昔陸軍。今総評とは?(野党→中ソの傀儡化 )

戦後思想界左傾化の一端・効果残存として、労組や政党の傾向を見ておきます。
1951年サンフランシスコ講和条約成立によって米占領政治が終わると、学会だけではなく労働界の左傾化・・反政府運動傾向が進みます。
総評に関するウイキペデイアの記述によれば以下の通りです。

GHQの援助の下、反共的色彩の強いナショナルセンターとして出発した総評であったが、翌1951年3月の第二回大会で行動綱領として平和四原則を決定し、国際自由労連に加盟する議案を否決するなどして、早くも左傾・反米へと方向転換した。
吉田内閣の国家公安保障法(後に破防法として成立)、集会デモ取締法、ゼネスト禁止法、労働三法改正の成立を図ったことに対しては、1951年6月に「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を設置し、国会審議中の1952年には政治ゼネストを4波にわたって行った(労闘スト)。加盟単産も日本炭鉱労働組合連合会(炭労)と日本電気産業労働組合(電産)を筆頭に戦闘的な争議を展開した。この変化を、当時のマスコミは“ニワトリからアヒルへ”と呼んだ。
総評は3単産の脱退を機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、第2回大会以来の路線転換を完成させた。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が物議をかもしたところから、「昔、陸軍。今、総評」などと揶揄された。
この総評の左派路線形成には社会主義協会の影響があった。関係者の回想では、1950年代後半から1960年代にかけて、総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であったという。

日本社会党と社会主義協会に関する本日現在のウイキペデイア内の記事です

社会主義協会の影響力が組織的にも強まった
向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し、ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。
親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、本来の左派である佐々木は中国との接近を強めるとともに、構造改革論争以来の仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。
1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。
ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。

社会主義協会に関するウイキペデイアの解説です。

社会主義協会(しゃかいしゅぎきょうかい)は、社民党の前身にあたる旧日本社会党において、労農派マルクス主義を掲げて結成された理論研究集団。一時は、旧社会党内の最有力派閥として、同党の路線に大きな影響を与え続けてきた。旧社会党系勢力の中で単に「協会」と言うときは、通常この社会主義協会を指す。

協会や共産党の資金関係の記事です。

http://66289.seesaa.net/article/49688534.html

平和政変 事実直視
のんびりひまじんSEESAA版ブログ 戦後史現代評論
2007年07月30日

日本共産党と日本社会党のソ連資金疑惑・・・暴く書物、知らぬふりする書物
クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史 / 名越 健郎は1994(わが平成6)年の初版である。ただし内容としては、前1~2年のうちに雑誌等で発表されていたもののまとめたものであったと言う。

この書に共産党のソ連資金疑惑を記述する。
わが国の法律では、政党たるもの外国からの援助を受けてはならないとされている。
日本共産党としては、この違法行為疑惑に調査し弁明した。個人としてはともかく党としては外国資金を受けたことはないと。

この書には、日本社会党のソ連資金疑惑を記述する。
日本社会党は、本書から疑惑の指摘に、何も答えないという。

元KGB少佐レフチェンコは「成田ー石橋時代以後は社会党の外交政策とソ連の外交政策がまさにウリ二つと言っていいくらい似ていた。国際部の工作の結果、日本社会党クラスの政党の中で、ソ連の外交政策の青写真をそのまま党の方針にしていたのは、世界中でも日本社会党だけだった。」(文芸春秋93年6月号)と皮肉(P154) されたとある。
ソ連崩壊後、ソ連の秘密文書が公開されて、それまで うわさ だったことが、案の定 資金援助の裏付け指摘されたのだった。

社会党とソ連の資金関係に関する記述の真偽は不明ですが、以上のような書物が出版されているようです。
事実無根であれば党の信用に関わるのでなんらかの訴訟に発展しているはず・・左翼系は不都合な意見が出されるとスラップ的訴訟に出るのが一般的です。
いまだにネットに堂々と出ているのを見ると訴訟をしていない・訴訟してもっと事実関係が出たら困る場合にしないのが普通ですから訴訟できないのは事実だからでしょうか。
訴訟といっても、文藝春秋の本1冊を買えば勝敗・・引用が正しいかどうかが決まる関係ですから、「訴訟するぞ!」という脅しも成立しなかったのでしょうか?
ところで労農派とは、コミンテルンの指導を受ける第二次日本共産党に参加せずに、ソ連に限らず独仏等の社会主義の真似をするのはおかしい・・日本民族に適した共産主義を考えていく勢力のことであると言われてきましたが、上記によると裏でこっそりとソ連の指導を受けそっくりの主張をしていたことがわかりました。
こうなると共産党との関係がどうなったかが気になりますが、(事実上親会社が同じ関係を国民に隠していた)日本共産党は原水禁運動では、共産主義の原爆実験を容認したことで社会党と争うようになり、その後中ソ対立では、中国共産党を支持してソ連と離れ、文化大革命を賞賛していたもののその後批判に転じたことで、中国共産党とも決別し独自路線に転じて現在に至っているという解説です。
共産党の動きに応じて(フリ回される形?で)旧社会党はいつの間にかこっそりと(資金的に)ソ連配下に入っていたことになります。
こうなると社会党→労農派系(独立路線?)イメージ流布はフェイクだったことになりそうです。
上記の通り「旧社会党系・共産党系・・革新運動はがどこの政府代弁なんだよ!」というネット批判は、(ネット発達前にはメデイアが報じないので知られていませんでしたが)「結果から見て運動が偏りすぎている」と印象に基づく批判が資金面で裏づけられたことになります。
社会党はソ連からの資金援助とその要求通りに党の方針に掲げて動いていた点を単純否定するだけで、共産党は受け取ったのは個人であり党の名で受け取っていないというらしいです。
(当時政治資金規正法がなく違法の問題は生じていませんが、政党が外国政府から巨額資金援助を受けて入れていてその政府の要求通りに政治主張や政治運動をしていたとすれば由々しき政治問題ですが)いつも説明責任追及に激しいメデイアがこれを何故追及報道しないのでしょうか?
ここから、革新系野党同様にメデイ自体が自体が中ソの傀儡化していないか?という疑惑が生じます。
今回世界的大問題になっている中国国内のウイグル族その他少数民族への残虐な収容政策に対して、(有名女優の思想や国際刑事機構総裁失踪など)大手メデイアは淡々と触れる程度で目立った批判主張ほとんどがありません。
文化大革命当時のように擁護する報道こそないものの、当時の報道姿勢と大差ありません。

対支21か条要求(観念論政治家の跳梁)

政府は、日露講和条約締結までは大局を知らないで騒いでいる7博士やメデイアの意見など聞いていられないと「一蹴して」断固講和条約を締結したまでは骨があって良かったのですが、日比谷焼き討ち騒動を経て結果的に内閣総辞職させて収拾したのが後世に禍根を残して行きます。
アメリカはこの時から日本進路・排外的意見に影響を受けてしまう政府の弱さを見抜いたらしく、対日オレンジ計画をスタートさせています。
内閣が民意によって成立していない元老の下請け機関だったことが、真の権力機構に累を及ぼさないようにしたい・・騒ぎが起きればトカゲの尻尾切り的な「ことなかれ主義」で世論動向が国際常識に照らして正しいかどうか・本当に民意を代表しているかを基準にしないでその都度内閣を総辞職させて野党に政権を交代させる仕組み・西園寺ルールを導いたのです。
西園寺ルールによれば、根拠があろうがなかろうが「世論?さえ煽れば勝負あり」という変な政治形態・・がはびこるようになります。
(天皇機関説事件その他全て根拠のない騒動を起こしさえすれば政権交代の慣例になったことを紹介してきました)
戦前の経験があるので、安保騒動も同じように騒ぎを大きくさえすれば、内閣総辞職が当然というような意識のもとで大騒動でしたが、選挙してみると自民党の大勝でした。
中韓の気に入らないことを言えば「暴言失言」と大騒ぎしては閣僚の引責辞任を獲得し、最近も根拠なく「疑惑、疑惑」と騒げば良いとする野党やメデイアの報道を批判してきましたが、この数日の新聞記事では私同様の意見があるのか?与党からの解散論が出てきている様子です。
戦後はメデイアの作為的な世論調査で政治を左右するよりは、国民の意思を問う選挙制度があるのですから、メデイアの言う通り国会審議を止めても騒ぐべき内閣総辞職すべきほどの大きなテーマならば選挙で民意を問うのが本来の民主主義です。
解散が怖くなったのか?最近(この原稿は今年4月末頃のものです)では、「野党は総辞職を求めているわけではない」という小さな声が出てくるようになりました。
本当に国民が疑惑に怒っている・・自民党や内閣支持率が下がっているならば、解散して国民の意思を問おうとすると野党や朝日新聞がこれを批判し怯むのですから不思議です。
野党や朝日新聞系は例によって「もりかけ問題」を煽っては一方で「大義なき解散批判」を煽っているので、現実政治に疎い私も(4月末ころには)解散風が吹き始めていることに気がつきました。
https://www.asahi.com/articles/ASL4L4SQJL4LUTFK012.html

自民党の石破茂元幹事長
石破茂・自民党元幹事長(発言録)
連休明けに解散だ、なんて話がある。いつでも解散になって構わないように準備しておくのが衆院議員で、こんなはずじゃなかったという人は、ならないほうがいい。
(解散風は相次ぐ不祥事をリセットし、政権運営にお墨付きを得る狙いがあるのではないかと問われ)解散論を唱えている人はそういう思惑でしょう。(ただ)多くの人が思っているのは、どっちを向いているのかということ。国民を向いているのか、首相官邸を向いているのか。

選挙で負ければ、総理退陣ですからそのリスクを冒しても、選挙で民意を知ろうとすることが、(地位にしがみついて選挙を先送りすることと比較しても)国民の方を向いていないという意味がわかりません。
石破氏は自民党員意識からずれてきたのでしょうか?
選挙になれば、政策で競うのが本来ですが、肝心の政策のない野党は「解散に名分がないとか国民無視だ」という訳の分からない主張になるのでしょう。
メデイアがこれだけ疑惑疑惑と大騒ぎしておきながら、解散阻止に動くのはメデイアの煽りは民意を代表していない・メデイア発表の世論調査結果が実は実態と違うことを自覚しているからでしょうか?
昨夏の衆議院解散時も同様の主張で大敗・メデイアの内閣支持率の世論調査結果とはまるで違っていましたが・・。
選挙があれば国民の政治参加チャンスが広がります・・国民は「選挙するより国会抗争に明け暮れて議事をしない方が良いと思っている」かのような石破氏の意見は奇異です。
文字通り「どっち向いて意見を言ってるの?」という疑問を持つのは私だけでしょうか?
21カ条要求に始まる満州建国〜泥沼戦争への道は、西園寺ルール・揉め事になれば政権交代のルールができた結果、その後の政治家・内閣は、半可通な知識に基づいて勇ましいことをいうメデイアの煽りを無視できなくなったことが国家の命運を誤らせたことになります。
歴史にイフは許されないとしても、もしも明治初年からの日本の独立維持のための欧米対抗戦略に李氏朝鮮が協力的であれば、朝鮮の先にある大陸にそれほどの関心がむかなかったでしょう。
日露講和条約でもしも一定の賠償金を得てその代わり満州からロシアを全面的に追い出すのではなくロシアと共同権益程度にしておけば、日本は賠償金を戦費で疲弊した国内回復につぎ込めたので、国内対策のためにしゃにむに大陸進出する必要がなかったかもしれません。
結果から見れば、講和条件が支配地獲得(領土欲)の方に偏りすぎたのです。
企業買収するのに自分の企業規模・資金力から見て適正規模以上の大企業を買収して資金を使い果たしたようなものです。
ただ対華21ケ条要求を見ると、当時は欧州の戦争・・対岸の火事でこちらは儲けられるばかりの、戦争景気を謳歌していた時ですし、国内窮乏打開のための進出を超えて植民地支配欲に凝り固まってしまった印象を受けます。
日露戦争後僅か10年あまりでなぜそんなに意識が変わったのでしょうか?
やはり表向きだけでもロシアに勝った(本当は米英の後押しによってかろうじて勝ったことにしてもらっただけでしたが・・)事で、舞い上がってしまった庶民・・一等国になったとこれを煽る政治評論家などメデイアに政府・識者も引きずられてしまったのでしょうか?
戦前の日本政治はナチスのように一定の方向へ引っ張る政治家や思想家はいなかった・・むしろその時々のメデイアの煽る風潮に無原則に流されていたのが戦前の政治であったとどこかで読んだことがあります。
今でも「メデイアが煽りさえすれば内閣総辞職すべき」という論法が勢いを増し、一方では解散反対を主張するのは、戦前の悪しき西園寺ルールを守りたい勢力によるのでしょうが、彼らは民意を問うべき選挙制度など全く無視です。
革新系やメデイア界は考えが古いので、戦前の誤った経験・「揉め事になれば内閣が総辞職し野党に政権を渡す」といういびつな政党政治観・「憲政の常道論」を後生大事にしているように見えます。
メデイアやエセ学者が政治を動かすことに味をしめた結果、国の行く末などに思いを致さずに、軍部をバックに政争を繰り返してきましたが、戦後後ろ盾の軍部がなくなったのでメデイアは何をバックにするようになったかの関心です。
敗戦によって軍部は無くなったものの、その代わりGHQがスポンサーになりました。
GHQが占領軍の威力で文字通りの検閲をしていましたし、メデイア界はこれになびいてGHQの意向に忠実に世論を誘導していました。
では何故左傾化がひどくなったのでしょうか?
戦前は左右両派の均衡で成り立っていたのですが保守・民族系はGHQによる異民族支配に邪魔ですから、軍部と一緒くたにGHQによって全面排撃されてしまったことの他に、GHQの民政局自体が共産主義思想に支配されていたことも大きな意味があったでしょう。
この結果思想界では、左翼思想が全面支配になっていったことをこの結果思想界では、左翼思想が全面支配になっていったことを南原繁の思想紹介以降March 17, 2018「左翼系文化人の伸張3」頃まで連載してきました。
民政局の思想については、どこで紹介したか?コラム再開したばかりでコラム内で探す気力がないので、以下の通り(当時別の引用をした記憶ですがもしかしたら)重複かも知れませんが引用しておきます。
https://blog.goo.ne.jp/kirakiraboshi31/e/76c97529e3c539542b0ae3aa199ae1faによれば以下の通りです。

「ルーズベルトの戦争責任とOSS」、「GHQ日本改造計画と戦後左翼の正体」と、二回続けて田中英道氏(東北大学名誉教授)に講演していただいた。

なんとルーズベルト大統領は社会主義者であり、スターリンの友人でもあった。そしてそのルーズベルトが創設したOSS(戦略情報局)の構成要員のほとんどが米国共産党、フランクフルト学派(名乗らない共産主義者)であった。そのOSSで1942年前半に日本に対する二段階(共産主義)革命を計画していたこともOSS文書で分かった。かつまたOSS、フランクフルト学派の多くがユダヤ人であった。日本国憲法の草案にもっとも大きくかかわったGHQ民政局次長ケーディスもバリバリの共産主義者でありユダヤ人でもあった。1945年から2年間はGHQ内部の共産主義者たちがあらゆる日本の精神的、制度的解体を策略した期間でもあった。後にレッドパージされるまで日本国憲法をはじめ、ほとんどの諸改革が断行されてしまった。すべては二段階革命の布石(特に憲法九条)であったのだ。結果的に革命は行われなかったが、そのつけは大きく、戦後左翼の台頭、あらゆる階層にフランクフルト学派が跋扈し、日本を蝕んできた。

ルーズベルトは、1945年4月に急死した。急遽、大統領に昇格したトルーマンはOSSの存在をまったく知らされておらず、驚愕した彼はこれを廃止した。やがて蜜月時代は終り、米ソ冷戦の時代となった。それとともに赤狩りが始まった。

上記は名誉教授の責任のある人の意見ですが、一つ立場による意見であって、(裏付けがあるかどうか)事実かどうかはわかりません。

 

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