沖縄の戦闘全体はまた別の機会に 触れるとしてソ連軍による奇襲攻撃撃退の経過に戻ります。
ソ連軍による千島列島急襲の経過は以下の通りです。
千島列島の最北端占守島守備隊はポツダム宣言受諾・降伏後の武装解除命令に従って粛々と解除手続きを行ない戦車もかなり解体して「明日には戦車全部を海に沈めて終わり」という解放感で眠りについていました。
その深夜から翌8月17日早朝にかけていきなり国籍不明の大軍の接近情報がもたらされ(敗戦直前まで戦っていたアメリカ軍かと誤解していたようですが、そのうちソ連軍と判明)深夜に大挙無言の上陸作戦を開始して来ました。
深夜いきなり侵攻して来た大規模なソ連海軍に対して日本守備隊は武装解除命令に従って解体中ですぐには使えなくなっていた戦車や大砲を急遽組み立て直して、沖縄戦同様の激戦が繰り広げられ、圧倒的大軍の上陸軍を撃破して上陸軍が退却せざるを得なくなるほど追い詰めました。
敗戦処理中の日本への士気が衰えているはずだから、急襲すればまさか決死の抵抗をするとは想定していなかったのでしょうが、日本兵は理不尽な戦いを挑まれたら最後の1兵まで戦う覚悟です。
この奮戦の結果(だけとは言えないまでも)が、北海道本土へのソ連軍上陸を防いだのです。
この占守島での「戦後の戦い」は米軍に対する硫黄島や沖縄の戦いに匹敵する大戦果でした。
攻撃してきたソ連兵死傷者3000名に対して日本軍死傷者700名の戦果で、上陸軍を殲滅寸前まで追い詰めていたのですが、「手強し」とみたソ連側が実力占領を諦めて講和を求めてきた結果、8月21日に師団司令部からの停戦命令が来たので停戦し武装解除になりました。
その後、武装解除後の日本守備隊2万5000名がソ連軍捕虜としてシベリアに送られてしまったのですが、この勇猛果敢な部隊員がシベリア到着までの間に(報復として)酷い目にあって2万名が死亡し5000名しか生き残っていなかったというのですらから、(屈強な若者がシベリアに着くまでに病気で死ぬわけがありません)連行中にどのようなひどい目にあっていたか分かる凄惨な報復を受けています。
もちろん彼ら精鋭が九死に一生を得てシベリアに着いてからも、さらなる奴隷労働が待っていました。
以上は例によって受け売り・・小名木義行氏の「スゴイぞ日本人」第3巻207p以下の記述によっています。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。
「占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 – 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄(8月9日)したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。
「優勢に推移」とは以下の通りです。
「・・・18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。」
ソ連は全滅思想になると日本がポツダム宣言受諾したことを理由に停戦を求めてくる・これを日本が守って停戦命令をだすと、すぐこれを破って攻めてくるという繰り返しでした。
日本としては降伏後の武装解除が待っているので交渉になると弱い立場です。
ウィキペデア引用の続きです。
「・・1945年2月のヤルタ会談で結ばれた秘密協定では、ソビエト連邦(ソ連)が日本との戦争に参戦すること、その場合は戦後、北緯50度線以南の樺太南部(南樺太)などをソ連に返還し、千島列島については引き渡すことが決められていた。もっとも、8月15日にアメリカのトルーマン大統領が、ソ連のスターリン首相に送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかった[1]。そのため、ソ連側は千島列島及び北海道北東部(釧路 – 留萌を結んだ直線以北)をソ連担当地区とすることを求め、アメリカも17日付の回答で千島列島については同意した[2]。」
上記の通りソ連は当初から北海道支配を要求していたのです。
「8月15日以降、日魯漁業により、独航船(30トン級)を使って、早急に送還する計画が作られた。しかし、日本軍の許可が取れずに、占守島に留まっていた。戦火が小康状態となった8月19日16時、かねてからの計画通り、26隻の独航船[23] に分乗し、ソ連軍機の爆撃を受けながら濃霧に紛れて脱出し、1隻を除いて北海道に帰還した。1隻は中部千島で難破して女工20人が現地のソ連軍に収容され、1948年(昭和23年)まで抑留された後に帰還した。女子工員以外でも、ソ連軍が日本軍を武装解除している隙に、独航船等を使って脱出したものも多かった。」
西洋では敵が立派に戦えば敵が負けた場合でもそれを讃えることを知らず、それに対する倍加した報復をする文化しかない点ではロシアも中国の歴史と同じです。
日露戦争・日本海海戦で敗軍の将になったバルチック艦隊提督(ロジェストヴェンスキー中将)を日本の東郷平八郎は彼を敵将としての善戦をたたえて敬意を持って迎えたと習ってきました。
日本では敗軍の将を辱めて溜飲を下げる文化がないから、そういう教育をしてきたのです。
蒙古軍撃退成功は台風によるのではなく、日本武士団が反撃を繰り返していた結果蒙古軍がいつまでたっても陸地に橋頭堡を作れなかった結果によるのと同じで、(この教訓があって幕末に薩摩に勝った英国も、長州に勝った4國連合艦隊も中国に対するようにに領土割譲要求できなかったのです)最後まで戦い抜くこと・・対米戦最後の本土上陸作戦が回避されたのも、沖縄戦での特攻機による米海軍の大被害と守備隊の死闘があって、米軍がビビったことによる・原爆投下の名分になっていますが・・死を恐れぬ決死攻撃に無駄死にはないのです。
個々人にとってはどうせ死ぬならば石クレ一つでも武器にとって戦うのは無駄ですが、背後の同胞を守るという意味では、無駄ではありません。
ソ連軍が離島守備隊の奮戦に日数を取られている間に、米軍が北海道まで支配下に入れたのちにソ連は北海道の割譲・分割支配を要求したのですが、米軍は実効支配していないことを理由にこれを拒否してことなきを得たのですから、この守備隊による死守がなければ北海道は満州同様にソ連軍占領下に入っていた事になります。
左翼系文化人の圧倒的優勢なわが国では、米軍相手の硫黄島の戦いのみ大きく報道されていますが、実は敗戦直後混乱の隙を突いての卑怯なソ連軍の侵攻に対するこの壮絶な防衛戦がなければ、北海道住民の多くがシベリヤに連れ去られて女子は生き地獄を見るところでしたし、今でも国土分断に悩まされていたことになります。
そうなっていれば北方4島返還どころの話ではありません。