合議制社会とリーダーシップ3

今回の原発事故に対して事前準備マニュアルがなかった点は、歴代政権の責任ですし,マニュアルがない以上は、危機解決責任のある内閣としては事前の根回しのない(そんな暇がない・・)命令を乱発?あたふたとせざるを得なくなるのは当然です。
勇将の下に弱卒なしと言うように、指揮官一人で勇敢な戦いが出来る訳ではなく部下に対する事前の訓練があってこそ,臨機応変の指揮命令と一糸乱れぬ勇敢な戦いが出来るのです。
政権は自前の部下を送り込む仕組みではなく、自民党政権時代に訓練した筈の東電や保安院官僚を使いこなすしかないのですから、一糸乱れぬ危機管理が出来るかどうかは、自民党政権時代の訓練次第にかかっていたことになります。
この結果、現政権は素人内閣だと言う批判を受けるのですが、事前の危機管理システム整備を「想定外」として検討すらしないで何十年も怠って来た前自民党歴代政権・・あるいは東電歴代幹部の責任であって新政権の責任ではないでしょう。
原発事故直後のMarch 17, 2011「原子力発電のリスク」で既に書きましたが、巨大津波の到来は想定外であったとしても、どんな原因・理由であれ、もしも想定外の理由で電力供給が損なわれた場合どうするか・原因は想定出来ないけれども放射能が漏出した場合どうするかなど、いろんな段階の基準を設定したり予備訓練や設備補充策を検討しておくべき必要があったことは確かでしょう。
想定外のことは誰も想定出来ないことですから、責任がないかのようなマスコミ論調です。
(結果的に準備していなかった自民党や東電擁護論で、危機にスマートに対応出来ない菅内閣だけの責任のような報道です)
私の意見は逆で、想定外の事故は起きないという断定をして、何の準備をしなかった歴代政権や東電の行動は矛盾した思考方法として糾弾されるべきです。
想定外のことは想定不能と言う意味・・人智が及ばないことですから、どんな理由原因によるかの想定は出来ないとしても、ともかく結果的に冷却装置の電源が失われた場合どうするか、放射能が漏れたらどうするかの想定は必要だった筈です。
たとえば、津波に限らずテロその他による爆破事故の場合でも、どういう原因によるは別としてその場に一緒においてある機器が同時に損傷することがあり得るのですから、各種バックアップ機器は一緒に被害を受けない一定の距離のあるところに用意しておくのが当然の備えだったと言うべきでしょう。
電気が止まると同時にメルトダウンが起きる訳ではなく一定時間の余裕があるのですから、その時間内に電気を繋ぐことが出来る場所に電源を用意しておけば良いことです。
あるいは別の冷却水の循環方法・海水注入はどの段階で行うか、その準備などを構想しておくなど、いくらも多種類の方策準備があり得ます。
今回は簡単に繋げるコンセント関連の用意がなかったので、(緊急時に複雑な配線現場工事は時間がかかりすぎるし危険な場合もあるので、予めカチッとはめれば良いような予備器具を別の場所に用意しておけば足りたのです。)別の自家発電装置を持って来ても簡単に使えずに結局メルトダウンしてしまったのです。
大手企業がバックアップのためにデータセンターを仮に二重に用意するとすれば、同じビル内に設ける企業は滅多にない筈ですし、東京都内にさえ複数設ける会社はない・・遠く離れた別の地域・・関西に持って行くなどするのではないでしょうか?
想定外の事態はあり得ないとか、想定外のための設備や研究は不要だとする発想自体・傲慢と言うか神を恐れぬ・・・等の自信があってのことではなく単なる怠慢と言わねばなりません。
時間が経ってくると、想定外事態に対応する多方面の研究や設備の備えがまるで準備されていなかったことが明らかなりました。
高濃度汚染された建物内部調査のためのロボット1つさえ・・ロボット最先進国である筈の我が国で用意されていなくて、アメリカから借りて,運用の訓練を受けて時間をかけたりあるいはフランスの機械を借りたりしているお粗末な事態です。
アメリカやフランスで地震が多いから用意していたのではなく、我が国の方が危険な立地が多いことは誰でも知っていたことなのに危険性の少ない外国でいろんな場合に備えて用意しているのに、ロボット大国の我が国で全く用意してなかったと言うのですから(現政権ではなく)歴代政権の怠慢・責任は明らかでしょう。
発生原因は想定外でも、ともかく結果として放射能が何らかの理由でもしも漏れた場合どうするかの手順も何の研究も用意もしていなかったことが分りました。
放射能の飛散状況に関する研究分析も手つかずであったために、避難区域も原始的な一律半径何kmと言う風向きなど無視した基準しか緊急判断出来なかったのです。
そもそも農作物でも野菜の種類別の基準もないし、校庭その他の個別の規制基準すら造っていなかったのですから、歴代自民党政権はお粗末きわまりない無責任政権だったことになります。
予めの詳細基準があって訓練が行われていれば、手塩にかけて飼育していた牛や豚などを放置して(イザとなればどこかへ預ける場所も決めておけたでしょう)身1つで避難するようなことをせずに済んだ筈です。
集中豪雨などの一過性の避難と違い長期化するのですから、予め長期避難に耐えるような場所を心づもりしておく必要があったことになります。
そこで泥縄式にいろいろ手を付けるので、基準設定自体が信頼を失い百家争鳴状態になっているのですが、こうした研究や想定訓練は1年や2年で出来るものではないので,現政権の責任・・指導力の問題ではなく歴代自民党政権の責任です。

合議制社会とリーダーシップ2

諸外国のまねが正しいとするのが学者等知識人・報道機関の専売特許ですが、その延長で今回の大地震に際して総理の指導力欠如を非難する報道が普通ですが、こうした非難は我が国の社会実態(ボトムアップ形式)に合わずおかしなものです。
非難している本人が指導者に自分の意見を無視して一方的なことをされたら不愉快に思う・・事前相談がなかったと言うことが多いのですから、矛盾した主張をしていることが多いのです。
我が国の意見・・政治決定に対する殆どの反対理由が内容の当否ではなく、菅総理の決定(例えば御前崎原発の停止要請)は唐突だとか事前の根回しがなかった(これでも政治家か?素人っぽい政権だなどの批判)ことを理由とするのですから、指導者の決定に従う諸外国の指導基準を持ってくる論法と合っていないのです。
ここ約1周間の報道では、東電の資料が漸く公開されてみるとせっかく始めた海水注入について,政府に事前相談がなかったことだけを理由に一時中断させられたと言う東電の説明が出てきました。
またちょっと前からナマ臭い話から距離を置くべき(民主党出身の)参議院議長が、公式に管総理の責任を追及する論を張っていましたが、その理由として諫早湾問題は彼の選挙区の問題であるにも関わらず、管総理が事前連絡もなく諫早湾問題の上告を断念したと言うことが気に障っているらしいです。
彼の信念や政治的内容の妥当性よりは、事前連絡がなかったことが主要な理由で敵に回ったりする社会ですから、こういう社会で政治家が指導力の発揮をするには,出過ぎず・・周りの様子を窺いながらホンのちょっと芽を出す程度がやっとです。
突出して自分の意見を発表したり指導力を発揮すると事前相談を受けなかった人はヘソを曲げるし,それが敵に回る大義名分になる社会です。
サミットに関する5月28日の報道でも、関係閣僚も知らない菅総理の突出した意見だとして批判していました。
マスコミが指導力のある政治家を求めるならば、菅発言内容の当否こそ批判の対象であって事前根回しのない発言かどうかを見出しに載せるべきではありません。
(内容に関する意見・論評を避けているのは、マスコミに論評能力・識見がないからでしょうか?)
マスコミにとって総理発言内容・・これから日本の進むべき方向への意見・・内容が支持出来るか出来ないかを明らかにして論陣を張るべきであって,もし支持出来る方向性ならば関係閣僚が総理の指導・指示に従って速やかに対応するように意見を書くべきです。
そのマスコミの意見と違うならば、それを主張すべきであって,これを全く言わないで・・内容の当否よりも根回しがあったか否かを批判のテーマにしているのはマスコミのあり方としても問題です。
根回しの有無にこだわっているマスコミが、一方で総理の指導力を求めているのもおかしな話です。
報道態度を総合するとマスコミの言う指導力とは、密室での根回し能力に帰するようです。
閣僚の合意を取り付けてから発表する方式・・閣僚は官僚が出来ると言うことしか同意しない・・こんなことの繰り返しを指導力と言うマスコミはどうかしています。
これでは新たな時代に迅速に適応するには無理があって国際社会のスピードに追いついて行けないので,この根回し社会からの転換こそが求められているのではないでしょうか?
このために橋本内閣以来,総理権限の強化が進められて来ました。
また行政指導・事前協議の方式から決別して、許認可要件を透明化して先ず実行して行き,司法の場で事後に決着を付ける方式にかなり前から変わっています。
この次に書いて行きますが、我が国の歴史に根付いていた根回し・合議制社会は会社制度の発達で事実上・・トップダウン方式に変容を遂げているのですが、政治の世界でも徐々に根回しに頼る方式を縮小して行くべきだと思っています。
ところで、脱原発その他の大きな政治決断は既得権益が絡むので、ボトムアップ形式では新たな方向への転換が遅くなり、国際社会の動向に遅れますので,指導力が必要ですが、危機管理能力は指導力の問題ではなく事前準備の問題です。
ここをマスコミや世間が誤解して何か大事件があると大統領や総理の危機管理能力が問われたり賞賛されたりしていますが,大きな間違いです。
たとえば、国境侵犯事件が起きた場合、直ちにスクランブル発進して、相手が抵抗したらその次にどうするかについては,予めマニュアルを作り訓練しておいたか否か・・すなわち現場対応力にかかってきます。
危機即応力は大統領や総理の力量とは何の関係もなく、日頃から訓練した現場指揮官の能力です。
何も用意しておかないで総理が一々指示してそれからどの飛行機が出て行くかなど決めてから飛行機に燃料を入れて発進していたのでは間に合いません。
原発危機に際しても手際良くやるには、根回し・・10年単位の時間をかけた手順整備と訓練が必要ですから、これがなかったとすればいきなりの指示しかなく,丁寧な根回しなどやっているヒマがないのは当然です。
要するに危機管理とはトキの政権の問題ではなく歴代政権の積み上げの問題であって,トキの政権の能力を問うようなものではないのです。
原発対応の巧拙は、菅内閣以前の政府や東電が事前に練り上げていた危機管理システムが正しく機能したか否かに帰することになります。
事前に用意していた危機管理システムが機能していれば,格好付けだけのために現地視察して既に決まっている手順を前提に格好よく号令していれば、次々と結果が出て指導力があったと賞賛されることになります。
政治家に本来必要とされている指導力は長期的ビジョンを示してこれに向けて関係機関を指揮して行くことですが,本来の指導力に関係ない短期的処理能力をマスコミは指導力と宣伝していて、本来必要な指導力を発揮しようとすると根回しがないと批判していることになります。

合議制社会とリーダーシップ1

版籍奉還問題に話が大分それてしまいましたが、April 27, 2011「大字小字」2011-5-20「郡司6と国司」等で書きかけていた合意社会に戻ります。
我が国では古来から何事も合議で決めて行く社会でした。
寄り合い・・合議制の我が国では、各種組織や団体には責任者がいても村「長」や市「長」と言う概念がそもそもなかったと思われます。
せいぜい莊屋さんとか名主と言うだけで、村「長」として、何かを号令するような制度設計ではありません。
民主主義かどうかは選出方法に関するシステム論に過ぎませんから、ヒットラーも民主主義の産物ですし、社会主義国の場合、民主主義的選出でも1党独裁ですし、民主主義国の権化のようなアメリカ合衆国でも大統領の権限は強大です。
我が国は水田稲作農業社会でしたので指導者不在・不要でずっと来たので、諸外国とはまるで社会の成り立ち・歴史が違います。
稲作と小麦等畑作・牧畜等との大きな違いは、水田の場合では始まりは小さな谷津田に始まりその内千枚田も出来たでしょうが,戦後の大規模土木工事による土地改良までは,水田は平地でも曲がりくねった地形に合わせた小規模なものが基本であったことによるでしょう。
一望千里と言われる平野部中心になった今の大規模水田の場合でも、水田と水田には僅かに段差があって,一定グループごとに大規模用水からポンプでくみ上げて上(高い方)から順に水を引いて行くやり方は同じ(規模が反歩単位に変わっただけ)です。
ちなみに、大規模水田は(農機具の発達だけではなく)人力によらない大規模な用水工事が出来るようになって可能になったものです。
千葉の場合で言えば,マトモな川がないので遠く離れた利根川から、延々と巨大なパイプラインを引いて,九十九里浜方面まで潤しているのですが,こんなことは人力・スコップ・ツルハシ等で掘り下げて行く戦前にはとても構想すら出来ない大事業でした。
これだけ大量に水を引くには大きな井堰を造ることから必要ですが、昔は大川の本流自体にこんな大規模工事をする技術がなかったことになります。
こういう小刻みな農作業の場合、号令一下何千人が一斉に動くやり方はあり得ません。
最も人手のかかる田植え(機械化以前の千年単位続いた方法)でも、隣・・上の段と下の段の水田では(4〜5枚下になると)水の入り方で田植えの時期が違ってきます。
(戦後の土地改良前の小さな水田の場合直ぐに水がいっぱいになったので数日で5〜6枚の田に水が行き渡ったものですが,それでもその一団の水田所有者達だけが同じような時期に田植えするだけです。
当時(戦後の土地改良以前)は水田の規模が小さかったので,せいぜい家族にちょっと多くした程度の応援を得たグループで,それぞれ自分の水田で一斉に田植えするくらいです。
各農家のいくつかの水田自体が、早く水の入る場所とか遅く入る場所など分かれているので、これにあわせて順番に土を起こしたり・大分土が水に馴染んでから田植えして行けば良いので、一斉に農作業する必要がありません。
応援する方(臨時労働力)も1つの部落の内の農家ごとの田植え時期が少しづつずれているので順次応援に動ける仕組みでした。
これに比較して西洋等の見渡す限りの起伏のある一枚の畑(・・これは水を引かないので水平を保つ必要がないので可能なのです)の社会では一斉に何百人で農作業するのに適しています。
何事も一斉に大規模にやった方が規模の利益があるのは、万事共通ですから規模が大きければ大きいほど良いとする価値社会だったでしょう。
我が国の農作業をする単位は、家族労働に毛の生えたようなものが基本でしたし,水の管理と行っても数十戸単位くらいが適当な単位で戦後の機械化までやって来たので大きな単位は意味がないとする価値社会でした。
土地改良により耕地が大規模化しても、その代わり田植え機械やトラクターなどの機械化が進んだので今でも家族労働で間に合う点は同じですし、千葉の場合で言えば利根川から引いている両総用水からの引水作業も一定数の農家で1つのポンプを利用して順番に水を自分の田に水を引いて行く作業をしています。
戦闘集団もこうした細かい単位の積み重ねで大きくして行く仕組みでした。
刀や槍で戦う時代にはこれでちょうど合っていたのでしょう。
小さな集団で動く社会では,号令は必要がなく季節感やその周囲の空気で動けば自然に行動が一致する社会でずっと来たのです。
音楽の分野で見てもお琴や尺八の合奏あるいは雅楽では、お互いに気を合わせれば良いのであって指揮者が不要です。
小集団と小集団の意思疎通には阿吽の呼吸ばかりではうまく行きませんので気持ちの擦り合わせ・・合議の繰り返しが重視されてきました。
世界中(先進国しか知りませんが・・)で、我が国のように古代から現在まで何もかも合議制で来た民族がないように思えますが・・・。

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