ギリシャ危機とEUの制度矛盾3(地方交付税)

ギリシャ危機から先祖の預貯金や資源の権益収入で遊び暮らす社会〜格差問題にそれてしまいましたので、Euの制度論・元に戻します。
日本の各県は独立国として輸入制限したり関税を取ったりしないし、貨幣交換レートの切り下げをしたりしない代わりに、地方交付税名目で中央から補助金・補償金をもらっている関係が我が国の政治制度です。
ですから、地方選出国会議員が人口比で多すぎるから、大都会は不当に搾取されているばかりだと言う都会住民の不満は実はおかしいことになります。
沖縄だって独立国になれば、基地を置かせてやる代わりに年間何千億円を要求したり当然関税も要求するでしょうから、そうなれば、沖縄への年間補助金支出と同じことになるかも知れません。
ギリシャの場合、EU参加によって青森等のように、中央にあたるドイツ、フランス,オランダ等から、無関税で(輸入制限なしに)自由に製品が流入するようになったのですが、貿易赤字を調整するべき為替操作権(自国通貨切り下げ権)も国内金融調節権=金利の設定や紙幣供給の調整権能も失ってしまいました。
代わりに補償されるべき日本の地方交付金に似た制度もないので、半端な制度のためにやられっぱなしになっていたのが今回の危機の原因です。
1つの通貨制度にする以上は財政も1つ・・儲かっている地域から補填する制度(日本の地方交付税制度)が必要ですが、これがないままでは、ドイツなど強者にとっては良いことばかりで、弱者・南欧東欧諸国にとっては悪いところだらけの制度になっているのです。
それでも周辺弱小国がEUに入りたがるのは、先進国と同じ経済圏に入る名誉・・?あるいはステータスが欲しいからでしょうか?
ギリシャ国民・庶民にとっては自国が損しようがしまいが、自分が国境の検査なしに自由に先進国に出入り出来る・・どこでも働けるのですから、出身国が損しようしまいが自分には関係ないということでしょう。
先進国は先進国で容易に南欧,東欧の安い労働力を使えるメリットが有ります。
結局EU成立は、労働力の移動の自由・・国内に低賃金異民族・外国人労働力を抱え込む長年の西欧先進国の政策の帰結点でもあったことになります。
人の移動が自由化されれば、国境は不要ですし、ひいては国境ごとに別の政策をする理由もありません。
域内国の権限は、日本の地方自治程度の権限・独自性で足りることになります。
EUは将来的にはこの制度実現を目指しているのでしょうが、その過程での妥協・・と言うのは論理が一貫しないことと同義ですから矛盾が有るのは当然です。
この矛盾を顕在化させないためには、域内貿易黒字国は(日本の地方交付金のような)何らかの資金還流政策をすべきだったことになります。
今回の危機で欧州の黒字国が、何割かの債権放棄しなければならなくなったのは、前払いしておくべき還流資金を今になって払わせられた・帳尻を合わせられたに過ぎないと言えます。

ギリシャ危機とEUの制度矛盾3(関税自主権等)

今回のギリシャ危機解決のために主たる債権国のスイス・フランス以北の国々が、債権放棄あるいは追加融資で対応せざるを得ないのは、本来は1つの国内類似の関係・同一経済圏である以上当然の結果です。
日本でも仮に各県を独立国とした場合、地方県は東京大阪等からの流入超過を阻止するために、独立国として自国を守るために高率関税を取ったり輸入制限して自分の県内に立地しない限り、車、家電製品その他製品を売らせないことができます。
(金利の調整もできます)
(幕末に締結した不平等条約の改正・関税自主権の回復その他のために明治政府がどんなに苦労したかを想起すれば分るように、関税自主権は主権国家の最も重要な権利です)
高率関税や輸入制限等の規制ができれば、東京大阪圏等の企業は各地の県別に工場を分散立地するしかなくて、結果的に各地方に産業が立地して地方の自立が出来ます。
その代わりマーケットが狭い地域の乱立で、各企業は規模の利益を追求出来ず、世界的な競争力を獲得できなかったでしょう。
日本企業は国内だけで世界第二の大規模なマーケットを有しているので、国内である程度大きくなってから海外に出られるメリットがありました。
日本は各国の輸入制限措置の結果、アメリカに現地法人を設立して工場立地したり、韓国や台湾、中国アジア各国に合弁進出せざるを得なくなっています。
トヨタやコマツ建機等が海外で稼いでいると報道されていますが、これは国民を安心させるための一種の欺瞞・レトリックであって、稼いでいるのは正式な社名は知りませんが喩えばアメリカトヨタ、中国トヨタという別法人であって、日本のトヨタやコマツはその株式の大半を握っているだけです。
言わば海外生産比率の高い会社はすべからく株式保有による投資収益を本国に還流しているだけであって、世界企業とは生産会社から投資会社・知財会社化が進んでいる会社と言うべきです。
海外比率が4割から6割8割と上がって行くに連れて、生産・製造収入比率が6割4割2割と減って行く場合の社会がどうなるかを考え直す必要が有ります。
この比率を国内総生産に当てはめれば、生産に従事して得た収入が2割で、利子・配当・知財収入8割で生活している社会となります。
65歳以上の世代になれば、年金や配当収入及び貯蓄の取り崩しが生活費の8割で、老後のアルバイト収入が2割(有るだけマシ?)でも良いのですが、国全体(現役世代)がこれでは、社会がおかしくなってしまうでしょう。
全員が均等に株式等金融資産や知財収入を保有し、均等に職場が有れば上記の図式ですが、不均等が世の常です。
現役で言えば知財・金融資産保有者には有能な人が多いのでこれら資産を大量保有した上で2割の仕事を独占して高収入を得りょうになり、8割の人は無職で金融資産も保有していない・収入ゼロになりかねません。
現役世代では高額所得者と失業者・生活保護費受給者と二分される社会になりがちです。
アメリカがこの格差社会に突入していることは「 October 28, 2011格差社会1(アメリカンドリーム)」以下のコラムで書きました。
我が国の場合、現役の収入格差が小さい(企業トップと平社員の収入格差は諸外国に比べてかなり低い社会です)うえに累進課税のカーブがきついので現役一代目には有能な人でも一代で稼いで蓄積出来る金融資産は多寡が知れています。

ギリシャ危機とEUの制度矛盾1

グローバル経済が始まるまで日本の驚異的な輸出増によって輸出縮小・・国内生産減少に見舞われていた欧米の内アメリカ中心に書いてきましたが、ここから日本の攻勢に対する欧州諸国の対応を少し見ておきます。
アメリカは戦後世界の半分以上の生産力を誇っていて、超豊かな時代があったので日本やドイツからの輸入が増えて貿易赤字になっても、内需拡大で国内生産縮小を補えてたのですが、その惰性と言うべきか、蓄積を使い尽くして対外純債務国に転落してもそのまま贅沢をやめられなかったので、リーマンショックを引き起こしました。
欧州諸国は第一次と第二次世界大戦の戦場となって国富・蓄積を使い尽くしていたので、アメリカのような超豊かな時代がなかったので、日本に輸出で負けるようになっても内需拡大政策をとれませんでした。
その代わり採用したのが、10月18日に紹介した低賃金外国人労働力の導入でした。
ドイツやオランダの外国人労働力が有名ですが、イギリスでもフランスでも欧州諸国はどこへ行ってもアフリカ系や中国人や南欧など外国人労働力で溢れています。
20年ほど前にパリへ行ったときに帰りにホテルから空港までタクシーに乗ったら、運転手はアジア系で聞いてみると中国人とのことでした。
ま、日本人ではタクシー運転手になるために外国移住する人は今でも稀でしょう。
パリでもロンドンでも道路清掃やバスの運転手系は黒人が圧倒的に多い感じで人種別階層が出来上がっている感じです。
こうなると白人系の底辺層が(自分で敬遠して)こうした現場系労働から閉め出されがちですから、底辺層に人種差別運動・外国人排斥運動が起きるようになります。
今年の夏にノルウエーだったかで青年が外国人労働者増加に反対してこれを推進している大会に向けて無差別発砲事件を起こしたことで、こんな寒いところまで外国人労働力が浸透していることに驚かされたものです。
欧州諸国は外国人労働力導入によって日本に対抗しようとして、国内に高賃金の自国民と外国人労働者という2階層を作り出していたのですが、元々階級社会性・意識が色濃く残っている社会だから許容出来るのでしょう。
(ココ.シャネルの映画を見た感想として、所有権の絶対性に絡んで階級意識が色濃いことを、08/10/09「大名の没落と西洋貴族1(所有権の絶対性1)」以下のコラムで
少し書きました)
しかし民主主義国家ですから、賃金格差を維持出来るのは来たばかりの外国人だけであって、2世になると同等の待遇をせざるを得なくなります。
即ち外国人労働者を導入して4〜50年以上経つと、2〜3世の教育問題その他社会コストが増大して来る割にレベルの低さに悩まされるようになります。
フランス以北の欧州を覆う真の問題点でしょう。
ユーロ誕生後は単一経済圏誕生の恩恵で独仏以北の先進工業国は南欧諸国や東欧諸国を内庭として有利な輸出環境になったので、輸出が伸びて潤いましたが、その分南欧東欧諸国は借金まみれになってしまいました。
南欧の主な債権国は独仏英蘭であることは、独仏等輸出国が金を貸して輸出していたことの裏返しです。

律令制による国の制度

5月2日に紹介したように大化改新以降、律令制施行までの間にそれまでの国の造の治める地域を小さく分けて・・喩えば3〜4個の評・(後に郡と改称)にして従来の国を2〜3個合併して1つのクニ・・一国内に郡が6〜7個にするなど規模的再編成があったようです。
このときのクニの名称や範囲がapril 28, 2011「くにと国」で疑問を書いておいた江戸時代末(正確には明治4年11月の府縣統合)まで続いた国郡制の基本(後に若干の変更があります)だったと思われます。
ただし、上記の従来の国を細分化して郡にして、これをさらに併合して従来よりも大きな国を作る実際の数については、わたしの比喩であって正確には分りません。
ただ日本書記では、ずっと昔の実在するかどうか不明の成務天皇の時代に国を山脈など自然の地形で区切って作ったように書かれていますが、これまで書いて来たように元は大和朝廷成立時の地方豪族の支配地ごとに国の範囲(大きな山脈を越えた飛び地支配は困難ですから当然自然の地形に似ているでしょう)・名称があったのを、大化の改新以降律令制導入に向けて(かなり無理な)統廃合をして新たに国の範囲・名称を決めたものと考えています。
例えば今でも南北対立の激しい長野県・信濃国をウイキペデイアで見ると
「7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした(当初は科野国)。」
「721年(養老5)から731年(天平3)まで信濃国から諏方国(すわのくに)が分置されたこともある。」
「645年の大化改新で科野国[8]が設置され、704年(慶雲元)の国印制定により、「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。」
「新政権は大化から白雉年間(645~654)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」(コオリ)と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間評(今の筑摩郡のことでしょう)・安曇評・水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評などが成立していたと考えられている」
とあります。
私の想像によれば、長野県の南北対立は明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県とこれに引き続く同年11月の第一次府縣統合によって、筑摩縣と長野縣に分かれていたのが、1876. 8.21の第二次府縣統合で長野県1つになったことから始まったように思われていますが、もっと古い対立があるように思えます。
古代のクニ制度改変(国をコオリ単位に細かくしてこれを再度まとめて「くに」と言うようになった)時に千曲川流域を中心とする水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評(千曲川流域)地域(もとは國)と現在の松本・諏訪地方を中心とする伊奈評・諏訪評・束間評・安曇評地域のクニを無理に合併させたから、こんな結果が今でも続いているのではないでしょうか?
信濃の國は壬申の乱で大海皇子側について勲功があったと言われていますので、(逆に千曲川流域地方は大友皇子側についた?)その論功としてもしかしたら、山を越えた千曲川流域までまとめた大きな1つのクニ・支配下にして貰った可能性があります。
壬申の乱に匹敵する明治維新で言えば、千曲川流域地方の勢力は早期に官軍側についた(真田家などは当初から官軍でした)のに、筑摩郡を中心とする勢力は徳川家の息のかかった大名が多かったことから、(例えば会津藩の始祖である保科氏は、高遠城で養育されました)県庁所在地を辺鄙な水内郡の長野村(今は長野市ですが・・)に持って行かれた可能性があります。
1つの国としては他国に比べて面積が大きすぎる外に郡の数が多すぎますし、間に大きな山並み(・・今はトンネルもあるし車で山越えは簡単ですが・・)があって、古代から1つの生活圏だったとは考えられない地形です。
大和朝廷成立当時としては北の果てに諏訪大社(信濃国一宮)があるのは、こうしたいきさつによると思われますが如何でしょうか。(単なる私の空想です)
周辺の同じ山国(海のない地域)・・例えば甲斐の国や飛騨の國はそれぞれ1つの盆地状のまとまった地域です。
その他はそれぞれ海路または水路で一つの生活圏をなしていた感じですが、信濃の国だけは南北が大きな山並みで分断されているのに無理に1つにして来たのが現在に至る南北対立の根源になっているのではないでしょうか?
戦国時代は殆どのクニで先ず国内諸豪族のヘゲモニー争いから始まって国内統一が出来てから、隣国に押し出して行くのが普通ですが、信濃のクニでは国内統一して外敵にあたる機運がまるでなく、武田と上杉両勢力の草狩り場になったのは、クニとしての一体性を欠いていたことによるでしょう。
明治で大きな縣を作るために、いくつかのクニ・地域を合併させた福島県や静岡県(伊豆、駿河、遠江)などと同じ地域対立が古代の律令制施行時から続いているのです。
福島県は大和朝廷成立時には、北辺の陸奥の国の一部でしかなく、独立のクニとして分離成立するのは大分経ってからのことです。
現在知られている岩代の国と岩城(いわき)のクニに分かれ命名されたのは、明治維新直後の数年程度のことです。(直ぐ縣制度に移行しますので・・なくなってしまいました)
718年(養老2年)に石城国と石背国が分離独立したこともあるようですが、前9年の役など蝦夷との関係が怪しくなると陸奥のクニに再編入されて以降、国として一体化したことがなくまとまらないまま(戦国時代も大名が乱立ですし、江戸時代も会津松平家を除けば小大名の乱立で)明治まできたのです。

住民登録制度不備と家の制度8

江戸時代のように何世代にもわたって定住している者(都会で言えば持ち家を持つもの)とそれ以外・・・借家人・中間的な人を無宿者として無登録にしておく・・今で言う住民登録のない人間が都会にひしめいているのでは(徴兵・徴税の対象にも出来なくて)困るし、実際にきちんと生業を持って働ける人が増えて来た以上は、これら中間帯を幽霊人口にしないで正規市民登録させようとした明治政府の方針は正しかったでしょう。
明治になって炭坑夫・工員・駅員その他農業以外の安定した就職先が出来たので、跡継ぎ以外の弟妹も自分のきちんとした収入があるので結婚出来る・・独立の経済主体・世帯を形成出来るようになったのに、これらを江戸時代のように無宿者・・浮浪者・・幽霊扱いで放置するのは実態に合わなくなったとも言えます。
都会に働きに出た弟妹の経済力が上がったことが制度変更の(無宿者・浮浪者扱いから正規市民登録が必要になった)原動力であったとすれば、(後講釈ですが)ズバリそのための制度・・ありのままに登録する・・今の住民登録制度あるいは将来制度化されるであろう国民背番号制に向けて制度化に努力すべきだったと思われます。
日本以外の諸外国ではこの方向へ進んでいることは、(アメリカ等は昔からそうですし、日本法の影響下にあった韓国でも数年前頃に戸籍制度を廃止しています)周知の通りです。
こうした簡易な登録制度を採用せずに、まず出身地別に管理する(・・出身地の檀家寺で管理をしていた檀家制度を06/03/10「(1)仏教の役割変化2(学問から登録機関へ)」前後で紹介しましたが、宗門人別帳の歴史経験があったのでこれの応用・修正から始めたのは合理的でした。
その代わり戸籍制度・・本籍観念から入って行ったので、現住所登録が完成して来た後も本籍と現住所の二本立て・・今も同じですが・・・となって行き、本籍地=出身地に籍を残す以上はそこの管理責任者・戸主と言う観念が必要になったように思われます。
本籍地・・本来どこの出身・一族であったかは、今では個人の特定にそれほど意味がない時代(どこの社員かなど所属や職業を明らかにする方が識別に意味があるでしょう)なのですから、今後はこうした二本立てをやめて個人別識別番号制に移行して行くのが合理的です。
(江戸時代の武士やその他では、先祖は源氏だった等出自を自慢するのに必要な時代がありましたが・・この種の需要は今後は趣味の世界にゆだねれば十分で国家が税金を使って整備してやる必要までありません)
明治の家制度の結果、具体的な家・建物を出て、東京大阪等の都会へ働きに出て、そこで住まいを建てあるいは借家で別の生活をしている弟妹の一家・所帯単位まで田舎の長男(戸主)の観念的な家の構成員とする(会社で言えば連結)制度になったので、(江戸時代までのように簡単に無宿者として除籍出来ないようになっただけのことですが、)これを「家の制度」と言い変えるようになったとも言えるでしょう。
家と言う言葉の意味・・一つ屋根の下で生活する実態とまるでかけ離れているからこそ、却ってわざわざ「家の制度」と言うカギ括弧付きの呼称が必要になったのでしょう。

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