても中期的に輸出産業がやって行けなくなり,輸入が増えて失業が増えます・・のを無視した議論です。
日本に限らずアメリカでも世界中の民主党系政党の主張は「社会保障は手厚い方が良いに決まっている」と言う姿勢・・総枠無視ですが、これではいくら消費税を上げても歯止めのないことになります。
最近奨学金の返還義務をなくせと言う主張が多くなっていますが、これは前途有為の人材が教育を受けられない弊害除去・・救済を予定せずに「授業についていけない子供でも」人並みに進学出来ないと「可哀想」と言う発想によっていることが分かります。
(育英資金・・普通の能力のある子供=普通に就職出来る子の場合、普通払って行ける返済額ですが・・免除原則にしろと言うことは、払えない前提→授業について行けない子にも奨学金を要求ししかも返済免除しろと言うの?)
学校に行くのをいやがっている子供をせめて高校・大学くらいは・・と言うオヤの願望・・自分のお金を出すのは勝手ですが、税で負担する必要があるかは別の議論であるべきです。
可哀想論になって来ると返済能力のない人に貸す・・「借りたら返す」と言う経済、道徳原理無視の主張になり易く、結果的に対価を負担しないことがあたかも当然の権利…いろんな分野でコスト負担忌避の風潮を煽るようになると税収をいくら上げても追い付きません。
コスト負担しない人が増える一方になるとまじめに働いて税を納める人の意欲を殺ぐマイナス・・(まじめに税を納める気持ちが失せる・・海外資金逃避増加)モラルハザードを誘発します。
商人が代金を払う客の望むものを売るのが結果的に正しい・・お金を出す人の意見が重要です。
お金を出さない評論家がこの商品が良いと言っても、飽くまで予測でしかなく実際の売れるかを決めるのは顧客です。
税の使い道を決めるのは原則として納税者の意見によるべきであって、・・納税者も人権・環境その他いろんな正論に耳を傾けるべきですが、これをどの程度重視するかを最後に決めるのはお金を出す人の意見であるべきです。
コスト負担しない・・お金を出さない人の意見が幅を利かして・・納税者の意見を無視し過ぎるのは邪道です。
財政赤字の問題点は消費税率の問題ではなく、社会保障負担・・個人が負担すべき対価をどこまで社会が負担すべきかの総枠設定こそが重要です。
この議論抜きで際限なく補助を増やして行くべきと言う意見・・「保育所落ちた日本死ね!と言う民進党のアッピールは、保育所予算と他予算とのバランス調整の必要性を無視した無責任政党の極み・・違和感を感じた人が多いのではないでしょうか?

アメリカ優位性喪失1(移民モデルの将来性)

19世紀末から20世紀に入ってからのアメリカ優位性・・大量生産モデルの基礎になっていた鉄鉱石や石炭、石油あるいは畜産、食糧生産などの資源は主として量産系(牛肉やトウモロコシ、小麦など食料品もうまいものではなく量で勝負する系統)対応資源です。
唯一足りなかったのが人口でしたから奴隷を入れたり移民を入れたりして補って来たのがアメリカモデル・・人口的にも量で勝負する発想です。
モノ不足時代・・上記資源の価値は飢餓に直面する最低生活品としての価値がありますが、豊かな社会になると量に頼る経済は先がありません。
衣類でも食糧でも家具、アクセサリーや居住空間・楽器でも普及すればより良い物が欲しくなります。
アメリカでは、やっとシェ−ルガス,サンドオイル採掘が軌道に乗って、サウジに頼らなくても良いと安心していますが、これは植民地を失って戦後耐乏生活を強いられたイギリスが北海油田で一時期息をついて喜んだのと同じ・・従来モデルの補充でしかありません。
大量系資源である原油・ガスの国内採掘活発化でサウジと張り合おうとしているのは、中国と張り合うために移民を入れて人海戦術・低賃金化競争して来た延長です。
日本のように国民を大切にして資質を高めて商品を高度化するなど別の視点がないと将来がないと言うか、これに気が付かないうちに差を付けてしまうチャンスです。
製品高度化には底辺層の底上げが必須ですが、(中学3年になっても掛け算の分らない子を分るようにするのは、出来る子に高校レベルの因数分解を理解させるより難しい)それには膨大なコストがかかります。
現住国民の少数精鋭化・・コストをかけてレベルアップ努力が必要なときに底辺層導入によるお荷物(出来ない問題児をクラスに抱え込むのは独りでも少ない方が良い・・先生の大きな負担です)を抱え込む必要がありません。
まして補助金をつけて(現地での事前教育資金を補助するなど)まで介護人材など呼び込む必要がありません。
日本で保育士や介護要員が不足しているかのようにマスコミが宣伝しますが、実際には人間の不足ではない・・不足しているように見えるのは予算配分し切れない資金不足に過ぎません。
予算さえ付ければ、いくらでも施設は作れるでしょうし、介護士の待遇改善(仮に給与60万円と)すればいくらでも人が集まるでしょう。
介護士や保育所不足は全てに優先して全国家予算をもってしても人件費に足りない絶対的不足でなく、大学や高校〜医療費・・図書館、公園維持,道路・警察などなど税の使い道はいろいろある中で保育所・介護関係にはこれだけしか配分出来ないと言う政策選択の結果です。
サービスを受けるには、必要な対価を払うのが経済原理と言うか,何事もギブアンドテイクが人の道です。
ペイする商売であれば需要に応じてすぐに供給が増えます・・・・ラーメン屋・居酒屋でも牛丼屋でもスーパーも民間パートも顧客が何ヶ月も前から予約しないと買えない・サービスを得られないようなことはありません。
国民がもしも介護や保育サ−ビスを受けるに必要なコスト負担するならば、需要に応じた供給があって待機問題が起きません。
介護士も市場原理に負けない給与を払えば他産業に行かないで介護士になる人がいくらでも出て来ます。
こんなに不足しているのに何故給与が上がらないか・・施設が増えないかと言えば、介護や保育所設置に市場原理が働いていないからです。
巨大補助金がないと運営が成り立っていない・・新増設や給与資金が補助金次第となれば、予算の限界で供給が決まり需要で決まるものではありません。
100の需要があっても30の予算しかなければ30しか供給されないし、市場給与水準が100であっても支給基準・・保険点数が70に決まっていれば、業者はそれ以上貰えない・・ひいては介護士にそれ以上払えません。
保育所待機児童や、特養の何年待ちが生じるのは、利用者がラーメン屋に払うようなコストに応じた支払をしていない・・不足分を政府予算に頼っているからです。
公営住宅が抽選になるのは、コストより安いアパートに入りたいからです。
従来手厚い介護を他人に頼めるのは、松下幸之助のような成功者だけでしたが、これを適正コスト負担できない全国民に及ぼそうとしていることに経済論理上無理があります。
・・かと言ってお金のない人は我慢して下さい、家族だけで見て下さいと放っておけない・・要は国民が対価支払以上のサービスを求めていることが介護士不足の元凶です。
1000円が妥当な昼食を500円で食べさせろ・・差額は政府補助でやれとなれば、補助金が出る限度に供給が制限され、需要に応じた供給が成立しません。
需要全部賄えるように補助金を増やせば良いかと言う議論ですが、その負担が国家予算に占める比率が微々たる場合・・大川や海に捨てるゴミが少しのときには気になりませんが大規模になると公害になったように、負担額が国家予算の半分を超えて来ると可哀相だけの基準では済まなくなってきます。
経済原理に反するサービス・・自己負担以上のサービス・社会保障を求めるところに、介護士不足や待機児童等の過熱化・・特養の何年待ちが起きることが分ります。
人手不足の問題ではありません。

植民地化と民族文化喪失2

国内産業が疲弊すると職場が少なくなり、浮浪者が溢れ、することがない人が増えれば民心が無気力になります。
世界中が植民地と植民地を持つ国に二分化されて、際限ない収奪が進むと被植民地の産業構造の破壊が続く結果、世界中で強国と弱小国・民族格差・・文化の差が開く一方になりました。
植民地化によって関税等の防壁のない社会になると、イギリス・フランス等からの輸入攻勢で被植民地の事業主が倒産し経営者が夜逃げするような事態が増えて、その子世代では食うに困ります。
更にそのまた子の代には高度または中級の教育を受けられる人が少数化し、独立時代に中級教育を受けていた階層の多くが低級教育しか受けられなくなり、低レベル教育を受けていた階層は何らの教育も受けれないようになって行きます。
千葉で言えば地元商店街で酒屋や数カ所のレストランなど経営していた人が店舗を閉鎖して、入れ替わりに非正規系のファーストフード店長やコンビニ店長やマクドナルドの店長が赴任して来る社会になれば、地域社会の脆弱化は明らかです。
これが4〜5世代続くと地元文化にお金を出す余裕のある人が減り、文化人の比率が減り文盲中心社会になってしまう・・・・国全体が貧しくなれば文化の担い手(文化に金を使う人)が減り教育レベルが下がります・・・。
英仏企業との競争に敗れて事業倒産が増えて英仏企業の輸入案内人になった企業だけが生き残り、英仏等に抵抗して滅ぼされる地元豪族の中にあって、支配国とうまくやった支配に協力した豪族だけが生き残るのでは地元文化の担い手が減る一方です。
生き残った少数エリートの子息の多くは、(元々迎合主義者の子息です)宗主国の英仏等の首都へ留学し、その国の文化をまぶしいような気で受入れて帰国するのが普通です。
シンガポール国家創設者の李クアンユーが日経新聞に書いた「私の履歴書」にこの辺の気持ちが詳しく出ています。
土俗的なあか抜けない文化や踊りなどよりも、西洋のクラシック音楽やバレーやオペラをどんなに素晴らしいか・古くから地元にある酒やお菓子よりも、パリで飲んだワインやケーキが素晴らしいと自慢するのが普通です。
我が国でも横文字を縦にすれば博士になれる時代が長く続きましたし、私が成人したころは、何かあると「欧米では◯◯」としたり顔で講釈するテレビ番組が普通でした。
植民地争奪戦争は経済的には市場争奪戦争であり、支配服従関係に着目すれば帝国主義戦争であり、民族感情を基底に持って戦い侵略する結果、植民地の文化が劣化し続けることと相俟って人種差別意識を生み出し、世界中に民族格差を拡大する仕掛けだったことになります。
民族意識強調の時代に成立したアメリカ合衆国は、合衆国という我が国の名称にもかかわらず(正確にはUSAですから、合衆国ではありません)世界で最も人種別意識が強く、且つ実際に黒人に対する恐るべき人道差別をして来た国であるのは時代の申し子であるからです。
民族意識強調の最後の戦いを挑んだナチスが、ユダヤ人という標的を作ったのもその結果・必然であったと言えます。
日本の場合、支配地でもドンドン現地人教育に資金をつぎ込んでいたことから分るように人種差別目的ではありませんでした。
元々欧米の弱肉強食論理による餌食にならないために、アジアで団結しようと言うのが明治維新以来の国是ですから、協力者を増やすための国力伸張でしたから意味が違っています。
アメリカや中国が日本的自他愛・献身の精神を理解できないので、人道など問題にしない自分たちのどん欲な価値観で、日本も同じことをした筈と言う信念で悪宣伝をしたがるのです。
中韓やアメリカは、全くのデッチ上げを主張している自覚すらもないのではないでしょうか?

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC