行為能力制度と資格の発達1

人としての資格・権利能力は、体の大きさや、性別、体格や頭脳、運動能力による差をつけられませんが、弁護士は国家の決めた試験に合格し訓練を経て弁護士会に登録して弁護士になります。
東大生も東大入試に合格して入学手続きして学籍登録して初めて東大生です。
このように全て、職業につく資格は能力差によって違いが生じますが、これは権利能力の差ではなく、人間としての同じ土台の上での行為能力の差になります。
民法では基本法ですので細かくは決めていませんが、権利の主体であっても赤ちゃんは自分でその権利を享受するための能力がありません。
このように考えていくと一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による画一保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
専門医も聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院事件が著名で詳細はウイキペデイアにでています。

1983年4月、食事の内容に不満を漏らした入院患者が看護職員に金属パイプで約20分にわたって乱打され、約4時間後に死亡した。また同年12月にも、見舞いに来た知人に病院の現状を訴えた別の患者が、職員らに殴られ翌日に急死した[2]。
1983年(昭和58年)、宇都宮病院に不法収容されていたA氏が、東京大学医学部附属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院の内情を暴露し、告発する意志があることを伝えると、東大病院精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や日本社会党と協力し、朝日新聞社宇都宮支部とも情報交換を行う[23]。A氏の証言がきっかけとなり、入院患者2人について、殺人事件が立証されることになる
精神科病院ゆえの閉鎖病棟や閉鎖性により、上記の実態や患者死亡事件は公にならなかったが、事件の翌年1984年3月14日に、朝日新聞朝刊によって報道され、日本の世論の大きな注目を集め、国会でも精神障害者の人権保障の面から、日本国政府の対応が糾された[3]。地方公共団体の行政(都道府県)による病院監査も不十分であったため、実態の把握ができなかったこと、精神科病院の管理者を筆頭に、病院職員には倫理的な思考能力が欠落していたこと、日本社会の精神科医療に対する理解が、著しく不足していたことも背景としてある[34]。さらに、宇都宮病院には「必要悪」としての社会的存在意義が生じていた。宇都宮病院では、対応困難と見なされた患者を積極的に受け入れ、収容施設の様相を呈していた[37]。
家族間の人間関係の悪化により、措置入院させられてしまう場合もある。前述したA氏は、兄B氏によって措置入院させられてしまった[38]。A氏は、宇都宮病院を告発して民事訴訟を起こしており、1998年10月時点で第1審裁判が続いていた[39]が、2013年11月に死去した[40]。A氏は晩年まで宇都宮病院の廃院を訴えて活動していた。

このあと精神病棟の閉鎖性が改善され、千葉県弁護士会では先進的医療を進めていた病院の見学会を司法修習生対象に長年継続してきました。
今はその延長で、研修先病院を医療観察法制定後千葉県で受け皿主力になっている病院に変え(選択制ですが)研修を継続しています。
この20年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり家族の受け止め方も大きく変わりました。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)昭和50年代頃から心身障害の名称を例示せず実質判断で決めるようになっています。

運動の成果

旧民法第11条の改正
1979(昭和54)年までは、ろう者は「準禁治産者(心神耗弱・浪費癖のため、家庭裁判所から禁治産者に準ずる旨の宣告を受けた者。法律の定める重要な財産上の行為についてのみ保佐人の同意を要した。)」と見なされ、住宅ローンの利用や家業を継ぐことも出来ませんでした。連盟の粘り強い運動の結果、1979(昭和54)年に改正されました。

現行民法は以下の通りです。

第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

行為能力制度と法の下の平等の関係について
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないというだけです。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

自然人と法人1(私権の享有は出生に始まる)

民法は「私権の享有は、出生に始まる。」とナポレオン法典の思想そのまま導入・大きく出て、当時最先端の平等観をどーんと提示しました。
家柄や身分や性別、人種に関係なく、生まれた瞬間に100%の私権を享有すると宣言したものです。
人には外国人と日本人の区別があるだけです。
それだけではなく、それまで、徳川家、住友家などというものの、その当主の人格を離れて独自の権利主体でなかったのですが、各種集団にも一定の手続きを踏めばそうした主体になれる思想・・法の作った人=法人の二種類あることを同時に宣言しています。

民法
(明治二十九年法律第八十九号
民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ日ヨリ廃止ス
(別冊)
第二章 人
第一節 権利能力
第三条 私権の享有は、出生に始まる。
2 外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。
第三章 法人
(法人の成立等)
第三十三条 法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない。
2 学術、技芸、慈善、祭祀し、宗教その他の公益を目的とする法人、営利事業を営むことを目的とする法人その他の法人の設立、組織、運営及び管理については、この法律その他の法律の定めるところによる。
(法人の能力)
第三十四条 法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
(登記)
第三十六条 法人及び外国法人は、この法律その他の法令の定めるところにより、登記をするものとする。

人は生まれた時から権利の主体であり、法人は法律の規定により成立した時から権利の主体になるという並列的な関係です。
ただし人は生まれつき、人としての規格に合致するかに関係なく仮に5本の指がなくとも歯が欠けていても目が見えなくとも人は人です。
ある人が集まりさえすればいいのか?と集まり、今から法人になると宣言しても法の定める一定の規格に合致しないと法「人」とは認めない仕組みです。
薬品は、国家が製造過程から介入し、薬品と認めた時から薬品であり、それまでは薬品でない(毒かも知れない?)というのに似ています。
普通自動車は、国が一定の規格に合致していると認めて認証(登録)した時に公式に道路を走れる車になるし、飛行機も同じです。
家の場合、建築基準法で定める以下の規模であれば許可なしに作れますが、それ以上になると建築基準法で定める細かな規制があってその基準に合致しない建築は違法ですし、場合にはよっては除却命令の対象になります。
人の場合、生まれてくる子が大きかろうと小さかろうと将来100メーター何秒で走ろうとどういう子供を産むかの事前申請や許可が入りません。
生まれた後の予定・この子はどういう仕事をしますと世間に表明してから生む必要も義務もないし子供も生まれてから親の約束に縛られる義務もありません。
人の規格に合わないからと建物のように違法建築物として除却されることもありません。
ここまでくると、戦後我が国で大流行したサルトルの実存哲学を思い出します。
人はあらかじめ設計図などなく(神は死んだ前提)、世界内存在として投げ出された存在・実存が本質に先行する思想に意外と合致します。
私の青春期にボーボワールと一緒に来日して慶応で講演して大ニュースになった記憶です。
本質もわからず、ただ青春の熱気だけでこれに反応していた若者でした。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/foreign-visitors/201601-1.htmlに出ていました。

朝吹 亮二(あさぶき りょうじ)慶應義塾大学法学部教授

ちょうど半世紀前、1966年の9月、慶應義塾およびサルトルの日本語版全集を出版していた人文書院の招待でサルトルとボーヴォワールが訪日し、三田山上で特別講演会が開かれた。

民法3条の条文は、明治29年国会通過の法案ですし、私権享有の考えはボワソナード民法時代からありそうな市民法の思想ですから、サルトルの実存主義などまだないとき・・いわゆるデカンショ・デカンショで半年暮らす(デカルト・カント・ショウペンハウエル)デカンショ節全盛の時代だったはずです。
ナチスの頃全盛期だったハイデガーもまだ若手学者か学生程度の時代かな?
こういう時期に「私権の享有は出生に始まる」→「人は設計図なしにただ投げ出された存在」(ニーチェの「神」は死んだ」を前提にしたサルトルの論理などという思想があるわけがないとも言えますが、そうはいっても存在論が20世紀にはいって大きなテーマであったことは間違いないところでしょう。
学者は先人の思想を受け継ぎ発展させるものですから、サルトルが大きな影響を受けていないとは言えません。
当時はまだDNAなど知らぬ時代ですので、文字通り設計図なく生まれて投企された実存・・サルトルの言うように自ら主体的にアンガージュマンしていく存在と言う実存主義哲学の時代でも解釈応用できそうな条文です。

大人の付き合いを出来ない人(国)との付き合い方

個々人の場合、人口が1億以上もいますので、一人や二人断交状態でもお互い忘れてしまって終わりですが、国家や社会間ではそうはいきません。
言わば企業がクレーマーに取り付かれているような状態です。
何しろ隣の国は引っ越して行かないし日本も引っ越せないのですから、毎日目にしない訳に行かないし、忘れている訳にも行かないのが厄介だと言われています。
ただし、これも比喩的言い回し過ぎず、白村江(663年10月)の海戦以降日本は朝鮮半島と1000年以上もマトモな往来をしておらず(途中元寇の主力が朝鮮人であったことと秀吉の朝鮮征伐くらい)、江戸時代には儀礼的通信使の受入れ程度で終わらせていました・・これが日本の智恵です。
内陸国でその国を通らないとその国に行けないとか、その国の港湾や海峡を通らないと物流上すごく不便とかの関係があれば別ですが、韓国の場合、日本の対外交易上地理的に何の関係もありません。
アメリカに行くのも中国や東南アジアへ行くにも・物流コース的にも全く関係がありません。
中国の旧満州地域との交易には少し遠回りになるかもしれない程度のことでしょう。
だから韓国がまともな道義を守らない限り最低の挨拶程度で良いし、運悪く?広がってしまった韓国との貿易関係を徐々に縮小して行けば良いことです。
遣唐使の頃でも朝鮮半島コースは危険過ぎた(追いはぎ強盗系の跳梁するコースだったと言う意見もありますが、要は、白村江の海戦で知られるとおり、新羅と戦った後なので山東半島までの新羅の領海利用・・当時は島伝いの航海しか出来なかった・危険だったので、南路・サツマから南西諸島伝いに南下して風向きを待って西に向きを変えて・蘇州・揚州・明州などに上陸する・・現在の上海付近経由に切り替えてしまった歴史があります。
遣唐使再開まで40年近くかかったのは、白村江の海戦では、唐・新羅連合軍に敗れたのですが、その後新羅と唐が対立関係に入った政治力学変化・・唐と敵対関係になっている新羅支配下の朝鮮半島経由での航路再開が不能であったこと・・航路変更に伴う南西諸島の寄港地の準備・・、南路の場合船の大型化などの技術革新が必要であったからと言われています。
2012年頃に中国が反日運動の一環として対日レアアース禁輸しましたが、日本が技術力でこれに対応したのと同様に、日本は半島経由で島伝い航海が出来なくなった代わりに新航路開発やこれに見合った外洋航海用に船舶改良や航海術のレベルアップに成功したと言うことです。
国際政治的には、南西諸島航路・・寄港地の必要性に迫られた結果、当初支配下になかった(隼人族は簡単に従わなかったので討伐等の繰り返しで漸く服従して鹿児島地方が薩摩の国と言う国名を持つようになるのは、遣唐使再開後かなり後です)薩摩の国以南・・奄美諸島など南西諸島への大和朝廷の支配が広がって行った経緯でもあります。
台風等で難破する危険を冒し、遠回りしても、その方がトータル安全性が高かったからです。
この結果、日本は外洋航海術に習熟して行きますし、朝鮮半島は日本への交易・文化伝播ルートから外れてしまい、明治維新当時には、社会の発展段階が日本と比較して全く遅れてしまった・・頑迷な民族になってしまった原因の大きな要因です。
日本が明治以降已むなく朝鮮半島に関わらざる得なくなったのは、ロシアの南下政策の脅威にさらされていた所為ですが、今はその程度のために頑張る必要がなくなっていることをJanuary 12, 2017「文字文化普及4とピープル・民度1」に書きました。
大陸間弾道弾その他長距離砲の時代ですから、朝鮮半島から撃って来るかその奥のロシア領から撃って来るかの違いでは大差がありません。
ロシア艦隊や空軍が朝鮮半島に根拠地を持っているのと持たないのとでは、イザとなったときの脅威の差は大違いですが、昔ほどではないと言う意味です。
6月9日紹介した記事では、実際には日本企業等への就職者は数十人から100人あまりに一けた増えたに過ぎませんから、絶対数・・韓国学生数とのパーセントにすれば取るに足りない数字ですが、だからと言って無視出来る数字とは限りません。
どこの民族でも全員レベルが同じではなく、一足飛びに最先端に直ぐ適応出来る人と中程度に適応出来る人など、いろいろな能力の人が混在しているのが普通です。
国によってその比率が違うだけでしょう。
全体を万遍なく引き上げるのは難しくとも、それぞれの能力に応じて実力発揮して国全体が引き上げられて行くものです。
日本の明治維新のときもそうでした。
韓国人の日本企業就職組の配置は当面海外事業部勤務が中心のようですが、日本の企業マネジメントなどを身体で学び身につけて中には本社部門に抜擢されて頭角を現す人も出て来るでしょう。
日本企業にとってもどうせ有能な外国人が一定数必要ならば、いつ裏切られるかの心配は別として、韓国人の方がある程度気心が知れていて便利です。
(最後に裏切られて酷い目に遭うかもしれないとしてもそれまでの間、)企業は便利に利用し、韓国人も日本人に使われるのは口惜しいが日本企業から経営能力を働きながら盗み出す・・お互い利用しあう精神で付き合うのは冷厳な事実を自覚しながやるならば、お互いの利益です。
今のところ韓国の若者は国外脱出傾向が激しいので、この面だけ見れば優秀な順に国外流出してしまう亡国の危機に直面していると言えます。
しかし、将来的には前向き脱出組の何%かでも先進国企業に就職して実地に学んで、国内回帰して自国発展に尽くす人が出て来れば、・・もしかするとサムスンだけではなくいろんな国際企業が生まれて来る可能性があります。
マトモな企業が増えれば、そこで働く従業員の意識もマトモな道義心を持つようになりますので、マトモな企業が増えて行けば、徐々に韓国もマトモな国になって行く可能性もあります。
ただし、韓国中国の場合、宗族連帯意識が基礎であって民族意識は希薄ですから、一族の呼び寄せエネルギーにはなるでしょうが、愛国心に結びつくかは不明です。
愛国心の有無は別として、ロッテのように外国で成功すればよその国に進出するよりは縁故の多い故国に先ず進出し、そこに工場を建てたりするでしょうから、国の発展に資することは確かです。
華僑の多くが故郷に錦を飾るように、中国本土に投資するのと同じ効果が韓国にも出て来ます。
実際日本で成功している多くの在日の多く(今のところパチンコや金貸しなどの経験を生かした得意分野が限られている印象ですが・・)は韓国にも進出している様子です。
明日紹介しますが、韓国人の町金依存度が高いのですが、その多くは日系金融事業者と言われていますが、日系企業とは言ってもその中身は在日らしいのです。
http://japanese.joins.com/article/217/192217.html
日系貸金業者、韓国市場の占有率が56%
2014年11月04日10時20分[ⓒ 中央日報日本語版]
韓国に進出した日系貸金業者の貸付金額が韓国企業を凌駕したことが分かった。
以下の通り在日系は複雑資本支配をしている(サムスンなどの財閥支配構造の複雑さは有名です)ので、簡単には分りませんが、日系企業と言っても(日本人は高利貸し経営には慣れていないし)多くは在日系の祖国進出らしいのです。
http://japanese.joins.com/article/695/184695.html?servcode=300&sectcode=300&cloc=jp|article|related
2014年04月28日09時22分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
「ラッシュ・アンド・キャッシュ」で有名な韓国内最大の消費者金融会社APROファイナンシャルグループ(A&P)が、「日系」という肩書を完全にはずす案を検討している。27日、金融圏によれば今年2月イェジュ・イェナレ貯蓄銀行の買収優先交渉の対象者に選ばれて貯蓄銀行業界に進出することになったA&Pは、最近これに関して金融委員会に「新しい消費者金融会社を設立した後、この会社が貯蓄銀行を買収する形式を取りたい」と提案した。
A&Pは、在日同胞3世のチェ・ユン会長(51)が2004年に売りに出てきたA&Oグループを買収して運営している会社だ。A&Oが日系だったため、日本の裁判所で日本企業を対象に売却が進められた。チェ会長は当時、日本にJ&Kキャピタルを設立した後、この会社名義でA&Oを買収した。現在J&Kキャピタルはチェ会長が100%持分を保有しているペーパーカンパニーだが、厳密には支配構造上のトップに位置している。A&Pが日系に分類されるのはこのためだ。」
以上のとおり、韓国の個人金融負債が限度を超えて来たと騒ぎになっていますが、日系企業による町金融支配になっているようです・・。
日本式思想・働き方・経営風土が身に付いている在日系は、土着?韓国人よりも経営能力が優秀ですから、ロッテのように韓国で大企業に発展して海外展開する企業が出て来るでしょう。
サムスン創業者その他成功している人の多くは元日本で教育を受けたなどの経歴を活かしています。

不逞鮮人がいたのか?3

GHQは強力な検閲により、記録さえ残さなければ良いと考えたでしょうが、我が国は記録魔の社会のように思われていますが、実は古くから「稗田の阿礼」の故事に知られるように文書がなければ口誦・伝承して行く社会ですから実際にあった歴史を消せません。
村々のお祭りその他文書化し難いいろんな行事がずっと伝承継承されて来たのは、口誦で伝承して行く特質があるからです。
今朝の日経新聞最終面に尾張漫才の伝承に努力している人の記事が出ています。
記録魔というよりは政治・経済事件に限らず災害その他発生した事実を子々孫々の教訓に残して置きたいという民族精神の強い国です。
アメリカや中韓では、歴史は権力者が作るもの・・噓でも権力が一定期間強制すればそれが歴史になると思い込んでいるから、戦争に至る米国に都合の悪い書籍類(名目は反民主主義思想根絶と言うのでしょうが・・)を一斉に廃棄処分を命じたいわゆる現代の「焚書坑儒」を恥ずかしいと言う意識もなく堂々と実施したことが知られています。
歴史は権力の都合で書くものではなく事実を基本として理解するものと考えている日本人としては、米中韓が勝手に作り上げた歴史教育を前提にして韓国が「歴史を重視せよ」と言い張っているのを聞くと「冗談言うなよ!」と滑稽に感じるのはこの違いがあるからです。
わが国では大戦乱があっても古文書等を避難させて後世に残す努力をするのでいろんな古文書美術品等が残っているのに対して、中国では王朝崩壊の都度前時代全面否定が原則であるために前王朝の文物がほとんど廃棄されて残っていない原因です。
日本マスコミ・文化人の主張はいつも日本政府の戦略性が弱いと言う批判・・中国の政治は戦略に裏付けられていて素晴らしいと賞讃して来た原因は、日本のマスコミ文化人がアメリカや中国流の目先主張・・見え透いた戦略が正しいと思い込んでいるからです。
長いスパーンで考えるわが国では目先の見え透いた「戦略的主張」など恥ずかしくて出来ません・・実際見え透いたことをすれば数十年後には取り返しのつかない損害として戻って来ます。
中韓や米国の考えでは、権力者が捏造すればそれが正しい歴史だと言う思想の延長でアメリカの大スキな「歴史修正主義者」と言うレッテル張りが生まれて来ます。
「歴史は史実ではなく権力者が都合よく作る宣伝である」前提であれば、これが史実と違っていないか?と疑問を呈すること自体が、権力に刃向かうものとして許されないとコトですから、歴史修正主義者のレッテル貼り=反権力者のレッテル貼り・・言論弾圧の役割を果たすようになっています。
言わば権力のよって立つ正統性批判を許さない仕組みです。
表現の自由を標榜しながら裏では自国に不利な言論を検閲し、・・日本独立後検閲が出来なくなってもアメリカのでっち上げた歴史批判を試みると歴史修正主義者として・・タブー視して批判表現自体を許さない仕組み・・西欧ではナチス再評価する意見自体が刑事罰の対象になっていると言われています・・これが欧米の言う自由な言論の正体です。
「平和憲法を守れ」「軍国主義復活・・戦争法案反対」「近代法の精神に反する」などのレッテル張りで全て議論や思考停止させる運動が大好きなグループは、アメリカ支配にどっぷり使っているコトを示しています。
事実を重視する伝統的価値観が乏しく・強い立場になれば、あるいは強いものに迎合して事実を曲げることに違和感の少ない人や、共同体利益・大義よりも個人・小義優先傾向の強かった人が、戦後アメリカによる個人の我欲・小義主張の奨励に水を得た魚のようにいわゆる文化人として幅を利かして来たように見えます。
利己主義で廻りの迷惑を考えない人・・アウトローにとって安定した社会・時期には活躍の場があまりなかったのですが、このような0、0何%に属する人が、大災害時に元気になって略奪に走るのに似ています。
声を上げられなかった大義重視型・伝統的価値観が戦後70年も経て復活し、その反撃が始まると自己中心型、小義重視型文化人?が表舞台から漸く淘汰され始めたように見えます。
不逞鮮人がいたのかどうかに戻りますと、占領軍による厳しい検閲の結果「不逞鮮人」の違法行為記録を残せませんでしたので、本当にあったのかなかったのかも記録上は藪の中ですが、その代わり日本では言い伝えが強力な発信源として伝承されて行きます。
以下伝承によりますが、占領直後は、朝鮮人から、警察官が袋だたきに遭う事件が頻発していたと言われますが、大量発生するには朝鮮人優遇の思惑が伝わったことの外に警察力を無力化して朝鮮人の跳梁跋扈を意図的あるいは結果的に煽った?ことが影響したように見えます。
検閲は、禁止だけではなく一定方向への誘導作用があることを昨日書きましたが、検挙禁止・警察力弱体化は暴発の誘導効果があります。
市町村単位の警察にすると・・隣の町に警察署があって一応の連携協力があるとしても法的関係がないままです。
こんな小さな単位で予算化して警察を組織していると、ムラや町に一人の巡査がいれば良い方・・強盗強姦をする朝鮮人を検挙すると徒党を組んで押し掛けては巡査を袋だたきにする事例が頻発・・誘発するようになります。
警察力が弱くともニッポン民族は滅多に犯罪を犯しませんが、大災害発生時にアメリカなどで略奪が起きるのと同じ原理が共同体意識の弱いグル−プに働きます。
これを可能にしたのは、占領軍による暗黙の後押しと警察組織破壊によって暴れ放題出来るようにした制度的保障・・後押しによる面が大きいでしょう。
警察から拳銃等を取り上げて武器の所持を禁じたことも含めて占領軍は占領政策円滑化の目的で?警察組織的弱体化を計ったのです。
10月10日に紹介したように首相官邸でさえ、占領軍の応援がないとデモ隊から守れないほどの警察力の弱体化が図られていました。
個別違法行為についてはネット上で元山口組長の自伝か回想録か?で彼の武勇伝として?朝鮮人の無法行為の数々が語られていますが真偽が分りません。
描写が生々し過ぎるので引用を控えますが、今のように日韓関係が険悪化していない時期・・(日韓条約・1965年直後の頃で日本から巨額援助金が支払われ、円満な時期でした)の文書ですし、田岡氏自身戦後の混乱が収まった後には在日を積極的に配下に組み入れ・融和に転じていたことが知られている・・その結果今は幹部の殆どが在日になっていますから,この自伝を書いた頃はむしろ組員の多くを占めるようになっていた在日に対する気配りもあったでしょうから、逆に抑制的に書いたと見るのが妥当です。
まだ戦後の記憶が生々しいときのもの・・現実に被害を受けた同時代人が多く生きているときですから、最低この程度は書かないと収まらなかった可能性があります。
田岡一雄に関するウイキペデイアによります。
「戦後の混乱で警察力が弱体化し治安の悪い神戸の町と闇市を三国人から守るために自警団を組み頭角を現し、登の死後長らく空位であった三代目組長へ推す声が高まった[注釈 3]。
1946年(昭和21年)10月、組の長老たちの推薦により、山口組三代目組長を襲名した。
自伝(昭和49年発行の初版)によると、神戸水上署の一日署長をした経験を持つ[注釈
自伝を発行した昭和49年と言えば、戦後まだ24年しか経過していない・・敗戦直後青壮年期(2〜30歳代)の人が殆ど健在の時代ですから、同時代人が一杯いるときに全くなかった事件をでっち上げて書いたとは思えません。

米軍の立証責任(不逞鮮人がいたのか?)2

ニッポンを植民地化する目標ではなく、「民主化するための占領だ」と言うアメリカの公式立場としては検閲や報道規制は矛盾行為ですから、秘密裏に行なわれていてニッポン側に検閲されたこと自体報道し・記録し漏らしてはならないと言う厳命(占領軍ですから日本法の適用を受けない・・無視すると発刊禁止・殺人など何でも出来ました)でしたから、墨ぬり出版さえ許されないのですから、戦時中の報道規制よりさらに徹底していました。
占領軍による検閲の実態は以下のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
「民間検閲支隊又は民間検閲局もしくは民間検閲部隊は日本の被占領期に検閲を実行した機関で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)配下の参謀第二部(G-2)所管下の機関。英略称はCCD(Civil Censorship Detachment)。」
「実行には民間検閲支隊があたり、検閲は隠蔽された。戦時特別統制下では法律により検閲が定められていて、それは国民一般に広く知れ渡っていた。しかし、GHQが行った検閲は、そのことに言及したり、また、伏字で埋めたり塗り潰すなどの痕跡を残してはならず、秘匿を徹底させられたため、言論統制された情報であることを国民は認識できなかった。検閲は峻厳を極めた。違反したと判断された場合、発行停止の処分や回収裁断などがなされた。さらにGHQは、マスメディアひいては日本の言論を完全なる掌握下に置くために指令を発し、政府による検閲を停止させ(SCAPIN-66)、通信社を解体に追い込んだ(SCAPIN-51)。」
米兵の暴行事件 米兵の私行に関して面白くない印象を与える記事 進駐軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事 食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事 連合軍の政策を非難する記事 国内における各種の動きにマッカーサー司令部が介在しているように印象づける記事―などであった。」
これが民主化(情報公開・表現の自由を中核と)する目的を名分にした占領政治の実態でした。
検閲と言うと近異・否定だけのようですが、検閲の強烈さに比例した一定方向への利益誘導があったと見るべきが普通です。
この利益誘導(賄賂をもらうだけではなく、迎合すれば記事が書けるし出世もする・・学者の論文が採用されるなど)にマトモニひっかかったのが共同体意識の元々弱い傾向の人達と言うべきでしょうか?
占領軍は日本の法適用を受けない治外法権を利用して殺人、強姦略奪等やり放題と言う法原理でしたからその代わり報道検閲が必要になっていたのです。(この名残を利用して今でも沖縄では米兵が交通事故を起こしただけでも大騒ぎしますが、・・今は日米地位協定で日本が逮捕も出来る外マスコミ報道が自由ですから、占領中の記憶で今も騒ぐのは実態にあっていません。)
占領軍の検閲は、強盗でいえば足がつかないように被害者を皆殺しをするような徹底ぶりでしたから、取材をさせないか、取材したが報道出来なかった場合などの記録が押収されたニッポン側に残っていないのは当然です。
米軍が徹底した・・検閲していた以上は、後世ある事実の有無が問題になったときに一定の状況証拠があれば、真偽不明の責任を検閲者が負うことになるのを覚悟していたと言うしかありません。
古代から我が国では公的組織では原則として記録しており(時々木簡が出て古代の事実が明るみに出る・・数週間前にペルシャ人を表す木簡が出た・・古代からペルシャ人が来ていたと言う意見がありましたが・・と言うニュースがあったばかりです)、今の企業でも全て記録して行くのはその後の検証資料を残すためのものですし、故意に記録を残さないか破棄している場合破棄者が違法責任を自白していたものと見なすべきです。
現在大問題になっている築地市場から豊洲への移転問題でも、盛り土から空間へ変更の記録が見当たらない・・意図的記録廃棄が疑われるのと同じです。
結局記録が廃棄または残されていない以上はどうにもならないので、当然歴代関与者の政治責任がテーマになって来ます。
占領軍や朝鮮人の蛮行に関する客観証拠が出て来ないから、事件がなかったことにはならない・・10日に紹介したように非常事態宣言まで行くほどの事件が頻発していた状態を見れば、それ以前の細かな違法行為がその何十倍〜何百倍もあったと推定される・・政治的評価があるべきしょう。
記録保管者・占領軍が記録を出さない関係は、近年の慰安婦騒動・・南京虐殺宣伝でも同じコトが言えます。
アメリカが占領時にニッポン軍の戦犯を裁く目的で軍資料を網羅的に持ち去っていて慰安婦の強制徴用に関する軍関与がない資料を独占保有しているのに、これを明らかにせずにアメリカが沈黙したままだったのが、ソモソモ不公正・・アメリカが背後で唆しているのだろうと疑われてしまう結果になっています。
国際情勢の変化で日本敵視政策が無理になって来ると、昨年だったか?アメリカの調査団?が漸く軍関与の資料がなかったと明らかにして勝負がつきました。
(南京大虐殺事件ももしも本当にあったならば、戦犯裁判の有力根拠・・必須資料ですから、その資料は裁判で公開されている筈・・勿論米国が持っている筈・・しかも中国に遠慮しているのか?未だに沈黙のママです)
小義に走る民族性に戻しますと、敗戦直後朝鮮人が何故イキナリ違法行為に走ったのか、その自信の背後で誰が唆していたのか、違法行為を検挙出来なくしていたのかを疑う声の合理性基準・・摘発や証拠収集をさせなかった米軍が唆していたことを疑うことなる点は同じです。
戦後の大きな流れを見ると、占領政策の基本である共同体意識破壊工作に真っ先に便乗したのが朝鮮人であり、遅れて検閲→一定方向への誘導に自己を合わせて行った日本人マスコミや学者教育界関係者が反応して行ったと言う流れでしょうか?
米軍意図の詮索は別として、警察力が緩むとすぐに反応する朝鮮人の行動様式は、朝鮮人特有のことではなく今でもアメリカその他日本以外の国では大災害が起きて警察力が麻痺すると直ぐに略奪に走るのが普通です。
東北大震災では世界で日本人だけが黙って救援を待ち、救援物資の奪い合いをせずにじっと並んでいる姿を見て世界中が驚いたのです。
こう言う世界の現実見るときに・・敗戦によって警察力が機能しなくなったと思われたときに、米軍後ろ盾を期待して(日本人から見れば警察は象徴的なものでしかなく、実動部隊が少なくてもルールを守る点は同じですが)朝鮮人から見れば「今こそ暴れるとき」と思えたとしても不思議ではありません。
敗戦時に置ける朝鮮人の動きを見ると関東関東大震災下「不逞鮮人」の略奪が本当にあったのではないか?と信じる人の方が多いのではないでしょうか?
左翼系は関東大震災時の新聞記事や検挙記録はぬれぎぬ・・でっち上げと言う主張(文化人は都合の悪い記録は「でっち上げ」と主張する傾向があります)が多いですが、敗戦時の騒動に関しては米軍の出動記録がある以上、日本政府のでっち上げとは言えないでしょう。
これだけの騒動を起こすにはその前に相当の破壊行動があったと見るべきです。
元々共同体意識の強い日本人とは異なり、ただ権力者が怖いので従って来ただけの歴史しかない朝鮮族が、日本統治下で(迎合的に?)進んで皇軍兵士になっていても日本敗戦となるとすぐさま手のひら返しの行動に出る習性「地」がすぐに出るのでしょう。
ただし、いつも書くことですが、違法行動をしたのはもしかしたら数%以下かも知れませんし、日本人にも一定率の不心得者がいることは確か・・ゼロではないから犯罪があるのですが要は比率が重要です。
良い人も一杯いると言う議論は問題のすり替えでしかない・・テロを実行する人が訪日旅行団の中に数%でもいたら大変です。
良い面で言えば、ノーベル賞受賞者が日本人の1%にも満たなくとも重要なのと同じです。
東北大震災でも困難に見舞われた地域に踏みとどまって助け合うよりは、すぐに逃げ出すような人では・・「やっぱりよそ者」だったと再認識されて地元に融和するのが難しくなります。
留学生で帰らなかった人の意識調査した結果がネットに出ていますが「日本の復興に協力したい」と言う声ばかり・・留学生を持ち上げる目的でしょうが、重要なのは直後に何%が国に帰ってしまったかですが、その調査結果を(あえて?)出していません。
マスコミが意図的に調査しないで、(協力したいという意見記録だけが残る仕組みです)不都合な記録を残さないようにする運用が戦後今でも続いています・・在日犯罪の場合本名を出さないあるいは「男」としか表記しないなどもその一環です)が、アチコチの行きつけの店で留学生らしいアルバイトがイキナリ蜘蛛の子を散らすように?いなくなってしまった現実を目撃している人が一杯いるでしょう・・これらは記憶遺産として残って行くのです。
大災害等の非常事態は100年に1回しかないとしても、困難なときに裏切られた記憶は長く残るものです。
共同体利益を言うと時代遅れとバカにされ、自己中心・・無責任主義の流布・・「悪しき」個人主義思想の浸透・・全体がどうなっても良い・・自己中心の要求を堂々と主張するのが「正しいかのような風潮」を助長して行くのが、占領政策の第一目標であったと見れば、戦後のいろんな動きの符節が合います。
共同体意識破壊目的の個別占領政策はいろいろあると思いますが、ここでは朝鮮人の違法集団化・・暴徒の跳梁との関連で警察組織弱体化を見ておきましょう。
戦後米軍は警察の民主化とどう言う関係があるか分りませんが、小さな市町村単位に組織を解体してしまったことを大分前に紹介しました・・。
今では町村合併が進んで自治体がかなり大きくなっていますが、戦後直後頃東京から疎開して私の住んでいたムラで言えば人口5000人前後でした。
子供の頃のうろ覚えですので今は町村合併でなくなっている村の名前でネット検索してみたところ「6,974人(国勢調査、1955年)と出ました・・便利な世の中です!
この程度の単位で隣接町村と連携しても警察を独立して維持するとなると・・違法集団に対抗出来ません。
もうちょっと大きな組織にしないと犯罪検挙組織としては、どうにもならないことから弱小自治体の警察権返上行動が続き講和条約発効(1951)・・独立後それほどの期間を置かず市町村単位から、県単位に改正されたのが現行警察法です。
ウイキペデイアでは、財政負担を理由にしたことしか書いていませんが、財政負担=村で一人の警察官を雇うのがやっと・・警察力弱小化と同義→自前の警察権返上=力のある周辺自治体への集約運動ですから、自治体が維持出来ないで困っていた・・占領政策による治安悪化にどれだけ苦しめられていたか(GHQの検閲により、米軍や朝鮮人関係の犯罪は報道も検挙すら出来なかったのでデータが残っていません)が分るでしょう。

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