民主主義と正義8(他者排除3)

西洋諸国はフランス革命後も植民地支配の推進競争に精出していたのですが、植民地制度ほど人種差別を前提にした制度はありませんから、・・人種差別拡大を目的にしていたのと同じことです。
フランス革命後の西洋の人権思想と言っても自分たち仲間だけの権利実現をしたと言う程度でした。
この状態でも民主主義化に成功した先進国として自慢していたのですから、民主主義化と正義実現とは何の関係もなかったことが分ります。
民主主義とは言い換えれば、為政者選出母体の拡大に過ぎなかったすれば、選出母体のために最大利益を図る政治思想が極まって行かざるを得ません。
選出母体の利益を図る政治が正当化されて行くと対照的に代表選出能力のない被植民地では世界規模での隷属化が進行し、国内的には有産階層しか選出資格のない先進国では労働者の地位低下・就労条件の悪化が際限なく進みます。
選出母体の最大利益追求進行の反動として、先進国では被抑圧者の抵抗・労働運動が始まり、労農代表が必要という思想が広まりロシア革命・・ひいては世界中で多くの共産主義を目指す国家が生まれました。
政府としては国内労働者に反抗されると妥協して行くしかない・・鉄血宰相と言われたビスマルクの福祉政策になって行きます。
革命後の政治の動きを見れば、革命によって王族の利益から国民の最大福利に政治目標を切り替えたのではなく、選出母体と政治利益を受ける階層の変更・王族から有産階級への拡大でしかなかったことが分ります。
西洋では革命前後を通して旧来どおり他者に対する思いやりのない価値観のママであったからこそ、フランス革命以降の政治運動のテーマは、選出母体変更・参画運動と同義になりました。
(労働運動→ロシア革命も自己利益追求のための政権参画運動の一種でしたし、今でも政党の政治活動は政権交代を目指すことが第一義であって、そのための公約です)
労働運動家でも第二次政界大戦までは自国内の地位上昇が主たる動機であって、植民地住民の悲惨さの救済には向かっていません。
むしろ儲けの分配争いとなれば、トータル利益が大きい方がよいので、労使ともに海外進出=植民地争奪戦に積極的でした。
この状態を表現したのが、レーニンによる帝国主義理論でした。
日本も海外市場が必要だったことは同じですが、その方法としては植民地支配・異民族の隷属を目指すのではなく、日本古来からの動植物との共生方式の応用でした。
大東亜共栄圏・・植民地解放を公的に主張し始めたのは、日本政府が世界で最初でしょう。
大東亜共栄圏構想は、政治的に見れば市場開拓のために東南アジアに進出する口実に過ぎなかったとしても、公的に主張しこれに沿う実践をしたことに意味があります。
ビスマルクも必要があって福祉政策をやったに過ぎないのであって、本心から労働者のために福祉政策をしたとは言えないでしょうし、リンカーンの奴隷解放宣言であれ何であれ、(彼の本心はどうであれ、)政治と言うものは、必要に応じて支持を得るための口実であれ何であれ、主義主張として公式に主張したことに意味があるのです。
日本の大東亜共栄圏構想は東南アジア進出の主張・口実に過ぎなかったという否定論・私たちが学校の歴史教育で習った否定論は、論理の建て方に問題があります・・。
政治的主張とはすべからく選挙に通らんがため・・戦争に勝たんがために公約したりするものあって、政治家本人の古くからの信念である必要はありません。
「彼が本気でそう思ったのではなく、政治目的実現のための方便として主張したのだから意味がない」と言う連合国の論理による我が国での教育は偏った論理の押しつけです。
これまで書いているように、日本は実際にその前から統治下に入った朝鮮や台湾から収奪するどころかより多くの資金を投じて教育したり、現地工場を建てたりして現地民生向上を目指して実践してきた実績があり、太平洋諸島や仏印その他で英仏蘭の植民地軍を追い出した後は現地人の教育をしたり民生技術を教えたり地域の発展のために実践してきました。
西洋諸国の植民地経営の原則であった愚民政策の逆を実践してきたのが、日本でした。

民主主義と正義7(他者排除2)

江戸時代に士農工商の身分区別があったと言っても、それは行為能力の面であって、人間としての資格(・・生き物としての資格では犬猫も同じだった?)は同じでした。
行為能力と、人としての資格・権利能力の違いについては、12/07/02「権利能力と法律行為能力(民法18)」前後で説明しました。
奴隷は物と同じとする制度は、人間としての資格自体を否定する制度ですから、我が国の行為能力の制限とは次元が違います。
日本では古代から、どんなに身分の低い人に対しても人間としての権利主体性を、否定したことは一切ありません。
行為能力の制限としてみても、明治民法では妻の行為無能力制度くらいですが、これは03/31/05「夫婦別姓18(夫の無能力と家事代理権)民法134」03/30/05「夫婦別姓16(家制度の完成)氏の統一2」前後で書いたようにもともとフランス民法の影響で出来た代物です。
(日本の女性の地位はそれまではもっと高かったので、明治民法も女戸主を認めざるを得ませんでした)
そもそも行為無能力制度はその人を虐げるための制度ではなく、未成年者や成年被後見人制度は法律行為能力の劣る人を取引被害から守るための制度でした。
(今では高齢者・・判断力や意思力の衰えた人目あてに詐欺まがい被害・・不要なリース物件の売り付けや、不要な家の修理など・・が頻発していますが、未成年者に対するような高齢者を守る法律がないから起きることです。
実際には5歳〜10歳の子供に一人前の能力を認めなくとも何ともないのですが、高齢者というだけで一律に取引能力を否定することが出来ないのでこの規制が難しいのです。
行為能力の制限と相手を虐げるための奴隷・異民族差別などとは、目的からしてまるで違います。
妻の無能力制度が出来た頃には、アメリカではまだ、黒人は奴隷解放宣言前と大して変わらない扱いを事実上受けていた時代です。
アメリカで黒人にも選挙権等を認める公民権法が出来たのは、つい最近と言っても良いほど1964年のことであることを、October 30, 2012のコラムで紹介しました。
アメリカに限らずイギリスの植民地であった南ア連邦では悪名高いアパルトヘイトが20世紀末近くまで実施されていました。
アパルトヘイトが国際批判の対象になると、あちこちに小さな黒人居住区を設定してこれを別の国として独立させて、(居住区には何のインフラもないスラム街としていて)そこから職場に通うのは、外国人雇用だと言う事実上の隔離政策を実行する破廉恥ぶりでした。
これに反抗して来た闘志・・マンデラ氏が27年ぶりで獄中から解放されたのは漸く1990年のことでした。
少し南アの黒人差別の歴史を振り返っておきましょう。
1910年5月31日、イギリスは自治領南アフリカ連邦を成立させてイギリス本国の責任ではないと切り離しました。
その直後に自治領では、人口のごく少数を占める白人が黒人を強権的に支配する政治体制を敷き、1911年には白人労働者の保護を目的とした最初の人種差別法が制定されています。
このやり方は、後に南ア連邦が黒人に対する居住区制限・独立国としての虚構を主張したのにも通じる責任逃れのやり方でした。
弱者を区別さえすれば人間扱いしなくとも良いと言う長い歴史基盤があって、(古代アテネの民主主義と言ってもホンの一握りの「市民」だけだったのと同じです・・アメリカ憲法で市民は自由と言っても、修正条項成立までは、黒人には市民権を与えていなかったし、人間かどうかではなく西洋では「市民権」という枠組みで排除する発想がくせ者です。
こうした差別の論理が行き着く所、ナチスによるユダヤ人に対するガス室送りが可能になるし、異教徒や異人種も物体扱いして怪しまない風土でずっと来たのが西洋社会ではないでしょうか?
戦いに勝てば何をしても良い・・敗者(当然市民権がない)に対しては、どのような残酷・むごいことをしても良いという価値観の社会で西洋や中国(戦いに負けた相手を煮込んで、その親や子に食べさせるなどひどい物です)ではずっとやってきました。
(エンクロージャームーヴメント・・千年単位で働いて来た筈の農民でさえ金儲けに邪魔となれば追い出しが簡単でした)
・・まして半年か1年しか雇用していない労働者の解雇など、何のためらいもなかったのは当然です。
労働法制の発達した現在でも、日本に比べて諸外国の解雇は割に簡単・・人材の流動性が高いことはご承知のとおりです。
民主主義政府と言っても、社会主義思想・・反抗運動が発達するまでは、労働条件の劣悪さ・・労働者が病気しても気にしない・・為政者選出母体となった資本家の飽くなき利益追求を為政者が妨害せずに助長促進することだけを求める政体が、彼らの言う民主主義政体でした。

民主主義と正義6(他者排除1)

日本人には、犬などの動物や植物には石ころとは違って人間同様の心があると思う人が多いのですが、西洋の法では石ころと犬猫を同列理解を基本としていて、20世紀後半になって漸く愛護すべき「対象」となって来たばかりです。
奴隷制度のあったアメリカでは、黒人を人とは認めず、牛や馬など動物と同じ扱いでした。
日本の場合、仮に愛馬と使用人が同じ扱いでも、もともと愛馬や愛犬も肉親同様に可愛がっていたので、それほどの差がもともとありませんが、日本以外では、動物は石ころ同様の扱いになるのですから、人間が奴隷になって動物扱いになると本当にひどいことになります。
「私権の享有は出生に始まる」とすれば、一旦権利の主体になっていた人が途中で奴隷になると私権の主体でなくなってしまうとすれば、その変更に関する法律をどうやって作ってあったのか・技術的に難しいので不思議です。
日本のように自然人と法人の区別だけではなく、奴隷身分になれば人から物体に変更するという特別な法律・・こんな法律をわざわざ作るのも難しいでしょう。
アメリカや西欧諸国では、植民地人や黒人奴隷をどのように区別して法で規定していたのか、あるいは古代から異民族・異教徒や奴隷を一般的な人とは別の物として区別するのは当然とする自然法的解釈があった・・条文すら必要がないほど自明の原理だったのかも知れません。
(アメリカでは、黒人奴隷はアメリカ「市民」ではないという運用だったようです・・南北戦争後の憲法修正第14条で、これらの差別が憲法上禁止されたことになっていますが・・・実際には多数の判例の集積によって徐々に差別が縮小されて来たようです。)
このように考えて行くと、そもそも日本のように「私権の享有は出生に始まる」という大上段に振りかぶった条文・・基本原理を宣言すると奴隷制度に真っ向から矛盾するのでこれを書いた条文がどこにもないのかも知れません。
存在しない条文を検索するのは不可能なので娘に聞くと「私権の享有は出生に始まる」という意味として「奴隷は駄目よ・・」と大学で習った記憶があるということです。
とすれば、西洋には奴隷制と矛盾する「こう言う立派な条文自体がなかったのではないか」という私の推測が当たっている感じです。
西洋が到達したと自慢する人権尊重の精神と言っても、実は古代アテネ市民やローマ市民権同様に近代においてもアメリカ「市民」に限定した人権だったのです。
神の前に平等とか法の下の平等と言っても、人か否かによる基準ではなくすべて「市民」にだけ保障されていたに過ぎません。
(だからアメリカでは、今でも「市民権」を得るかどうかに重要な意味があります)
アメリカ黒人の人権論争についても、長い間「アメリカ市民権」の枠内に入るかどうかのテーマで荒それ修正憲法判例の集積になって来たのですから、人か否かを基準にするのが当然と思い込んでいる日本人には驚きではないでしょうか?
西洋では人か否かの基準ではなく「市民権」のある人間か否かこそが今でも重要だということです。
中国の歴史でも書いてきましたが、古代から中国の地域では商業進出すると、その地で市を開いて昼間は原住民と交易しますが夜になるとそこの守りにつくために、先ず橋頭堡・砦を築いて夜間の守りを固めます。
その砦・城塞住む人と周辺から交易に来る人とは、厳重に区別されていました。
日が暮れると城門が閉まり、鶏鳴によって城門を開ける習わしでしたから、鶏鳴狗盗の故事が生まれるのです。
このように城内=市内の住民=市民と砦外の居留民・原住民とはまるで権利・義務が違いますし、(西洋風に言えば異教徒ないしエイリアン)この歴史があって、今でも中国の農民工・・都市住民資格取得を厳しく制限している差別に連なっているのです。
日本では誰でも知ってのとおり都市と周辺地域との間に城壁もなく自由自在に出入り出来る仕組みですから当然市民とその他の区別もありません。
日本では明治民法の時代から「私権の享有は出生に始まる」と民法冒頭第1条に規定されていて、人として生まれた以上は万人平等が宣言されていますが、これは西洋法の影響ではなく、日本古来からの自然法の確認・宣言だった言うべきでしょう。
この時点で、世界最先端の基本法典を作っていたし、もともとの国民意識の確認条文ですから、法律どおりみんなで実践していたことになります。
こんな当たり前の確認条文が第1条に必要になったのは、当時の西洋文明では差別が当たり前だったから「日本は違うよ!」と明らかにする必要があったのかも知れません。
南北戦争を有利に展開する目的で奴隷解放宣言しただけでは、奴隷制度に慣れ切ったアメリカ人の意識がついて行かないので、実際には直ぐに対等にはならず、100年単位の時間がかかって黒人の権利が徐々に引き上げられて来た国とは違います。
(日本社会は法律制度を考える以前の古代から、万物対等の世界観の民族です・・「やれ打つなハエが手をする足をする」という一茶だったかの句がありますが、ハエ1つ叩くのでさえむやみに殺生するのが憚られる社会・・これが名句として人口に膾炙しているということは、この意識を支持する人が多いということです)
我が家の狭い庭に夏から咲いているサルビアを引き抜いて早く冬〜春用のビオラに植え替えたいのですが、あまりにも元気にサルビアが咲いているので、可哀想で引き抜けないで1日1日引き抜くのを先送りしている状態です。
私一人ではなく、日本人には万物の生命をいとおしく思って生きている人が多いでしょう。

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