自然人と法人1(私権の享有は出生に始まる)

民法は「私権の享有は、出生に始まる。」とナポレオン法典の思想そのまま導入・大きく出て、当時最先端の平等観をどーんと提示しました。
家柄や身分や性別、人種に関係なく、生まれた瞬間に100%の私権を享有すると宣言したものです。
人には外国人と日本人の区別があるだけです。
それだけではなく、それまで、徳川家、住友家などというものの、その当主の人格を離れて独自の権利主体でなかったのですが、各種集団にも一定の手続きを踏めばそうした主体になれる思想・・法の作った人=法人の二種類あることを同時に宣言しています。

民法
(明治二十九年法律第八十九号
民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ日ヨリ廃止ス
(別冊)
第二章 人
第一節 権利能力
第三条 私権の享有は、出生に始まる。
2 外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。
第三章 法人
(法人の成立等)
第三十三条 法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない。
2 学術、技芸、慈善、祭祀し、宗教その他の公益を目的とする法人、営利事業を営むことを目的とする法人その他の法人の設立、組織、運営及び管理については、この法律その他の法律の定めるところによる。
(法人の能力)
第三十四条 法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
(登記)
第三十六条 法人及び外国法人は、この法律その他の法令の定めるところにより、登記をするものとする。

人は生まれた時から権利の主体であり、法人は法律の規定により成立した時から権利の主体になるという並列的な関係です。
ただし人は生まれつき、人としての規格に合致するかに関係なく仮に5本の指がなくとも歯が欠けていても目が見えなくとも人は人です。
ある人が集まりさえすればいいのか?と集まり、今から法人になると宣言しても法の定める一定の規格に合致しないと法「人」とは認めない仕組みです。
薬品は、国家が製造過程から介入し、薬品と認めた時から薬品であり、それまでは薬品でない(毒かも知れない?)というのに似ています。
普通自動車は、国が一定の規格に合致していると認めて認証(登録)した時に公式に道路を走れる車になるし、飛行機も同じです。
家の場合、建築基準法で定める以下の規模であれば許可なしに作れますが、それ以上になると建築基準法で定める細かな規制があってその基準に合致しない建築は違法ですし、場合にはよっては除却命令の対象になります。
人の場合、生まれてくる子が大きかろうと小さかろうと将来100メーター何秒で走ろうとどういう子供を産むかの事前申請や許可が入りません。
生まれた後の予定・この子はどういう仕事をしますと世間に表明してから生む必要も義務もないし子供も生まれてから親の約束に縛られる義務もありません。
人の規格に合わないからと建物のように違法建築物として除却されることもありません。
ここまでくると、戦後我が国で大流行したサルトルの実存哲学を思い出します。
人はあらかじめ設計図などなく(神は死んだ前提)、世界内存在として投げ出された存在・実存が本質に先行する思想に意外と合致します。
私の青春期にボーボワールと一緒に来日して慶応で講演して大ニュースになった記憶です。
本質もわからず、ただ青春の熱気だけでこれに反応していた若者でした。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/foreign-visitors/201601-1.htmlに出ていました。

朝吹 亮二(あさぶき りょうじ)慶應義塾大学法学部教授

ちょうど半世紀前、1966年の9月、慶應義塾およびサルトルの日本語版全集を出版していた人文書院の招待でサルトルとボーヴォワールが訪日し、三田山上で特別講演会が開かれた。

民法3条の条文は、明治29年国会通過の法案ですし、私権享有の考えはボワソナード民法時代からありそうな市民法の思想ですから、サルトルの実存主義などまだないとき・・いわゆるデカンショ・デカンショで半年暮らす(デカルト・カント・ショウペンハウエル)デカンショ節全盛の時代だったはずです。
ナチスの頃全盛期だったハイデガーもまだ若手学者か学生程度の時代かな?
こういう時期に「私権の享有は出生に始まる」→「人は設計図なしにただ投げ出された存在」(ニーチェの「神」は死んだ」を前提にしたサルトルの論理などという思想があるわけがないとも言えますが、そうはいっても存在論が20世紀にはいって大きなテーマであったことは間違いないところでしょう。
学者は先人の思想を受け継ぎ発展させるものですから、サルトルが大きな影響を受けていないとは言えません。
当時はまだDNAなど知らぬ時代ですので、文字通り設計図なく生まれて投企された実存・・サルトルの言うように自ら主体的にアンガージュマンしていく存在と言う実存主義哲学の時代でも解釈応用できそうな条文です。

高齢者の財産管理・保護制度の創設

現在では後見人選任は、親族等からの申請がないと裁判所で選任しませんが、(April 8, 2011「失踪宣告4」に書いたように役所は受け身の体制です)受け身のママでは老人ホームや介護者が好きなように横領して財産処分してしまっても(身寄りがないので)誰も文句を言って行く人がいないことになります。
そもそも身寄りのない人には申し立て権のある人がいません。
例えば有料老人ホームに入居している場合(一定の資産があるのが普通です)で、子供など相続人がいない場合には、ボケているか否かに関係なく自動的に(従って現行後見人ほど強力な権限は強力過ぎるでしょう)定時に財産状況の管理検査をする権限のある人を(民間からの申し立てがなくとも)職権で選任して、高齢者資産の管理状況をチェックし裁判所に報告するような制度にすべきです。
何事も被害者からの申し立てがあってから動く今の制度では、家族関係が稀薄になってくると悪い者がはびこり易くなります。
悪いものがはびこるのは、道徳心の欠如によるだけではなく、これが直ぐに発覚するシステムがないときにはびこり易くなるのですから、制度改正が必要です。
現在では40〜50歳代以降では結婚していない人や子供のいない人が多くなっていて、しかも兄弟も少ないので、老後に備えて老後資金を蓄えている人が多いのですが、悪徳老人ホームの餌食になるリスクが大きくなるのでこの方面のチェック体制整備の方が喫緊の課題ではないでしょうか?
これについては戸籍制度があれば防げるものではなく、また元気な時に友達をいくら増やしておいてもお互い高齢化するのが普通ですので無駄です。
兄弟がいてもお互い80〜90代ではどうにもならないでしょう。
意思能力の有無にかかわらず施設に入居したり介護保険を利用するようになれば、申し立てがなくともこの時点で自動的に裁判所が仮称管理人・・保護者を選任するシステムを創設すべきです。
外部の目が行き届くと施設や介護業者が被介護者の資産を好きにいじれないようになるだけではなく、仮称管理人の定期的面会が要件になって行くと、お金の問題だけではなく外部の目が入ることによる牽制効果があって各種待遇が良くなり、介護水準も上がるし、ひいては虐待が発覚し易くなり・死亡の隠蔽が困難になるでしょう。
現在では自分が将来駄目になった時に備えて元々親しい人に頼める任意後見制度がありますが、これでは完全に意思能力を失った時だけで、能力があるが拒否力の弱った人の助けにはなりません。
保佐制度(元の準禁治産)も同様の問題があります。
後見と保佐の前段階としてに補助制度が創設されていますが、本人や身内のイニシアチブ・申し立てをしないと動き出さない点と飽くまで精神の障害を前提にしている点が同じですから同様の難点があります。
介護の利用や施設入居が始まれば精神障害がなくとも弱い立場になるのは同じですから、自動的に補助する制度創設が望まれます。
当面はこの制度しかないのですから、この補助制度で要求される精神障害の認定・運用を緩やかにして、障害があるどころかむしろしっかりした人が中心になって自分を守るために積極的にこの制度を利用することから広げて行くしかないでしょう。
私は一定の資産のある高齢者夫婦だけの暮らしの人には、まだ元気なうちに別居している息子や娘を補助人にしておくと良いですよ・・と、この制度利用を勧めています。
高齢化するとどんな立派な人でも最後は弱いものだと言う説明に納得して予め手続きしておこうかと言う人は、精神に障害があるどころか、今現在では平均人よりしっかりした人の方が多いです。
この制度を利用して押し売りや無用な自宅リフォームなどのまとまった金額の出る契約行為を補助人の同意が必要な項目(17条)にしておくのです。
偶然尋ねて来た娘などが気づけば、契約してしまった後でも契約の取り消しが出来ます。(17条4項)
これは、クーリングオフとは違いまさに権利ですから、業者が契約の履行を始めていても、どの段階でも取り消しが出来る強力なものです。
効力が強力である分精神障害の程度について緩やかな認定で良いのかの議論がありそうですが、私の意見は、精神の障害を基準にするのではなく、施設入居や介護を受けているかを基準にするものですから、外見では分りにくい精神障害を基準にするよりは却って第三者に明白な基準となって、善意の第三者が被害を受けることが少ないない筈です。
民法
(補助開始の審判)
第15条 精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、保佐人、保佐監督人又は検察官の請求により、補助開始の審判をすることができる。ただし、第7条又は第11条本文に規定する原因がある者については、この限りでない。
2 本人以外の者の請求により補助開始の審判をするには、本人の同意がなければならない
(補助人の同意を要する旨の審判等)
第17条 家庭裁判所は、第15条第1項本文に規定する者又は補助人若しくは補助監督人の請求により、被補助人が特定の法律行為をするにはその補助人の同意を得なければならない旨の審判をすることができる。ただし、その審判によりその同意を得なければならないものとすることができる行為は、第13条第1項に規定する行為の一部に限る。
2 本人以外の者の請求により前項の審判をするには、本人の同意がなければならない。
3 補助人の同意を得なければならない行為について、補助人が被補助人の利益を害するおそれがないにもかかわらず同意をしないときは、家庭裁判所は、被補助人の請求により、補助人の同意に代わる許可を与えることができる。
4 補助人の同意を得なければならない行為であって、その同意又はこれに代わる許可を得ないでしたものは、取り消すことができる。

核家族化の進行と大家族制創設

クリスマス特番から12月22日のテーマの続きに戻ります。
明治維新による開国・・近代工業社会化への幕開けに応じて都会での就業機会の増加や炭坑・製鉄や造船・繊維工場などの労働力として田舎の家を出てしまった息子や娘が、田舎の親の家・遺産を当てにしなくなったと言えば、明治時代と似たようなことがここ数十年繰り返されました。
以前不動産市場のテーマで05/01/03「プロとは?2」に書いたことがありますが、都会でも我々よりちょっと上の世代はまだ親の家を相続するのを楽しみにしていた時代でしたが、親が長生きするようになってくると、平均的経済力のある人は親の家を相続するまで待てないので郊外に自分のマイホームを買ってしまう人が増えました。
長寿化が、長男夫婦まで別居・核家族化を進行させた原動力でした。
(このためにどこでも宅地需要が一時的に2倍に増えて郊外に市域が広がり活況を呈していたのでは、(宇都宮を再訪したときに僅かな期間に市域が2倍近くに広がっていることを紹介したこともありますが、こうした特需によるものでした)
親が90代になって漸く亡くなっても、息子世代では最早郊外の自宅で根を張ってしまっているので、市中心部の親の古家は売却する方向に行くのが普通です。
この理は、地方から出て来て都会に自宅を保有してしまった人が、60代になって90代の親がなくなっても田舎の家の相続をするために田舎に帰りたい人が少なくなっているのと同じです。
これからは都市中心部の土地放出が増えるので、(市中心部の再開発が中心になり)郊外の宅地開発業・デベロッパーは成り立たなくなると言う意見を、昭和末頃から不動産業者に説明していたことがあります。
男性だけではなく都会に出た女性も、江戸時代と違って都会に出た男性ときちんと結婚出来る時代になったので、姉が死亡したら姉の夫の後添えになれる期待はなくなりました。
次世代が親の遺産を当てにしなくとも自分で稼げるようになった明治以降は着実に実家離れ・・共同体意識の希薄化が進んでいたことになります。
江戸時代には帰りたくとも盆と正月しか親元に帰れなかったのですが、明治以降の所帯持ちは盆と正月しか帰りたくないように意識が逆転し始めたのです。
現在では毎年帰るのはきついと思っている夫婦が大半でしょう。
明治時代(明治31年法律第9号で民法成立)に大家族制の家の制度が法で定められたので、このときが実態として最大の大家族社会だったかと誤解しがちですが、明治も30年代になると逆に親元に頼ることがなくなり始めていたのです。

核家族化と大家族制の創設1

戦国時代までのように多くの子供を産み育てる場合、信長が兄弟で戦ったことが知られていますし、そもそも古きを尋ねれば源平合戦の始まりである保元の乱が藤原氏の兄弟間の争いに端を発し、応仁の乱も畠山兄弟間の争いから起きたことですし、(上杉家の家督争いも有名です・・)兄弟間の相続争いが起きてくる率が高まります。
徳川家の場合家光の相続に関連して春日局の活躍で、長子相続がルール化され、これが各大名の世代交代の承認のルールにもなって行ったので、ひいては大名家家臣・武家の相続にも及んでいましたが、相続の承認制度のない庶民の相続形態は前回書いたとおり、実情に応じて様々のままでした。
明治政府としては、庶民に対して子沢山奨励策をとり、大きな家の制度を構想すると庶民にもその家の財産管理権とその相続のルールを国で決める必要が出て来たのです。
そこで、法(国家権力)で戸主の財産管理権(家督相続)を決めざるを得なくなり、戸主に財産権集中を決めたセットとして構成員に対する扶養義務も法定せざるを得なくなったと言えます。
ところで、明治時代に観念的大家族制が創設されたのは、子だくさんの実情に合わせて実際に大家族家庭が多くあったからではないかと思われ勝ちですが、大家族制・・・兄弟姉妹の家族まで実際に同居する大家族形態がこの時に始まったり、あるいはその前から続いていたのではありません。
むしろこの時に親族共同体が崩壊に向かいつつあったからこそ、(醇風美俗を守るために?)この制度が出来たとも言えます。
江戸時代でも二三男や嫁に行き損ねた女性などが、働きに出るところがないからと言って、全員無宿者として放り出されたのではなく居候としてそのまま居着いていた人が存在した・・親としては可愛い子供を(のたれ死に前提で)放逐するのは耐えられないことですから、養える限度まで努力していた筈です。
厄介については、04/02/05「夫婦別姓21(子沢山と家父長制の矛盾1)厄介者」のコラムで紹介しましたが、これが居候とか厄介者と言う熟語が残っているゆえんです。
この場合でも、ワンルームの掘っ立て小屋では成人した弟妹を抱えるのは無理ですから、一定規模以上の家に限られ、それでもせいぜい一人か二人に過ぎず、しかも彼らは結婚しませんので、1代限りで末広がりに大家族になることはなかった筈です。
厄介者を抱えるのはひと世代で懲り懲りですから、次の世代以降は一人っ子に成功する確率が高くなりますので、厄介者を抱えている所帯は一つのムラで1所帯あるかないかだったでしょう。

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