あけましておめでとう御座います。
皆様つつがなく新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年の日本は午(うま)年のイメージどおりに、日本経済にとって勢いのあった良き一年であったように思います。
今年の干支は未(ひつじ)年と言うことで、周辺国と争いのないほんわりとした平和な一年であることを期待したいものです。
かと言って、周りがオオカミばかりで日本だけが羊のように大人しくて食い荒されるばかりでは困りますので、羊の群れをオオカミから守る仕組みが必要と言うことでしょうか?
私の方も、一家と言うか子供らもそれぞれ、一定の歳になり、将来の方向も定まり精神上安定的な状態で新年を迎えることが出来ました。
将来の方向と言っても、特別に目出たい方向が決まったと言う意味ではなく、持って生まれた運勢・能力に従ってそれ相応の人生で生きて行けば良い・・変化のありそうな子供はまだまだ変化があるだろうしと言う程度の達観?諦観程度です。
人生は、じたばたしてもどうなるものではありません。
自分自身の人生を振り替えると、ある程度のところで方向が決まって安定していましたが、小人の悲しさ?そうなると子供らの将来が心配になり、煩悩がつきません。
高齢化して来ると多くの人は自分のことに関しては既に勝負あり・・と言うことで、今度は子供や孫の将来を心配したくなるようです。
次々と心配していてもキリがない・・子供がいなければ心配もいらないのですが、子供がいればその数だけ心配の種になってきます。
私の人生を振り返ると特別立派な目標があった訳ではなく、運勢のマニマニ漂っているうちに、この歳になって来た実感です。
子供らの人生が決まったのではなく、ここ数年で私自身の覚悟が決まったと言うことです。
私の考えは成り行き任せの傾向がありますので、どちらかと言えば妻の覚悟が決まったと言うことでしょう。
ご承知のことと思いますが、孔子様の以下のとおりの文言があります。
「子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」
自分のコトだけかと思っていて、自分のような凡人でも、不思議と40になると事件処理に迷うようなことがなくなり、50になれば自分の人生・行く末が大方こんなものだと納得出来るようになるのだナア!と納得していました。
高齢化してみて、子供を含めての煩悩を意味するとすれば、(孔子様の時代には寿命が短かったので子供の行く末まで心配する人は滅多にいなかったでしょう)ここ4〜5年で漸く子世代を含めて天命を知ったと言うところでしょうか?
天命と言うと大げさ・意味不明のブランドですが、俗世の競争社会と言う意味で見れば、50前後で大方の勝敗・・人生が決まる時期と言えないこともありません。
その後は、競争社会から脱却して生きて行けるとすれば、その後の人生は極楽です。
最近相続税問題が連日紙面を賑わしていますが、このようなことが社会問題になることこそが、自分中心から次世代に対する親世代の最大心配事になっていることの証(あかし)です。
増税論者が「次世代に負債を残すのか?」と言いますが、マイナスなら気になりませんから、逆に残す遺産の方が多くなった事実があるからこそ、大問題になっているのです。
ところで、このトシになって「天命を知る」のでは遅過ぎますが、戦前の寿命に引き直すと7割がけの時代と言われていましたので、気が付くのが少し遅かった程度と言えないこともありません。
「人生僅か50年・・・」と言う信長の幸若舞が有名ですが、これでは古過ぎますので、ここ100年くらいの寿命がどうなっていたかが気になります。
日経新聞12月28日朝刊14p「ガンを知る」欄には、平均寿命が「明治元年(1868)で35歳程度、大正元年(1912)で40歳程度」と書かれています。
実際に正岡子規や芥川龍之介など高名な人が早くに亡くなっています。
この記事が(根拠不明ですが・・)正しいとすれば、今の寿命は約2倍になっているのですから、従来から言われている7がけどころではありません。
もしも運悪く?100歳まで生きると今後何十年もあるのですから、その頃には孫の天命まで気になるかも知れません。
今頃「天命を知った」程度のペースで、ゆっくり生きて行く方が退屈しなくていいのかも知れません。
急いで人より早く年をとっても仕方がないと言う訳で、今年はゆっくりと、しかし、退屈しない程度に好奇心を持って生きて行きたいと思っています。
プロから見れば誤った意見が多いかも知れませんが、素人の目線・疑問でこのコラムを続けて行きますので、今年もどうかよろしくお願いします。