法人の成立と事業目的の必須性

法人実在説等の紹介から、だいぶ話題が逸れてましたが、March 2, 2020 「法人3(自然村と法律村)」の続きになります。
法人の場合、人間のように生まれたことだけで権利能力があるというのではなく、法が特に認めてある集団に人格を認めるには、社会的有用性があるからそういう制度の必要性があり、法人格を認めようとなったものです。
ですから無目的な法人の設立はない(社会的有用な仕事をする目的もないのに法人格を認めない)ので、法人の設立に際して法人の目的を決めるのが必須要件です。
人間のように生まれてから「俺、何のために生まれてきたのか?」と自問する余地(悩みがなくて良い?)がありません。
法人は無目的に成立することがないので、いわば行為能力と権利能力は合体しています。
法人という抽象的なものはなく、10数年ほど前までは大きく分ければ公益法人と営利法人の二種類でしたが、公益法人3法ができて以来営利系の株式会社とその他の会社があり、株式会社の中でも証券や金融系、製造系サービス系の会社などに別れていきます。
公益法人というジャンルとの中間に一般社団・財団法人があり今は3分類時代というべきでしょうか?
何れにせよ法人になるには当初lから何々法人という法人としてやるべき目的別ジャンルが決まっている仕組みです。
人の場合には、歌舞伎役者の後継と決まっているような人もいますが、それは事実上そうなることが多いというだけであって、本人が別のことをしたければ何をしようと勝手です。
目的が決まるだけではなく目的に応じた運営規則も決まっています。
会社法という法規制に合致して設立されると会社といい、株式会社と言うためにはその方式に従った内部組織や設立手続きを経て株式会社と言えるのですが、その設立目的を定めないと法人設立ができません。
法人設立の場合「法人の目的」が必要的記載事項になっています。

http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.htmlによれば、公益法人3法成立前の民法旧規定(法人設立の基本法)は以下の通りでした。

(定款)
第三十七条 社団法人を設立しようとする者は、定款を作成し、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  目的
二  名称
三  事務所の所在地
四  資産に関する規定
五  理事の任免に関する規定
六  社員の資格の得喪に関する規定

これが各法人ごとの法律に基本的に承継されています。
例えば以下の通りです。

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律
(定款の作成)
第十条 一般社団法人を設立するには、その社員になろうとする者(以下「設立時社員」という。)が、共同して定款を作成し、その全員がこれに署名し、又は記名押印しなければならない。
第十一条 一般社団法人の定款には、次に掲げる事項を記載し、又は記録しなければならない。
一 目的
二 名称
三 主たる事務所の所在地
四 設立時社員の氏名又は名称及び住所
五 社員の資格の得喪に関する規定
六 公告方法
七 事業年度

すなわち無目的の法人設立は認められない点が、無目的に生まれてきても良い人間(自然人)との違いです。
法人は成立前にやるべき仕事や名称を決める必要がありますが、人間は生まれてから親が名前をつけるし、いつになったらどんな仕事するかもわかりません。
その中でも銀行業を営むには銀行に特化した規則に則った規則を作りその法律による業法の免許を得て初めて銀行業を行えるのであって、「法人」という抽象的なモノを設立すれば銀行業を行えるものではありません。
証券会社、日本航空なども皆同じです。
人といえば誰でもわかるような気がする人が多いでしょうが、人の終始・出生により始まり死亡によって終わるのですが、何をもって出生というかは実は微妙なので判例学説で細かく決まっています。(一部露出説、全部露出説)
それでも人情に反する場合に対応するために相続限定ですが、のちに生まれた場合に限り、胎児の段階で「生まれたものとみなす」規定が置かれています。
このみなし規定も解釈が分かれて、停止条件説と解除条件説があります。
この辺については、どういう実務上の違いが起きるかは大分前に解説したことがあります。
コラム内検索してみると1/20/02「胎児の権利能力(民法11)3」前後で7〜8回連載していることが分かりました。
初めの頃は一回のコラムが短かったので番号順に通して読んでもらう必要がありそうです。
住所とか家といってもどういう要件があると家というかも住所というかも民法で決まって行きました。
人によって単語の意味が違うと困るからです。
ただし、いろんな資格ができてくるとそれぞれの法目的に応じた住所や建物や言葉の定義ができてきます。
そこで最近では法律ごとに「この法律ではこれこれを〇〇という」という定義規定を設ける法律が増えてきました。
住所の場合も、選挙人名簿を作るとか国民健康保険や税金等の法技術上の必要から、住民票記載の住所をさしあたり基準にしますが、最終的には民法の定める住所であるか否かで決めることになっています。
訴訟などでは、登記上の住所とか住民票上の住所と本当の住所とを併記して書くことがしょっちゅうあります。(離婚事件ではしょっちゅうです)
10年以上前かな?起きた有名な事例では当時の長野県知事が、木曽地方に住民票を移していた点が問題になり、訴訟結果そこには住所がないという結果になり耳目を騒がしましたし、武富士事件では香港だったかに移転していた住所が正しいかで争って、武富士側(正式には創業者の息子個人)が勝って2000億円前後の税の還付を受けた事件がありました。
建物も建築基準法で規制すべき建物と民法でいう建物とは違うので、(一定規模以下の建物は基準法の規制外です)少しズレがあります。
ですから建築準法で建物扱いしないからとか、違法に建てたものだから建物でないということはできません。
土地明け渡し事件では、敷地内にある小屋類が建物かどうかをいつも判断して訴訟しています。
建物であれば、「土地明け渡し」だけの主文で建物収去の主文がない場合、取り壊しの執行できず、もう一度判決の取り直しになってしまうからです。
昨年秋に終わった事件では昭和40年頃に建てた10数坪の貸家に隣接して借家人が建てた鉄骨2階建ての建物が、元の古家に付合したもので2つ合わせて一個の建物かどうかで悩んだ事件でした。
独立の建物とすれば土地明け渡し判決だけでなく、建物収去を認める判決主文プラス収去命令がないと建物収去の間接強制できませんが、単純な建て増しでなくお互い外壁もあるが、屋根だけ繋いであって鉄骨新築にはトイレや台所もない水も出ないし建物の効用から見て独立性がないので一個の建物とすれば、大家所有ですから自分のものを相手に壊せと主張できません。
相手は自分のものとして固定資産税を払ってきたとしても、この際の基準にはなりません。

個人事業→法人化3

明治の改革は、既存集落を積み上げる形式での再編成ではなく、まず既存幕府領を府としてその後に大阪京都以外の府を廃止して県とし、大名領地ごとに全て藩→府県藩三治制→(廃藩置)「県」とし各地の飛び地の交換分合と各県の併合を繰り返し、ほぼ現在の都道府県を形成したうえで、律令制時代から手付かず・自然変化に委ねていた郡内の小集落の再編を行いました。
まず郡内の単位を大区小区の2段階に分け、小区以下の原始集落の統合を経てその後の改革で市町村制度になって現在に至っています。
市町村法人化はその後になるのでしょうが、さしあたり地域によって違うのではなく、全国一律に人口何万以上を市とし、何万以下何万以上が町とし万に足りない単位を村・・市町村の規模に応じた内部組織の規格を決めれば、全国的に統治が行き渡りやすくなり、国民にとっても相手が市か町か村の規格で判断出来て便利です。
人口規模に応じた内部組織の画一化を図ったものでした。
政府自体明治初年の政体書発行に際して、しょっちゅう変わることについての言い訳を書いていますが、結果から見ると以下の通り見事です。
原文書き出しは以下の通り「徒ニ変更ヲ好ムニアラス」です。
https://ja.wikisource.org/wiki/政体_(慶応四年太政官達第三百三十一号)

政体 (慶応四年太政官達第三百三十一号)
去冬 皇政維新纔ニ三職ヲ置キ続テ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト雖モ兵馬倉卒之間事業未タ恢弘セス故ニ今般 御誓文ヲ以テ目的トシ政体職制被相改候ハ徒ニ変更ヲ好ムニアラス従前未定之制度規律次第ニ相立候訳ニテ更ニ前後異趣ニ無之候間内外百官此旨ヲ奉体シ確定守持根拠スル所有テ疑惑スルナク各其職掌ヲ尽シ万民保全之道開成永続センヲ要スルナリ
慶応四年戊辰閏四月 太政官

本文引用略

明治の改革は朝令暮改のように1年前後で次々と変わっているものの
結果から見ると一定の方向に向けていかにも当初からの計画があって順次実行していったかのように、在野の動き・・必要な時に自由民権運動や不平士族の乱など必要なガス抜きとともに必要部分を法案に取り入れするなども含めて数十年単位の動きが一糸乱れず実現していった見事さに驚きます。
民法商法等の基本法案整備も法律専門家だけの議論からロエスレル商法やボワソナード民法を一旦成立させて、法律という形で国民や国外に見える形にしたことで条約改正運動への足がかりにするほか、(裁判権が日本にない不平等条約は国辱だ!と言っても日本には裁判するべき法律がなかったのです・・)多くの国民・・法律専門家だけでない実務家(維新以降数十年経過で現実に国際的な商取引に参加している実業家が増えてきた段階で)も議論参加できるようになったので、国情と最新取引動向を踏まえた現実的制度になった結果、明治29年制定の現行民法、商法・・これが100年以上経過後の今でも現行法として骨格が残っているほど柔軟現実的な基本法典に結実したのでしょう。
都道府県市町村制度も現行体制(私の戸籍謄本では東京府東京市〇〇区出生となっているのを見た記憶ですので、東京府だけ戦時中に都になった記憶です・)として今も残っています。
その後は、コンピューター化への対応能力や水道事業の大規模化等に伴う事務作業の高度化適応に向けた市町村合併や広域連合体化など現場の必要性に応じた大規模化の流れです。
明治維新以降の約30年間の疾風怒涛の大変革時期を乗り切った民族の叡智・・サッカー等のスポーツで言えば以心伝心の見事なチームプレー同様に長年培われた民族の訓練・・暗黙知の見事さに驚きます。
地方単位の組織化〜法人化の流れに戻ります。
最小単位の村が、自然発生的集落を数十個も統合する規模になると集団固有の意思や行動のために組織代表者が必要ですし、その選任退任基準を明記する必要があります。
従来のいわゆる暗黙知で「何となく人望のある人の意見に決めた」というだけでは透明性に欠けることになります。
郡以下の地方末端組織が自然状態のままだったのを地方公共団体化=団体そのもの固有の意思表明や行動ができるようになると意思決定過程も透明化する必要が生じます。
集団が固有の主体性・法人格を持つにしてもその集団が5〜10人の小規模であれば、私が学童期に見知っていた「寄り合い型民主議」で足りるのでしょうが、明治以降の村は、それまでの数十の集落(大字とういう名に変えて)をまとめた大掛かりなものになってきたので、地方の民主化で村議会ができても一つの字(旧村落)に一人の代表を出せるものではなくなりました。
明治以降の村は地方制度施行と同時に官の任命する村長になったので、村議会設置要求がおきたのでしょうが、議会で反対賛成の論理による討論では従来型の阿吽の呼吸で決める寄り合い民主主義になれた国民にはよそ行きの形式張った会議には戸惑うばかりです。
日本人得意の擦り合わせ・・暗黙知・擦り合わせ技術と、以心伝心とは表裏の関係でしょうが、この頃から徐々に日の目を見なくなってきたようです。
しかし今でもサッカー等のスポーツでのチームでの活動その他すべて緊急事態の政治決断は、一々言語化していると間に合わないので暗黙知で集団行動するものです。
それまでの自治組織というか?みんなの意向・・・言語化しきれない本音の擦り合わせ・・・狭い空間で膝擦り合わせて集団意思を方向付けていく「寄り合い」民主主義に慣れ親しんだ多くの人が不満を持ちます。
この穴を埋めてきたのが、自民党政治家のドブ板政治でしょう。
とはいえ、明治以降の近代化→三井でも住友でも個人事業が大きくなっただけでなんとなく決めて行くのでは限界がある・・事業体が生身の人間を離れて、一個の独立した人格主体として行動するには内部組織も意思決定過程も透明化していくしかないのも現実です。
これからAI時代が来れば、ロボットが人格を持つような法制度を作ろうとしたのが19世紀の西洋思想だったのでしょうか。
これを意識して、明確な法制度・集団にも権利主体性を与えたのが明治民法・現行民法であり現行商法です。

個人事業→法人化2(NPO)

江戸時代の集落の運営について、村方役人といったり地方役人といったり、地方役人の三役と言うのも通称にすぎません。
結果的に三役と言う制度自体がないし、乙名(後の「大人」の語源?)とか庄屋、名主などの名称あるいはその権限職務も地域や時代ごとにバラバラです。
現在では、会社(社団法人)や財団法人、公益法人等の各種法人の他NPO等々の各種組織が法制度として整備されているのと違い、江戸時代までの末端集落は自然発生的集団である以上運営方法も自然発生的・・法的規制がないので必要に応じて多種多様な内部規範や名称があったと思われます。
古くは保元平治の乱の原因の一つとなった藤原氏の「氏の長者」制度?あるいは源氏の棟梁・・正式には源氏の氏長者(いわゆる村上源氏)が知られていますが、それも慣習的に決まっていただけでしょう。
2月20、21日に入会権のテーマで少し説明しましたが、入会権があるかどうかもわからないようやく何か、権利がありそうとわかってもどういう権利かスラ法で決められない・・内容すら慣習に従うというもので地域によって内部規律のあり方(集団意思決定方式)や権限が違う前提でした。
これでは取引する相手も困ります。
近代社会は、〇〇という商品名が同じであればどこへ行っても同じ商品やサービスが提供される・知らない者同士でも取引がスムースに行くのが便利とする基本です。
近代法の原理は、取引の安全・罪刑法定主義と同根で、遠隔地未知の土地に行っても名称だけ分かればどういうサービスを受けられるかどういう権利があるのかはっきりわかるのが合理的とされる社会です。
小さな子度を連れてしょっちゅう旅行していた頃に行き先によっては歯ブラシがいるのかいらないのかなど(今は規格化されていてそういう心配はないですが・・)準備に大変でしたが、シェラトンホテルというのがあってどこへ行ってもホテル規格の一定サービスが決まっているのを知ってこれは便利だと感心したものでした。
弥次喜多道中同様に意外性も面白いのですが、子供連れの場合何がいるかいらないか(熊本の全日空ホテルに泊まった時に、赤ちゃんのミルクで苦労したことがあります)の事前情報が重要です。
法制化するというこということは、車のメカがほぼ同じ(・・ブレーキとアクセルのペダルの場所が違うと戸惑うでしょう)というのと同じです。
もう一度条文を引用します。

民法
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。

明治政府の地方制度は、幕末期に存在していた多様な名称や組織のある中で「村」という名称を採用してその内部意思決定機関を政府の意図に合うように「村長」を頂点とする組織体に統一したということでしょう。
ボランテイア組織などは、ある程度組織化していても集団そのものの法人格がなかったので、活動に支障をきたしていましたが、神戸大震災以降ボランテイア活動の価値に注目が当たった結果、簡易なNPO法人化の道が開かれました。
法人化する以上は、内部規律はボランティア組織の自由勝手というのでなく、法の設定した基準に合致する組織や代表者選定ルールを備えるなどの設置基準を満たせば法人格を与える・法制化されました。
NPOに関するウイキペデイアの説明です。

特定非営利活動法人(とくていひえいりかつどうほうじん)は、1998年(平成10年)12月に施行された日本の特定非営利活動促進法に基づいて特定非営利活動を行うことを主たる目的とし、同法の定めるところにより設立された法人である。NPO法人(エヌピーオーほうじん)とも呼ばれる(NPOは、Nonprofit OrganizationあるいはNot-for profit Organizationの略。「NPO」も参照のこと)。 金融機関関係のカナ表記略号は、トクヒ。
従来の公益法人に比べ、設立手続きが容易であるため、法施行直後から、法人格を取得する団体が急増し、2008年(平成20年)10月末現在3万5000を超える団体が認証されている。特に従前は任意団体として活動していた団体が法人格を取得するケースが目立つ(任意団体では銀行口座の開設や事務所の賃借などといった、各種取引契約などの主体になれないケースがあるが、NPO法人であれば法人名で契約が可能である[5])

法人格のある村とそれまでの各種集落の違いは、慣習法的に権限が決まっているだけで誰がどういう権限があるか?
画一的組織でない分取引相手には不明瞭だったことになります。
相手にとっては他所でこういう人と取り決めたら効果があったのに別の集落では、この集落では名主だけではダメだなど多種多様では不便なだけでなく、集落側としても対外的に何かするには、名主というだけでなく「うちは名主だけ署名すれば有効になる仕組みだ」と証明しないと相手が信用してくれないとなればお互い不便です。
こんなことで重要文書には多くの部落で、(公文書の連署の慣例同様に主だった人が3人も署名していればのちに無効問題が起きにくいということから)地方三役の連署が普通になってきたのでしょうか?
明治政府によって政府以外に公的組織がなかった・大名も個人事業主でしかなかったのを、「藩」という公的組織に格上げし、続く廃藩置県で短期間にこれが廃止されて県=政府直轄組織となって県令が配置されることになりました。
律令制崩壊後の郡は地域名としての機能しかなかったのでこれと言った組織化しないまま、その郡内の自然発生的集団に任せていた末端集落を人口密集度に応じて市町村に分類して新編成して独立法人(現在の地方公共団体は公法人です)化させ、その代わり組織基準を明確化したことになります。

個人事業→法人化1(府藩県三治制)

昨日見た享保の人口等の調査命令(布達)のウイキペデイアでは、「郷帳」というデータも天保時代まで残っているところを見ると、郷単位で調査報告されていた実態が垣間見えます。
結局、村とか郷とか言い方がいろいろあったようだと言うことでしょうか?
そもそも地方制度は、律令制以降明治の地方制度・・大工小区→市町村制まで、正式制度として公布された事がない・律令制の正式名称「郡」以下の地名は事実上の自然発生的呼称・俗称に過ぎなかったと理解すれば良いのでしょうか?
そもそも幕藩体制と所与のもののように学校教育では習って来たし、小説でも〇〇藩家老とか土佐藩から坂本龍馬が「脱藩」したなど洪水のように紹介されて来ましたが、10年ほど前にこのコラムで紹介しましたが、慶応4年4月の三治体制によって初めて「藩」という名称が公式に出て来たにすぎません。
https://kotobank.jp/word/引用です

府藩県三治制
府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

明治初期の地方統治制度。新政府成立によっても従来の藩は暫定的にそのまま存続したが,旧幕府直轄領については,初め鎮台,次いで裁判所の名称が付され,慶応4 (1868) 年閏4月「政体書」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方が府の名称を与えられ,府,藩,県の三治制となった。
明治2 (69) 年6月の版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり,次いで7月,府は東京,大阪,京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県に及び3府 302県となったが,その後3府 43県に整理された。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称された。

慶応4年四月の政体書発布によって、幕府から接収した政府直轄地を府県とし、諸侯統治下を「藩」とする三治体制が宣言されたにすぎません。
それまではの大名文書は、今でいう法人格のある組織代表でなく、肩書き付きの氏名?「浅野内匠頭長矩」「松平〇〇の守何々」等の公式文書を書いていたのです。
政体書発布以降初めて大名の公式名称は〇〇藩主誰某の名=団体を代表する公式文書発行となりますが、それまで個人文書と一定集団を代表するときの公式文書の区別もはっきりしなかったことになります。
せいぜい公式な時には官名表記するかどうかの違いくらいでしょうか?
弁護士会会長名で文書を出すときは弁護士会という団体の存在を前提にした公式文書となりますが、それは同時に「弁護士会」という集団の存在を表していますが、江戸時代までの公式文書は所属する団体名がない・吉良上野介という官名があっても、彼が上野国という国家組織の介(次官)としての公式発言をしているのではなく、そういう肩書きのある個人を特定しているだけのことでした。
古代氏族制度とか江戸時代の家の制度というものの、今の会社のように、「家」という集団組織の資格・・権利義務を認めたものではなく、単にそういう集団形態が多かったというだけのことであり、集団の事実上のトップ(個人経営者)が知行(営業基盤)を得たり失えばその家族もその影響を受けるだけのことであって、制度として決まっていたものではありません。
大名家は個人の家が大きくなっただけのことであり、官名付きの文書や処理はどこそこの誰それという個人特定に必要な肩書き程度の意味でしかない母体集団名でない個人文書だったことになります。
政体書以降の版籍奉還お願いその他公式文書が全て「松平何々の守」の名称だけでなく、「〇〇藩主松平〇〇の守何」々の名で行うようになっていきます。
藩制の布告は集団が独立の当事者となり大名家当主は、その代表者として行動すべき萌芽を示した画期的なことでした。

(上記引用文第二段落の「版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり」とあるので一見昔から「藩」と言われていたように見えますが、従来といってもホンの1年間に過ぎない・明治2年6月の版籍奉還の前に「藩」という組織名を与えられていたから、「従来」と書いて間違いではないのですが、今風に言えば、団体名を与えられてから実はまだ1年余しかたっていない「従来」です)
慶応4年までの大名家は、商売人やボランテイア集団が会社やNPO法人設立する前の個人事業体だったことになります。
政体書に関するウイキペデイアです

政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。同年4月27日頒布[1]。
冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを立法の議政官、行政の行政・神祇・会計・軍務・外国の5官、司法の刑法官の合計7官が掌る三権分立の体制がとられたが、実際には議政官に議定・参与で構成する上局の実力者が行政各官の責任者を兼ねたり、刑法官が行政官の監督下にあったりして権力分立は不十分なものであった。地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。 [1]

明治に入って集団そのものを一個の人格者扱いするようになるまでは、集団そのものを表す概念がなかったのですから、鎌倉時代以降の地域集団意思決定機構を?「惣」と言うもののこれも正式なものではありません。
その頃そのように言われていたらしいと言う程度のことでかっちりした制度があったわけではないので地域によって千差万別だったでしょう。

日系企業米国生産と格差緩和1

日本の場合赤字になるまで維持するどころか、赤字でも後何年頑張れるか・・「がんばれるだけ頑張ります」というのが決まり文句ですが・・地域経済への悪影響への心配がこういう精神論表明になるのでしょうか?
11月6日日経新聞朝刊1面トップに富士フィルムが合弁相手の米国ゼロックスから富士ゼロックスの持ち株(25%)全部を2500億円で買取り資本関係解消したと出ていましたが、米国ゼロックス本部はIT化進行により衰退事業分野となっている事務機部門を売り抜けて、富士フィルムから得た2500億円を新規有望部門の投資に回せる思惑が解説されていました。
11月7日夕刊には、米国のゼロックスはこの資金を含めて3兆円規模でコンピュータ企業のHPの買収提案をしたと報じられています。
富士フィルムの立場は合弁契約で富士ゼロックスには販路制約があったのですが、販路制限契約の縛りがなくなるので販路を世界に広げて行くための買い物と位置付けているようです。
この思惑の違いこそが、米国企業の真骨頂であり、落穂拾い的に衰退分野を修復しながらコツコツと維持して行く(法隆寺や、日本画、民俗行事など修復し続けて未来に繋ぐのが日本民族の基本姿勢です)日本企業との違いの象徴的取引というべきでしょう。
収益重視経営を一直線に突き進めると低賃金新興国の追い上げによる国内大量生産部門急速縮小→大量人員整理が急激に起きます。
不採算事業切り離しを一直線に進めると、収益的・株式相場的には高収益企業が増えて万々歳ですが、新興産業の金融やハイテク〜IT産業は雇用吸収力が弱いので製造業から押し出された大量労働者の行き先がない・大量失業→急激なサービス雇用への転換が必要になります。
この辺、明治維新によって武士が失業しても受け皿になる製造業界が多く立ち上がって労働者(士族の転職先でる管理部門事務系需要も急増)を吸収したのとの違いです。
戦後直ぐに日本の挑戦で繊維や家電等の軽工業縮小・米国での雇用喪失の場合には、女性労働者が多かったのでサービス業への転換(今では介護士など)が容易でしたが、重工業や自動車等機械製造系は男性労働者中心ですのでサービス業への転職は1世代程度の時間差がないと気質的に困難です。
我が国でも草食系男子という流行語が20年ほど前に流行った・今やそんな言葉すらないほど男性多数がソフトになってきて男性看護師・介護士等も普通になってきましたが、その間30年ほどの経過があって適応できるのです。
ソフト社会になるのは良いことと思いますが、サービス雇用化は製造業雇用に比べて不規則労働が多いことから非正規化→中間層が痩せて行く一方となります。
事務系でも資本自由化による資本金融取引拡大・IT・知財発展による中間管理職・ホワイトカラー層不要化進展による中間層縮小が加速する一方です。
国際金融取引のプロとして巨額を動かせるエリートはホンの一握りであって、中間管理職不要化の動きはとどまるところがありません。
大学院まで進み研究者の道はというとこれまた多くが同じ思いですから、オーバードクター状態になり、大多数が非正規の臨時講師の仕事しかない状態です。
製造業中心社会からサービス社会化の進行は、一方でグローバル化の波に乗って巨万の富を得る人がごく少数出る一方で中間層から脱落する低賃金層の拡大する社会でもあります。
米国の歴史的行動価値観・・収益率低下見込み〜不採算事業を早めに切り離し売り抜けて収益率の良さそうな企業買収するのが原則的価値観の社会です。
米国独立後北部工業地帯が成長を始めると奴隷による低賃金労働に頼る南部綿花事業切り捨て→南北戦争の主原因でした・・これをドライに割り切って行うのを視覚的に表現したのが、スクラップアンドビルドという表現だったのでしょう。
これの経営への応用が収益重視・・・ROE重視経営です。
戦後復興した日独等の米国追い上げが始まる追い上げられる分野ごとに収益率が下がって行くのがはっきりしているので、米国内生産を早期に切り上げて欧州等需要地での現地生産に切り替えて行ったのは上記経験による選択でした。
資源等ある国や地域にしかない物品は貿易による交換が合理的ですが、工業製品は本来どこでも作れるものですから労働者の能力差とコストしだいで生産適地が決まるものです。
圧倒的コスト差があれば輸送費や関税、人件費の差を負担しても長距離輸出が合理的ですが、技術などの競争力が拮抗してくるとちょっとした輸送費や関税手続きコスト負担も重荷です。
現地相場のコスト・・欧州の場合戦争で疲弊して生産設備が壊滅したのでその隙をついて米国が大量輸出できただだけのことで、労働者の能力としては米国と同様(以上?)でしたので現地生産に切り替える方が合理的でした。
戦争で破壊された欧州製造設備の復興が進むと米国から輸出するよりは、人件費の安い欧州に進出して生産すれば土地代、輸送費、時間、関税等すべて競争条件が同じになるので欧州などでの競争力を保てる→国内製造縮小して行くのが経営学的には正しい選択となります。
米欧の関係はもともと人種的に同根で基本的能力差がないに等しいのですから、相互に現地生産=競争条件が同一化すればどうなるか?
長距離輸送や関税負担するコスト差以上の競争力がないだけでなく、米企業の欧州拠点の場合、米国本社の遠隔指示と現地判断の差が出るので現地生産もうまくいかなるし、米欧相互に輸出コスト負担してまで輸出努力するメリットもなくなります。
これが欧州進出したGMや、フォード、クライスラーなど早くから欧州進出していた企業が軒並みうまくいかなくなっている理由でしょう。
イタリア、ドイツ等の特殊手作り的高級車や食品や衣装系・・仏伊のファッション系その他伝統に根ざしたもの各種製品に限って、米国へ食い込み成功しているのは、文化力格差によるものです。
同じ欧米系人種同士でもいわゆるアメリカの文化レベルはいわゆるヤンキーと表現される・・文化力の総合的表現である女性の理想像で言えば、最盛期のアメリカが初めて獲得した自前の民族理想像がマリリンモンローでした・彼女が米国文化の代表になったことが米国の文化レベルの国際意思表示・自白?と評価すべきでしょう。

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