融通むげ・知恵伊豆と大和心4

松平伊豆守信綱に関するhttps://ja.wikipedia.の記述です。

行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ・・・・・信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]

政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)

数百年続く徳川体制確立に成功した稀代の政治家であったという評価の高い所以です。
彼の死亡後数十年そこらで、仁慈の実現として綱吉の生類哀れみの令になります。
(生き物すべて大切にせよというのは仁慈の実現には違いないですが、そこまでやると「〇〇キチガイ」の一種と評価されるのが日本社会の良識です)
欧米でPCの行き過ぎに対する反発が広がっているように、何かの主張が首尾一貫するように隅々までいき渡るように目を光らせると洋の東西を問わずに息苦しい世の中にするのはまちがっています。
ITが便利な時代が来てもアナログ的生活をする人がいても良いように、グローバル化やIT利用で成功する人や企業が多数としてもそれを強制する権利があるか・政治としてそこまでやって良いかは別問題です。
隅々まで厳しくやってはいけないと諭していた信綱は寛文2年(1662年)3月の死亡ですから、綱吉の生類憐みの令(1687年)までホンの短期間で細部まで徹底する政治・秀才政治・窮屈な社会が始まっていたことがわかります。
生類憐れみの令に関するウイキペデイアの記述です。

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[9]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[10]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[11]。

綱吉は学問好きで知られ文治政治を推進したと言われます。
綱吉に関するウイキペデイアです

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

中国王朝的価値観一辺倒の始まりで、この価値観によれば立派な君主に位置付けられるのでしょうが、勉強好きなら良いというものではありません。
綱吉は生き物は全て生きる権利がある倫理観?これを突き詰めれば草木も食べてはいけないのか?となるように、もともと学問やルールは末端ではゆるくしないと論理に破綻を来すのが原則です。
これを戒めたのが、知恵伊豆と言われた松平伊豆守の知恵だったでしょう。
ところが綱吉は、これを強制力・処罰を伴う生類憐みの令を次々と布告したので、行き過ぎでみんな困りましたが、このように学問的論理が隅々まで行き渡ると結果的に無理が出てきます。
欧米の勝手な論理・・牛肉を食べるのは良いが、クジラは許さないという自分勝手な論理に納得している日本人が何%いるでしょうか?
大和心と言うより以前から日本人の心はこういうものです。
朱子学全盛の結果窮屈な社会がすでに始まっていた・・生類憐みの令こそが、が朱子学が末端まで浸透しすぎていた外形的徴憑だったでしょう。
自分の気に入った学問だからと湯島の聖堂を創設し(のちの)昌平坂学問所で朱子学だけを公式学問にして事実上強制するようになったのは綱吉の時代からです。
思想支配の道具として、聖武天皇が東大寺と国分寺を配置し、明治に東京帝大を作ったように、綱吉は中央に聖堂を作りのちの(全国藩校の指標となる)昌平坂学問所の基礎を作ります。
ひ弱なイメージの強い聖武天皇がその分教養・・時の流行思想である仏教に傾倒して僧侶の公認資格を求めて戒律僧鑑真の渡日を待ち望んだのと似ています。
一つの体制が続くと中央支配意思(綱吉以降朱子学)が末端に届き朱子学の価値観にあっているかどうかの基準が幅を利かすようになります。
これに反発する朱子学対民族派(国学や陽明学の勃興)の争い→民族主義者の尊皇思想と結びつき幕末の尊皇攘夷思想に発展していったように思われます。
綱吉死後、一連の生類憐れみの令はなし崩し的に消滅していきますが、その点の修正をしたのみでしたので、次は新井白石の政治・・正徳の治に見るように朱子学的純化・一辺倒の傾向がさらに増進していきます。
新井白石に関するウイキペデイアです。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

正徳の治とは、紀元前から言い古された「悪貨は良貨を駆逐する」教えにこだわり、貨幣改鋳をおこなった前政権の勘定奉行荻原を厳しく責めたり、 東照君以来の祖法にこだわるなど時代の変化ついていけないのが秀才の宿命でしょう。
論争の鬼と言われ人望がなかったので、吉宗が就任すると早速お祓い箱になります。

軍国主義とは7?(検非違使庁・・令外官)

検非違使庁に関する本日現在のウイキペデイアの記述からです。

平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。
司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。
平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。
庁例(ちょうれい)とは、平安時代後期に検非違使庁が刑事事件に関する職権行使のために適用した慣習法としての刑事法。「使庁之例」あるいは「使庁之流例」とも称された。
検非違使の活動は原則律令格式に基づくとされていたが、犯罪捜査・犯人逮捕・裁判実施・刑罰執行の迅速化のために検非違使庁の別当が別当宣を出すことで律令法に基づく法的手続を省略することが出来た。検非違使庁別当は参議・中納言級の公卿から天皇が直接任命したために、その別当宣の効力は勅旨に準じ、律令格式を改廃する法的効果があると信じられた。こうした権威を背景にして、検非違使は時には律令格式を無視した手続処理を行うようになり、それを「先例」として事実上の法体系を形成していった。これが庁例である。
庁例に関するウイキペデイアの記事からです

庁例は律令法に比べて簡潔・敏速・実際に優れているが、三審制の原則が無視されて一審によって処断された。
事実上律令制形骸化→日本独自の慣習法が生まれてきた始まりと言えるでしょうか?
源平などの武士が担当していたことから、ドーテルテ大統領になってからのフィリッピンの現場射殺のように現場処分・・相当荒いことをやっていたに見えます。
江戸時代の火付盗賊改方に関するウイキペデイアの記事からです。

明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。
この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかった[1]。また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る、現代でいう警察軍として設置されたものである。

上記のように適正手続の整備された平和な社会に乗じて犯罪が過激化すると、例外的に武装警察組織・現場制圧部門がどこの世界でも必要になることがわかります。
保険制度が完備すると乱診乱療の弊害が起き、生活保護の不正受給が起きるように何事も悪用が起きるものです。
国際社会で言えば、パックスアメリカーナの支配する社会が完備し、武力行使が制限されるようになるとこれをいいことにして(平和な国では取り締まりが甘いし、刑罰が軽くなる一方なので)却って粗暴な武力行使を誘発するようになります。
フィリッピンの現場射殺命令やメキシコ国境の壁建設不法入国者の強制送還等の新たな制度構築の動きは、この反動ともいうべきでしょうか?
何事もその社会状況に応じた制度が必要であって、その社会の実態を無視してある制度が良いと強制する間違っていますし、社会の変化に応じた制度変更を何でも反対するのは間違いです。
断固たる取り締まり実施の問題点は、要は民主主義を守るための規制か私益・独裁政権維持の為の思想統制目的かの違いですが・・。
共謀罪反対論の吹聴する「家族のちょっとした会話が共謀罪の対象になったり、飲み屋での会話が共謀罪の共謀認定されたり、通信傍受されるような運用」はあり得ないと書きましたが、法制度がどういう効果を持つかは、末端の(現行犯逮捕や裁判所の令状発布のなど)運用次第になるように思われます。
世界の制度研究したという学者の講演の批判を18年10月7〜8日に書きましたが、法というものは運用する仕組みの実態とセットで研究発表しないと法制度の意味がわかりません。
フランスでは刑事制度運用に対する信用があるから昨日紹介したような法制度ができたのでしょう。
思想によるレッテル貼りに戻りますと、手続のちょっとした違いだけで「軍国主義国家」かどうかの区別が出来るのでしょうか?
「軍国主義」と言う表現からして手続の違いではなく「主義」・・思想を裁く意味合いが強いとみるのが普通でしょう。
思想を裁き出したらその基準は何もありません・・厳密な議論をする学説でさえ「ある学派に属する」と言うだけではその範囲不明・・学者によっていろいろなハバがあるのが普通です・・まして政治行動を持って、特定の色付けするのは無理です。
投票基準として候補者の思想傾向が何色かどう言う人柄かを個人的に判定して投票するのは正確でなくとも相応の意味がありますが、権力的不利益処分基準・・占領して良いかどうか・・個人で言えば他人の家を占拠し、家人を支配下に置き従わなければ殺していも良いと言う権利の基準に占拠される人の主義主張を持ち出す(居住者が野蛮人・軍国主義者なら何をしても良い)のでは危険過ぎます。
文字どおり専制政治になります。
アメリカは、戦時中には病院船や学童引き揚げ船を撃沈し、一般人の住む市街を集中爆撃し、最後には原爆投下するなどした挙げ句に戦闘終了後には本来終結するとすぐに相互に引き上げルールを守らずに、長期にわたる占領政治をしてきました。
主権尊重・・戦争勝敗に拘らず主権を侵害出来ないなど400年も前から国際的に決まっている戦争のルールに全面的に反してきました。
そこには「勝てば人間を牛馬のように使役しても良いとするアメリカの奴隷使役の経験・思想があり、その思想の適用として日本を永久にアメリカに隷属させてしまう目的だったことが垣間見えます。
タマタマ、ギャング同士の仲間割れ・・朝鮮戦争が起きたので日本が助かっただけの話です。
日本のポツダム宣言受諾直後の占領政治は、・・奴隷国家化・・降伏したインデイアンに対するような処遇を想定していたとしか理解出来ない占領政治のやり方でした。
非人間行為を平然と出来る・・考えるアメリカ人とは何者か?の関心で16年8月25日「キリスト教国の対異教徒意識」以降書いてきました。
西欧では1648年のウエストファアーリア条約以降漸く「喧嘩に勝ってもやっては行けない限界がある」ことを支配層間の協議で「理性的に?」理解したものの、未だに心底納得していない・・本音では、異教徒は動物と同じ扱いで良いとする基礎原理思想「正戦論」の精神にまだ浸っている状態であることが分ります。
そのためには相手に仕返しされる心配がないと分れば、直ぐに理性のタガが外れてしまうレベルと言うべきでしょう。
報復力こそが最大の抑止力・・報復力のないものに対しては、虫けらのごとくどんな非人道的人体実験も可能とする思想を前提にするのが報復力の維持・・相互に核兵器を持つことが戦争抑止力になると言う平和思想論です。
北朝鮮もイランもこの論理で頑張っています。

郡司3(令外の官?)

  

平安中期以降在庁官人を正式に郡司として任命されることが多くなって行ったと書いている解説が多いのですが、上記のように兼任から始まっていたとすれば、当たり前のことです。
郡司が在庁官人を兼ねているのではなく、国衙の役人を郡司に任命する逆転現象・・この時点で古代の国造系の世襲ではなくなり、実力による入れ替わり戦があったのでしょう。
ですから国造が横滑りした大宝律令制定時の郡司と実務官僚として台頭して来た郡司とは同じ地元勢力とは言っても能力差があって入れ代わっている可能性があるし、後期郡司は郡衙として自分の役所を持っていませんので、律令制下の郡司とは性質が違っています。
後述するように郡司は荘園の係争に関与して行くのですが、鎌倉時代まであっちについたり(公家や寺社・国衙領)こっちに(武家支配地)ついたり、向背常ならぬ複雑な役割を果たして行くので、正確な認識が現在伝えられなくなったように思えます。
郡司そのものではないですが、平将門の動きを見れば分りますが、国府の下働きをしているかと思うと地元豪族同士の争いの仲裁をしたり、その内国府に刃向かって正面から国府攻撃をしてしまって反乱軍になってしまうのです。
現在知られている郡司は、平安中期以降の国府で働く裏方の郡司ですので、地方採用の現場職員みたいな扱いで正式文書にあまり登場せず、令外の官のような日陰的職名・裏組織みたいな印象が強いのは、上記のような郡司の内容実質の変更があるからです。
令外の官と言えば、その代表的官職は検非違使庁ですが、この長官としては武人の源為義が知られています。
律令制からはみ出した地元実力者は、こうした裏組織から頭角を現して行くしかなかったのです。
専制君主制・律令制プラス科挙制が予定していた階層は、王族とこれを支える官僚グループと食料と兵士供給源の農民ないし例外的な商人等平民しかなく、地方豪族やその発展形態の郷士や武士層等中間層は予定していなかった階層です。
中央集権・専制君主制の中国では、中間層が存在しない仕組みで清朝崩壊までずっと来たことから分るでしょう。
中間層が下から湧いて出て来る仕組みは、世界中で我が国だけの特異性かも知れません。
西洋の騎士や弁護士、僧侶は貴族の次男以下が天下って行くものであって、下から湧いて来るものではありません。
西洋中世の騎士に該当する?弁護士や裁判官の給源も庶民・「地下人」と言われる裸足で地面に接している階層から出る仕組みが我が国の特徴です。
中国で千年以上も続いた科挙制は庶民が受験する仕組みではありませんでした。
弁護士や裁判官になるのに大金がかかる・・法科大学院へ行かないと受験出来ないとか修習生の期間給与をなくしてしまい、その間の生活費が出ないのでは、庶民の登竜門ではなくなってしまいます。
かなりの資金力のある階層の子弟しか受験出来ないとなれば、絶えず下から這い上がって来る人材で成り立っている我が国独自の社会構造を変質させて行く大きな問題をはらんでいることが分るでしょう。
中国の社会を発展形態のモデルと理解していた当時としては、地方豪族=郡司さんは、その内消滅するかと思いきや見事変身して私荘園と朝廷管理地との双方に出入する便利な実力者・・事件屋みたいに変身復活して来たのです。
後期郡司は大和朝廷にとっては、中央集権統治・これを具現した律令体制に従わない眼の上の瘤みたいなものでした。
大和朝廷としては、制度発足時には国府の権限強化によって次第に消滅させて行くつもりで時間を掛けていたのでしょうが、国府権限強化が実現してみると逆に国府・国司の実務を実質握られてしまい、国司グループが立ち枯れてしまいます。
郡司=地方豪族はしぶとく生き残って、国司制度が立ち枯れると、この対で貰っていた郡司の役職・官名自体意味を感じないほど自立して行きます。
武士が武士のままで、例えば源義朝は左馬頭、清盛の場合、安芸の守(保元の乱以前)播磨の守を歴任し最後には太政大臣にまで上り詰めます。
武士の地位が上昇して行き、武士のままで正式な官名を受けるようになって行きますと、令外の官の(裏組織)ような印象の郡司職は不要になって行ったので歴史の表舞台に出なくなったのでしょう。
発展的解消と言うか、律令制の骨抜きに合わせて在地領主層・武士層が頭角をあらわして行き、源平の争乱を経て鎌倉府成立となります。
班田収授法施行後も荘園側は不輸不入の権などの設定により、大和朝廷の実権を徐々に奪って行きます。

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