昨日日露和親条約を紹介しましたが、交渉時の経緯を見るとアイヌとは言うものの彼らを日本は異民族とせずに日本人の仲間であるが、せいぜい職業・居住地(会津人と言うように)が違う程度として日露双方が扱って来たし、アイヌもそれを当然と受けとってきたようにみえます。
アイヌ人は元々漁労狩猟等を生業とする生活者で戦闘要員的素質がありません・これが稲作その他農業生産の北上につれて生活圏が縮小していった・・あるは稲作その他農耕生活を取り入れないであくまで狩猟をやめなかった職業人をアイヌというようになったのかも知れません。
今の列島内でも「またぎ」等の狩猟に頼る職業人がなくなっていき、漁民その他居職人関係者が減って行くのと同じす。
私は「アイヌ人」別人種というものはない・狩猟や川魚を取るだけの職業を営む生活圏が関東地方から順次縮小していったただけの日本人の仲間でないかという素人的感想を抱いています。
日本列島がこの地域まで東西に延びているのが、関東から急速に北向きに折れ曲がっているので、縄文・弥生の混在とは言うものの農耕文化の拡大がこの辺の緯度で長年足踏みしていたことがわかります。
元々農耕向きの気候でなかったので遅くまで縄文式生活が残っていたのですが、これが気候変動と品種改良によって徐々に北上するにつれて縄文式生活圏が縮小・徐々に農耕に転職して行く人が増えてきた・旧来縄文式職業人がへってきたということでしょう。
明治以降で言えば、農漁業従事者が徐々に減ってきたのと同じです。
農民や漁民を小数民族という人は誰もいないでしょう。
雑貨屋やホカホカ弁当屋がコンビニに負けて無くなっても先住民保護という人はいません。
日本列島内で昔あった職業がなくなって行く事例はいくらでもあります・それら職業人等を〇〇人ということがいくらでもありますが、それは〇〇地域の住民とか職業集団をいうに過ぎないのであって民族集団ではありません。
ロシア人が知床に来た時に、現地アイヌ人が「大変だ」とまず支配者である松前藩に通報したのは和人と言う異民族に支配されている人たちというよりは、自分を守ってくれるありがたい関係・・例えば本州内の戦国時代に領国沿いの山奥で狩猟採集している職業集団が山向こうの領主が密かに山越えを準備していると知って大急ぎで平野部にいる領主様に通報するような関係に似ています。
北海道防衛に戻しますと北海道の知床〜根室あたりの防衛のために、寒さの経験のない本州の武士団をいきなり送り込んでも・・大勢の戦力を北海道縦断で陸路送り込むのは後続兵士投入路〜食料補給に窮しそれだけでもどうにもならなかったでしょう。
この経験から明治維新後北辺の防備にはまず地元勢力の育成が必須ということで、急速に北海道への屯田兵入植政策が進見ました。
この防衛基本戦略は満州への開拓団送り込み政策にも影響を与えたでしょう。
対ソ満州防衛では日本が、アメリカに降伏した後だったのと対米軍との最前線であった占守等防衛と違い、ソ連とは不可侵条約があったので安心して?精鋭を南方へ転出させていたので、ソ連軍の侵入に対して戦わずして降伏した結果開拓団がいても兵力供給源として貢献できず却って、開拓団の存在が敗戦時に被害を大きくしてしまった・・千島列島のようのスムースに民間人避難ができなかったことになります・・。
対馬上陸事件に戻ります。
ロシアは日露和親条約締結でお互いの国境線確定が終わっていた(樺太に関しては未定のままの条約)のに対馬に無断上陸・侵入したことになります。
そこで日本はロシアの行為は国際ルール違反であると列強に協力要請できた法的根拠があり、当時の覇権国=ルール担保権者である英国が黙っていられなくなったのでしょう。
ロシアの対馬上陸事件に対するイギリスの介入はイギリスの威信を示すチャンスでもあり、日本のためにここで動いておいた方が後々メリットがあると考えて動いてくれたと思われます。
日本では、ソ連発のコミンテルンの影響を受けた思想界支配の結果か?何故かアヘン戦争による西欧列強への危機感の覚醒ばかり強調されています。
本当の日本の危機は、江戸時代中期から幕末にかけて北辺に出没するようになっていたロシアの対日進出意欲でした。
日本では百年ほど早くから恐れられていたロシアの動きを報道したり教育したりあるいはこれを描く文芸作品は滅多に出てきません。
西欧諸国と接触の歴史はロシアよりも早く戦国時代頃から徐々に始まっていましたが、それは東南アジア諸国〜ルソン〜台湾や沖縄の海上ルートあるいは中国を経由しているので事前情報が豊富でした。
仮に戦争になっても相手は海路何万里の彼方からくる関係で、砲撃戦で一時的に負けても持久戦で追い払らえる自信がありました。
これが気楽に薩英戦争や長州の4国連合艦隊との戦争をできた原因ですし、負けても全く何も譲る気持ちがないと頑張りきれた背景です。
西洋列強も上陸敢行しても日本得意の夜襲につぐ夜襲を受ければ橋頭堡を維持できないリスクがあるので、結局なにも得ないで引き下がるしかなかったのです。
対ロシアでは知床付近どころか北海道全域に地元武士団がゼロですから、持久戦・夜襲に持ち込む下地がありません。
ロシアは本拠地から遠いとは言っても地続きですぐ近くまで来ている強み・地続きなので飛び地確保ではなくじわじわと侵食してくる脅威です。
ここが、飛び地確保に頼る西欧列強の脅威とは本質的に違っていました。
日米戦も最後には、この伝統的手法の有効性を沖縄防衛戦で立証した結果、(艦砲射撃の届かない内陸戦になると火力優位の威力がなくなる・・幕末ころにはなおさらでした)米軍が本土上陸作戦実行をためらうことになり、ポツダム宣言受諾を強要するために原爆投下したというのがアメリカの主張です。
対ロシアでは日本の伝統的国土防衛手法が成立しないことを知っていた幕府の対ロシアの脅威は半端ではなかったでしょう。
このマイナスを防ぐには国防面では日本が優勢な相手である欧米との交渉によって、(領土では一切譲らない代わりに貿易で譲る基本・・小笠原その他帰属のはっきりしない島々もアメリカに認めさせてしまいました)ルールを決めてロシアをこれに従わせるしかなかったことにとになります。
私は幕末の日本側の基本戦略は大成功であったと思います。
今後さらに数十年以上かかって明治政府系統の流れが終わり、一方でコミンテルン支配が残る思想界が正常化すれば、日本の近現代史が書き換えられて行くのでしょう。
以下、ロシアの脅威がいつ頃から始まったかについて私なりに見ていきます。
幕末というよりも江戸時代中期以降対ロシアの脅威を前提に海防の必要性が盛んに議論されるようになっていたことは、林子平の海国兵談などの書物が発行されるようになったり、間宮林蔵の樺太探検がおこなわれた事跡により明らかです。
海国兵談や間宮林蔵の樺太探検程度のことは学校でも教えますが、そこから約80年も後のアヘン戦争に何故か歴史教育が直結誘導していくのですが、彼ら国防を憂える人々の活躍は全てロシアの脅威に対するものであって西欧列強の脅威の始まるずっと前・・80年近くも前からだったのです。
80年前と言えば、日本敗戦からまだ70年過ぎたばかりですから、今よりも寿命のずっと短い時代における80年の差の意味が分かるでしょう
江戸時代の人たちは、もっと早くから西欧の動きを知っていましたが、それほど脅威に感じていなかった・・本当はどちらの方が怖いか早くから良く知っていたのです。