脱俗と経済・社会基盤に戻ります。
日本の歴史上有名寺院が、権力者の子弟を受け入れて出身身分に応じてすぐ高位に就任できるには、相応の経済関係があってのことです。
例えば、6代将軍足利義教は急遽還俗したものです。
ウイキペデイアによると以下の通りです。
足利 義教(あしかが よしのり、正字体:義敎)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 – 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。
・・・・応永26年(1419年)11月に153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた[要出典]。その後一時大僧正も務めた
世俗と縁を切ることができるのは、権力や経済力がバックにあってこそ可能です。
漂泊の詩人として有名な西行法師も世俗バックの仕送り(だけでなく安全保障)があってこそ、世俗との縁を切って諸国行脚できたのです。
是枝監督は公権力と距離を保つというのですが、年金も健康保険も保育園も生活保護も救急車も駅前広場や高速道路も交通整理も、飛行機便の発着が安全に行えるのも何もかも政府が関わっているので、政府の関与することには一切世話にならないというなら主張が一貫しますが・・。
そこまでの覚悟があるならば、ゴーン氏が外国に逃亡したように、活動の場を外国に移してからいうべきではないでしょうか?
このあとで書いていきますが、政府は国民の代表ではありますが、公共の福祉に反する行為(主に犯罪)を取り締まる秩序維持の機能があり、これが公権力を背景にしているのですが、現在では表現の自由の関係で映画内容には公権力介入の余地が皆無と言えるでしょう。
各種助成金審査も権力意思と遠く離れたそれぞれ業界の人材で構成される委員会等で審査されるのが一般的です。
芸術文化系審査はその最たる分野でしょう。
このように公権力介在と縁の遠いはずの分野の人が、なぜ公権力と距離を置くという理由で補助金交付機関の代表らの祝意を跳ねつけたのか?です。
社会全体の基盤の上に成立しているのが文化・スポーツなどですから、特定分野の興隆に直接応援したこともない国民でも、自国出身者のノーベル賞受賞や国際大会での活躍等を誇らしく思うのです。
まして具体的補助金を受けていながら、その補助金交付機関代表者からの祝意に対して「距離を保つ」と称して拒否するのは異常ではないでしょうか?
大相撲で内閣総理大臣杯授与という儀式がありますが、優勝者の決定に権力介入の余地がないし、その他書道会などの各種展示会での大臣賞(地方の菊や盆栽展では県知事賞?)など枚挙にいとまがありません。
こういう場の表彰に「公権力から距離を置く」とあえて禍々しい権力を持ち出して、否定的評価を演出すると格好いいのでしょうか?
格好いいと評価する人と不快感を持つ人がいるからニュース価値があり報道を賑わしているのでしょう。
不快感を持って欲しいと願って発言する人がいないとすれば、彼の関係者にはこういう姿勢を歓迎・評価する傾向の人が多いからでしょうか。
芸術表現が結果的に政治影響力を持つことがあり得るし、それ自体構わないというか当然の効果としても、内面表現をした結果政治的反響を呼ぶ・政治効果を持つ場合と政治主張を通すために表現したのとでは意味が違うように思われます。
政治活動であれば言動に対する政治責任を負うべきですし、芸術でもその表現によって実際に不快に思う人がいれば、不快感レベルに応じた報復を受けることになり結果責任を負うのは同じかもしれません。
政治主張するための芸術表現利用が激しくなれば、対立勢力も対抗上これを行う芸術家と組むようになるでしょうし、芸術業界全体が自ら政治介入を招くようになりますが・・。
ここにきて昨年だったかの愛知ビエンナーレ騒動を想起しました。
芸術活動を標榜すれば、天皇や政敵肖像の大型映像を引き裂いたり、踏みつけたりして騒ぐのも良自由だという主張をするようになれば、かえって芸術活動そのものへ信用を落とし芸術・文化を冒涜し貶めることになるのではないでしょうか?
我が国が誇る和歌・俳句、能や歌舞伎・源氏物語や浮世絵が、政治批判したからレベルアップしたのではありません。
どんな主張するのも言論の自由としても、言論戦は言論の自由市場でやるべきで絵画、彫刻、音楽映画等々は、それぞれその分野で頑張れば良いのであって、そこで負けそうだから違った分野から応援を求めるのはいわば、リング外の場外戦に持ち込もうとするようなものです。
争いには一定のルール・・自ずから品位が必要ということでしょうか?
国内言論戦で負けているからか、左翼系は国連人権委員会の決議がどうのという外部権威を持ち込みたがります。
しかし日本の国情に合うかどうか・・民族の知恵・総意が何かの議論をするのに、よその人の意見が国民総意より優先するかのようにいうのは・・論理矛盾です。
まして今回の新型肺炎に対する科学的事実認定にさえ、中国のゴリ推しが国連機関の意見表明の決め手になるような(印象を受ける)国連機関の現状を見るとなおさら国連意見に頼る人らの信用性に関わるでしょう。
死刑廃止論の根拠に諸外国の死刑廃止がどうなっているという主張が多いのですが、国内政治そのものである刑法の処罰・特に死刑のようなものは(電子商取引や税関のあり方など技術的分野と違い)宗教観・死生観と絡み民族意識が最も強固な分野ですし、商取引の商品と違い、民族個性があっても無理が少ない分野ですので、これを決めるのに国際標準を持ち込むのはおかしな風潮です。
アメリカに比べて弁護士数が少ないというが日本には膨大な周辺士業がいるのに米国では税理士や司法書士あるいは不動産の宅建資格などの業者がなく皆弁護士とカウントされている違いがあるように、欧米では死刑廃止している代わり犯行現場で容赦ない射殺が行われている日々の報道・現実を無視した議論が多いようです。
日本では現場射殺される事件は何十年に1件もないでしょう。
今日の日経新聞夕刊13ページには茨城県で警官跳ねて逃走した車に向けて発砲したとの見出し記事がでいていますが、これだけでニュースになる社会です。
日本民族では生命尊重の精神が行き渡っていて、(猿など野生動物が出ても追い回すばかりです)現場での射殺は恐れ多すぎる・裁きは神に委ねたい日本人の深い心情を表しているようです。
キリスト教の精神が死刑廃止論に影響しているかいないかの議論が提起されて、死刑廃止論はキリスト批判の学者の議論から始まっているからキリスト教精神と関係ないという意見がありますが、神が死んだとニーチェが言えば彼の思想の根元にキリストの影響がないという人がいるのだろうかとふと気になりました。
キリスト教の布教でなく単なる欧米思想だったら死刑廃止論が正しくなる訳ではないでしょう。
要するに民族の死生観・むやみやたらに殺生して良いのか?と・死刑はダメだが犯人射殺は現場判断で良いというのは、牛肉を食べても良いがクジラは許さないという議論とどこか似ていませんか?
キリスト教がない社会でも無宗教社会でなく別の宗教がある場合があるし、シャワーのない社会でもお風呂があるし、米がないから野蛮でなく小麦加工が進んでいる社会もあるなど、パスタがないから野蛮でなく、うどん、そうめんやそばがあり、それぞれの社会ごとに補完する何かがあるので、どちらが合理的かは別問題であって何でもそのまま取り入れなければならないと言えません。
ニュースを見ると欧米では現場射殺が多いのですが、欧米諸国における年間犯人射殺数を公開してその関連で議論してほしいものです。
以下の通り銃乱射のような事件でない・・刃物を持っているだけでも安易に即射殺が欧米流儀です。
https://www.bbc.com/japanese/51352236
ロンドン南部で男に刺され3人負傷 仮釈放中の容疑者を射殺
2020年02月3日