是枝監督の政府祝意辞退と公権力2

脱俗と経済・社会基盤に戻ります。
日本の歴史上有名寺院が、権力者の子弟を受け入れて出身身分に応じてすぐ高位に就任できるには、相応の経済関係があってのことです。
例えば、6代将軍足利義教は急遽還俗したものです。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

足利 義教(あしかが よしのり、正字体:義敎)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 – 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。
・・・・応永26年(1419年)11月に153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた[要出典]。その後一時大僧正も務めた

世俗と縁を切ることができるのは、権力や経済力がバックにあってこそ可能です。
漂泊の詩人として有名な西行法師も世俗バックの仕送り(だけでなく安全保障)があってこそ、世俗との縁を切って諸国行脚できたのです。
是枝監督は公権力と距離を保つというのですが、年金も健康保険も保育園も生活保護も救急車も駅前広場や高速道路も交通整理も、飛行機便の発着が安全に行えるのも何もかも政府が関わっているので、政府の関与することには一切世話にならないというなら主張が一貫しますが・・。
そこまでの覚悟があるならば、ゴーン氏が外国に逃亡したように、活動の場を外国に移してからいうべきではないでしょうか?
このあとで書いていきますが、政府は国民の代表ではありますが、公共の福祉に反する行為(主に犯罪)を取り締まる秩序維持の機能があり、これが公権力を背景にしているのですが、現在では表現の自由の関係で映画内容には公権力介入の余地が皆無と言えるでしょう。
各種助成金審査も権力意思と遠く離れたそれぞれ業界の人材で構成される委員会等で審査されるのが一般的です。
芸術文化系審査はその最たる分野でしょう。
このように公権力介在と縁の遠いはずの分野の人が、なぜ公権力と距離を置くという理由で補助金交付機関の代表らの祝意を跳ねつけたのか?です。
社会全体の基盤の上に成立しているのが文化・スポーツなどですから、特定分野の興隆に直接応援したこともない国民でも、自国出身者のノーベル賞受賞や国際大会での活躍等を誇らしく思うのです。
まして具体的補助金を受けていながら、その補助金交付機関代表者からの祝意に対して「距離を保つ」と称して拒否するのは異常ではないでしょうか?
大相撲で内閣総理大臣杯授与という儀式がありますが、優勝者の決定に権力介入の余地がないし、その他書道会などの各種展示会での大臣賞(地方の菊や盆栽展では県知事賞?)など枚挙にいとまがありません。
こういう場の表彰に「公権力から距離を置く」とあえて禍々しい権力を持ち出して、否定的評価を演出すると格好いいのでしょうか?
格好いいと評価する人と不快感を持つ人がいるからニュース価値があり報道を賑わしているのでしょう。
不快感を持って欲しいと願って発言する人がいないとすれば、彼の関係者にはこういう姿勢を歓迎・評価する傾向の人が多いからでしょうか。
芸術表現が結果的に政治影響力を持つことがあり得るし、それ自体構わないというか当然の効果としても、内面表現をした結果政治的反響を呼ぶ・政治効果を持つ場合と政治主張を通すために表現したのとでは意味が違うように思われます。
政治活動であれば言動に対する政治責任を負うべきですし、芸術でもその表現によって実際に不快に思う人がいれば、不快感レベルに応じた報復を受けることになり結果責任を負うのは同じかもしれません。
政治主張するための芸術表現利用が激しくなれば、対立勢力も対抗上これを行う芸術家と組むようになるでしょうし、芸術業界全体が自ら政治介入を招くようになりますが・・。
ここにきて昨年だったかの愛知ビエンナーレ騒動を想起しました。
芸術活動を標榜すれば、天皇や政敵肖像の大型映像を引き裂いたり、踏みつけたりして騒ぐのも良自由だという主張をするようになれば、かえって芸術活動そのものへ信用を落とし芸術・文化を冒涜し貶めることになるのではないでしょうか?
我が国が誇る和歌・俳句、能や歌舞伎・源氏物語や浮世絵が、政治批判したからレベルアップしたのではありません。
どんな主張するのも言論の自由としても、言論戦は言論の自由市場でやるべきで絵画、彫刻、音楽映画等々は、それぞれその分野で頑張れば良いのであって、そこで負けそうだから違った分野から応援を求めるのはいわば、リング外の場外戦に持ち込もうとするようなものです。
争いには一定のルール・・自ずから品位が必要ということでしょうか?
国内言論戦で負けているからか、左翼系は国連人権委員会の決議がどうのという外部権威を持ち込みたがります。
しかし日本の国情に合うかどうか・・民族の知恵・総意が何かの議論をするのに、よその人の意見が国民総意より優先するかのようにいうのは・・論理矛盾です。
まして今回の新型肺炎に対する科学的事実認定にさえ、中国のゴリ推しが国連機関の意見表明の決め手になるような(印象を受ける)国連機関の現状を見るとなおさら国連意見に頼る人らの信用性に関わるでしょう。
死刑廃止論の根拠に諸外国の死刑廃止がどうなっているという主張が多いのですが、国内政治そのものである刑法の処罰・特に死刑のようなものは(電子商取引や税関のあり方など技術的分野と違い)宗教観・死生観と絡み民族意識が最も強固な分野ですし、商取引の商品と違い、民族個性があっても無理が少ない分野ですので、これを決めるのに国際標準を持ち込むのはおかしな風潮です。
アメリカに比べて弁護士数が少ないというが日本には膨大な周辺士業がいるのに米国では税理士や司法書士あるいは不動産の宅建資格などの業者がなく皆弁護士とカウントされている違いがあるように、欧米では死刑廃止している代わり犯行現場で容赦ない射殺が行われている日々の報道・現実を無視した議論が多いようです。
日本では現場射殺される事件は何十年に1件もないでしょう。
今日の日経新聞夕刊13ページには茨城県で警官跳ねて逃走した車に向けて発砲したとの見出し記事がでいていますが、これだけでニュースになる社会です。
日本民族では生命尊重の精神が行き渡っていて、(猿など野生動物が出ても追い回すばかりです)現場での射殺は恐れ多すぎる・裁きは神に委ねたい日本人の深い心情を表しているようです。
キリスト教の精神が死刑廃止論に影響しているかいないかの議論が提起されて、死刑廃止論はキリスト批判の学者の議論から始まっているからキリスト教精神と関係ないという意見がありますが、神が死んだとニーチェが言えば彼の思想の根元にキリストの影響がないという人がいるのだろうかとふと気になりました。
キリスト教の布教でなく単なる欧米思想だったら死刑廃止論が正しくなる訳ではないでしょう。
要するに民族の死生観・むやみやたらに殺生して良いのか?と・死刑はダメだが犯人射殺は現場判断で良いというのは、牛肉を食べても良いがクジラは許さないという議論とどこか似ていませんか?
キリスト教がない社会でも無宗教社会でなく別の宗教がある場合があるし、シャワーのない社会でもお風呂があるし、米がないから野蛮でなく小麦加工が進んでいる社会もあるなど、パスタがないから野蛮でなく、うどん、そうめんやそばがあり、それぞれの社会ごとに補完する何かがあるので、どちらが合理的かは別問題であって何でもそのまま取り入れなければならないと言えません。
ニュースを見ると欧米では現場射殺が多いのですが、欧米諸国における年間犯人射殺数を公開してその関連で議論してほしいものです。
以下の通り銃乱射のような事件でない・・刃物を持っているだけでも安易に即射殺が欧米流儀です。
https://www.bbc.com/japanese/51352236

ロンドン南部で男に刺され3人負傷 仮釈放中の容疑者を射殺
2020年02月3日

是枝監督の政府祝意辞退と公権力1

補助金をもらわない人でも、各分野で活躍している多くの人々、スケートの浅田真央さんや羽生結弦、テニスの大坂なおみや野球のイチローなどが、国民の祝福を受けたくないのでしょうか?
国民代表である政府大臣の祝意表明行為をあえて「公権力と距離を保つ」と政府機能の一分野だけを抽出表現して拒否するレトリック自体に疑問があります。
政府の祝意表明は公権力行使である→距離をおくと言う図式のようですが、政府の行動のうち公権力行使に当たる分野は何かとあまり考えたことはなかったですが、なんとなく違和感を抱く人が多いでしょう。
菅直人氏が、総理現職中に警察等は物理的強制装置・・いかにも害悪の根源のような発言をして物議を醸しましたが、このような一方的な定義づけは、私が司法試験受験当時の基本書であった政治学原論だったか?に書いていたのを思い出したものです。
脳の柔らかい若者の多くがこういう洗脳に染まったまま成人し総理になっているのか?と郷愁を覚えたものです。
教育機関ではまだこのような思想を教えしている教授が牛耳っているのでしょうか?
韓国文在寅大統領はいわゆる86世代と言って学生運動家上がりで、その刷り込みで現実無視の政治をしているから韓国政治が無茶苦茶になっているという評価が出ています。(どの評価が正しいかは歴史評価を待つしかないですが・・)
文大統領は何となく菅政権の後をなぞっている印象ですが、日本のように政権が民意に敏感でないというか、制度上任期が5年間と固定されている関係で国民が困ろうと観念論を推し進める気配で、抵抗する官僚を抑えるために?
まず検察官の総配置変えの断行を始めたようです。
これが終われば、左翼系政権得意の粛清政治を思い通りに行える予定でしょうか?
左翼政治家の信奉する旧ソ連や中国の粛清弾圧体質を理想社会と仮定すれば、菅元総理のいうとおり「警察組織は政府の物理的強制装置」・・悪しきものの代表でしょうが、
日本の場合、武士の発祥に知られるように自警団・明治以降は身近な駐在さん→今は交番・・道案内や、動物が逃げたとか野生の猿が出たと言っては駆り出される・日頃困ったことがあれば相談に行く重要な存在ですので、社会のなりたち・意味が違います。
「交番のおまわりさん」というだけで嫌悪感を感じる国民が何%いるかの調査などないのでしょうが、神の声・国民総意を直感的に感得すれば、大多数の国民が、地元で揉め事などで暴力に発展しそうなリスクが生じた時に弱い方が真っ先に、いざとなった時のために交番にあらかじめ相談をしておこうとなる人が大半ではないでしょうか?
ヤクザに脅されそうになったりしたら弁護士相談と並行して警察相談するのが普通です。
国民の多くは警察を頼りにすることがあっても、見ただけで嫌悪感が走るような人はヤクザ等特殊な人以外に滅多にいないでしょう。(これは直感で書いています。)
パトカー通報後いかに早く来てくれるか、早い方がいい人と遅い方がいい人とどちらが多いか?
是枝監督は、日本ではもはや化石化しつるある左翼ガリガリ運動家の吹き込み・・警察=暴力装置論による知識を前提に格好良く発言したつもりなのでしょうか?
こういう程度の社会理解を前提に社会派?映画を作って動向のグループで賞賛しあっているのでしょうか?
話題を公権力に戻します。
公権力に関する一般的な理解では強制力を伴う行為・刑事処分に限らず各種行政処分・・許認可処分・・今回のコロナウイルス騒動での強制隔離処分等がありますが、学校教育も保健衛生分野も一種の公権力の外延でしょうが、国民国際的な快挙に対する大臣祝意表明になると駅前広場や公園整備等より権力性が弱いように思われます。
ウイキペデイアで公権力を見ると以下の通りです。

公権力(こうけんりょく)とは、政府の統治行為のうち、物理的な力により執行されるもの、あるいは服従しなければ刑罰を科せられるものを指す。また、公権力を執行する機関である警察・検察・裁判所・税務署・軍隊も指す。
公権力は様々な行為によって行使されるが、代表的な例は逮捕・収監・召喚のほか、行政処分(強制収用・徴税・かつての徴兵)などがこれに当たる。

私が考えているよりもずっと狭い・いわば物理力行使=中核的行為のみに限定するようです。
こう言う狭い定義が一般的理解とすれば、是枝監督の「公権力と距離を保つ」という声明?は、何を言いたいことになるのでしょうか?
警察権力等と距離を保つとの主張と理解した場合でも文部大臣の祝意を拒否するのとどういう関係があるのか分かる人は滅多にいないでしょう。
文部大臣が上記権力定義とどう言う関係があると言う主張か不明であるばかりか、祝意拒否がなぜ上記権力活動と距離を保つことになるのかも飛躍がありすぎで不明です。
警察権力との距離と限定しても、彼は強盗や泥棒被害にあっても自分の子供が誘拐されても警察に何も求めないし、交通事故や契約違反等の損害を受けても裁判所を利用しないのでしょうか?
文部大臣の祝意拒否が「公権力と距離を保つ」ことになるとすれば、上記ウイキペデイアの定義より広いイメージ・・私のいう程度の定義よりももっと広い・・なんとなく政府行為には全て距離を保ちたいというかのようなイメージが伝わります。
しかし、この世の中で水滸伝で有名な梁山泊みたいに政府と距離を置ける場所はない・・竹林七賢は世俗を離れて生活できていたか?というと、彼らは名門貴族の子弟で、権力闘争から離れただけで実家からの仕送り(今で言えば軽井沢の別荘)で優雅に暮らしていられたのは、権力による庇護(治安維持)があったからです。
日本の権力者子弟・皇族や将軍家子弟が出家して叡山等に入っても・相応の仕送りをしているから成り立つし、修行らしい修行もしていないのに天台座主などになれるのです。
今回中国のコロナウイルス蔓延に対してWHOの対応の遅さに対する批判的社説が日経新聞2月1日朝刊にでました。
同紙3ページは、中国の資金とWHOへの人材送り込み・・中国の巨額援助国エチオピアを事務局長として推して当選させたことなどの掘り下げた記事が出ています。
個々人宛の賄賂の有無は不明ですが、WHOやエチオピアへの大規模資金注入があるような解説記事です。
映画に限らず各種文化活動はこれを受容し育成すべき社会の経済力あってのことです。
自分の社会に敵意?距離を置いて文化が育つのでしょうか?

豪族連合体日本の官と臣2

鎌倉〜足利政権同様に徳川幕藩体制も多数の旧豊臣家家臣団やその他大名の協力があってこそ出来上がったもので連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制確立により連合政権の本質が隠され、表向き主君と臣下の関係化していましたが、(ほとんどんどの大名・・島津でさえ公式には、徳川の旧制松平姓にされていました)幕末黒船来航や北辺の海防に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に連合政権の本質が噴出しました。
外様大名を中心に独自の異国対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定参加権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、対応策に関する議論が無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行ったのは、大元に連合政権の本質があったからです。
有力諸侯の協議が行われるようになっても江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、政争の舞台が京都に移ったこと自体が象徴しているように、京都での政争では徳川家が一方的な主催者の地位を降りていたことを象徴しています
京都での協議結果が帰趨を決するようになると、幕府は老中に一任できず幕府のエース一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なものでしかなく、上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。
一橋慶喜は優秀の誉れ高かったのですが、何となく秀吉政権の三成のように実務官僚的能力は高かったでしょうが、育ちが良すぎて?政治能力が低かったイメージです。
乱世に活躍し政権樹立に功績のあった豪族や大名家と政権樹立後実務処理に必要な人材は違うのはどこの国でも時代でも同じです。
官制というのは安定期に政権運営に維持に必要な実務官僚に必要な格式・・企業でいえば職制のことでしょう。
事務官僚の職域が多くなるにつれて、任命官僚も増えてくるので天皇がいちいち親任出来なくなった・その分を認証官にしたのではないでしょうか?
明治になって法治国家の体制を整えるためには、各地に裁判官、検察官などの配置が必要ですので官名を持つものがいきなり増えました。
イギリス法では裁判所をキングズベンチクイーンベンチと習いますが・・生殺与奪の権=裁判権こそが、最高権力者が保持すべきという原理の表明です。
戦前の裁判も天皇の名において処罰する仕組みでした。

大日本帝国憲法
第57条司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

地方の裁判官であろうと上司の代理で判決を宣告するのではなく、天皇の名において国家意思の表示するとなれば官を名乗らせるしかなかったからでしょう。
ちなみにここで言う裁判所とは、法学用語では官署としての裁判所ではなく、受訴裁判所・・裁判を担当する(裁判所を構成するのは事案によって3名のこともあれば1名のこともありますが)裁判官のことです。
法廷で日常「裁判所はこう考えますが・・・」とか「裁判所としては〇〇についてをもう少し主張をお願いしたい・・〇〇を提出していただきいのですが・・」と言う発言は「〇〇地方裁判所」という建物のある官署をいうのではなく、その担当裁判官(合議事件の場合合議体)の意見という意味です。
例えばある地方裁判所に民事部が5部あって、その中に裁判体が10数個ある場合、その一つ一つが裁判所であり、一つの判決や証人採用決定や却下、次回期日決定ごとに、地裁全部の裁判官が集まって合議して決めるのは無理があることがわかるでしょう。
裁判官一人の担当する裁判では、その一人の裁判官が決めればそれが〇〇地裁の判決であり決定であり命令としての効力が生じます。
豪族代表でなくとも朝廷内で何かの職務を持つ中で一定の職域以上に補職できる枠を官位で決めるようになって、(中国では官位と補職関係は厳格だったようですが、我が国はアバウトだったようです・・例えば三位以上でないと殿上人になれないなど)こういう合理化の結果官位制度が生まれたと思われますが、官位をいただけるのは当初天皇の直接任命職だけだった可能性がありますが、次第に人数が増えてきたので直接任命は一定の官位までとなり、例えば三位までになり4位以下は認証するだけの官となって行ったのかも知れません。
千葉市の場合、法律上議会承認を要する委員の場合、担当局長や秘書室長などの立会いで、市長から直接辞令書が交付される1種の儀式が行われますが、議会経由しない委員任命の場合、辞令書が第1回委員会の机上に置かれているだけで市長からの直接任命式はありません。
官名授与対象がインフレ現象で?増えすぎたので認証官という制度が生まれ、明治以降地裁裁判官等がどんどん増えていくと膨大になるので認証式すら必要のない官が生じるようになったのかもしれません。

「公権力とは距離を保つ」是枝監督4

是枝監督は、カンヌで受賞し天狗になってしまい、日本人など相手にする必要がないと思ったのか?・・民意を甘くみたら、あっと言う間にネットで反撃される時代です。
日本人と距離を保つために外国で活躍したら!というツッコミが入るのはすぐでしょう。
そのうち(発言には責任が伴うことを知り)彼もうっかり自由な発言できないと思うようになると、日本には言論の自由度が低いと主張する一人になるのでしょうか?
映画の題名を上記で初めてみましたが、例によって、「万引き家族」という(題名だけでストーリーや内容不明ですが)最底辺らしい風景を描いたものが国外受けするらしいです。
そういえば20年ほど前に受賞作「うなぎ」という映画を見たことがありますが、これも千葉県佐原市(2006年から合併で香取市になっています)の茫々たる水郷地帯の外れに社会から落ちこぼれて孤独に生きる人が主人公だったような記憶です。
この頃佐原書に逮捕されている刑事事件があって、何回か佐原警察署に接見に行く事が重なったのも偶然でしたが・・。
北野武監督の「花火」という映画もヤクザっぽい筋で現在日本社会にありえないような筋でしたが、こういう日本社会にありえないような(お前は知らないだけだと言われるでしょうが)暗部を描くと外国受けするようです。
京都の綺麗な庭園を写さずに裏のゴミ捨て場を写して日本は汚いぞ!と発信するような人たちです。
「子供を大事にし助け合い暖かい社会のイメージを誇る日本といっても、実態はこんなもの」と蔑みたい気持ちが外国(特に西欧先進国)にはあるから欧米受けするのでしょう。
カンヌ映画祭などで受賞しなくとも戦後一世を風靡した「青い山脈や「24の瞳」あるいは美空ひばりなどの明るい歌声が、敗戦で打ちひしがれ、住むところも焼かれ、食うに困っていた国民をどれだけ元気付けたかしれません。
三波春夫や三橋美智也の盆踊りの歌の数々・・・私が育った子供の頃を思い出すとカンヌ賞受賞など関係ありません。
日本の海外受賞映画って、国民意識とずれているのが多い・・市場評価を受けられない印象です。
ミスユニバースなど日本ではほとんど誰も問題にしないのと同じで、選考価値基準を疑う人が多いでしょう。
財政赤字を問題視したい勢力が国内で相手にされないと、外資・格付け会社に頼んで?何年か前に日本国債格付けを後進国並みに引き下げたことがありましたが、その直後から日本円が急騰したことがあります。
財政赤字はコップの中のバランスに過ぎず、本当に危機が来るかどうかは国全体の国際収支の長期トレンド・・対外債権債務の帳尻が重要であることは子供にもわかることです。
この4〜5ヶ月の南欧諸国や南米の通貨危機を見て財政赤字率は日本の方が高いので日本も「他人事とは言えない」と頻りにメデイアが主張しますが、財政赤字で国家の危機が来るのではありません。
自己主張が国内で相手にされない一定の困った人がいるのは確かですが、そういう人にとっては「国内言論状況が息苦しい」となり、海外評価に逃げる・自国の悪口を言って褒めてもらうしかないのでしょう。
言論市場を独占していた時には、「バカな事ばかりいって困った人たちだ」と国民の多くが思っても反論せずに黙ってくれていた過去が懐かしいことでしょう。
国民にとっては、メデイアの偏った不合理なことを言われっぱなしで、長いあいだ我慢してきたのです。

※本日9月30日現在、約20日間サーバーの不具合によるメンテナンス中で新規アップできず、日々生起するニュースに触発されて日々コラムを書く習慣が途切れていたので、ここ1週間ほどはウオーミングアップ期間で、9月13日あたりの分から過去に書いていたものをちょっと手直ししてアップする状態が続いています。
日々のニュースと関係なくなるので迫力がなくなりますが、しばらくの間ご容赦ください。
早く現実の日に追いついて、その日の話題に感じたことを書きたいと思っていますのでよろしくお願いします。

「公権力とは距離を保つ」是枝監督3

反日的行動というか自己集団帰属意識を否定するのに熱心な集団・・(たまたま今年7月6日頃と7月26日頃の2回に分けて全員一斉死刑執行されましたが・・)オーム真理教のように社会全体レベルから見れば高学歴の医師や科学者等が参加していましたが、個々人で見ればその職種の社会・東大卒や医師、学者弁護士その他の集団内では落ちこぼれの疎外感があったのかもしれません。
共産党その他革新系野党では高学歴者を揃えるのが基本志向ですが、(具体的に誰がどうというようには知りませんが・・・子供の頃によく見た映画で言えば、剣道や柔道で腕がいいが心根が悪くひねくれてしまった人物が悪役で出てきます)いずれもその分野では5〜6流ということではないでしょうか?
ついでに、ここで偶然のことですが、死刑について少しばかり考えが変わりましたので、ここまでのテーマと関係がないのですが、ここで少しだけ書いておきます。
たまたま送られてきて事務所の机上にあった中央ロージャーナルを7月20日頃に何気なく読んでいたら、貴族院での死刑廃止論の議事録が掲載紹介されていました。
今回の執行とは関係なく読んでみたら、明治時代の刑法改正に際してせっかく改正するならば、世界先端思想で行こうという意気込みがエネルギーになっている感じ・今でも、先進国で死刑が残っているのは少ししかないとか似たような議論が主流ですが・・)ですが、それだけではなく、結構論理的な議論が行われていて、現在の教条的決まり文句と違って、意外に説得力があったので驚いたばかりです。
死刑廃止論に対する認識を新たにしましたので、(「少しまともな議論を読んだな」というだけで今でも死刑廃止には賛同できません)取り敢えず報告です。
ここで是枝監督の「公権力とは潔く距離を保つ」(7月9〜10日に書き始めたシリーズの続きです)のテーマに戻ります。
ついでに→公権力=地域や所属社会と距離を保つ是枝発言に対するネット反応を見ておきましょう。
ネット反応は、今風の解釈下で育った年代らしく「自国公権力に距離を保つ」点を問題にしないで、世界の「公権力一般からの距離」を前提にフランス公権力の賞を受けたり日本政府から助成金をもらっている矛盾だけをついています。
http://freezzaa.com/archives/3248には以下の意見が出ているようです。

第一に、「公権力とは潔く距離を保つ」と言うが、カンヌ映画祭はフランス政府という公権力が主催するイベントではないのか。
第二に、『万引き家族』の制作に際して、文化庁の助成金を貰っているではないか。文化庁は文部科学省の外局であり、日本政府という公権力の一部ではないか。
第三に、それでいながら、ニュースにあるように、林芳正文科大臣の正式な祝意と招待を拒否するのは、もっと矛盾していないか。
要は、是枝監督は、公権力の日本政府から支援を受けて、公権力の外国政府の主催する賞を貰っているわけです。
よって、是枝監督は口では「潔く距離を保つ」と言うが、公権力とその政治的意図から独立や中立を保っていることを「行動」で示しているとは、とても言えない。
だいたい、助成は数千万円とも言われている(正確な額を監督自身の口から公表してほしい)。政府からそんな「掛け捨て金」を貰った人が言うセリフだろうか。
しかも、フランスの公権力の祝意は受けて、なんで日本政府の祝意は拒否するのか。
さらに、文科省から映画制作の資金を貰っておきながら、当の文科大臣からの正式な祝意と招待を拒否するとは、どういうことなのか。公権力に対する政治姿勢云々以前に、それが金をくれた――「借りた」ではない――相手に対してとる態度なのだろうか?
それだったら、最初から文化庁から金を貰うべきじゃない。

上記によれば「外国政府からの受賞は嬉しいが、日本政府からは受けたくないと宣言しているのがおかしい」と言うだけで反日性を非難していません・・・思想表現の自由は反日思想かどうかを問題にしない点を理解している?偉い!
是枝氏は、国益に協力したくない思想→自己中心主義・・共同体利益を無視したい精神でしょうか?
人は一人で生きられないから、何かの集団に属して生きるしかないものですから、自国公権力の目指すもの=国益とは距離を保つという意味は?どこの集団利益のために生きると言うのでしょうか?
日本国内のどの集団?もみな日本国の構成単位です。
どの集団も孤立しては存在し得ないので、どこかのさらに大きな集団に属しています。
日本国内にある集団は、日本国益に(補助金を得ていることが報道されていますが、直接的援助だけでなく間接的にも)依存している筈ですが、そう言う恩恵・・国益などなんとも思わない自己利益中心の集団があって、そこに属していると言うことでしょうか?
会社員が、会社の恩恵で生きていながら、いつも会社の不平不満ばかりを社外に言いふらしているようなものです。
結局はどこのため?→外国のための活動とすれば、日本政府からの勲章や栄誉はいらないが、外国政府からの勲章ならば喜んで受けるのは当然というか彼の言葉からいえば「潔い」ことです。
私は映画内容も助成金も知りませんでしたが、(ネット時代は便利です)親の援助で成功した人間が親とは距離を置くと言って格好つけている青い人間のように見えます。
社会を歪んで見る意見もひとつの立場ですが、国民多数の支持を受ける意見ではあり得ません。
反日的?発言は憲法で「自己実現」と保証されているし格好いい・・これがメデイア界の主流なのでしょう。
「自由な発想や発言は結果的に国益に資する」と習ってきた私のような古い世代から見れば、国益に役立たず敵国のため役立っても「自己実現すれば良い」という?「歪んだ?」見方は、わさびや香辛料程度の役割ですから、これを有難がる立憲民主党などの革新系が国民多くの支持を受けられない原因です。
こういう歪んだ考えでは、ネットの発達した国内ではすぐに批判されるので、言論の自由がないと思うのでしょう。

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