ここで天皇象徴性への過渡期〜確立までの様相に戻ります。
信長の朝廷費用援助に続いて次期政権秀吉は朝廷への肩入れをし、京の町の復興に力を入れたので京の町衆や朝廷・・現在でも上方では秀吉人気が強いのですが、基本的に朝廷権威が武士の援助による以上は、根底からないがしろにされる時代の流れは止まりませんでした。
天皇家とそれを支える公卿層の独立経済力がなくなった応仁の乱〜戦国末期ころには象徴的役割すら顧みられなくなって、各種儀式すらまともに行えなくなっていたのが、ある程度の実力者が出るようになって儀式に必要な費用程度は出してくれるようになって、象徴の役割だけは復活できたというところでしょうか?
1月25日に天皇家の窮状を紹介しましたがもう一度一部引用します。
https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/26/8278
「皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た」
徳川政権2代目秀忠タイ後水尾天皇との(紫衣事件等の)確執で朝廷は「象徴的役割だけ」(幕府)の承認が必要という関係が確立し現憲法の象徴天皇制・国事行為には内閣の助言と承認が必須に至っています。
紫衣事件に関するウイキペデイアの記述です。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)
幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。
後水尾天皇天皇の突然の譲位によって践祚した明正天皇に関するウイキペデイアです。
寛永6年(1629年)の紫衣事件や将軍・徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に関して、江戸幕府への憤りを覚えた父・後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け[1]、興子内親王として7歳で践祚した。これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。
徳川家は当初、かつての摂関家のように天皇の外戚になることを意図して東福門院の入内を図ったが、実際に明正天皇が即位することで反対に、公家や諸大名が彼女に口入させて幕府に影響を与えることが警戒されるようになった。譲位直前の寛永20年9月1日、伯父である将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付し、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族とも言えども対面は不可(第2条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること(第3条)、両親の下への行幸は可・新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可・新院のみの行幸は不可とし行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。
後水尾天皇の突然の譲位はこういう結果になって、将軍家による天皇家に対する蟄居閉門命令に似た厳しい条件の通告で応じたのには、驚きます。
これが以後の朝幕関係の基本になるのですから大変です。
後白河の院政や鎌倉時代の正中〜承久の乱あるいは後醍醐天皇の建武の新政等々全て短期的には華々しく朝廷権力復活に貢献したかのように見えますが、結果的に朝廷権力を自ら低下させて行った歴史です。
水戸学(幕府批判勢力本家の方向性を決定づけた光圀・・寛永5年1624年生まれは、家光と同世代・家康の孫)に始まる幕末の尊皇攘夷思想は、これに対する反作用の拠り所として期待され興ったのでしょうか?
水戸学は(中国の専制支配を前提とする)儒教・朱子学を学んだ社会実態無視の体制批判の好きなインテリの煽りで生じたいびつな議論だったように素人目には見えますが・幕府の冷や飯食い的立場に終始していた水戸家を体制批判方向へ向わせる下地と融合する時代背景があったかもしれません。
光圀が兄の子に家督相続させることにこだわっていた故事といい、いかにも肝炎的正義にこだわわる事績が伝わりすぎているように見えます。
伝説的次席は眉唾としても、光圀が傾倒していた中国思想によって作庭した小石川後楽園の前庭と、日本思想に立脚して作庭された柳沢氏作庭の駒込六義園と比較しても、平安時代の寝殿造以来の庭園の歴史を順次継承した優美な六義園と違い、小石川後楽園の前庭は(小石川後楽園入園者のほとんどが素通りしてしまう状態・・)とても日本人には鑑賞に耐えない酷さ?頭でっかちすぎた作庭と思うのは私だけではないでしょう。
これが明治以降の日本社会を中国バリの専制君主制社会の鋳型にはめ込んでしまった大きな原因というのが私の個人的歴史観です。
日本は戦争に負けて中国式専制・絶対支配の呪縛から逃れ「本来の柔軟な日本社会に戻れた」ということでしょうか?
明治政府の構築した国家体制(いわゆる国体」)は西洋列強から国・民族の奴隷化を守るために日本の伝統的社会構造と違った絶対君主制に似た体制を構築する必要があった(中国の専制君主制に親和感を抱く江戸時代からの水戸学が結合して)かもしれませんが、これが国民を縛りすぎたと言うのが私の基本的印象で長年このコラムを書いています。
女性の地位に関してもフランス民法導入によって「妻の無能力制度」になっただけであるなど・・社会実態としては今なお妻の地位は盤石であるなど紹介してきました。
ところで偶然ですが今朝2月2日の日経新聞を読むと、私の水戸学に対する個人的思い込みが歴史学者の基本理解になっているらしい文章を発見しましたので追記として紹介しておきます。
毎週土曜日に愛読している日経新聞28pの詩歌教養欄の歴史学者本郷和人氏の随筆?です。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた原因の説明の前提として同氏は
「勤皇佐幕を問わず幕末に人々に多大な影響を与えたのは水戸学である。この政治思想は神道を重んじていて、それゆえ水戸藩では葬送も僧侶でなく神官に委ねられることがすでにあった。そうした水戸学の影響下にあった明治政府が仏教の否定に精励したとばかり僕は思っていた・・・」
以下、実は新政府は、神仏分離を行っただけで廃仏毀釈を指導したものでもないのに、新政府の意向を忖度した(遅く官軍に寝返った藩(例えば松本城で有名な松本藩)では新政府におもねて、率先して寺院解体を推進していた事例が紹介されています。
ここは廃仏毀釈の関心ではなく、幕末〜明治初頭までの思想界では水戸学が非常に大きな影響力を持っていたことが私の想像だけない(実務家になってからは法律書オンリーで歴史書を読む暇がないので高校までの歴史知識・・学校歴史では明治維新が起きた程度の外形しか習わず思想界の状況までは出てこないので)を前提にした推論だけだったのが意外に学界の常識であったことがわかったということです。
以上いろいろ見てきましたが、経済構造が変われば習俗〜正義もルールも変わるので社会の実態無視で過去のルールや正義にこだわるのは(内廷費で見て来たように古ければ良いという皇室尊崇意識も)間違いです。
トランプ氏の破天荒な言動も旧来の学問大系・価値観に合致しないだけのことで、新しい時代に対応した新たなルール・思想がまだできない段階・試行錯誤・百家争鳴の一提案にすぎないかは後の歴史が決めるべきでしょう。
ヘンリー8世が、離婚禁止の旧来型キリスト教秩序に反して離婚するためにローマンカトリックに反抗してイギリス国教会を設立しましたが、当時はとんでもない非常識な国王と思われていたたでしょうが、(当時のキリスト教思想に染まったインテリから見れば非常識な行いですから公然と異を唱えたのは有名なトーマス・モアで、その結果刑死しました)今では離婚の自由を認める方が世界の常識です。
トーマス・モアに関するウイキペデイアの記事です。
トマス・モアは、イングランドの法律家、思想家、人文主義者。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。大法官まで登りつめたがヘンリー8世により反逆罪で処刑された。