白と黒を合わせると灰色と習った記憶ですが、灰色と言わずに知と労をくっつけて「知的労働」というのは白と黒を合わせた単語を白黒あるいは、白的黒というようなもので、あんちょこすぎます。
しかも労に主眼を置いてこれに知的という修飾語をかぶらせただけですから、労働者であるがちょっと知恵を使うものという程度の意味でしょうか?
そういう目で見ると最近の医師の勤務時間の長さと肉体的負担の重さを見るとほぼ過酷労働者の範疇にあると言っても良いイメージです。
教職員の勤務実態も過酷です。
雇用・使用者と被雇用者という定義は、誰かに従属する「支配🆚被支配」「主観・客観」「主体的🆚従属的」等々の2項対立的に何でも区分けする西洋的思考の応用っぽい表現法です。
国民と言わずに人民と言いたがる風潮と同じで、仕事の代わりにいかにも苦役をイメージさせる労働概念の刷り込みをやり過ぎたのではないでしょうか?
4〜50年以上前にはフランスの長期バカンスや、リタイヤー後の旅行三昧を羨ましそうに報道していましたが、日本が豊かになり、長寿社会になった昭和末頃からそんな暇だらけの老後を羨ましいと思う人は滅多にいなくなったのでフランスの長期バカンスを羨ましそうな報道がなくなりました。
日本では昔から「仕事」が大好きで、それに打ち込めるのが最大の幸福という考え方の人が普通です。
すなわち誰が支配するかの基準での分類ではなく、「ことに仕える」のが多くの人にとって生き甲斐になる社会でこれのない人は可愛そうというのが一般的です。
最近コト消費化が盛んですが、日本人はもともと仕事・・何か「コト」にのめり込んで生きがいにするのが大好きですから、幾つになっても仕事をしたい人が多いのですが、いつまでも労働したい人はあまりいないでしょう。
生活な糧を得るため仕方なしにするのが労働であり、仕事はある程度義務感があってもその「こと」の従事するのが天職と考えて頑張るのが仕事です。
例えば子育ては角度によっては義務ですが、それは充実感のあることです。
我々弁護士業務も、受任した以上契約上の義務がありますが、だからと言って奴隷労働ではなく、仕事であって充実感のあるものです。
仕事と労働とは楽しさが違うものです。
いつから労働者という言語が定着したかですが、国民の仕事熱心を阻害し[ことに尽くす]国民性を破壊するために、奴隷労働などマイナスイメージ拡大力が戦後急速に力を得たのでしょうか?
そもそも戦前の労働者保護法は、工場法を先駆としているのですが、その工場法には労働者という用語は見えません。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。
工場法(こうじょうほう、明治44年3月29日法律46号)は、工場労働者の保護を目的とした日本の法律。1911年(明治44年)に公布、1916年(大正5年)に施行された。1947年(昭和22年)に労働基準法が施行されたことによって廃止。
適用範囲
工場法の適用を受ける工場は、制定時の規定では、原則として「常時15人以上の職工を使用するもの」(1条1項1号)及び「事業の性質危険なるもの又は衛生上有害の虞あるもの」(同項2号)であったが、適用を必要としない工場は勅令で除外することができるとされていた(同条2項)。また、1条に該当しない工場であっても、原動力を用いる工場に関しては、主務大臣は、扶助に関する規定等、一部の規定については適用することができた(24条)。
1923年の改正(大正12年改正)により、「常時10人以上」の職工を使用する工場に適用範囲が拡大された。
このように、工場法は小規模工場には適用されず、また、現実には多くの工場が適用除外とされたことから、労働者保護には不十分であった[12]。
一方、工場法の適用にあたっては、「雇傭関係カ直接工業主ト職工トノ間ニ存スルト或ハ職工供給請負者、事業請負者等ノ介在スル場合トヲ問ハス、一切其ノ工業主ノ使用スル職工トシテ取扱フモノトス」(大正5年商局第1274号)と、明確に工業主に使用者責任を負わせるものであったことが、濱口桂一郎により指摘されている。[13]
上記の通り、工場法内には「労働者」という用語はなく、労働者保護の最初の法であるという解説は、「戦後の労働者」という用語を当てはめれば・・労働者保護の走りであると言う意味で使用されていることがわかります。
工場法は昭和22年廃止ですからその時までは職工(通称工員さん・これの対比として女工)と言われていたのであって、法的な意味で労働者と表現されていなかったことになります。
人民という左翼用語が、ほぼ死語になったのに対し、職工を労働者という左翼用語が戦後すぐに法律用語に採用されたことになります。
労働の用語は以下の通りロシア革命以降かな?頻繁に出てきます。
労農党でウイキペデイアを見るとすぐに以下の用語が出てきます。
労農党(ろうのうとう)は、日本における無産政党、革新政党の名称。おおむね「労働農民党」か「労働者農民党」の略称であることが多い。
労働農民党 – 1926年に結党された、左派の合法無産政党。
労働者農民党 (1928) – 上記「労働農民党」結社禁止ののち、再建をめざすグループ(新党組織準備会)により1928年結党され、即日禁止処分を受けた無産政党。
労農党 (1929-1931) – 上記「労働者農民党」解散ののち、1929年に結党された左派の合法無産政党。一般には「新労農党」の通称で知られる。
労働者農民党 – 1948年、日本社会党から分かれて結党された革新政党。
日本労農党 – 1926年、上記「労働農民党」から分かれて結党された中間派の合法無産政党。「労農党」ではなく「日労党」と略されるのが普通。
政府が労働という用語を使用していなかった点は、人民という用語を明治憲法が採用しなかったのと似ています。